観音寺城

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観音寺城
滋賀県
食い違い虎口跡
食い違い虎口跡
別名 佐々木城、鷦鷯城(さゝきのしろ)[1]
城郭構造 山城
天守構造 なし(屋形二階)
築城主 六角氏頼
築城年 応仁文明年間(1467年 - 1487年
主な改修者 佐々木六角氏
主な城主 佐々木六角氏
廃城年 永禄11年(1568年
遺構 曲輪、土塁、石垣、竪堀、虎口、堀切、井戸、
指定文化財 国の史跡
再建造物 なし
位置 北緯35度8分43.6秒 東経136度9分46.55秒 / 北緯35.145444度 東経136.1629306度 / 35.145444; 136.1629306
地図
観音寺城の位置(滋賀県内)
観音寺城

観音寺城

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432.9m


調

沿[]


21335

213519[2]

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西西3

第一次観音寺城の戦い[編集]

第一次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日応仁2年(1468年)4月1日
場所:観音寺城一帯
結果京極持清京極勝秀連合軍の勝利
交戦勢力
京極持清
京極勝秀
六角高頼
指導者・指揮官
京極勝秀 伊庭行隆
戦力
不明 不明
損害
不明 観音寺城は開城

細川勝元率いる東軍に属していた京極持清の長男勝秀は六角高頼の居城観音寺城を攻撃した。城主の高頼、陣代の山内政綱らは京都におり東西の戦闘に参加していたので、観音寺城の留守居役の伊庭行隆が迎え出た。

数日間攻防戦が続いたが、伊庭行隆は敗れ、応仁2年(1468年)4月1日に城を明け渡した。

観音寺城の模型 / 滋賀県立安土城考古博物館所蔵

第二次観音寺城の戦い[編集]

第二次観音寺城の戦い
戦争攻城戦
年月日:応仁2年(1468年)11月8日
場所:観音寺城一帯
結果六角政堯京極持清連合軍の勝利
交戦勢力
六角政堯
京極持清
六角高頼
指導者・指揮官
六角政堯
京極持清
山内政綱
戦力
不明 不明
損害
不明 観音寺城は開城

211

118

退

14899931491810

その後の観音寺城の戦闘年表[編集]

和暦 西暦 主な出来事
文亀2年 1502年 六角高頼の被官である伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、六角高頼は音羽城に退避。
その後和議を結ぶ。
永正13年 1516年 再び伊庭貞隆、伊庭行隆が反乱をおこし、観音寺城を攻撃したが敗北し浅井氏のもとに降った。
大永5年 1525年 六角定頼が江北に出陣していた隙をつき、伊庭氏が3度目の観音寺城を攻撃。
この時は留守居役の後藤左衛門が対処した。
永禄6年 1563年 観音寺騒動が勃発。謀殺された後藤賢豊縁故の諸将が城下に乱入。放火により観音正寺などが焼失[3]

廃城[編集]


退

111568913

1570[4]

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2006184610052

[]


調
観音寺城改修の歴史
回数 年代 主な特徴
築城当時 建武2年(1335年) 観音正寺を中心とした臨時の砦、城郭と呼べるものではなかった。
第1次改修 応仁・文明年間
(1467年 - 1487年)
城郭らしきものが推定されるが遺構等は検出されていない。
第2次改修 大永5年(1525年) 城といえる城郭が完成していたと推定されている。
第3次改修 天文元年(1532年 12代将軍足利義晴を迎えるため大規模な改修を実施、現在の居住性の高い城郭が
誕生していたと推定されている。
第4次改修 天文19年(1550年)前後 鉄砲の出現により、山城に石垣を作り、今日に見られる城構えが完成していたことが
発掘調査から確認されている。

西[5]
57



5149670[6]

沿



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395m2000m24m殿

平井丸[編集]

平井丸は、標高375mで面積は約1700m2、平井氏の居館があったのではないかと思われている。観音寺城の中でも石垣、石塁の規模が最大の曲輪跡である。その中で特徴的なのが、高さ3.8m、長さ32mにも及ぶ虎口跡があり、2m以上の石も使用されている。また南側には幅0.8m、高さ1.3mの潜り門もある。また北東には張り出しを持つ建物とそれに付随する庭園跡が発見された。

池田丸[編集]

池田丸跡

365m2700m2殿

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西43m×50m西西西3


佐々木古城跡繖山観音山画図

その他曲輪[編集]

その他曲輪として数多く存在する。

  • 伊藤丸
  • 沢田丸
  • 馬渕丸
  • 三井丸
  • 馬場丸
  • 大見付丸
  • 三国丸
  • 伊庭丸
  • 進藤丸
  • 後藤丸
  • 観音寺

このように曲輪の名称に、「二の丸」や「三の丸」のような数字ではなく、人の名称が使用されたと伝承されている。これは、六角定頼の時代に家臣団、国人衆を観音寺城へ居住させ、文献上では初めて「城割」を実施したためではないかと推定されている。

繖山山頂からの眺望[編集]

後方が安土山
天満宮の参道
六角氏の御館跡

六角氏の御館[編集]

観音正寺への巡礼参道である赤坂道の参道入り口を右におれ、突き当りの石段を上がると六角氏の御館跡がある。ここも3方向を土塁と切岸で囲まれた「上御用屋敷」という地名の場所があり、南東には高く積まれた石垣が残されている。

繖山の山麓にあり石寺城下町付近になる。

石寺楽市の案内看板
石寺楽市の推定地

石寺楽市[編集]




13





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交通[編集]

脚注[編集]



(一)^  

(二)^ 121978 /: 2015

(三)^ 2 (2)p842-843  1987331 :87037576

(四)^  11992 /: 2015

(五)^ 21978 

(六)^ -- 2015/:2018ISBN 978-4-7842-1935-3

[]


11 19809261-269265-266

19876278-279

2004712-17

19891158-160

200610168-175

調1983342

 ︿西 2015ISBN 978-4-86403-144-8 
(1)/:調 142010

(2)/: 242011

2018ISBN 978-4-7842-1935-3

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