石山寺
石山寺 | |
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多宝塔 (国宝、日本三塔の一つ) | |
所在地 | 滋賀県大津市石山寺1丁目1番1号 |
位置 | 北緯34度57分37.51秒 東経135度54分20.25秒 / 北緯34.9604194度 東経135.9056250度座標: 北緯34度57分37.51秒 東経135度54分20.25秒 / 北緯34.9604194度 東経135.9056250度 |
山号 | 石光山 |
宗派 | 東寺真言宗 |
寺格 | 大本山 |
本尊 | 如意輪観音 |
創建年 | 天平19年(747年) |
開山 | 良弁 |
開基 | 聖武天皇(勅願) |
正式名 | 石光山 石山寺 |
札所等 |
西国三十三所第13番 近江西国三十三観音霊場第3番 江州三十三観音第1番 びわ湖百八霊場第1番 神仏霊場巡拝の道第146番(滋賀第14番) |
文化財 |
本堂、多宝塔、釈摩訶衍論ほか9件(国宝) 東大門、鐘楼ほか(重要文化財) 珪灰石(国の天然記念物) |
公式サイト | 大本山 石山寺 公式ホームページ |
法人番号 | 9160005000599 |
石山寺︵いしやまでら︶は、滋賀県大津市石山寺にある東寺真言宗の大本山の寺院。山号は石光山。本尊は如意輪観世音菩薩︵如意輪観音︶。開山は良弁。西国三十三所第13番札所。
鷲尾光遍が1910年︵明治43年︶石山寺座主となって以来、座主は旧華族鷲尾家が世襲している。
2015年︵平成27年︶4月24日、﹁琵琶湖とその水辺景観- 祈りと暮らしの水遺産 ﹂の構成文化財として日本遺産に認定される[1]。
石山寺の紫式部︵歌川広重 (3代目)画︶
石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
清少納言の﹃枕草子﹄二百八段︵三巻本﹁日本古典文学大系﹂︶には﹁寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀﹂とあり、藤原道綱母の﹃蜻蛉日記﹄では天禄元年︵970年︶7月の記事に登場する。﹃更級日記﹄の筆者・菅原孝標女も寛徳2年︵1045年︶、石山寺に参篭している。紫式部が﹃源氏物語﹄の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年︵1004年︶、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、﹁須磨﹂﹁明石﹂の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂の一角には﹁紫式部源氏の間﹂が造られている[7]。
﹃和泉式部日記﹄︵十五段︶では、﹁つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて﹂とあり、和泉式部が敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。
概要[編集]
当寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石︵﹁石山寺硅灰石﹂︶という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている︵石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定︶。 ﹃蜻蛉日記﹄﹃更級日記﹄﹃枕草子﹄などの文学作品にも登場し、﹃源氏物語﹄の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。﹁近江八景﹂の1つ﹁石山秋月﹂でも知られる。紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年︵平成27年︶に日本夜景遺産に認定された[2]。また、洋画家の三谷祐幸によって寄付された関西美術院を所有する。歴史[編集]
﹃石山寺縁起絵巻﹄によれば[3]、聖武天皇の発願により、天平19年︵747年︶、良弁︵東大寺開山・別当︶が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのが始まりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金︵金メッキ︶を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峯山に祈らせた。金峯山はその名の通り、﹁金の山﹂と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王︵蔵王権現︶が現われ、こう告げた。﹁金峯山の黄金は、︵56億7千万年後に︶弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである︵だから大仏鍍金のために使うことはできない︶。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい﹂。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神︵≒白鬚明神︶の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく︵実際にはその2年後に︶陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。そもそも正倉院文書によれば、この石山の地は、東大寺を建立するために近江国の各所から伐採してきた木材を集めておく場所であったのが知れる。この地が東大寺や良弁と強い繋がりがあったのが分かる。 その他資料としては﹃元亨釈書﹄[4] や、後代であるが宝永2年︵1705年︶の白鬚大明神縁起絵巻がある[5]。 その後、天平宝字5年︵761年︶から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係しているといわれる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年︵761年︶から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。こうして石山寺は華厳宗の寺院として寺観が整えられていった。 それ以降から平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、初代の座主︵ざす、﹁住職﹂とほぼ同義︶に聖宝が就いて真言宗の寺院となっている。その後も観賢などの当時高名な僧が座主として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。 石山寺の中興の祖といわれるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐内供︵寛平2年︿890年﹀ - 天暦7年︿953年﹀︶である。内供とは内供奉十禅師︵ないくぶじゅうぜんじ︶の略称で、天皇の傍にいて常に玉体を加持する僧の称号である。高僧でありながら諸職を固辞していた淳祐は、やがてこの内供と称されるようになった。﹁石山内供﹂・﹁普賢院内供﹂とも呼ばれている。淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、﹁匂いの聖教︵においのしょうぎょう︶﹂と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、﹃蜻蛉日記﹄や﹃更級日記﹄にも描写されている。 承暦2年︵1078年︶1月2日、落雷によって本堂が半焼し、本尊の塑造如意輪観音像も損壊したため、永長元年︵1096年︶に本堂︵国宝︶を再建し、新たな本尊として如意輪観音坐像︵重要文化財︶を祀る形となった。 東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされる。この頃には、だいたい現在見るような寺観が整ったと思われる。 戦国時代の元亀4年︵1573年︶2月に光浄院暹慶が室町幕府第15代将軍足利義昭の味方をして織田信長に背き、石山寺の南にあった石山城に立て籠もったが、すぐに柴田勝家の攻撃を受けて降伏している。この合戦によって石山寺のいくつかの堂舎が被害を受けている。その後、信長によって寺領5,000石が没収されてしまったが、信長の死後、豊臣秀吉によって文禄5年︵1596年︶にいくつかの寺領が返還されている。 慶長6年︵1601年︶には徳川家康によって寺領579石が認められている。 慶長年間︵1596年 - 1615年︶、淀殿によって石山寺の復興が行われ、慶長7年︵1602年︶には本堂の合の間と礼堂が改築されている。 石山寺は全山炎上するような兵火には遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。 令和3年︵2021年︶第52代座主鷲尾遍隆が死去。同年12月21日に長女の鷲尾龍華が第53代座主に就任。奈良時代の747年創設以来、初の女性座主となった[6]。石山寺と文学作品[編集]
境内[編集]
東大門
鐘楼
御影堂(開山堂)
御影堂内陣
毘沙門堂
三十八所権現社本殿
大黒天堂
月見亭
経蔵
蓮如堂
多宝塔細部
石造宝塔と石庭
宝篋印塔
宝篋印塔(後方の塔は重要文化財)
宝篋印塔
宝篋印塔
無憂園
東大門の金剛力士(仁王)像
天照皇大神を拝し弘文天皇を祭る若宮
心経堂
紫式部供養塔と芭蕉句碑
島崎藤村ゆかりの密蔵院
三鈷の松
くぐり岩
文化財[編集]
木造如意輪観音坐像[編集]
当寺の本尊であり、重要文化財に指定されている。本堂奥の巨大な厨子に納められている秘仏である。33年に1度の開扉と天皇即位翌年の開扉以外は原則として公開されず、開扉は勅使により行われるため、石山寺では﹁日本唯一勅封観音﹂としている。像高約3メートル。如意輪観音像は6臂像︵6本の手をもつ︶が多いが、本像は2臂像で、岩盤の上に直接坐している。本堂の再建と同時期の平安時代後期の作と推定される。像内からは奈良時代の金銅仏4体、水晶製五輪塔などが発見され、これらは2003年︵平成15年︶、本像の附属として重文に追加指定されている。本像は以下の機会に開扉されている。
1991年︵平成3年︶4月10日から4月30日まで︵明仁の第125代天皇即位に伴う即位吉例開扉︶
2002年︵平成14年︶8月1日から12月16日まで︵開基1,250年記念︶
2009年︵平成21年︶3月1日から5月31日まで、および9月1日から12月16日まで︵花山法皇一千年忌西国札所一斉開扉︶
2016年︵平成28年︶3月18日から12月4日まで︵33年ごとの開扉︶
2020年︵令和2年︶3月18日から8月10日まで︵徳仁の第126代天皇即位に伴う即位吉例開扉︶[20]
国宝[編集]
●本堂 ●多宝塔 附‥棟札1枚 ●漢書 高帝紀下、列伝第四残巻2巻︵紙背金剛界念誦私記︶ ●史記 巻第九十六、九十七残巻1巻︵紙背金剛界次第︶ ●玉篇巻第廿七 後半︵紙背如意輪陀羅尼経︶ ●春秋経伝集解 巻第廿六残巻︵しゅんじゅうけいでんしっかい︶ ●春秋経伝集解 巻第廿九残巻︵紙背金剛界儀軌︶ ●釈摩訶衍論︵しゃくまかえんろん︶5帖 ●淳祐内供筆聖教︵薫聖教︶︵しゅんにゅうないくひつしょうぎょう・においのしょうぎょう︶73巻1帖︵附:聖教目録1巻︶[注 1] ●延暦交替式︵紙背南天竺般若悉曇十八章︶ ●越中国官倉納穀交替記残巻︵紙背伝三昧耶戒私記︶ ●周防国玖珂郡玖珂郷延喜八年戸籍残巻︵紙背金剛界入曼荼羅受三昧耶戒行儀︶重要文化財[編集]
︵建造物︶ ●東大門 ●鐘楼 附‥棟札1枚 ●石山寺4棟 ●御影堂[21] ●蓮如堂 附‥板札1枚[21] ●三十八所権現社本殿[21] ●経蔵[21] ●宝篋印塔 - 亀谷禅尼供養塔。 ︵絵画︶ ●絹本著色不動明王二童子像 ●絹本著色仏涅槃図 ●紙本著色源氏物語末摘花巻︵伝・土佐光起筆︶ ●紙本著色石山寺縁起︵巻第六・七絵 谷文晁補写︶7巻 ●石山寺多宝塔柱絵4本 ︵彫刻︶ ●木造如意輪観音半跏像︵本尊︶・像内納入品︵銅造如来立像1躯、銅造観音菩薩立像2躯、銅造菩薩立像1躯、水晶五輪塔1基、木造厨子1基︶ - 解説は既述[注 2]。 ●木造如意輪観音半跏像 ●木造大日如来坐像︵多宝塔安置︶快慶作 ●木造大日如来坐像︵伝・元多宝塔本尊︶ ●金銅観世音菩薩立像 - 奈良時代。1947年︵昭和22年︶盗難に遭い、その後、首以下の胴体部分のみが発見された。切断された頭部は行方不明である。寺伝によると桂昌院が寄進したもので、それ以前の来歴は不明[22]。 ●銅造釈迦如来坐像 - 奈良時代後期。総高13.0cmで頭頂から懸裳まで一鋳でつくられる。経蔵の本尊と伝わるのみで、それ以前の来歴は不明[23]。 ●木造持国天立像・増長天立像・毘沙門天立像 ●木造維摩居士坐像 - 平安時代前期。像高49.5cmで一木造り。多くの維摩居士は病苦の老相で作られるが、この像は穏やかな顔立ちであることが特徴[24]。 ●木造毘沙門天立像 - 平安時代前期。像高172.5cm。頭から体を一木で作り、乾漆を薄くもって彩色を施す[25]。 ●木造不動明王坐像 ●塑造淳祐内供坐像︵御影堂安置︶ - 像内に明徳三年地蔵摺仏、明徳四年塔婆形木札及び願文経巻等を納める。台座裏面に﹁応永五年閏四月廿七日、普賢院御影、開眼供養訖、座主僧正守快﹂の銘がある。 ●塑造金剛蔵王立像心木[26] ●附 塑造断片一括、光背1面、心木内納入品︵木造五輪塔形1基、木造舎利容器1合、紙本墨書般若心経1紙︶ 塑像︵表面を粘土で造形した像︶の内部にあった支えの心木である。この心木は、本尊の右脇侍である金剛蔵王︵蔵王権現︶像の内部から発見されたもの。金剛蔵王像自体は江戸時代の作であるが、心木は奈良時代創建時のもので、学術的にきわめて貴重なものである。 ︵工芸品︶ ●梵鐘 ︵書跡典籍、古文書︶ ●叡山大師伝 ●倶舎論記 普光撰22巻・倶舎論疏 法宝撰30巻・倶舎論頌疏 円暉撰5巻 ●説一切有部倶舎論 仙釈筆 ●十誦律 巻第五十二 ●大般若経音義 中巻 ●智証大師伝 ●不空三蔵表制集 巻第三 ●仏説浄業障経︵天平神護二年吉備由利願経︶ ●法花玄賛義決 弘仁十年書写奥書 ●法華義疏7巻 ●石山寺一切経 4,644帖 ︵附:雑宝経 巻第四︵光明皇后五月一日願経︶以下199巻︶ ●石山寺校倉聖教 1,926点︵附‥聖教箱30合︶ ●本朝文粋零本 ●建久年中検田帳2巻 ●行歴抄 円珍記 ︵考古資料︶ ●袈裟襷文銅鐸 出典‥2000年︵平成12年︶までの指定物件については、﹃国宝・重要文化財大全 別巻﹄︵所有者別総合目録・名称総索引・統計資料︶︵毎日新聞社、2000年︵平成12年︶︶による。重要美術品[編集]
●石造宝塔 - めかくし石。 ●石造三重宝篋印塔 - 紫式部供養塔。国の天然記念物[編集]
●石山寺硅灰石滋賀県指定有形文化財[編集]
●毘沙門堂 附‥棟札2枚、板札1枚、須弥壇1基、釣燈籠2個、石燈籠2基大津市指定有形文化財[編集]
●絹本著色紫式部像 伝狩野孝信筆 ●石山寺知足庵コレクション ●古瓦26点 ●古瓦譜1冊 ●板絵著色繋馬図1面 ●順礼札5枚石山寺縁起絵巻 第1巻第3段 石山寺建立の際に地中から宝鐸が発見される
石山寺縁起絵巻 第4巻第1段 石山寺に参籠した紫式部は湖面に映る月影を見て物語の構想を得る
石山寺縁起絵巻 第3巻第3段 菅原孝女の石山参詣、雪の逢坂関
木造毘沙門天立像(平安時代、重要文化財)
木造大日如来坐像(伝元多宝塔本尊、平安時代、重要文化財)
平安時代の作・木造不動明王坐像(平安時代、重要文化財)
金銅観世音菩薩立像(奈良時代、重要文化財)[注 3]
前後の札所[編集]
- 西国三十三所
- 12 岩間寺正法寺 - 13 石山寺 - 14 園城寺(三井寺)
- 近江西国三十三観音霊場
- 2 東門院 - 3 石山寺 - 4 近松寺
- 江州三十三観音
- 1 石山寺 - 2 泉水寺(廃寺)
- びわ湖百八霊場
- 1 石山寺 - 2 岩間寺正法寺
- 神仏霊場巡拝の道
- 145 建部大社 - 146 石山寺 - 147 園城寺(三井寺)
拝観情報[編集]
- 交通アクセス
- 開門時間 - 8:00から16:30
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ “琵琶湖とその水辺景観-祈りと暮らしの水遺産”. 文化庁. 2020年9月20日閲覧。
(二)^ “日本初、夜景遺産の紅葉 大津・石山寺でライトアップ”. 京都新聞. (2015年11月13日). オリジナルの2015年11月14日時点におけるアーカイブ。 2020年5月27日閲覧。
(三)^ 薗田稔、橋本政宣﹃神道史大辞典﹄︵snippet︶吉川弘文館、2004年。, p.494
(四)^ 相馬大﹃近江33ヵ所﹄︵preview︶保育社、1982年。ISBN 9784586505814。, p.8-9
(五)^ “白鬚大神社縁起︵白鬚大明神縁起絵巻原文︶”. 白鬚神社. 2012年6月閲覧。
(六)^ 読売新聞オンライン︵2023年4月11日︶
(七)^ ab“源氏物語の誕生”. 大本山 石山寺 公式ホームページ. 文学の寺. 石山寺. 2024年6月5日閲覧。
(八)^ 石山寺 2006, p. 54-56.
(九)^ 石山寺 2006, p. 33 - 37.
(十)^ 石山寺 2006, p. 30.
(11)^ 石山寺 2006, p. 44 - 48.
(12)^ 石山寺 2006, p. 38 - 39.
(13)^ 石山寺 2006, p. 40 - 41.
(14)^ 石山寺 2006, p. 59.
(15)^ 石山寺 2006, p. 57 - 58.
(16)^ 石山寺 2006, p. 49 - 50.
(17)^ “光る君へ びわ湖大津 大河ドラマ館”. 大津市大河ドラマ﹁光る君へ﹂活用推進協議会. 2023年12月26日閲覧。
(18)^ 石山寺 2006, p. 25.
(19)^ 石山寺 2006, p. 61.
(20)^ “︻重要︼勅封秘仏御本尊 如意輪観世音菩薩 御開扉 期間延長について”. 石山寺公式ホームページ (2020年6月24日). 2020年7月1日閲覧。
(21)^ abcd平成20年12月2日文部科学省告示第172号
(22)^ 宇野茂樹 1978, p. 519-520.
(23)^ 宇野茂樹 1978, p. 519 - 520.
(24)^ 宇野茂樹 1978, p. 524 - 527.
(25)^ 宇野茂樹 1978, p. 524-527.
(26)^ 平成16年6月8日文部科学省告示第112号
参考文献[編集]
●石山寺﹃石山寺の古建築﹄石山寺、2006年。 ●宇野茂樹﹁王朝の美術﹂﹃新修大津市史﹄ 古代第一巻、大津市、1978年。関連文献[編集]
●朝日新聞社 編﹃週刊朝日百科日本の国宝‥滋賀/石山寺﹄78号、朝日新聞社、1998年、226-256頁。 ●野口, 武彦、鷲尾, 隆輝﹃古寺巡礼近江‥石山寺﹄ 2巻、淡交社、1980年。doi:10.11501/12220575。ISBN 9784473005083。 ●平凡社地方資料センター 編﹃滋賀県の地名﹄平凡社︿日本歴史地名大系﹀、1991年。ISBN 9784582490251。関連項目[編集]
●日本3名塔 - 石山寺・金剛三昧院・慈眼院 ●西国三十三所 ●石山 - 石山寺にちなんで大津市南西部の地域名となっている。 ●近江八景 ●地質・鉱物天然記念物一覧 ●日本の地質百選 ●石山寺縁起絵巻外部リンク[編集]
- 公式ウェブサイト
- 石山寺 - 滋賀・びわ湖観光情報
- 第十三番 石山寺:西国三十三所
- 石山寺 - 国指定文化財等データベース(文化庁)