台湾香港関係
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台湾香港関係︵たいわんほんこんかんけい︶は、中華民国︵台湾︶と香港との関係である。本稿では大陸統治時代と台湾への移転後後の両方について記述する。
1888年、香港での四大寇。孫文は左から2番目。
1895年2月、香港で初めて青天白日旗の意匠が発表された。
1945年、香港にて、解放記念日に慰霊碑に掲げられた中華民国の国 旗。
香港の屯門区内にある中山公園でのオベリスクと中華民 国の国旗の掲揚。
1842年以前は両地域とも清に属しており、1842年には第一次阿片戦争で香港島がイギリスに割譲され、1895年には第一次日清戦争で台湾が日本に割譲された。孫文は1800年代後半に香港で学んでいたが、第一次日清戦争での清の無力さと敗北により、旧来の王制を近代の共和制に置き換える革命が必要だと考えていた。1888年には香港で清の打倒を議論するために集まった四大寇の一員として写真を撮られ、1894年には清を打倒するための興中会の結成に着手した。1895年2月21日、香港で開かれた興中会の会議で、陸皓東は青天白日旗を発表し、この図案が中華民国の国章となった。興中会は香港のスタントン街13番地に本部を置き、1905年に他の団体と合併して中国同盟会を結成した。同会は清国人の間で広く支持され、清を打倒した1911年の辛亥革命を始めとする革命家たちの反乱に重要な役割を果たした。辛亥革命の成功を受けて、孫文は1912年1月1日に中華民国の建国を宣言し、初代臨時大総統に就任した。同年8月、中国同盟会は他の団体と合併して中国国民党を結成し、孫文がその理事長に選ばれた。
孫文は1923年に香港に戻り、自身の母校である香港西医書院を医学部として編入した香港大学を訪問した。香港大学での訪問中、孫文は演説を行い、最終的に中華民国を誕生させた革命において、香港が彼のインスピレーションの源であると述べた。﹁これが、私の革命的な着想はどこから得たのかという問いに対する答えだ。そのすべては香港にある﹂。孫文が清政府に指名手配された後、孫文の母である楊氏は、自身の長男であり孫文の長兄でもある孫眉と一緒に九龍城に住んでいた。1925年に孫文が亡くなると、蔣介石が孫文の後継者となり、1928年には全土を統一して蔣介石政権となった。