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関白相論

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131585[1]2

相論発生以前

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71579

1015825使621582621

133101585494

発端

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1212

13[2]1351


近衛・二条の相論

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これを聞いた近衛信輔は、前官(前職大臣)の状態で関白となることを嫌い、在任わずか半年の二条昭実に関白を譲るように迫った。信輔は「近衛家では前官の関白の例はない」と主張して、左大臣を秀吉に譲る前に現職の大臣として関白に就任したい旨を正親町天皇に奏上した。これに対して、昭実は「二条家では初めて任命された関白が1年以内に辞めた例はない」と主張して信輔の理不尽な要求を退けるように訴えた。

天正13年の5月から6月にかけて、当時相論で行われていた「三問三答」と呼ばれる手続きに従い、信輔は4度(本来は3度であるが補足として4度目の意見書を出した)、昭実は3度意見書を提出して、互いに自己の主張の正当性と相手の主張の誤りを述べた。そして、最後には信輔が摂関家筆頭としての近衛家の立場を強調すれば、昭実も正平の一統後の混乱下での二条家による後光厳天皇擁立の功績を挙げるなど、議論は泥沼化の様相を見せ始めた。

これにより、朝廷内部は信輔派と昭実派の二派に分かれたものの、一見暴論でありながらも、予想外の事態で左大臣を失うことになるかもしれない信輔への同情は意外に強く、決着のつく見通しは立たなかった。

秀吉の関白就任

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退

81580



(一)

(二)1

(三)

(四)



137111585861000500

武家関白制

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991586102170016158817527158979 殿1229159023

191591[3][4][5]

700159231594殿1596[5]

38181598918516001015812071602

81603[6]1016056160121

1632114421191615

脚注

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  1. ^ 秀吉が豊臣の姓を授かるのは、この一件の翌年の天正14年9月9日1586年10月21日)であるため、当時の表記にあわせて賜姓以前については「羽柴秀吉」表記とする。
  2. ^ ただし本人直筆の記録には、右大臣を飛ばして内大臣から左大臣に就任したと記されている。
  3. ^ 『大日本史料』第11編之17・天正13年7月11日第1条「近衛文書」
  4. ^ 『駒井日記』文禄3年4月13日条
  5. ^ a b 山口和夫「統一政権成立と朝廷の近世化」(初出:『歴史学研究』716号(1998年)/所収:山口『近世日本政治史と朝廷』(吉川弘文館、2017年) ISBN 978-4-642-03480-7) 2017年、P30-31・52-53
  6. ^ ただし右大臣はこの年に辞任し、将軍職も2年後に秀忠に譲った後は、元和2年(1616年)の病死直前に太政大臣に任じられるまでは散位官の身分であった。

参考文献

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関連項目

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