源義平

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源 義平
悪源太(『新形三十六怪撰』より。月岡芳年画)
時代 平安時代末期
生誕 永治元年(1141年
死没 永暦元年1月19日(21日、22日、25日とも)(1160年2月27日2月29日3月1日3月4日とも)[1]
享年20
別名 鎌倉悪源太(悪源太、鎌倉源太)
官位 左衛門少尉
氏族 清和源氏為義流(河内源氏
父母 父:源義朝
母:橋本の遊女、または三浦義明の娘
兄弟 義平朝長頼朝義門希義範頼
全成義円義経坊門姫、女子
正室:祥寿姫
娘:武田信光
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源義平(菊池容斎前賢故実』)

   [2][3] [4] JR

生涯[編集]

大蔵合戦[編集]


寿21155[ 1] [5][6]


[]


1156

平治の乱[編集]


退西西西西

1159129西殿西

西

1226

1160

[]


4115931158

[]

殿


[]


[ 2]

2526

[]


27819[ 3]

171750078退500[8]

退50017

3

[]


退

退300





[5]20

[]


8

宿宿[ 4]



11603

[]






宿18300宿45[ 5]

25

208

[]

[]



[]


殿1156 - 1159退

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 埼玉県比企郡嵐山町)など、大蔵館の場所には諸説有る
  2. ^ 実際には信頼らは平家を打つ必要には迫られていなかった。近年の平治の乱に対する研究では、清盛は信西と姻戚であると同時に信頼の息子とも婚姻関係を結んでおり、後白河法皇や二条天皇をとりまく勢力や信西、藤原信頼などどの勢力から見ても中立な立場であるという見方が強まりつつあり、中立の立場にある清盛は信頼らの攻撃の対象ではなかったという見方もある[7]
  3. ^ この義平等の装束については金比羅本等の後出本『平治物語』には記載されているが、古態本には一切出てこない。
  4. ^ 古態本では朝長に信濃へ行くように命じた記載はない。
  5. ^ 古態本には志内景澄は登場しない。

出典[編集]

  1. ^ 源義平』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 19頁。
  3. ^ 尊卑分脈
  4. ^ 清和源氏系図
  5. ^ a b 元木泰雄『保元・平治の乱をよみなおす』(NHKブックス)
  6. ^ 野口実『源氏と坂東武士』(吉川弘文館)
  7. ^ 元木泰雄「保元・平治の乱を読み直す」
  8. ^ 日下力「平治物語の成立と展開」

関連作品[編集]

テレビドラマ

関連項目[編集]