言論統制
概要[編集]
言論統制は主に対国内に流布する利敵情報、例えば国家政策への批判、治安・風紀を乱す主義思想、国家機密、暴動・扇動などが、出版・報道・流布されないように調査や検閲を行い、必要に応じてこれらの情報を操作・管理・抑制することである。テレビ、新聞、ラジオ、映画、学校教育などが情報統制、世論操作に使われることが多く、インターネットの普及以降はインターネット上︵代表例‥SNS、ブログなど︶でも用いられていることがある[4]。 戦時下には、言論の自由、報道の自由をうたう民主主義国であっても少なからず言論統制を行う場合が多い。アメリカ大使館でも、アメリカ政府が1940年代末に﹁力による政府転覆(暴力革命)﹂の提唱や主張拡散、謀議を行った米国共産党の指導者を起訴している例を紹介している[5]。 戦前・戦中の日本では公権力による統制は受動的であり、都市部の官公吏、教員、会社員などに代表される投書階級(新中間層)や消費者市民といった民意が主体となって、逆に検閲当局に対して娯楽などの言論統制が甘いと批判・規制要求が度々見られた[6][7][8][9][10]。検閲官は職を去る際に﹁これからは検閲がなくなるので、今まで我々が制限していた以上の一般大衆の批判がまともに来る。だから勉強しなければ駄目ですよ﹂であった。実際に、テレビ番組や楽曲について、一部の声高層は新聞やテレビ局に抗議の投書やツイートをするが、多数の人が娯楽として享受している状況が珍しくない[10]。実例[編集]
民主主義国家とされる国でも、国家による言論統制が行われている、ないしは行われることがある。国家が言論統制に直接関与しなくても、与党の有力政治家が個人的に多くのメディア企業の経営権を掌握し、あるいはメディア経営者と結びつき、言論への影響力を及ぼすいわゆる汚職による場合がある[11]。 ドイツではヒトラーを礼讃したり、ナチスの意匠や出版物を流布すると民衆扇動罪︵ドイツ刑法第130条︶で違法とされている。これは﹁戦う民主主義﹂︵民主主義を否定することを認めない民主主義︶と呼ばれている。 アメリカなどの自由主義諸国でも戦時あるいは国家機密においては行政命令第12065号︵国家安全保障情報︶によりアメリカ合衆国情報安全保障監督局等による情報の機密化は当然のように行われる。 韓国では国家保安法により、法的に共産主義の宣伝や共産主義運動を支持する言論は禁止されている。日本[編集]
江戸時代の日本では出版には届出が必要であり、これに違反した者は罰せられた。例えば1855年に仮名垣魯文の﹃安政見聞誌﹄を出した版元と共著者の一筆庵英寿は手鎖となった︵ただし、魯文は無署名であったため筆禍を免れた︶。 明治以降の日本では出版法、新聞紙法などにより検閲が行われた。共産主義・無政府主義の宣伝・煽動、皇室批判、日本の植民地︵朝鮮・台湾など︶独立運動の煽動、人工妊娠中絶の方法の紹介などは禁止された。要塞地帯や軍港などの地理記述、写真なども発行禁止の対象となった。戦時体制下の日本では、出版法、新聞紙法、国家総動員法などをよりどころにした言論統制が情報局や特別高等警察を中心に行われた︵安寧秩序紊乱に関わる発禁命令権者は内務大臣︶。映画関連は観覧に供されるものが検閲の対象となり、1917年(大正6年)の「活動写眞興行取締規則」(警視庁令第12号)、1922年(大正11年)7月の警視庁令15号、1925年(大正14年)3月の内務省令10号を経て、内容以外にも、上映尺数の上限や上映期間が定められた。戦時体制下の1939年(昭和14年)には、より拘束力の強い「映画法」が制定され、国(軍)の意向に沿った作品づくり、製作本数、映画関係者全ての「技能審査」などが義務付けられ、脚本など、製作段階からの検閲も可能となった。
戦後は日本国憲法に言論の自由を保障すると明記されたが、プレスコードなどGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による言論統制・弾圧は占領解除まで行われた。
現在、日本では憲法上、言論の自由が保障されているが、報道機関の自主規制という形で「菊タブー」や「鶴タブー」など言論の禁忌(報道できないこと)が少なからずあり、また教科書検定や有害図書指定、わいせつ物頒布罪など事実上の検閲に近いという議論を抱える問題も存在している。
中華人民共和国[編集]
中華人民共和国において言論の自由は存在せず、反政府言論は厳しく取り締まられている。その後、「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」は日中国交正常化後の1973年に廃止され、その後に結ばれた「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」は報道を規制するような条項は含まれていない。そのため、この公文を以って報道機関の国外退去を求めることはできない。
そもそも「日中双方の新聞記者交換に関するメモ」およびその後の「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」は国家間での取りきめであり特定社が協定を結んだり結ばなかったりできるものではなく、実際に先述の産経新聞社も「日中両国政府間の記者交換に関する交換公文」に基づいて1998年(平成10年)に北京で中国総局を復活させている。
なお、諜報活動等の明確な敵対行為の発覚以外ではほとんど実行されたことはないものの、協定の有無に限らず全ての主権国家は記者の滞在許可を取り消し国外に追放することが可能である。
文化大革命の時期には外国メディアが次々と中国から追放され、日本の報道機関も容共的な朝日新聞を除きすべて追放された。その後、他の日本の報道各社も中華人民共和国への再入国を許された。
ネット検閲も激しく、Googleはこれに反発し、中華人民共和国から撤収した[17]。