桑実寺縁起絵巻
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下巻第2段より、建立された桑実寺 | |
作者 | 詞書: 後奈良天皇・尊鎮法親王・三条西実隆 絵: 土佐光茂 |
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製作年 | 1532年(天文元年) |
種類 | 紙本著色・2巻 |
所蔵 | 桑実寺(滋賀県近江八幡市) |
﹃桑実寺縁起絵巻﹄︵くわのみでらえんぎえまき︶は、室町時代末期の1532年︵天文元年︶に制作された絵巻物。上下巻。紙本著色。現在の滋賀県近江八幡市と東近江市の市境にある、繖山︵きぬがさやま︶[注釈 1]山腹にある桑実寺の由来と、その本尊である薬師如来の化現︵けげん︶などを表す。桑実寺所蔵[注釈 2]。重要文化財[注釈 3]。
室町幕府第12代将軍足利義晴が発願し、後奈良天皇と青蓮院尊鎮法親王︵しょうれんいん・そんちんほうしんのう︶の兄弟と三条西実隆の三人が詞書︵ことばがき︶を、土佐光茂が絵を担当した。
上巻第2段より、阿閇姫が病床で見た夢を侍女に語る場面[3]。
絵巻のあらすじは以下の通りである[4]。上巻4段、下巻3段からなる。
上巻
(一)物語は天地開闢︵かいびゃく︶まで遡る。海上から生えた桑の巨木が三つの実を生み、そのうちの一つが桑実山︵=繖山︶になり、あとの二粒は烏と兎に変じた。聖徳太子が33歳の時、厄払いとして当地に千手観音を祀り[注釈 4]観音正寺[注釈 5]を建立し、西国三十三所の一山となる。そして桑実寺は不老不死の霊場となる。以下に薬師如来の由来を記す。
(二)天智天皇が近江に都を置いた時[注釈 6]、四女の阿閇︵あべ︶姫[注釈 7]が病を得るが、病床で琵琶湖から経を唱える声と湖面が光る夢を見、侍女にその内容を伝える︵白黒画像参照︶。
(三)天皇がその夢について、崇敬する定恵和尚に問うと、﹁琵琶湖には、八大龍王の変化︵へんげ︶である弁才天が居られ、湖底には龍宮があり、姫を治癒する如来がおわします。﹂と言上︵ごんじょう︶する。
(四)定恵が法要を行うと、琵琶湖からまぶしい光が発し、薬師如来が化現した。光を浴びた阿閇姫は忽ち快癒する。場面は唐崎の松[注釈 8]で掉尾となる。
下巻
(一)薬師如来は、湖中より現れた水牛︵帝釈天の本地︶に乗り、湖上を飛ぶ。陸上に着くと、馬︵梵天の本地︶に乗り換え、田畑や庵の上を飛び、桑実山山腹に降り立つ。そこに仏足石が残った。その地に桑実寺が建立され、定恵による法要が行われる。
(二)元明天皇︵即位した阿閇姫︶は桑実山へ行幸し[注釈 9]、仏足石を拝して﹁三十あまり二のすがたそなへたる むかしの人のふめる跡ぞこれ﹂と歌を詠む。天皇は龍王の女︵むすめ︶であった。寺には貴賤男女が参詣し、繁栄ぶりがうかがえる︵カラー画像参照︶。
(三)薬師如来の脇侍である日光菩薩・月光菩薩に十二神将、8万4千騎の夜叉も化現し、大団円を迎える。
土佐光茂筆﹃足利義晴像紙形﹄京都市立芸術大学芸術資料館所蔵。光茂 は1550年︵天文19年︶5月3日に義晴像下絵を描いたが、翌日に義晴は死去した[注釈 10]。
足利義晴は、管領細川高国に擁立され、将軍職に就いた。しかし、1527年︵大永7年︶、桂川原の戦いで、高国が柳本賢治・三好政長ら反高国派に敗れたことで、高国と義晴らは京都を追われ、近江各地を転々とし[注釈 11]、1531年︵享禄4年︶、この地の守護であった六角定頼の庇護を得て、桑実寺に仮幕府を構えた[注釈 12]。
寺僧から寺の由来を聞いた義晴は、縁起絵巻の奉納を思い立ち、絵巻制作の経験が豊富な三条西実隆[注釈 13]に制作を依頼した。翌1532年︵享禄5年︶1月、実隆は、史料が乏しく難渋しながらも[注釈 14]、わずか8日で草案を仕上げた[注釈 15]。清書︵きよがき︶は上巻の第1段と上下巻外題を後奈良天皇より賜り、残りを実隆と尊鎮法親王が分担した。絵師は義晴が土佐光茂を指名した[注釈 16]。
そして、1532年︵天文元年︶8月17日、将軍義晴の花押が記され、絵巻は完成し、本尊へ奉納された[注釈 17]。
なお、奉納日は、実隆の叔父である甘露寺親長の三十三回忌でもあった。実隆は6歳で父公保を亡くし、親長は父に代わる存在であった。奉納日と忌日が重なったのは、偶然ではなく、﹁老獪なる公家は、若き流浪の将軍による絵詞執筆依頼を、みずからの親族供養へと巧みに転化した﹂[22]のである。
上巻の第3段に登場する定恵は、藤原鎌足の長男で不比等の兄にあたる人物だが、これは京を離れざるを得なかった義晴が、自らの為政者としての正統性を訴えるべく、近江に都を置いた天智天皇と共に絵巻に取り入れたと考えられる[4][23]。また、薬師如来の加護を受けて、京へ帰還する願いも込められていたのではないとみられる[24][25]。
この絵巻を上下合わせて7段としたのは、実隆が七仏薬師を意識したからではとの説がある[26]。
あらすじ[編集]
制作の背景とその過程[編集]
詞書の分担[編集]
各段詞書の書風および本絵巻以外の遺墨から照合すると、各段の担当は以下のように推察される[27][28]。かつて別の説[29][30][4]があったが、本記事では、榊原悟説を掲載する[注釈 19]。 後奈良天皇が染筆した上巻第1段の料紙には、金泥で蝶と鳥が描き散らされており、宸筆であることが如実に示されている[4]。上巻 | 下巻 | |
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第1段 | 後奈良天皇 | 青蓮院尊鎮 |
第2段 | 青蓮院尊鎮 | 三条西実隆 |
第3段 | 青蓮院尊鎮 | 三条西実隆 |
第4段 | 三条西実隆 | — |
絵・詞の特徴・評価[編集]
榊原悟は、全編に金泥を下地にし、濃彩と丁寧な描線を引くのが、絵巻の特徴と述べる[33]。
画面上下の大部分および中央部にも、場面に応じて白緑︵びゃくろく︶のすやり霞が覆っているが、これは室町後期の絵巻に共通する。金泥もすやり霞に用いられている[4][34][35]。
上巻1段冒頭の、あまりに大きな桑の木については奉納者の義晴を表すと推察される[36] 。また、三粒の種を、薬師如来・日光菩薩・月光菩薩に見立てる説もある[37][23]。
上巻第1段の伽藍は、下巻第1・2段の伽藍と配置が異なっている点、及び詞書で言及がある点から、桑実寺ではなく、観音正寺を描いたと考えられる[38][39]。うねった田んぼの描写も、これまでの日本絵画には見られない表現で、光茂筆では﹁日吉山王祇園祭礼図屏風﹂ ︵サントリー美術館蔵︶にも見られるが、このような表現を、土屋貴裕︵東京国立博物館︶は﹁バロック的﹂と評する[40]。
下巻1段での、馬に乗って飛ぶ如来らの眼下に広がるパノラマ風景は、それまでの絵巻に見られないもの[41][42]だが、安土山らの稜線を含む描写は、写生に基づいていることが確認された[43]。
下巻1・2段での本堂を見比べると、杮葺から檜皮葺に変わっている。後者の方が建造・維持に手間がかかるので、その点から、寺の繁栄がうかがえる[44]。松木裕美︵東京女学館大学︶は、これら伽藍の描写は、上巻第1段の観音正寺を含め、創建当時の復元図ではなく、光茂が描いた当時の状況であろうとする[45]。桑実寺は天台宗に属するが、本堂の屋根が大きく反った点は、禅宗の影響が見られるとする[46]。
下巻第3段の諸仏化現について、並木誠士︵京都工芸繊維大学︶は﹁縁起としてふさわしい﹂締めと述べる。亀井若菜︵滋賀県立大学︶は、将軍義晴に仏の加護があるよう、帰京できるよう祈願したのだと読み解く[47]。
相澤正彦︵成城大学︶は堂宇の描写に唐絵の影響がみられるとし、新時代のやまと絵を創出したと述べる[48]。若杉準治︵京都国立博物館︶は、﹁當麻寺縁起絵巻﹂や﹁長谷寺縁起絵巻﹂といった、他の光茂作と異なり、濃彩が用いられている点について、﹁春日権現験記﹂や﹁玄奘三蔵絵﹂等、高階隆兼の絵巻に感銘を受けた、三條西実隆の影響があるのではと、推察する[49]。
並木誠士は、光茂が絵所預の絵師[注釈 20]だから、上質な出来であることは当然とし[51]、髙岸輝︵あきら・東京大学︶は、本絵巻を﹁光茂様式の頂点﹂と見なし[52]、相澤正彦は、光茂作品が16世紀やまと絵のなかで群を抜いて完成度が高いと述べる[53]。
堂宇や上巻第2段で見られる、吹抜屋台[注釈 21]での定規引き描写など、光茂の運筆の巧みさが窺えるが、1960年代までの美術史研究者の間では、本絵巻の評価は高くなかった[注釈 22]。
上巻1段の宸筆について、髙岸輝は、﹁大ぶりの文字、くっきりとした濃墨、粘りのある強い筆運び﹂とし、﹁威風堂々たる王者の書﹂﹁数ある日本の絵巻の中で、これほど格調高い詞書はない﹂と述べる[64]。
脚注[編集]
注釈[編集]
(一)^ 標高432.6m。地図上では﹁繖山︵観音寺山︶﹂名義になっている[1]。山名は、絹で覆ったようなゆったりとした円錐形の山容に由来するという[2]。
(二)^ 毎年5月3日から5日にかけて桑実寺本堂内で拝観できる“滋賀・びわ湖観光情報 桑實寺”. 2021年12月15日閲覧。
(三)^ 後奈良天皇の題籤二枚と消息一巻を附︵つけたり︶として、1910年︵明治43年︶に﹁旧国宝﹂に指定、1950年︵昭和25年︶の文化財保護法施行により、重要文化財に指定変更。
(四)^ 千手観音が日本に請来したのは、太子没後の奈良時代である[5][6]。これは室町時代に太子信仰が定着していた証である[7]。
(五)^ 桑実寺よりも繖山頂上近くにある[1]。
(六)^ ﹃日本書紀﹄卷第二十七﹁︵天智六年=667年︶三月︵やよひ︶の辛酉︵かのとのとり︶の朔己卯︵ついたちみづのとのうのひ︶︵=19日︶に、都を近江に遷す。是の時に、天下︵あめのした︶の百姓︵おほみたから︶、都遷することを願はずして、諷︵そ︶へ諫︵あざむ︶く者多し。﹂ [8]
(七)^ ﹃日本書紀﹄卷第二十七﹁︵天智七年=668年︶二月︵きさらぎ︶︵略︶四︵よはしら︶の嬪︵みめ︶を納︵めしい︶る︵略︶次に遠智娘の弟︵いろど︶有り、姪娘︵めひのいらつめ︶と曰ふ。御名部皇女︵みなべのひめみこ︶と安陪皇女︵あへのひめみこ︶とを生めり。﹂[9]﹃続日本紀﹄巻第四﹁日本根子天津御代豊国成姫天皇︵やまとねこあまつみしろとよくになりひめのすめらみこと=元明天皇 ︶は、小名︵をさなな︶は阿閇皇女︵あへのひめみこ︶、天命開別天皇︵あめみことひらかすわけのすめらみこと=天智︶の第四の皇女なり。﹂[10]
(八)^ 唐崎の松は、近江の都ゆかりの象徴として、柿本人麻呂が﹁楽浪︵ささなみ︶の志賀の唐崎幸︵さき︶あれど 大宮人︵おほみやひと︶の船待ちかねつ﹂︵﹃万葉集﹄巻第一の30︶と詠んでいる[11]。また、﹃かげろふ日記﹄では、﹁︵天禄元年六月︶廿よ日になりぬる心地、せん方しらずあやしくをきどころなきを、いかですゞしき方もやあると、心ものべがてら浜づらの方に祓へもせんと思ひて、唐崎へとてものす。寅の時︵午前4時頃︶ばかりに出で立つに、月いとあかし。﹂︵中巻85︶[12]と、祓いの場として名が知られている。また、後鳥羽院も﹁神の誓ひかはらむ色を頼むかな おなじ緑の唐崎の松﹂︵﹃後鳥羽院御集﹄元久二年・1343番︶と当地を神聖な地として詠っている[13][14]。
(九)^ ﹃続日本紀﹄に行幸の記録はない。
(十)^ ﹃萬松院殿穴太記﹄﹁︵天文十九年五月︶三日には土佐刑部少輔光茂を召て御じゆぞうを摸させらる けふの暮程には既に御せつしゆ︵=絶入︵ぜつじゅ。意識混濁状態。︶︶︵略︶明れば五月四日戊辰の辰の刻︵午前8時頃︶に 御年春秋四十と申しに 臨終正念にましまして御事きれさせ給けり﹂[15]
(11)^ ﹃宗長日記﹄﹁道永︵高国︶東寺南大門、一日二夜、桂川左右の合戦。御動座とて、御敵楯をふせ、射矢をとどめ、かしこまりけるとなり。夢のさめたる様にして、十四日に坂本へ御下向︵略︶かりの御所しつらはれ御うつり。築地︵ついじ︶以下普請。しばらく御座のやうにきこゆ。﹂[16]
(12)^ 享禄4年8月に桑実寺に入ったと、亀井は推測する[17][18]。
(13)^ ﹃実隆公記﹄によると、﹃桑実寺﹄を含め、23種の絵巻詞書に携わっている。なお、﹃桑実寺﹄が実隆にとって、最後の詞書担当となる[19]。
(14)^ ﹃公記﹄享禄5年の条﹁正月二十一日、庚馬、雨︵略︶此の本、正体なきの物なり。頗る難儀の事なり。これを為すに如何。﹂[20]
(15)^ ﹃公記﹄享禄5年﹁正月二十九日、戊寅、雨。桑実寺縁起、詞の草案これを書く。﹂[20]
(16)^ ﹃公記﹄享禄5年﹁二月十五日、甲午、晴れ︵略︶桑実縁起□□︵相叶か︶上意、画師をお召し下さる。﹂﹁五月二十日、戊辰、晴れ︵略︶土左将監光茂︵略︶が書状を持ち来る。桑□︵実︶縁起詞の端第一段幷︵なら︶びに銘︵外題︶等、勅筆︵後奈良天皇の筆︶を染められるべきの事、□□︵其の外か︶青門︵青蓮院尊鎮法親王︶、愚□︵﹁老﹂か=実隆︶両人、これを書き奉るべし。青門の事、同じく伝達すべきの由なり。対面、委細の問答、盃を賜う。﹂﹁六月六日、癸未、晴れ︵略︶光茂来る︵絵が仕上がったか︶﹂﹁六月二十三日、桑実寺絵詞とも、外題・中書・同本など悉く光茂に渡し終わる︵略︶全備珍重々々。﹂[21]
(17)^ 上巻奥書﹁右、繪所預藤原︵土佐︶光茂に仰せて、新たにこれを図せしめ、本尊の帳の中に奉納す。︵略︶天文元年八月十七日︵義晴自筆花押︶征夷大将軍権大納言朝臣︵=義晴︶ 詞 宸筆 青蓮院宮 逍遥院︵=実隆︶ 絵 繪所預刑部大輔光茂﹂
(18)^ ﹃公記﹄享禄5年﹁正月十五日︵略︶當麻寺縁起興迎講事一段依寺命詞書、今日書終了。﹂[31]
(19)^ 榊原は、まず書風から、上巻4段と下巻3段をAグループ、上巻2・3段および下巻1・3段をBグループに分け、下巻2段を保留する︵Bグループの方が肥痩が明瞭で筆が早く、縦長に見えるのに対して、AグループはBグループより真四角に見える︶。次いで、義晴・青蓮院・実隆が協同し、かつ﹃桑実寺﹄制作直前︵享禄5年正月15日︶に完成した、﹃當麻寺縁起絵巻﹄の詞書と比較する[注釈 18]。同絵巻は、奥書に詞書各段の担当が記されている。両者を見比べると、﹃桑実寺﹄A・Bグループと矛盾しない運筆の違いが見られ、それによって、Bが青蓮院、Aが実隆と導き出せ、これで従来説は誤っていたことになると論じる。保留にした下巻2段は、結果、実隆とした。なお奥書に関しては、義晴も含め、誰の筆か、保留とした[27]。但し髙岸は、上下奥書とも実隆筆で問題ないと、従来説を支持する[32]。
(20)^ 1523年︵大永3年︶時点で絵所預職にあった記録がある[50]
(21)^ ﹃源氏物語絵巻﹄などを起源とする、屋根を描かずに、室内を俯瞰で表現する手法。
(22)^ 17世紀後半に活動した狩野派︵京狩野︶の狩野永納 が﹃本朝画史﹄巻第一の﹁画運﹂において、﹁土佐氏是倭画之専門也︵略︶狩野家是漢而兼倭者也﹂と記したことによって、土佐派は狩野派より格下というイメージがついてしまったことが大きいと考えられる。同書巻第四の﹁専門家族 婦人土佐氏﹂には﹁光茂之女︵むすめ︶而狩野元信妻也 善倭画 毎為源氏故実 儼有父家風 至其為花草水石則傚元信﹂とあり、狩野派による土佐派の﹁乗っ取り﹂が記される。永納は客観的な史書を著そうとしたのではなく、狩野派の土佐派に対する優越性は勿論、京狩野の江戸狩野に対するそれも主張したかったのである。そして明治以降も、室町土佐派、特に光茂以降の評価は低く、﹁定型的﹂﹁形式化﹂﹁新鮮味に欠ける﹂といった言葉で片付けられていた。その空気が変わるのは、1970年代に吉田論文[54][55][56][29][57]が発表されて以降となる[58][59][60][61][62][63]。
出典[編集]
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