田上明
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田上 明 | |
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プロフィール | |
リングネーム | 田上 明 |
本名 | 田上 明 |
ニックネーム |
ダイナミックT 不屈のプリンス |
身長 | 192cm |
体重 | 120kg |
誕生日 | 1961年5月8日(63歳) |
出身地 | 埼玉県秩父市 |
所属 | プロレスリング・ノア |
スポーツ歴 |
大相撲 柔道 |
トレーナー |
ジャイアント馬場 ジャンボ鶴田 ハル薗田 |
デビュー | 1988年1月2日 |
引退 | 2013年12月7日 |
田上 明︵たうえ あきら、1961年5月8日 - ︶は、日本の元男性プロレスラー、元大相撲力士、実業家、飲食店経営者。埼玉県秩父市出身。血液型A型。身長191cm、体重115kg[1]。大相撲力士 - プロレスラー時代は身長192cm、体重120kg。
力士時代は押尾川部屋所属で四股名は玉麒麟 安正︵たまきりん やすまさ︶。最高位は西十両6枚目︵1987年1月場所︶。得意技は右四つ、寄り、上手投げ。
全日本プロレスの運営会社・全日本プロ・レスリング株式会社の取締役、プロレスリング・ノアの運営会社・株式会社プロレスリング・ノアの代表取締役社長、事業を譲渡されたノア・グローバルエンタテインメントの相談役を歴任した[1]。
来歴[編集]
プロレスデビュー以前[編集]
建築業の長男で、秩父市立影森中学校時代は走り高跳び・砲丸投げ・野球︵投手や外野手︶・柔道など様々なスポーツで活躍した。卒業後は埼玉県立秩父農工高等学校の定時制に通いながら自動車整備の職に就いたが、相撲部顧問の熱心な勧めで﹁野球だと余程強いチームじゃないと全国大会に出られないけど、相撲だと出られる可能性が高いし、あちこちに行ける﹂と思って相撲部に入部し、2年生の時に全国高等学校相撲選手権大会で3位に入賞した。1年生の秋に押尾川部屋で合宿して勧誘されていて﹁高校だけは卒業したい﹂と断っていたが、熱心な勧誘と母の勧めで入門を決意し、3年生の3学期に入門した。1980年1月場所に本名の﹁田上﹂の四股名で初土俵を踏んだ。1986年5月場所に十両に昇進し、本名の田上から玉麒麟 安正︵たまきりん やすまさ︶と改名した。なお、下の名である安正は田上の高校時代の恩師の名に因む。新十両の場所は7勝8敗と負け越し、幕下へ陥落。四股名も本名の田上に戻している。しかし、1場所で十両に復帰してからは、四股名を再び玉麒麟と名乗っていた。 右四つの型に填れば抜群の力を発揮し、十両でも安定した成績を残し幕内昇進も期待されたが、師匠・押尾川親方︵元大関・大麒麟︶との確執もあり、3場所連続で負け越したあとの︵ちょうど同部屋・同年力士の益荒雄による、いわゆる﹁益荒雄旋風﹂の最中であった︶1987年7月場所前に廃業した[2]。 その後、知り合いだった落語家の三遊亭楽太郎︵6代目三遊亭円楽︶の勧めもあり、プロレスラーに転身した。楽太郎は天龍源一郎の中学時代の同級生で、その伝手で全日本プロレスの入団が決まったという[2]。 師匠との確執の末の大相撲廃業についてはプロレス引退後に﹁この部屋にいたくない、大麒麟を親方と呼びたくないっていう気持ちが強くて、その先のことなんか考えずに部屋を飛び出しちゃったよ﹂と語っており、プロレス転向については﹁相撲とプロレスはだいぶ違うけど、どっちも体を使って戦うわけだし、食い扶持がねぇから切羽詰まってプロレスラーになったんだよ﹂と説明していた[2]。ジャパンプロレス入団 - 全日本プロレス移籍[編集]
1987年8月、ジャパンプロレスに入団[注 1]。全日本プロレスで新弟子修行を行った。小橋建太が同期入団に当たる。 翌1988年1月に全日本へ正式に移籍し、1月2日にジャイアント馬場とのタッグでデビュー戦を行った。だが以降数年間は伸び悩む時期が続いた。ジャンボ鶴田のパートナーへの抜擢[編集]
1990年、メガネスーパーが資本元となる新団体SWSの旗揚げにより谷津嘉章を始め、多くの選手が全日本プロレスを離脱してしまう。田上もパートナー難に悩んでいたジャンボ鶴田からの要望により、当時所属していた超世代軍を離れて鶴田とタッグを組み超世代軍との抗争を展開する。大勝負の経験を積むうちにレスラーとして成長し、1992年3月4日には鶴田とのコンビで世界タッグ王座を獲得、トップレスラーの一人となった。この時期はシングル戦でも川田利明と抗争を展開した。聖鬼軍結成[編集]
鶴田が肝炎で第一線を退いた後は、超世代軍を離脱した川田とコンビを結成する。このコンビは﹁聖鬼軍﹂を名乗り、2000年に大量離脱・ノア発足で田上が全日本を退団するまでトップ戦線で活躍した。世界タッグ王座史上最多となる6度の載冠を果たしている。 1996年には、チャンピオン・カーニバル、三冠ヘビー級王座、世界タッグ王座、世界最強タッグ決定リーグ戦を全て制する活躍を見せた︵グランドスラム︶[3]。 1996年5月24日の三冠ヘビー級選手権試合において、シングルマッチで三沢光晴から初勝利をあげる。四天王の中では初の快挙となった。 その後も、川田とのタッグを中心にプロレス四天王の一員として三沢や小橋、スタン・ハンセンらと激闘を繰り広げた。しかし馬場が亡くなった1999年には、馬場没後初の三冠戦でベイダーとの王座決定戦を戦うが、敗れた。世界最強タッグ決定リーグ戦では川田の欠場もあり、ハンセンとのタッグで準優勝に終わる。 1999年5月に三沢が全日本社長に就任した新役員体制では、取締役に就いた。プロレスリング・ノア移籍[編集]
2000年に、田上は三沢らと全日本プロレスから離脱しプロレスリング・ノアに移籍。取締役に就任した。 ノアに移籍後は3度のGHCヘビー級王座挑戦のチャンスがありながら、ベルトを巻くチャンスが無かったが2005年9月18日の日本武道館大会で小橋とタッグを組み天龍、秋山準組と戦った一戦が大きな契機となり、2005年11月5日・日本武道館で行われた大会で王者・力皇猛に挑戦、田上も何発ものラリアットや必殺技﹁無双﹂を受けながらも必殺技﹁オレが田上﹂で力皇を下し、GHC初戴冠を果たした。 2008年1月にデビュー20周年を迎え、後楽園ホールで行われた田上の記念試合では後援関係者のほかに、亀山つとむ、ザ・グレート・カブキ、そして田上の愛娘がそれぞれリングに上がり、花束を贈呈した。プロレスリング・ノア社長就任[編集]
2009年7月6日、初代社長の三沢が試合中の事故により急逝したことに伴い、田上は第2代プロレスリング・ノア代表取締役社長に就任した。既にこの時点でノアは約2億円の負債を抱えた状態で、小橋が社長就任を断ったため田上に話が回ってきた経緯があり、三沢の妻や仲田龍らに頼み込まれて仕方なく引き受けたという[4]。つまり、ノアを存続させるために田上が負債4億円を背負い、自己破産せざるを得なくなってしまったのである[2]。 9月27日に日本武道館で行われた三沢の追悼興行で、田上は全日本の武藤敬司と社長タッグを結成したが小橋&高山善廣組に敗れた。10月には、大阪府立体育会館での三沢光晴追悼興行で川田との聖鬼軍タッグを9年4ヶ月ぶりに復活させ、秋山&KENTA組と対戦し勝利をおさめた。 2010年7月19日の秋田市セリオンプラザ大会では、川田に加え小川良成との聖鬼軍トリオでモハメド・ヨネ&金丸義信&平柳玄藩組から勝利をした。 2011年までは殆どの大会に出場していたが、2012年からはスポット参戦の形になっている。引退[編集]
2013年5月12日の会見で、12月にラストマッチを行い引退すると表明[5]。 12月7日の有明コロシアム大会にて田上の引退試合が行われ、歴代の付き人である平柳・森嶋猛・杉浦貴と組み天龍源一郎・藤波辰爾・井上雅央・志賀賢太郎組と対戦し﹁オレが田上﹂で井上からフォールを奪い、有終の美を飾った。試合後にはかつて四天王で活躍した小橋・川田もリングに上がり、田上の引退セレモニーを行った。引退後[編集]
引退後、田上はノアの社長業務に専念していたが、2016年11月1日にIT企業のエストビー︵のちのノア・グローバルエンタテインメント︶に対してノアの会社運営、プロレス興行及び関連する事業を譲渡した上で新会社の相談役に就任した[6]︵翌年2月に退任[1]︶。後に田上が語ったところによれば、事業譲渡時点でノア︵旧社︶は約4億円の負債を抱えており︵つまり田上社長になってから2億円負債が膨らんだ︶、さすがに限界を感じていたところに買収の話が来て﹁正直、ホッとしたね﹂という[4]。社長を退く際に個人資産もほとんど売り払って一文無しの状態となり、一時はヤマト運輸の集配所で深夜に仕分けのバイトをしていた[4]。 その傍らステーキ店経営について松永光弘に師事した後、茨城県つくば市にて﹁ステーキ居酒屋チャンプ﹂をオープン[注 2]。田上が自ら肉を捌いて調理し、店内で接客も行なっている[7]。田上は元々、釣りを趣味としていた関係上魚を捌くのがお手の物であり、肉の下処理もすんなりとマスターしたという[8]。 2018年3月、田上は自宅で倒れて救急搬送された際、胃から大量出血を発症したため病院での緊急の輸血措置を行って一命は取り留めたものの、病院での精密検査で胃がんと判明した。4月16日に胃の全摘出手術を受けた[1]。最初は胃潰瘍で入院したが、入院中に収取期の血圧が60、拡張期が40と極度の低血圧になり、家族全員が病院に呼び出される事態となった。田上は元々、不整脈であり血液の粘度を下げる薬を服用していたせいで血が止まらなくなったという[8]。 2023年10月、自伝﹃飄々と堂々と﹄(竹書房)を上梓[2]。人物・エピソード[編集]
![]() | このプロレスラーのエピソードに関する文献や情報源が必要です。(2009年7月) |
●通常はのんびりした言動や、試合運びが目立つものの、タイトルマッチや他団体レスラーとの試合になると突然活躍することから﹁田上火山﹂などと呼ばれる。
●愛称はタマさん︵相撲時代の四股名﹁玉麒麟﹂から︶。﹁ダイナミックT﹂とも呼ばれる。小橋はマスコミの前では田上のことを﹁A・T﹂と呼んだ。
●1999年世界最強タッグ決定リーグ決勝戦で、馬場の筆による油絵が前面に描かれている特製のガウンで登場した。その後はお蔵入りになっていたが、2005年12月4日に行われたGHCヘビー級王座初防衛戦で6年ぶりに着用した。このガウンは、そのタッグリーグ決勝戦と、GHC初防衛の試合の2回しか袖を通していない。
●大変な釣り好きでも有名である。ノアには本田多聞を始め釣り好きが多く、田上は﹁ノア・サーフクラブ﹂を結成。ノアの社長就任後しばらくしてからはその大好きな釣りも辞め、プライベートでは韓流映画を鑑賞することが多くなっている[9]。
●ハーレーダビッドソンに乗っている[注 3]。
●大相撲時代から大の稽古嫌いであり、大相撲時代の師匠である押尾川との確執も稽古嫌いに起因していたという。全日本プロレス入門時にも押尾川は、現役時代に同じ二所ノ関部屋に所属していた弟弟子の天龍に対して﹁今度そっちに田上ってのが行くけど、本当に稽古しねぇ奴だからな﹂と伝えており、田上の扱いに対して注意を促したとされている。また和田京平の著書によると、馬場が田上にトレーニングの為にとバーベルをプレゼントし、その後しばらくして田上の家を訪れたところ、父親がバーベルを上げている姿を見ていた息子が﹁お父さんがバーベルを上げたところを初めてみた﹂と口を滑らせてしまったという[10]。
●渕正信のことは﹁いい話がないなあ。嫌いじゃないけどよぉ﹂と話しており、一緒に焼肉を食べに行った時にミノやホルモンなど嫌いなものばかりを押し付けられたこと、ある女優にプレゼントを贈ったがお返しが来ないことを、ただ相手に気がないのだろうということに過ぎないのにも関わらず﹁どう思う、これ?﹂と相談されたことなど、現役時代に起こった厄介なエピソードを引退後に語っている[8]。
食に関するエピソード[編集]
●記者から﹁今は時効ということで﹂と断りを入れられながらも、幼少期は学校帰りにその辺の畑からキュウリやトマトをもぎってポケットに入れた塩をかけて食べるのが日常であったと語っている。夏場にその辺で採ってよく食べた桃が本人の記憶に残っている。子供の頃の思い出となった母の手料理はじゃが芋の天ぷら。父が猟で獲ったクマやマムシ、シカやウサギも食べたことがある[8]。 ●大相撲の新弟子時代は身長189cmに対して体重76kgと、身長を考えればむしろ一般人よりも痩せていた。そのため、1食に3合の米を食べて体を作った。作る方はというとすぐに関取に上がったのであまり担当していなかった。押尾川部屋のちゃんこは質素であったが、付け人として青葉城に帯同して焼肉に連れて行ってもらった時には、自分で食べるとしたら上野の安い焼肉屋しか行ったことなかった田上にとっては﹁雲の上﹂のような焼肉屋であった叙々苑などのようなところで食べさせてもらった。巡業で後援者の家に泊まった時には郷土のキンメダイやポンポン焼きをご馳走になった。九州に出かけた時に豚足を食べて以来、豚足が好物になった[8]。大相撲時代の主な成績[編集]
●通算成績‥193勝149敗7休 勝率.564 ●十両成績‥44勝46敗 勝率.489 ●現役在位‥46場所 ●十両在位‥7場所場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1980年 (昭和55年) |
(前相撲) | 東序ノ口14枚目 休場 0–0–7 |
(前相撲) | 東序ノ口30枚目 6–1 |
西序二段87枚目 6–1 |
西序二段22枚目 6–1 |
1981年 (昭和56年) |
東三段目59枚目 6–1 |
西三段目13枚目 2–5 |
東三段目37枚目 4–3 |
西三段目23枚目 3–4 |
東三段目34枚目 3–4 |
西三段目44枚目 5–2 |
1982年 (昭和57年) |
東三段目21枚目 4–3 |
東三段目10枚目 4–3 |
西幕下60枚目 4–3 |
東幕下48枚目 2–5 |
西三段目13枚目 6–1 |
東幕下40枚目 3–4 |
1983年 (昭和58年) |
西幕下49枚目 2–5 |
東三段目18枚目 3–4 |
西三段目36枚目 6–1 |
西幕下53枚目 5–2 |
西幕下33枚目 5–2 |
東幕下19枚目 3–4 |
1984年 (昭和59年) |
西幕下27枚目 5–2 |
東幕下14枚目 3–4 |
東幕下21枚目 2–5 |
西幕下40枚目 4–3 |
東幕下29枚目 3–4 |
西幕下43枚目 4–3 |
1985年 (昭和60年) |
西幕下30枚目 6–1 |
東幕下11枚目 2–5 |
西幕下32枚目 5–2 |
東幕下19枚目 3–4 |
東幕下26枚目 5–2 |
西幕下14枚目 5–2 |
1986年 (昭和61年) |
西幕下6枚目 5–2 |
東幕下2枚目 5–2 |
西十両12枚目 7–8 |
東幕下筆頭 4–3 |
東十両13枚目 9–6 |
西十両9枚目 8–7 |
1987年 (昭和62年) |
西十両6枚目 6–9 |
東十両10枚目 7–8 |
東十両11枚目 7–8 |
西十両13枚目 引退 0–0–0 |
x | x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
大相撲時代の改名歴[編集]
●田上 明︵たうえ あきら︶1980年1月場所-1986年3月場所 ●玉麒麟 安正︵たまきりん やすまさ︶1986年5月場所 ●田上 明︵たうえ あきら︶1986年7月場所 ●玉麒麟 安正︵たまきりん やすまさ︶1986年9月場所-1987年7月場所得意技[編集]
角界出身で有りながら大きなモーションから繰り出すバリエーション豊富の各種喉輪落としなど、パワフルな技をそこそこ使いこなす従来のプロレスにおける希に見るタイプのレスラーでもあった。その風貌からは、﹁田上火山﹂とも呼ばれている。フィニッシュ・ホールド[編集]
喉輪落とし 右手を相手の右脇を通して喉に当て、そのまま右手を高々と上げてマットに叩き付ける技。田上の代名詞で、田上が高身長でありパワーがあることから片腕一本で相手を持ち上げるこの技を可能としている。前述の俺が田上と秩父セメントは、この技を生かしたオリジナル技である。通常バージョンのほかにも、カウンター式や起き上がり小坊師式、雪崩式などもある。 コーナーポスト上の相手をマット上から相手を喉輪落としで捉え、約180度旋回してから決める大車輪喉輪落としや、エプロンサイドから場外に叩き付ける断崖喉輪地獄落としといったより強力なバージョンも開発している。断崖喉輪地獄落とし今では一般的となった断崖技の先駆者でもある。 コーナーポスト上からダイビング攻撃を繰り出した三沢の喉元をキャッチして、そのまま喉輪落としを決めたこともある︵捕獲式喉輪落とし︶。この時、三沢が試みた技は、師でかのジャイアント馬場からフォールを奪ったダイビング・ネックブリーカー・ドロップであり、当時は三沢の奥の手中の奥の手だったが、田上に破られた事から以降二度と使う事は無かった。 俺が田上 喉輪落としの派生技。アトミック・ドロップの体勢で相手を高々と持ち上げた後に喉輪落としでマットに叩き付ける技。重力との効果が相まって強烈なダメージを与える。この後、さらに起き上がりこぼし形式で喉輪落としを繰り出すこともある。 三沢の持つGHCヘビー級王座に照準を合わせ開発された技。当初、田上は﹁エメラルドフロート﹂と名づけたが三沢の必殺技エメラルド・フロウジョンのパクリであることから三沢からも抗議を受け、エメラルドフロート→ルビーフロージョン→秩父セメント︵三沢が命名︶→コンクリ固めと変化していき、最終的に王座挑戦前日に俺が田上に決定した。 技名についてインタビューされた時に(新技の名前は﹃俺が田上﹄だ)と技名と文末の﹁だ﹂を繋げて読んだため、技名を俺が田上だと間違えられることがあり、PS2ゲームKING OF COLOSSEUM II、コナミのBATTLE CLIMAXX!でも俺が田上だと誤表記されている。現在は田上の古巣でもある全日本プロレスの石川修司が、オレが修司と言う技でこれを受け継いでいる。 秩父セメント 喉輪落としの派生技。ブレーンバスターの体勢で真上に持ち上げた後、喉輪落としでマットに叩き付ける技。 小橋の持つGHCヘビー級王座に照準を合わせ開発された技。長身を生かした強力な技で、喉を押さえられているため受身が非常に取り辛い。なお、この技名はオレが田上の技名が未定であったときに三沢が名づけた名前であり、利用した形になっている。由来は、田上の出身地である秩父市から。 つくば薪割り 喉輪落としの派生技。ロープの反動を使った、喉輪落としと柔道の払巻込の複合技。巨漢レスラー対策に編み出された。2005年の森嶋猛とのGHCヘビー級選手権で初公開、3カウントを奪っている。 ダイナミックボム いわゆるジャンピング・パワーボム。ダイナミック・パワーボムとも呼ばれる。パワーボムの体勢で抱え上げ、ジャンプして開脚して尻餅をついて着地すると、同時に相手を前方に背面から叩き落とす。前屈みにした相手の腰を両腕でクラッチする際、大きく両腕を広げて技に入ることが多い。1995年に初披露以来、引退まで田上のここ一番の大技として使用しフィニッシュになることも多かった。 ダイナミック・キック 正面からのジャンピング式フロント・ハイキック。ダイナミック・ハイキックとも呼ばれる。顎に入った際の威力は強力で、フィニッシュになることもある。1996年のチャンピオン・カーニバル優勝戦では、この技から喉輪落としへとつないでスティーブ・ウィリアムスからピンフォールを奪った。 ダイビング・ダイナミック・キック コーナーポスト最上段より相手の顔面にダイナミック・キックをぶち込む。3Dキック︵大開脚ダイビング・ダイナミック・キックの略︶とも呼ばれる。ここ一番で見せ、全盛期にはフィニッシュになることもあった。投げ技[編集]
怪物ジャーマン・スープレックス 低空投げっ放し式ジャーマン・スープレックス。上背のある田上が投げるため、かけられた相手は高い位置から落とされる。1995年にダイナミック・ボムとともに披露。 かんぬきスープレックス︵ダブル・アームリスト・スープレックス︶ 向かい合った相手の両腕を自らの両脇に抱え込んで極める閂︵かんぬき︶の状態から後方へ90度捻りを加えて反り投げつける変形スープレックス。別名ダブル・アームリスト・スープレックス。 閂(かんぬき)の体勢からスープレックスに移るこの一連の技が試合中出ると大きく盛り上がる。 ギロチン・ホイップ トップロープのワイヤーの部分に喉元から落ちるようにして投げるボディスラム。拷問コブラツイスト同様、ジャンボ鶴田直伝。1990年前半〜半ばの超世代軍との抗争で多用した技。 DDT 試合中盤で決めることが多い。師である馬場の﹁ジャイアントDDT﹂に似たフォームで決める。ダイナミックDDTと呼ばれることもある。 パワーボム ダイナミック・ボムを披露するまでは、試合後半の大技として使用した。ダイナミック・ボム開発後は、試合前半〜中盤の繋ぎ技としてたまに使用する。 バックフリップ 若手時代の田上の決め技。その後、1990年代までは試合前半での繋ぎ技として度々使用された。 アームボンバー 1990年〜1992年ごろまで、田上がフィニッシュとしていた技。田上と同じ相撲出身の先輩でもある輪島大士が考案し、得意としていた。立っている相手の正面から相手の首に自身の片腕を巻き付け、その状態で相手を持ち上げると同時に相手の後方に浴びせ倒すように叩き落とす。初披露は1992年のチャンピオン・カーニバル公式戦の川田戦で、アーム・ボンバーを連発する中で喉輪状態でアーム・ボンバーを繰り出しさらにアーム・ボンバーを決めて勝利した。田上はその後、このときの喉輪状態でのアーム・ボンバーを元に喉輪落としを完成させた。喉輪落とし完成後はアーム・ボンバーの使用頻度は減り、翌1993年以降はほとんど見られなくなった。浴びせ倒し技[編集]
ジャンピング・ネックブリーカー・ドロップ 田上の師匠でもある馬場の技。馬場より直伝される。打ちつけ技[編集]
ココナッツ・クラッシュ 椰子の実割り。ジャイアント馬場の得意技を受け継いだ。立っている相手の頭部を両手で掴み、自身の片膝に当て、その状態のままその足を大きく振り上げて下ろすことで相手の頭部に衝撃を与える。 アトミック・ドロップ、アトミック・ホイップ 1990年前半〜半ばの超世代軍との抗争で多用した技。特に菊地毅など軽量選手には高く抱え上げ、一時静止した状態から決めた。打撃技[編集]
脳天唐竹割り 師である馬場の得意技を受け継いだもの。 八の字チョップ︵片手の時と両手の時があり︶ 他にも、突如として普段使わない技︵フライングクロスチョップ︶などをいきなり繰り出すこともある。 延髄斬り 田上が後家殺しと命名している独特のフォームの延髄斬り。普通は相手の横や後ろから蹴る技だが、田上の場合は相手の正面から足を回して蹴る。形やゆっくりとしたスピードは天龍のそれとほぼ同じである。高山によると、﹁軽く記憶がとぶぐらいの威力はあるけど、いつも序盤にやってくるから大丈夫なんだよね﹂とのこと。 相撲ラリアット、相撲タックル 相撲の立合い︵仕切り︶の態勢からランニングして決めるラリアット、およびショルダー・タックル。若手時代から1993年ごろまで、試合序盤〜中盤で見られた。締め技[編集]
閂 相手の両腕を自分の脇に挟み込み、上に力を加えて絞め上げる技。 拷問コブラツイスト ジャンボ鶴田直伝。1990年前半〜半ばの超世代軍との抗争で多用した技。押さえ込み技[編集]
喉輪式体固め 喉輪落としや俺が田上など喉輪落とし系の技を決め、そのまま喉輪を離さずに相手の上に馬乗りになってピンフォールする。試合記録では﹁体固め﹂とされる。GHCヘビー級選手権を奪取した試合や、引退試合のフィニッシュは、いずれも俺が田上からの喉輪式体固めだった。飛び技[編集]
トペ・スイシーダ 比較的オーソドックスな飛び技で、主に全日本時代に使用した。実況で﹁アキラ・スイシーダ﹂と呼ばれたことがある。タイトル歴[編集]
全日本プロレス ●第15代三冠ヘビー級王座︵防衛1回︶ ●第19代・第22代・第26代・第28代・第31代・第35代・第42代世界タッグ王座︵パートナーはジャンボ鶴田→川田利明が6回︶ 防衛回数は2回→2回→3回→0回→1回→4回→0回 ●第52代アジアタッグ王座︵防衛0回 パートナーは仲野信市︶ ●チャンピオン・カーニバル 優勝︵1996年︶ ●世界最強タッグ決定リーグ戦 優勝︵1996年・1997年︶[注 4] パートナーは川田利明 プロレスリング・ノア ●第8代 GHCヘビー級王座︵防衛1回︶ プロレス大賞 ●1992年度プロレス大賞 敢闘賞 ●1995年度プロレス大賞 年間最高試合賞︵6月9日日本武道館、世界タッグ選手権試合、川田利明&田上明vs三沢光晴&小橋健太︶ ●1995年度プロレス大賞 殊勲賞 ●1996年度プロレス大賞 敢闘賞 ●1997年度プロレス大賞 最優秀タッグチーム賞︵パートナーは川田利明︶ ●2014年度プロレス大賞 特別功労賞入場テーマ曲[編集]
●﹁Runner﹂︵爆風スランプ︶ ●﹁Eclipse﹂︵イングヴェイ・マルムスティーン︶ 元々川田が好きな曲であり、川田の勧めで採用したもの。 ●﹁THRUSTER﹂︵鈴木修︶ ●﹁仁義なき戦いのテーマ﹂︵津島利章︶ ●﹁Eclipse﹂︵現在はカバーバージョンを使用︶著書[編集]
●飄々と堂々と 田上明自伝︵竹書房、2023年10月︶ISBN 978-4801937390脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ これは当時、大相撲廃業後すぐに全日本入門を志願したことで(元横綱輪島大士の全日本入門もあり)、当時、全日本会長だったジャイアント馬場が角界の目を気にして取った暫定的な措置である。入団した1987年8月は既にジャパンの団体機能は崩壊しており、従って籍はジャパンに置いていたが、実質的には全日本所属選手だったということになる
- ^ かねてより田上の妻が経営していた居酒屋に、2017年6月からステーキメニューを追加・リニューアルオープンした。
- ^ 2000年11月にアミューズブックスより発売された「This Is NOAH!」においてハーレーに跨る田上の写真が掲載されている。
- ^ いずれも優勝決定戦で勝利
出典[編集]
(一)^ abcd“元プロレスラー田上明さん 胃がん&全摘手術でリハビリ中”. 日刊ゲンダイ (2018年8月27日). 2018年8月27日閲覧。
(二)^ abcde“プロレス四天王・田上明﹁食い扶持がねぇからプロレスラーになった﹂ | 俺のクランチ”. WANI BOOKS NewsCrunch︵ニュースクランチ︶ (2023年12月3日). 2024年2月11日閲覧。
(三)^ “︻全日本︼レジェンド川田利明さん&田上明さんが世界タッグ選手権立会人務める”. 日刊スポーツ (2022年9月18日). 2022年9月19日閲覧。
(四)^ abc借金4億円を背負った元プロレスラー・田上明のその後﹁ゼロになってホッとした部分もある﹂ - 日刊SPA!・2023年11月15日
(五)^ ﹁方舟新章﹂5月12日(日) 後楽園ホール大会 田上社長会見の模様 プロレスリング・ノア オフィシャルサイト
(六)^ プロレスリング・ノア新体制に関するご報告 プロレスリング・ノア公式サイト 2016年11月閲覧
(七)^ “必殺技は﹁オレが田上﹂元プロレスラー田上明さん つくばでステーキ店切り盛り”. 常陽リビング (2017年12月19日). 2018年6月4日閲覧。
(八)^ abcde︻レスラーめし︼ファンを熱狂させた﹁四天王プロレス﹂田上明 壮絶な闘病体験とステーキ屋の話︻鶴田と天龍︼ メシ通 2020-07-21 (2020年8月10日閲覧)
(九)^ 社長名鑑 株式会社プロレスリング・ノア
(十)^ 和田京平﹃人生は3つ数えてちょうどいい﹄︵メディアファクトリー︶
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 玉麒麟 安正 - 相撲レファレンス
- 田上明 (STEAK.IZAKAYA.CHAMP) - Facebook(ステーキ居酒屋チャンプ)
- ステーキ居酒屋チャンプ-公式HP
- ステーキ居酒屋チャンプ (@steakchanp) - X(旧Twitter)