哲多郡
郡域[編集]
1878年︵明治11年︶に行政区画として発足した当時の郡域は、新見市の一部︵千屋実以北を除く高梁川以西︶にあたる。歴史[編集]
旧新見市の高梁川以東の地域は、かつては哲多郡に属していたのだが、後に阿賀郡に割譲・編入された。哲多は﹁てつた﹂・﹁てった﹂・﹁てた﹂などと呼ばれていた。明治の郡区町村編制法施行時に﹁てつた﹂に正式な呼称が定められた。ただし、後年に合併によって生まれた旧・阿哲郡哲多町は﹁てった﹂と読むのが正式名称。近世以降の沿革[編集]
●﹁旧高旧領取調帳﹂に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が存在。︵34村︶知行 | 村数 | 村名 | |
---|---|---|---|
幕府領 | 倉敷代官所 | 11村 | 下大野部村、大竹村、蚊家村、小組[1]、大組[2]、老栄村、成松村、田淵村、大野村、花木村、●井村 |
藩領 | 備中松山藩 | 17村 | 矢戸村、●大野部村、八鳥村、畑木村、矢田東村、矢田西村、上神代村、油野村、●下神代村、宮河内村、下成松村、則安村、金谷村、石蟹村、長屋村、荻尾村、法曽村 |
備中新見藩 | 6村 | 上組[3]、下組[4]、坂本村、千屋村、釜村、高瀬村 |
●慶応4年5月16日︵1868年7月5日︶ - 幕府領が倉敷県の管轄となる。
●明治元年12月7日︵1869年1月19日︶ - 松山藩が戊辰戦争後の処分により減封。郡内の領地が倉敷県の管轄となる。
●明治4年
●7月14日︵1871年8月29日︶ - 廃藩置県により、藩領が新見県の管轄となる。
●11月15日︵1871年12月26日︶ - 第1次府県統合により、全域が深津県の管轄となる。
●明治5年6月5日︵1872年7月10日︶ - 小田県の管轄となる。
●明治7年︵1874年︶︵31村︶
●小組・大組が合併して井倉村となる。
●矢田東村・矢田西村が合併して矢田村となる。
●上組・下組が合併して西方村となる。
●明治8年︵1875年︶
●12月20日 - 第2次府県統合により岡山県の管轄となる。
●下大野部村が大野部村に合併。︵30村︶
●明治11年︵1878年︶9月29日 - 郡区町村編制法の岡山県での施行により、行政区画としての哲多郡が発足。郡役所が井村に設置。
●明治14年︵1881年︶ - 下成松村が成松村に合併。︵29村︶
●明治22年︵1889年︶6月1日 - 町村制の施行により、以下の各村が発足。全域が現・新見市。︵10村︶
●上市村 ← 井村、坂本村、西方村、金谷村
●新郷村 ← 千屋村、釜村、高瀬村
●神代村 ← 下神代村、油野村
●矢神村 ← 上神代村、矢田村
●野馳村 ← 大野部村、八鳥村、畑木村、大竹村
●新砥村 ← 蚊家村、大野村、田淵村
●万歳村 ← 老栄村、荻尾村、矢戸村
●本郷村 ← 則安村、宮河内村、花木村、成松村
●石蟹郷村 ← 井倉村、法曽村、長屋村、石蟹村
●明治27年︵1894年︶3月29日 - 哲多郡役所を新見村に移転し、阿賀・哲多郡役所とする[5]。
●明治33年︵1900年︶4月1日 - 郡制の施行により、哲多郡および阿賀郡の一部の区域をもって阿哲郡が発足。同日哲多郡廃止。
行政[編集]
歴代郡長代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1 | 高木正美 | 明治11年(1878年)9月20日 | 明治27年(1894年)3月31日 | 明治25年(1892年)7月16日から阿賀郡長兼任 |
参考文献 - [6] |
代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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1 | 高木正美 | 明治27年(1894年)4月1日 | 明治31年(1898年)7月23日 | |
2 | 大野好蔭 | 明治31年(1898年)7月23日 | 明治33年(1900年)3月31日 | 阿賀郡の一部との合併により哲多郡廃止 |
参考文献 - [6] |
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 33 岡山県、角川書店、1989年6月1日。ISBN 4040013301。
- 旧高旧領取調帳データベース
関連項目[編集]
先代 ----- |
行政区の変遷 - 1900年 |
次代 阿哲郡 |