河内仙介
河内 仙介︵かわち せんすけ、1898年10月21日 -1954年2月21日︶は日本の小説家である[1]。
大阪市生まれ[1]。本名は塩野房次郎[1]。大阪市立甲種商業学校卒[1]。1921年︵大正10年︶頃に北条秀司らのグループに参加し﹃随筆評論﹄の同人となる[2]。1925年︵大正14年︶頃に上京し、新潮社に勤務しながら里見弴に師事し作家を目指す[2]。1930年︵昭和5年︶に大阪に戻るが、1939年︵昭和14年︶に再び上京、北条の紹介により長谷川伸の門下となり、﹃大衆文藝﹄誌の発行元である新小説社に勤務する[2]。1940年、初めての商業誌掲載作﹁軍事郵便﹂︵﹃大衆文藝﹄1940年3月号掲載︶で直木三十五賞を受賞[2][3]。
太平洋戦争中は片瀬で軍需工場の宿舎の舎監をし[4]、戦後は里見弴が久米正雄に世話を頼んだが、純文学志向が強く、それ以降はあまり作品を発表できなかった[5]。
その他[編集]
●河内仙介は里見弴の小説﹁文学﹂のモデルとされる[3]。 ●仙介の息子の塩野周策は、大学を中退して六興出版に入社、中間小説誌﹃小説公園﹄の編集者となった[6]。その後、報知新聞社に入社して定年まで勤務した[7]。受賞歴[編集]
●1940年、﹁軍事郵便﹂で第11回直木三十五賞受賞[1]。著書[編集]
●﹃軍事郵便﹄ 新潮社、1940年 ●収録作品‥﹁軍事郵便﹂﹁遺書﹂﹁あいす・きゃんでい﹂﹁山で果てる﹂﹁縮絨帽子﹂ ●﹃遺書﹄ 筑紫書房、1941年 ●収録作品‥﹁遺書﹂﹁簑笠の由來﹂﹁朝﹂﹁破れ靴﹂﹁刺繍師彌吉﹂﹁行間さん﹂﹁伸吉君の日記﹂﹁あいす・きやんでい﹂ ●﹃ヴヰクトリヤ号﹄ 日進社、1942年 ●収録作品‥﹁ヴヰクトリア號﹂﹁稚き芽﹂﹁刺繍師彌吉﹂﹁混血兒ロベール﹂﹁轟氏と猫﹂﹁首途﹂﹁鍵﹂﹁わが姉の記﹂﹁燃える睡蓮﹂ ●﹃わが姉の記﹄ 泰光堂、1942年 ●収録作品‥﹁わが姉の記﹂﹁樂しい追想﹂﹁螢合戰﹂﹁世紀の朝﹂﹁鬼女﹂﹁行間さん﹂﹁朝﹂﹁芽生え﹂ ●﹃風冴ゆる﹄ 暁書房、1947年編書[編集]
●﹃マライのお月様 : 矢野追悼童話集﹄ 泰光堂、1943年映画原作[編集]
●﹁山高帽子﹂: 1941年公開の島耕二監督作品︵日活︶[8] ●﹁母は死なず﹂‥1942年公開の成瀬巳喜男監督作品︵東宝︶[9]。原作は﹁遺書﹂。脚注[編集]
(一)^ abcde"河内 仙介". 日外アソシエーツ﹁20世紀日本人名事典﹂︵2004年刊︶. コトバンクより2022年6月21日閲覧。
(二)^ abcd“河内仙介︵かわち せんすけ︶-直木賞受賞作家”. 直木賞のすべて. 2022年6月21日閲覧。
(三)^ ab川口 2016, p. 99.
(四)^ 川口 2016, p. 100.
(五)^ 河内仙介︵第11回 昭和15年/1940年上半期受賞︶ ﹁直木賞をとったのに消えていった作家﹂第一号。……でもそれって、直木賞のせいなの? - ウェイバックマシン︵2012年2月26日アーカイブ分︶
(六)^ 川口 2016, p. 102.
(七)^ 川口 2016, p. 104.
(八)^ “山高帽子”. 日活. 2022年6月21日閲覧。
(九)^ "母は死なず". 小学館﹁デジタル大辞泉プラス﹂. コトバンクより2022年6月21日閲覧。
参考文献[編集]
- 川口則弘『ワタクシ、直木賞のオタクです。』バジリコ、2016年2月18日。ISBN 978-4862382276。
外部リンク[編集]
河内仙介(第11回 昭和15年/1940年上半期受賞) 「直木賞をとったのに消えていった作家」第一号。……でもそれって、直木賞のせいなの? - ウェイバックマシン(2012年2月26日アーカイブ分)