千手寺 (岡山市)
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千手寺(岡山市) | |
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所在地 | 岡山県岡山市北区大内田581 |
位置 | 北緯34度37分54秒 東経133度50分43.1秒 / 北緯34.63167度 東経133.845306度座標: 北緯34度37分54秒 東経133度50分43.1秒 / 北緯34.63167度 東経133.845306度 |
山号 | 遍光山 |
宗派 | 高野山真言宗 |
寺格 | 旧京都仁和寺本山直末一等格院 |
本尊 | 伝 行基作 吉備国千手千眼観音菩薩 |
創建年 | 天平勝宝4年(752年) |
開基 | 報恩大師 |
正式名 | 一等格院 遍光山 蓮華院 千手寺 |
札所等 |
備中霊場第25番 千手寺地場大師八十八カ所霊場 山陽新聞まいられぇ岡山 |
公式サイト | 千手寺ホームページ |
法人番号 | 4260005000560 |
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千手寺︵せんじゅうじ︶は、岡山県岡山市北区にある高野山真言宗の寺院。山号は遍光山。院号は蓮華院。本尊は吉備国千手観音。寺格は旧御室本山御直末一等格院。陰陽道宗家天社土御門神道本庁吉備国分祀。寺紋は梅鉢︵鎮守が天神︶・丸に五竜胆車・五七の桐紋・五芒星︵陰陽道︶。
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千手寺奥の院
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千手寺記念碑
歴史・一等格院・幕府領・足守川並びに高梁川からの十二ヶ郷用水の水脈信仰︵元禄4年﹃千手寺縁起﹄より︶[編集]
・千手寺は、江戸時代、元禄4年︵1691年︶備前岡山藩初代藩主池田忠継︵徳川家康の外孫にあたる︶・荒尾家ゆかりの瑞松山 景福寺 透海が、当時の千手寺住職 専栄の依頼により記した﹃千手寺縁起﹄によると、孝謙天皇の時代、天平勝宝4年︵752年︶に奈良・南都六宗の一つ法相宗の高僧報恩大師︵真言古流小嶋流を伝える、奈良報恩山千壽院 子嶋寺を開基︶により創建され、当地弥陀八幡宮︵岡山藩池田家の崇敬が殊に篤く、毎年6月24日の祭典には領主の代参があった︶の社職を務めたと伝えられる︵報恩大師創建の寺院は本尊が千手観音であることが特徴となり、﹃千手寺縁起﹄にも奈良子嶋寺が言及されている︶。 ・また、それを裏付けるように現コンベックス内の天神坂遺跡発掘調査により寺院跡が確認され、平安中期・後期の瓦も発見されている︵岡山県文化財保護協会﹃岡山県埋蔵文化財発掘調査報告53﹄︶。 ・一方で別の寺伝によると、推古天皇の時代にインドから来朝したという法道仙人により開山され、その後、孝謙天皇の時代、吉備真備の命により行基菩薩による千手観音を報恩大師が本尊として﹁千手寺﹂を創建したと言われている。 ・戦国時代には福田村山田の豪族 坪井城主 坪井左京進が厚く千手寺に帰依した。慶長5年︵1600年︶から戸川庭瀬藩領、さらに遠江︵静岡︶浜松藩領となり、後に徳川江戸幕府の直轄領︵最初は笠岡代官所、のちに倉敷代官所による倉敷支配所︶に編入されている。 ・元禄15年︵1702年︶、備前と備中の国境が備前の久米村、今保村と備中の延友村の間で水利権問題で紛糾した際も、幕府領である大内田の庄屋孫四郎が境目川の仲裁をなしている。明暦年間に池田光政により、法界院より千手観音堂、ならびに、山田村から高梁川からの十二ヶ郷用水の水脈信仰として祀られ、妹尾兼康に信仰された天満宮︵兼康天神︶が移転されたことを踏まえると、幕府領における寺院としての千手寺の背景がうかがえる︵天領寺院としての千手寺︶。 ・﹃千手寺縁起﹄によると、嘉暦元年︵1326年︶、四国・讃岐屏風浦五岳山誕生院善通寺派総本山善通寺中興の祖宥範法印︵金毘羅金光院︶により堂塔を建立、天正13年︵1585年︶、宗覚僧都により再興され、京都・大内山 御室派総本山仁和寺末となり、その後、京都御室本山直末の一等格院︵本山御直末寺・中本寺︶として、大内田の千手観音菩薩を祀る千蔵坊、虚空蔵菩薩を祀る大蔵坊、如意輪観音を祀る大師堂、狼神である木野山さまや阿弥陀如来を祀る八幡山無量寺 阿弥陀八幡宮、向庵観音堂、妹尾崎の牛頭天王を祀る三昧山蓮華寺、天満宮、祇園神社、坪井の妙蓮寺、大年の玄光院、山田の伍社神社、高尾山の厳島神社、などの多くの坊社を近隣に備え﹁上寺︵かみでら︶﹂とも称されてきた。 ・また、妹尾の啓運山盛隆寺が 慶長10年︵1605年︶、庭瀬藩主 戸川達安により真言宗から日蓮宗へ改宗、それにともない住民も日蓮宗へ改宗となったが︵改宗した者はその年の年貢を納めなくなくてもよく﹁未進法華﹂という︶、庭瀬・撫川・妹尾・妹尾崎の真言宗の法灯と信仰を護持する檀信徒は千手寺へ継承されることとなった。 ・江戸時代には幕府直轄地の本寺ゆえか、備前藩家老池田隼人の帰依を受け池田家屋敷が移築され、千手寺には現在の客殿と本堂が一体型の建物が建ち、寺侍が仕え詰所と茶室が設けられていたと伝わる︵山門は武家屋敷の門を移築したもので、一伝には岡山藩家老職の伊木家の門の一つであったという。2016年改築︶。千手寺寺領としては、現在の庭瀬駅から旧2号線の通りに面する、中国銀行の建物あたりが、戦後の農地解放でのGHQによる払い下げまでの寺領という。また吉備町から倉敷にかけての﹁大島﹂にかつての寺領があり、足守川沿いには﹁南円ごう﹂と呼ばれる寺領も有していたという。 ・第二次大戦後、高野山真言宗への転派を経て現在に至る。宝暦10年 寂厳大和上による﹃千手寺縁起﹄[編集]
・岡山を代表する高僧で近世四大書僧の一人、真言密教の法流である新安祥寺流・三宝院房玄方を相承した寂厳大和上︵元禄15年9月17日 - 明和8年8月3日・その法統に釈雲照大和上も連なる︶によって宝暦10年︵1760年︶に記された﹃千手寺縁起﹄によると、千手寺は大内田弥陀八幡宮の別当職を務め、天神山 天満宮︵菅大神︶の祠は千手寺の鎮守であり、山林は寺有林であったという。 ・また、寂厳大和上﹃千手寺縁起﹄によると千手寺は、かつて庄中村にあった曼荼羅寺から分かれた大内田の大蔵坊・上庄村の興性寺・庄中村の浄土坊・下庄村の宝性寺︵後に宮内・普賢院﹁預かり﹂となると記されている︶の四院をまとめ千手寺結衆となし、曼荼羅寺什物だった涅槃軸を祭祀したという︵千手寺涅槃軸の由来︶。 ・寂厳大和上と歴代千手寺住職は親しく、﹃千手寺縁起﹄によると、千手寺歴代住職のうち、専栄・京算とは懇眷︵親しい同門の意味︶、一實・正観は門下であったと記されている。学問寺としての千手寺︵寛文年間 智算近住の碑︶[編集]
・千手寺には、江戸時代初期、寛文・元禄期の学僧、智算・栄算近住の碑が祀られている。近住とは夏安居の意味であり、寺紋の一つが梅鉢で天神様︵天満大自在天神︶を祀る学問の寺として、当時の千手寺の住職でもあった智算師︵里庄の霊山寺・不動院・笠岡の地福寺を歴任︶・栄算師を囲み、僧侶としての守るべき戒律を確認する布薩会並びに勉強会を行っていたと考えられる︵律宗寺院としての千手寺︶。昭和36年﹃きびのさと﹄からみる千手寺[編集]
吉備公民館所蔵、当時の吉備観光協会により地元の歴史を紹介する﹃きびのさと﹄︵昭和36年no.37︶に当時の聴き取りや歴史資料に基づき千手寺の歴史が紹介されている。織田信長家・伊達政宗家とゆかりある千手寺﹁涅槃図﹂の来歴等紹介されている。本尊[編集]
信仰の対象・秘仏として原則非公開。 ●御本尊 吉備国千手観音菩薩像︵行基菩薩作と伝えられている︶ ﹃遍光山千手寺縁起﹄によると、雲の中に金色の千手観音が示現し、﹁泰山・北斗の如し﹂であったという。 ●造東大寺長官でもある吉備真備公が唐から帰国後、無事帰国できた千手観音信仰への﹁報恩﹂として、行基菩薩に作らせた千手観音像の一体と伝承されている。行基菩薩が巡錫の地に掘った井戸は竜宮から兜率天四十九院に通じ、千手観音は観音浄土である補陀落山から海を渡って示現したという。 ●その後、行基菩薩が全国の国分寺の﹁総国分寺﹂である東大寺本尊 東大寺盧舎那仏像造立の責任者となることで、行基菩薩自作の千手観音は盧舎那仏︵毘盧遮那仏︶と同体であるとされ、吉備真備公の意向により、報恩大師は尊崇する行基菩薩の千手観音を巡錫の地である千手寺本堂に本尊として祀り、吉備の国の守りとした。千手寺山号の﹁遍光山﹂は﹁千手観音=ビルシャナ仏同体説﹂からで梵語ヴァイローチャナの音訳﹁光明遍照﹂による(千手寺﹁吉備国千手観音﹂の由来) ●吉備真備公から行基菩薩、そして行基菩薩から報恩大師へ、さらに報恩大師の弟子 浄心大師 知久︵金山寺第2世︶が報恩大師自作の千手観音像を金山寺本尊として祀るのだが、報恩大師が行基菩薩自作の千手観音を本尊として祀るように、弟子が師から法としての千手観音本尊を託される伝統である。 ●奈良報恩山千壽院 子嶋寺における報恩大師の高弟が京都音羽山 清水寺を創建した延鎮であり、千手観音を法として授けられ、蝦夷征伐の際、征夷大将軍坂上田村麻呂を勝軍地蔵菩薩と毘沙門天とともに千手観音が守護したという。そのため江戸幕府征夷大将軍徳川家康公を東照大権現として祀る日光山輪王寺に三所権現本地仏として千手観音が守護することになる。 ●吉備の国の楯築遺跡は弧帯文様が刻まれた亀石があり、奈良の纒向遺跡の弧文円板と共通し、大和の国︵日本国︶の﹁祖霊﹂祭祀のプロトタイプともいわれるが、坂上田村麻呂から徳川家康にいたる征夷大将軍を守護し風神・雷神を従え竜宮から現れ龍神とも例えられる﹁千手観音﹂こそが、吉備の国・大和の国を結ぶ﹁祖霊﹂が神仏の姿を取ったものと言える。 ●吉備国千手観音菩薩像は、千手寺本尊厨子にともに祀られる不動明王、毘沙門天とあわせ、33年に一度開帳の秘仏である。御前立 昇竜山本願寺千手観音[編集]
信仰の対象として行事以外非公開。 ●神仏習合期、吉備国の中心である吉備中山︵昇竜山︶吉備津神社には神宮寺・別当寺があり、その中核寺院が﹁本願寺﹂であった。江戸幕府創成期、黒衣の宰相天海大僧正が江戸幕府鎮護国家のため、日本天台宗総本山として日光山・比叡山を統括すべく建立した東叡山寛永寺護国院 (台東区)から、高弟の生順僧正が昇竜山本願寺へ寄贈した千手観音図像で、千手寺秘仏吉備国千手観音像のお前立である。本願寺が破却され一部什仏が備前国寺社総管領金山寺へ引き上げられた際、道勝寺で祀られた。道勝寺︵旧板倉城跡・現在の鯉山小学校︶は妹尾兼康の重臣である陶山道勝が、木曽義仲に討ちとられた主君を弔うために建立した寺である。兼康天神︵聖天︶[編集]
・平安時代、高梁川を治水し、十二ヵ郷用水を整備し妹尾に屋敷を構えた妹尾兼康により水脈信仰・龍神信仰として厚く崇敬された。そのため﹃兼康天神﹄、﹃十二ヵ郷用水天神﹄と称される。 江戸時代になり山田村から大内田の天神山︵千手寺の寺有林︶へと祠が移築され、別当を務めた弥陀八幡宮とともに千手寺の鎮守となった︵千手寺の寺紋のひとつが梅鉢紋︶。 お堂は﹁大政威徳天堂﹂と言われ、阿弥陀如来、文殊菩薩の化身で水牛に乗った大威徳明王、梵名ヤマーンタカ︵死神ヤマを降す神︶・ヴァジュラバイラヴァ︵シヴァ神の別名﹁バイラヴァ﹂︶と神仏習合として祀られた。そのため大内田弥陀八幡山には﹁牛塚﹂が現在でも残っている。 関東において神仏習合で天神は首塚の平将門公と習合するが、木曽義仲に首を討たれた妹尾太郎兼康公・吉備津彦に討たれ首を吉備津神社御釜殿に祀られた鬼神温羅と同体と伝わる。 またシヴァ神とパールヴァティ妃の間に生まれたが同じく首を討たれ﹁象頭﹂となり天神と同体とされる聖天︵歓喜天︶としても信仰された。のちに千手寺観音堂へ移された。千手寺の建築物[編集]
●千手寺客殿 千手寺住職覚幢が備前藩家老池田隼人の帰依を受け、池田家下屋敷を移築したもの。明治期には千手寺小学校の校舎となった。大正3年に改築、現在の姿となる。 ●千手寺旧山門 備前藩家老伊木家の門を移築したものと伝えられる ●千手寺旧鎮守堂 現在はない。大政威徳天︵天満大自在天 菅原道真公︶を祀ったという。 ●阿弥陀八幡宮 現在の大内田八幡宮。備前藩家老池田家と千手寺住職[編集]
備前藩家老池田隼人︵池田博道︶屋敷の観音堂へ千手寺住職覚幢が祈祷に参篭していた。千手寺京算が祈祷していたものが中断されていたのを再開させたという。千手寺小学校[編集]
明治6〜14年まで千手寺が地域の小学校とされ、多くの生徒たちが千手寺を学舎として育ったという。千手寺五芒星[編集]
信仰の対象・秘仏として原則非公開になっている。 ●千手寺五芒星 かつて吉備の穴海と呼ばれた岡山市内全域と妹尾兼康の十二ヶ郷用水を見渡す小峰にある千手寺の昇龍山 千手観音堂︵弘法大師堂︶には全国的にも珍しく寺院でありながら陰陽五行思想・陰陽道の五芒星が現・大師堂の厨子の天頂部に祀られている︵千手寺五芒星︶。 五芒星には金箔が貼られており、太陽、明けの明星である金星、または北斗七星を示すと考えられる。 そのことから、密教の行法としては①浄土信仰から極楽浄土を願う日想観・②虚空蔵法・③節分の星供、妙見信仰との関連が窺える。 ●千手観音堂︵大師堂︶ かつては朱塗りされていた。正面に 弥勒菩薩の梵字であるユ字・竜神が彫刻されている。未申年の守護仏で智慧の霊水を表す 大日如来の梵字であるバン字の刻まれた手水石が置かれている。 建築様式としては禅宗様であり、江戸時代、池田光政により、吉備の中山または岡山市 金剛山 遍照寺 法界院︵古くは旭川沿いの備前・笠井山は西谷山 妙塔寺という大伽藍を有する大寺院。千手寺は上東の西方院、早島の安養院とともに当地における法界院結衆の寺院である︶から移築したとの伝がある。 如意輪観音菩薩、千手観音菩薩、虚空蔵菩薩、後戸には鎮守として稲荷︵荼枳尼天︶が祀られていた。 現在は、お大師堂として八祖大師ならびに真済・真雅 御影と弘法大師︵お大師さま︶そして虚空蔵求聞持法のご本尊である虚空蔵菩薩板本尊が祀られている。寺尊[編集]
信仰の対象・秘仏として原則非公開。 ●千手寺彩色弘法大師像 千手寺大師堂に祀られており、もと大年妙蓮寺の本尊仏であったという ●千手寺如意宝珠︵能作生︶ 牛玉ともいわれる︵牛玉宝印・会陽︶ 如意宝珠は弘法大師によって伝えられた竜王の秘法・秘宝である ●千手寺如意輪観音像並びに垂迹であるズイグさま︵随求菩薩︶の鎮宅霊符軸 ●薬師如来像︵平安時代初期から中期 霊木の桐から作られた神仏習合期の仏形の﹁ご神体﹂ 八幡神か天神であり、平安期から千手寺に祀られたもの︶並びに垂迹である妙見さまの鎮宅霊符軸 ●毘沙門天︵本尊の脇持︶秘仏 ●刀八︵兜跋︶毘沙門天曼荼羅軸 二柱の玄武神を鐙として踏みしめ、獅子に騎乗した刀八︵兜跋︶毘沙門天を中心に、霊狐、大黒天、弁才天、ダキニ天、稲荷神等が曼荼羅をなしたもの ●地蔵菩薩︵本尊の脇侍・石仏︶ ●勝軍地蔵︵将軍地蔵︶曼荼羅軸 ●閻魔大王︵小像︶ ●弥勒菩薩︵石仏︶ ●普賢延命菩薩︵小像︶真言宗系である4頭の白象の上に、天台宗系の二臂金剛薩埵形のもの ●大黒天︵小像︶並びに摩訶迦羅天・七母女天曼荼羅軸︵理趣経第十三段・七母女天段における七母女天と摩訶迦羅天=大黒天を祀ったもの︶ ●大黒天槌 東大寺二月堂旧蔵 ●賀利帝母︵鬼子母神・念持仏︶ ●不動明王︵本尊の脇持︶秘仏 ●弁才天︵修法・修行に用いる念持仏︶並びに弁才天如意宝珠曼荼羅軸︵弁才天と童子たちが各々如意宝珠になったもの。弁才天五部経の一つ﹃仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経﹄による如意宝珠としての弁才天と思われる︶ ●秘仏天川弁才天軸 江戸時代 絹品 三面龍頭の弁才天 秘仏 ●ダキニ天︵念持仏︶ ●三面ダキニ天軸 江戸時代 絹品 聖天尊・ダキニ天尊・弁才天尊とダキニ天四使者を描いたもの ●三面ダキニ天曼荼羅軸 室町時代 絹品 ●聖天尊︵歓喜天・聖天像︶並びに聖天小嶋像︵高野山 南院蔵の写像︶ ●聖天童子軸 江戸時代 ●釈迦如来︵小像︶ ●阿弥陀如来 並びに僧形八幡軸︵当地の八幡宮は弥陀八幡と言われ以前は光明真言を唱えた。八幡宮は千手観音と同体の阿弥陀如来を祭祀、千手寺が別当職を務めた。また八幡神社には明暦年間に、岡山藩池田光政の手により、備中・高梁川からの十二ヶ郷用水の水脈信仰として祀られ妹尾太郎兼康により信仰された天満宮が山田村から移転され、また役行者、前鬼・後鬼も祀られている︶ ●五帝龍神・五帝五龍王︵五大明王︶の御幣霊場[編集]
千手寺八十八ヶ所霊場 四国八十八ヶ所霊場︵阿波・土佐・伊予・讃岐︶を勧請したもので江戸時代の創建と伝えられている。それぞれ妹尾崎・坪井・矢尾・大内田村に対応している。 また、霊場内には毘沙門堂、妙見堂があったが、現在はいずれもなくなっている。千手寺奥の院[編集]
コンベックス岡山内の塚山公園に、千手寺奥の院として千手寺八十八ヶ所霊場の祠がある。 塚山古墳、千手寺記念碑とともに祀られている。千手寺には神仏習合の平安期薬師神像が祀られている。薬師の垂迹が妙見尊である。コンベックス岡山開発時に発掘された 平安期寺院跡からも近く、千手寺には妙見信仰が伝えられていることから、千手寺奥の院は薬師=妙見信仰の地と考えられる。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/%E5%8D%83%E6%89%8B%E5%AF%BA%E5%A5%A5%E3%81%AE%E9%99%A2.jpg/220px-%E5%8D%83%E6%89%8B%E5%AF%BA%E5%A5%A5%E3%81%AE%E9%99%A2.jpg)
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