東京オリンピックで女子バレーボールチームが﹁東洋の魔女﹂と呼ばれるようになったきっかけを探しています。ウィキペディア 東洋の魔女で検索した結果、詳しいことが書かれていましたが、それはいったいどのようにして分かったのですか?参考資料などがあれば教えてください。
- こんにちは。 http://www.eonet.ne.jp/~ginyu/17.htm に掲載されているような内容ではだめでしょうか?--211.128.85.139 2005年6月17日 (金) 14:40 (UTC)
﹁障害者福祉法﹂﹁××障害者福祉法﹂という言葉があります。このような障害という言葉は、いつごろから使われ始めたのか知りたいと思います。
障害者基本法など、法律における﹁障害﹂は、かつては﹁不具廃疾﹂﹁傷病﹂などと呼ばれていました。昭和57年、障害に関する用語の整理に関する法律により、これらが﹁障害﹂に改められました。これに伴い、厚生省の通知も出されています。ですから、現在のような形で﹁障害﹂の語が公的に使われるようになったのは1982年頃からと言えると思います。―sketch︵話/履︶ 2005年8月29日 (月) 15:51 (UTC)
障害という語は少なくとも1949年の身体障害者福祉法で使用されています。もともと﹁障害﹂の表記は昔は﹁障碍﹂と書かれていましたが、当時﹁碍﹂の文字が当用漢字の制限の関係で使えなくなったために新しく考えられたもののようです。1982年の障害に関する用語の整理に関する法律はあくまで一部の法律に残っていた﹁不具﹂等の差別的と感じられる用語の書き換えのための法律です。
1930年代の服装に興味があり、特に旅行などに行くとき服装、ドレスなどを調べたいのですが・・・
関係のある資料やサイト、何でもいいので教えてください!!
- 以下のサイトが参考になるかもしれません。実際に博物館に行って自分の目で見られることをお勧めします。--Kstigarbha 2005年9月28日 (水) 13:23 (UTC)
基本的に一日三食という生活スタイルができあがっていますが、いつ、誰が、何を基準にこの一日三食という基準を構築したのでしょうか?
お教えください。
江戸時代の末期ごろかららしいです。それまでは、一日二食が普通だったらしいです。一日に二食ではお腹がすいてしまうので、そこからおやつを食べる習慣が生まれたそうです。︵記憶が少しあいまいですみません・・・。少しでもお力になれればうれしいです。︶Tagaru2005年12月15日 (木) 2:47 (UTC)
室町時代後期から安土桃山時代あたりに広まったと記してあるものも多いですね。実際のところはどうなんでしょう? たらこ 2006年2月1日 (水) 11:10 (UTC)
晩年の徳川家康だったかな、病状を記した中に﹁朝夕も進まず﹂(朝餉、夕餉も食欲が無い)といった記述があったように思いますので、江戸期の初めは大名でも二食だったようです。経済が発展し、庶民も夜に菜種油などで照明を灯せる余裕が出来、暗くなってからも活動時間が増えたころから、二食では足りないということになってきたようです。
なるほどね。
とんちゃん2
カルト宗教が関わっている事件の年表(必ずしも年表でなくても良いです)を探しています。できましたら日本だけの事件だけではなく、世界各地で起きたもの、英語でのものが望ましいです。ご存知でしたら、よろしくおねがいします。
- 英語版ウィキペディアのカルト宗教(cult religion}のページにそれらしき物がありました。
健康保険の発祥について学習してます
歴史に明るい方 御教示頂きたくおねがいします
政府機関となる前の国内の起源や歴史について資料を探してます
発案者?、発祥の県、団体、年号、 などについてです
周りの人に尋ねますと、埼玉県、山梨県、福島県、など
多数の県がリストアップとなり信頼性も疑わしいので困惑してます
健康保険の法制化されるまでの経緯などについて明るい方
教えて下さい、おねがいします
こまこ
健康保険制度が始まったのは大正11年に健康保険法が制定されてからです。然し、関東大震災の後であり政府は財政難であった為全面的に実施されたのは昭和2年からでした。法の制定にあたっては外国の保険制度を参考にして作りました。ただ、現行の物とは違い対象は鉱山等の労働者で、年収1200円︵当時︶までの物に限られました。昭和13年に国民健康保険法が制定され現行の物に近づきました。ご質問の発祥の地についてですが、国民健康保険なら山形県戸沢村が発祥の地とされています。参照。同地は記念碑もあるようで戸沢村健康保険組合が国の認定第一号といいます。健康保険そのものについて発祥の地はわかりません。しかし、健康保険の前身は軍人恩給にあるといいます。明治8年に制定された軍人恩給は大正12年に恩給法が制定され仕組みが変わりました。同種の法律として明治7年の恤救規則が挙げられますが、江戸時代に徳川吉宗が作った小石川養生所参照こそが健康保険の原点だとする説もあります。海外の例については勉強不足なので全くわかりません。--代言人 2006年2月7日 (火) 11:14 (UTC)
次の年月日に起こったことを教えてください。(西暦)
- -1年12月31日
- 1年1月1日
- 7年7月7日
- 444年4月4日
- 777年7月7日
- 1111年11月11日
記録に残っている世界最古の地震は?
- 地震の年表をご覧下さい。---Redattore 2006年6月16日 (金) 15:03 (UTC)
社会の宿題で、桓武天皇に係わった重大事件 について詳しく調べなければなりません。図書館やインターネットでも調べましたが、桓武天皇が係わった重大事件がなかなかありません。困っています!!ご存知であれば教えてください。
桓武天皇といえば、平城京から長岡京、平安京に遷都したことで日本史上有名な天皇ですね。征夷大将軍坂上田村麻呂が蝦夷を討つために派遣されたときの天皇でもあります。﹁重大事件がなかなかない﹂というのが解せませんが……ネット上で検索してみると、[1]、[2]のサイトなどで詳しくまとめられていますよ。桓武天皇の事跡は、私自身よく知りませんが続日本紀に載っているので、色々図書館で調べたほういいと思います。--Charon 2006年8月15日 (火) 14:42 (UTC)
社会の宿題で﹁戦国時代の食文化について﹂を調べなければいけないのですが、インターネットや図書館を利用してもなかなか資料が集まらないのです。提出日も、もうすぐきてしまうのですごく困っています。検索ワードや文献でもかまいません。または戦国時代についてとてもくわしい人。教えていただけないでしょうか。
﹃日本の食文化﹄︵芳賀登、石川寛子監修、雄山閣、1998~︶という全集が出ているようです。検索のキーワードとしては、戦国時代よりも室町時代や安土桃山時代の方が適切でしょうね。︵そう言えば、講談社からクロニック戦国全史という事典が出ていたような︶--Kstigarbha 2006年8月25日 (金) 01:56 (UTC)
第2次世界大戦後、ドイツ共和国が、ユダヤ人たちや、ジプシーたちを死の収容所に送り込んだ歴史がありました。戦後、具体的に、この人たちに国として、どんな償い︵賠償金︶を国︵ポーランドなどに︶されたと思いますが、個人の一人ひとりにされたかを、誰か知りませんか?その点、残念ですが、日本は国にODAという形で援助して、それで、戦前の償いをしたと聞いています。誰か、教えてください。利用者:220.150.210.130 2006-09-05 20:06:53 (JST) ︵Redattoreによる署名の追加︶
English / français / español / deutsch??
I'm looking for information about a Japanese submarine from World War II and/ or its commander. The name of the submarine was supposedly either "A-12" or maybe "I-12", and its commander was lieutenant commander (Kaneo?) Kudo; the ship was probably sunk in 1944 or 1945, but that's not certain. I am trying to find out more about the submarine and its commander for the article on the ship Pamir in the German Wikipedia. Unfortunately I don't speak Japanese... :-( ... Please reply to me on my German wikipedia site: Ibn Battuta. Thanks so much for your help!!
Je cherche des informations sur un sous-marin japonais de la Seconde Guerre mondiale et/ ou son commandant. Le nom du sous-marin est probablement "A-12" ou peut-être "I-12", et son commandant était capitaine de corvette (Kaneo?) Kudo; le sous-marin était probablement coulé en 1944 ou 1945, mais ce n'est pas sûr. J'essaye de trouver des informations sur eux pour un article sur le bateau Pamir de la Wikipédia allemande. Malheureusement je ne parle pas japonais... :-( ... S'il te plaît répond-moi sur ma page de la Wikipédia allemande: Ibn Battuta. Merci beaucoup pour ton aide!!
Busco informaciones sobre un submarino japonés de la Segunda Guerra Mondial y/o su comandante. El nombre del submarino es probablemente "A-12" o quizás "I-12", y su comandante era capitán de corbeta (Kaneo?) Kudo; el submarino probablemente fue hundido en 1944 o 1945, pero no está seguro. Trato de encontrar más informaciones sobre ellos para un artículo sobre el barco Pamir en la Wikipedia alemana. Desafortunadamente no hablo japonés... :-( ... Por favor contéstame en mi página de la Wikipedia alemana: Ibn Battuta. Mil gracias por tu ayuda!!
Ich suche Informationen über ein japanisches U-Boot aus dem Zweiten Weltkrieg und/ oder seinen Kommandanten. Der Name des U-Boots ist wahrscheilnich entweder "A-12" oder vielleicht "I-12", und sein Kommandant war Korvettenkapitän (Kaneo?) Kudo; das U-Boot ist vermutlich 1944 oder 1945 versenkt worden, aber sicher ist das nicht. Ich versuche für den Artikel über das Schiff Pamir (deutsche Wikipedia) mehr über das U-Boot und seinen Kommandanten herauszufinden. Leider spreche ich nicht japanisch... :o( ... Bitte antworte mir auf meiner deutschen Wikipedia-Seite: Ibn Battuta. Ganz vielen Dank für Deine Hilfe!! --71.232.93.2 2006年12月1日 (金) 02:26 (UTC)
- The article which you look for is 伊号第一二潜水艦 (en:A2 type submarine)。The name of a commander is Kaneo Kudo (工藤兼男). As for this submarine, the news becomes unknown on January 5, 1945. ---Redattore 2006年12月1日 (金) 09:08 (UTC)(署名を追加)
ナチスドイツの時代、ナチはどうやってユダヤ人を識別したのでしょうか。顔を見てもわからないと思います。
もともとユダヤ人という定義はシオニストの間でもいくつか存在するのでナチスでもユダヤ人の判別は難しい課題でした︵ユダヤ人という項目もご覧ください︶。そこでナチスは婚姻記録などから三親等以内にユダヤ教徒が存在した人をユダヤ人と定義したとされています。そのためユダヤ人という自覚の無いまま収容所送りになった人たちも存在しました。またユダヤ教徒であれば割礼がなされているはずなのでそれも判断基準の一つとなったそうです。もともとユダヤ教徒と言ってもドイツ語を話しドイツに何代も住んでいる人々もいますので見分けるのが困難だったことは事実で、そうした判別の曖昧さの中で賄賂や手続き不備により迫害を逃れた人たちも存在します。--takranke 2007年5月15日 (火) 05:20 (UTC)
takranke様、ユダヤ人識別方法の回答有難うございます。ユダヤ教徒識別が鍵ですが、ドイツでは婚姻記録等の公文書に個人の宗教を記載していたのでしょうか?改宗すると役所に届け出たのでしょうか?当時すでに信教の自由もプライバシーの概念もあったと思います。婚姻届に宗教の記載義務があったとすれば異常な印象をうけますが。高塚。
あまり詳しいわけではないのですが、ヨーロッパの多くの国では東アジアのような戸籍制度は完備されていません。また敬虔な信者でなくても結婚式は神のもとで行われるのが当たり前だったので、婚姻記録はほとんどが教会によって維持・管理されてきました。改宗や洗礼も教会で行われますので、そうした記録は戸籍と同じ意味を持ちます。キリスト教の教会もユダヤ教の教会も一般的に婚姻の記録を残していました。ナチスは宗教を弾圧したとのことです。とくにシナゴーグは手ひどく破壊されたとのことなので、婚姻記録が略奪され資料とされたのではないでしょうか。キリスト教会の改宗記録もさかのぼればユダヤ教徒であったという証でしょう。あとは密告が横行したとされています。--takranke 2007年5月17日 (木) 05:45 (UTC)
たしか純系ドイツ人は自分の3代前までドイツ人であることを教会などの洗礼帳などを提出して証明しなければならないのではなかったかな。だから本当はユダヤ人が祖先にいるけど、記録をねつ造したりしてごまかす人も少なくなかったそうです。ただそう言う登録はユダヤ人弾圧が始まる前に行われたので、正直に申告した人も少なくなかったんだと記憶しています。信教やプライバシーはどの程度まで保証されていたか自信がないですが、今のような強力に尊重されるべき物とは考えられていなかったことは確かです。--222.3.93.77 2007年5月27日 (日) 12:38 (UTC)
ユダヤ法によれば、ユダヤ人とは、母親がユダヤ人か、もしくは司祭︵ラビ︶の指導者のもとでユダヤ教に改宗した人とされているんだそうです。カフカは﹁わたしはユダヤ系だがユダヤ人ではない﹂と言っています。グスタフ・マーラーも結婚問題でカトリックに改宗しています。イギリスの首相ディズレーリ︵D'israeli︶ は姓からして﹁イスラエルの﹂という意味ですから、もともとユダヤ系です。キリスト教に改宗したものの、ドレフュス事件に憤慨してユダヤ教に再改宗したマックス・ノルダウのような人もいます。ユダヤ教では家庭教育を重視しますが、母親がユダヤ教的な生活様式を子供に伝える重要な役目をになっているのだと思います。反ユダヤ主義やシオニズム、また無神論が出てくる以前のヨーロッパでは、キリスト教徒は日曜日に教会に通うのが当然だと思われていたでしょうから、教会に来ない人イコール異教徒つまりはユダヤ人の可能性が高い、ということだったんではないでしょうか。いずれにせよ、ユダヤ法の定義によれば、こんにち、イスラエル人ではあっても母がユダヤ人でないために、ユダヤ人と見なされない人も出てきているのだそうです。戸籍についてはTakrankeさんのおっしゃる通りで、戸籍の完備している国の方がむしろ世界では少数派です。日本と韓国くらいのものだと聞いたことがあります。--Greenland4 2007年5月27日 (日) 13:54 (UTC)
ナチがユダヤ教徒判別のためにシナゴーグにある婚姻洗礼等の記録文書を奪ったという事件があれば、歴史上の大事件︵ホロコーストの始まり︶として記録されると思います。そのような事件があったならいつだったのか。また当時の法律上の根拠があったのか、出典のある情報をお願いします。—以上の署名の無いコメントは、222.225.240.179︵会話/whois︶さんが[2007年5月29日 (火) 04:47]に投稿したものです。
こちらも基本的に上と同趣のお返事となりますが、ニュルンベルク法あたりが若干ご参考になるでしょうか。英語版のen:Nuremberg Lawsはもう少し詳しい記事となっておりますし、en:The_Holocaust#Development_and_executionもご参考になる点があるかもしれません。--Aotake 2007年5月29日 (火) 06:12 (UTC)
信仰の告白が重要な要素になりそうですが、Wikipediaに該当する記事はありませんねえ。ユダヤ教は参考になりそうです。ホロコーストはユダヤ人だけが対象にされたわけではない事は確認する価値がありそうです。法律上の根拠について、ホロコースト否認によると、命令文書類が一切存在しないということで、命令の不存在という事実を根拠にホロコーストの存在を否定する論拠としていますね。議論のあるテーマのようで軽々な結論を得るのは困難かと。--58.95.142.253 2007年5月31日 (木) 21:43 (UTC)
開戦の原因は米国による対日石油輸出禁止と思いますが、当時でも産油国は米国だけではないはずです。米国以外からの輸入を試みても石油が足りない場合、オランダ領の油田を占領すれば十分ではないでしょうか。米英世論は対日開戦に消極的だったと思います。当時の日本の指導者はなぜ油田占領またはオランダ領東インド占領に限定せず、対米英全面戦争に踏み切ったのでしょうか。
はっきりしませんが、やられる前にやった、ということのような気がします。蘭印まで進めばもはやアメリカは黙ってはいまい、どうせアメリカと戦争するならば奇襲以外に勝ち目は無い、ということです。インドネシアまでの航路の途中にフィリピン︵当時アメリカ領︶、マレーシア︵当時イギリス領︶があるので、物理的に難しいような気もしますが。それと、アメリカの世論は結構ころころ変わるので油断できません。--Mimboo 2007年5月22日 (火) 13:59 (UTC)
仮想敵国やオレンジ計画のページは参考になるかもしれません。﹁組織が意思決定をする﹂というのは﹁個人が状況を分析して意思決定をする﹂というのとは別のフィルターが作用するという視点については自由意志あるいは意思決定のページが参考になるかもしれません。﹁正解﹂の無い設問だと考えられますので、歴史認識や歴史観などを参照にしてみてはいかがでしょうか。--[[利用者
58.95.142.253|58.95.142.253]] 2007年5月31日 (木) 20:55 (UTC)
オランダ本国がドイツ軍に占領されたとき、米国は参戦しませんでした。フランス等欧州諸国がドイツ軍に占領され、英国が空襲されても米国は参戦しませんでした。米国が攻撃されない限り米国世論は大戦への参戦に反対だと思います。死の危険を望む人はいませんから。そうすると、日本がオランダ領東インドだけを占領した場合、英米からの開戦はなかったのではないかと思います。当時の日本の指導者が石油入手=日米戦争と考えた理由は何だったのでしょうか。出典明記の回答をお願いします。—以上の署名の無いコメントは、222.225.240.179︵会話/whois︶さんが[2007年5月29日 (火) 04:28]に投稿したものです。
こんにちは。まず大前提として、このページはウィキペディア内の記事へのご案内をするページですので、ご質問に直接回答がほしい場合は、ウィキペディア以外をご利用いただいた方がよいかと思います。その上で、ウィキペディア内の関連するページとしては、すでにご覧いただいていると思いますし、お知りになりたい情報がないかもしれませんが、第二次世界大戦、ハル・ノート、また英語版ですが、en:World_War_II#Cause_of_war_in_Asiaなどとなるかと思います。お知りになりたい情報がこれらのページにない場合、それぞれのノートページに、加筆の依頼をすることができますので、ご検討ください。またそれぞれに掲載されている参考文献ももしかすると参考になるかもしれません。︵回答をつける方も、ご自身のあいまいな知識で直接質問に回答するのはなるべく避けていただきたいと思います。︶--Aotake 2007年5月29日 (火) 06:12 (UTC)
昔の人の宇宙観、世界観で、この世界は3頭のゾウの背にのっている、とか、海洋の果ては巨大な滝になっているとか、いうものがあったと思うのですが、それらの一次資料はなんという文献でしょうか。こういうことをウィキペディアに書こうかと思うのですが、検証可能性という点で即時削除されそうで、躊躇されます。125.0.21.79 2007年5月22日 (火) 10:48 (UTC)
昔の人々の宇宙観や世界観は神話や伝説に依拠するものが多いのではないかと思います。ウィキポータル神話伝承を足がかりに辿ってみると何か見つかるかもしれません。英語版にはMythological cosmologies︵架空の世界観?︶というカテゴリーもあるんですね。そういえば、参考文献にはならないと思いますが、安野光雅著﹃天動説の絵本﹄︵福音館書店、1979年、ISBN 978-4834007510︶に﹁世界の果てが滝になっている伝説﹂が使われていたと記憶しています。--Ray go 2007年5月23日 (水) 12:40 (UTC)
そういう事を扱う学問を民俗学と言います。そちらも参考にしてみてはいかがでしょうか?︵民俗学の項は概要なので直接の参考にはならないでしょうが︶個人の空想などではなくて、資料に基づいて、あるいは学問的な視点からであれば歓迎されると思います。私がこないだ新規作成したオムファロスなんてのは検証可能性だけで言えば即時削除対象ですね。--222.3.93.77 2007年5月27日 (日) 12:43 (UTC)
出典といえるかどうかわかりませんが、古代ギリシアのへカタイオスの世界図が、ギリシアを中心として地中海世界を描いていて、陸地の周囲にはオケアノス︵Oceanの語源︶という海があったと信じられていたようです。その地図にはナイル川やティグリス川、ドナウ川などもあって、思いのほか詳しいとのことですが、地球の外縁は海、そのまた果ては水が滝のようにこぼれ落ちると考えられていたようです。これは確かに出典を出すのは難しいですね。地球球体説はトスカネリによって唱えられマゼラン一行によって証明されるわけですが、地球が平板で有限なものだとすると、そういう考えが出てきてもあまり不思議ではありません。もしかしたら、プトレマイオスとかアリストテレス、あるいはギリシア喜劇あたりなんかを調べれば﹁滝﹂に出会うかもしれません。また、大航海時代でも、だんだん南下していくと海水がどんどん温かくなって、ついには沸騰するとも思われていたようです。だから、大航海時代といえども南米やサハラ以南のアフリカへの探検や上陸は遅れたのだと聞いたことがあります。象については、インドの世界観でしょうね。バラモン教の聖典にあるかもしれません。おもしろいテーマですから、ぜひ調べて記事化していただくと嬉しいです。--Greenland4 2007年5月27日 (日) 13:17 (UTC)
考証に耐える一次資料というのなら、壁画や遺跡発掘物、甲骨文字上の暦など考古学的な考査を引けばいいと思います。科学史的に文献を挙げたいのなら、バビロニア→ユダヤ→旧約聖書、中国だと起源論の初出の歴史書は淮南子。ギリシャはソクラテス以前の存在論なども宇宙像に含めるかなどと資料が多すぎて複雑な問題になるでしょうね。放送大学教育振興会から﹃宇宙像の変遷と科学﹄という便利な本が出ています。参考文献もそこにまとまってますので、一度読んで見られてはいかがでしょう?
聖徳太子が隋の煬帝︵ようだい︶に送った有名な国書﹃日出ずるところの天子・・・﹄の件ですが、その事が何時頃になって、日本︵学者・僧侶・朝廷︶で知るようになったのか、凡そ西暦何年頃かお教え下さい。よろしく
質問のポイントがちょっとわかりにくいのですが、国書は日本から送ったものですから、日本は送った時から了解している内容だったと思いますが、そうではなく﹁知るようになった﹂というと、中国側の記録を知った時ということでしょうか。この国書の内容は﹃隋書﹄に記録されていまして、﹃隋書﹄は7世紀前半の成立で、遣唐使によって比較的すぐに日本にもたらされているはずです。ただし、これを実際に聖徳太子が送ったかどうかには現在では聖徳太子の実在を含めて異論があります。聖徳太子の項目がご参考になるかと思います。--Aotake 2007年8月4日 (土) 02:14 (UTC)
当時のロシアの首都はサンクトペテルブルグでした。首都に向かって進撃すればロシア皇帝との対決、殺傷、捕獲も可能であり、ロシアを屈服させる早道にもなったと思います。なぜナポレオン軍は首都ではないモスクワに進撃し占領したのでしょうか。07年7月26日、高塚
1812年ロシア戦役およびナポレオン戦争に関する日・英・仏版を調査してみましたが、明確な回答が記述されている版は見当たりませんでした。不思議なことですね。ナポレオンはサンクトペテルブルグに最後通牒を送致していることから、皇帝アレクサンドル1世がモスクワに居ないことは与件としていたと考えられます。つぎにロシアが焦土戦術を伝統としていたのは焦土作戦にあるように紀元前6世紀のスキタイの頃に先例がみられ、直近でも大北方戦争におけるスウェーデン王カール12世に対する戦術に見られ、フランス大陸軍がロシア側の意図を認識していた事は推測されます。ここからは全くの憶測ですが、Wikipediaの記事では他の一般的な分析のようにナポレオンが望んでモスクワに進軍したとの視点から記述されていますが、実際は決戦︵会戦︶を臨むナポレオンがロシア軍の巧妙な誘導に陥りスモレンスク、ボロディノへと誘導され、成行としてモスクワ入城に到ったのかもしれないですね。--125.205.6.149 2007年7月28日 (土) 12:58 (UTC)
兵士ライアンを帰国させるため、8人の部隊が組まれて彼を探すことになっていました。しかしライアンの所属部隊は健在でしたから、師団長・連隊長・大隊長・中隊長・小隊長という風に軍の命令系統を通して帰国命令を出すことができたはずです。この映画は実話が元になっているようです。実際には軍の命令系統を通じた帰国命令が出せなかったのでしょうか。--松ノ木07年8月4日
- プライベート・ライアンの記事に触れられていますが、確かにこの映画は「息子が一人を残して全員戦死した母親のために残った息子を帰還させる」という実話にヒントを得ていますが、台本、映像などには多々、史実に反する点があります。映画自体はフィクションです。(英語版のSaving Private Ryanにはもう少し詳しく説明されているかと思います。)--Aotake 2007年8月4日 (土) 02:14 (UTC)
2月にも書いてありますが、アウグストゥスの気まぐれで、8月を本来30日だったのを1日伸ばして31日にしたしわ寄せで2月があれだけ短くなったようです。--Lisa LiLee (Nightmare) 2007年8月10日 (金) 15:16 (UTC)
それだけではオーガスト以前から二月が短かった説明にならないですね。ローマは﹁縁起が悪い二月﹂から市民を護るために、﹁二月を短くする﹂という科学的対処?を施していたんですよ。典拠はアイザック・アジモフの科学エッセイから。LR 2007年8月10日 (金) 22:33 (UTC)
ローマ歴はもともと、3月が一年の始まりだったようです。その名残は英語にも残っていて"Sept"(7)が入ったSeptemberが9月で、"Oct"(8)が入ったOctoberが10月︵以下、11月・12月も同様︶なのは3月からカウントした月数とのことです。で、ユリウス歴より以前に色々な改暦があって12ヶ月に日数が割り当てられていくのですが、﹁一年最後の月﹂にしわ寄せを食らわせたということです。2月は縁起の悪い月だったので、しわ寄せを食らわせるのにも丁度よかったという説もあるようですね。ともかくもそういう経緯があって、ユリウス暦でも2月に端数を背負い込ませて閏年もそこで調整するようになったということのようです。一年の始まりが3月から1月に移動したのは、門の神様であるヤヌスの月︵英語で言うJanuary︶が一年の始まりに相応しいということで紀元前153年にそう決めてユリウス暦でも踏襲したとかいう話です。参考文献は永田久﹃暦と占いの科学﹄新潮選書1982です。12ヶ月に30日と31日を割り振ったややこしい経緯もそこに書かれています。--おーた 2007年8月14日 (火) 00:17 (UTC)
第一次世界大戦、第二次世界大戦という戦争の呼称は、いつ誰が命名したのでしょうか・--松ノ木07年8月13日
英語版Wikipediaの世界大戦の項目によるとWorldWarという術語が登場したのはドイツ語のWeltkrigの翻訳で、第一次大戦が起こる以前にすでに存在したとのこと。ドイツ語版によると1814年にFriedrich Ludwig JahnがBefreiungskriege︵邦訳解放戦争︶のなかで使用したのが初出とのこと。英語WorldWarは1909年4月のウエストミンスター紙に登場している︵オックスフォード英語辞典︶そうです。SecondWorldWarは1920年代に作られたそうです。1928年のケロッグブリアン協定の中にa second world warとの文字が見られるそうです。--60.47.104.60 2007年8月13日 (月) 06:43 (UTC)
一条信能は承久の乱で後鳥羽上皇の武将として参戦し美濃岩村で遠山氏に処刑されたとされています。その後、住民によりその霊を弔うために岩村神社が作られたといいます。しかし、その土地に無関係でしかも、その土地を治めた遠山氏の敵方の一条信能のために住民が岩村神社を作るでしょうか。実は上野国吾妻郡に逃亡した説を唱える友人がいます。ご存知の方がいれば教えてください。
フランス革命でバスチーユが占領され国王も後に拘束されますが。そもそも、バスチーユが占領された後に王の親衛隊や正規軍等で国王軍対民衆で徹底抗戦をなぜしなっかたのですか?
また、映画マリーアントアネットで見たのですが、バスチーユの後に捕まる前に国王が亡命する方法はなかったにのでしょうか?
オーストリアやイギリスの革命を認めない国は国王救出を名目に攻めましたが、途中で敗戦し撤退してますが。ナポレオンの時にはオーストリアも
他国も負けてもすぐに新手を送ったようになんでフランスにどんどん攻め込まないのでしょうか?
また、ナポレオンの後に帰って来た国王は亡命してどうしたのでしょうか?今もフランス国王王家は一応どこかに存在してるのでしょうか?—以上の署名の無いコメントは、60.37.191.109︵会話/whois︶さんが[2007年8月31日 (金) 01:02 (UTC)]に投稿したものです。
バスティーユ襲撃の項目によると、軍を集めていたにもかかわらず牢獄が陥落したために、国王側は武力鎮圧をあきらめたようです。もともと国王自身は武力行使に消極的ですし。
バスティーユ襲撃のあとすぐに革命派がフランスを制圧したわけではなく、強硬派の貴族も健在で、市民が飢えに苦しんでいても宮殿では豪華な食事が続けられていて、国王一家が軟禁されるヴェルサイユ行進の原因となったくらいですから、亡命しなければならない状況にすぐになったわけではないようです。
またフランス革命戦争の項目によると、フランスが徴兵制度を始めてかなりの兵力を確保したことが大きな勝因のようです。当時ヨーロッパでは傭兵が軍の主力で、それほど多くの兵力を抱えることはできなかったのです。
ちなみに現在フランス王位を主張しているのはアンジュー公爵家︵正統派、ルイ・ド・ブルボン参照︶とオルレアン家︵オルレアン派︶です。---辞典の虫 2007年9月1日 (土) 14:02 (UTC)
ルワンダの紛争が最終的にどうゆう結末になったのか教えてください。--60.62.100.67 2008年3月17日 (月) 10:10 (UTC)
- ルワンダ紛争--manjushage 2008年3月17日 (月) 10:12 (UTC)
昔のヨーロッパの位が載っているページを探しています。なかなか分かりやすいのが無いので。
--210.165.96.27 2008年4月20日 (日) 08:57 (UTC)
- 位というのは身分の爵位?それとも数字の桁のローマ数字?--ふふふ 2008年4月21日 (月) 01:02 (UTC)
大変お世話になっております。
1.千両は約八千万円とかいてありました。80 000 000 円︵80 Million︶と考えればいいですか。間違いなく現在の円とドルにしたいです。
2.吉原の面積は20 000 坪。ヨーロッパ式にしたら66.2キロメートルになりました。正ですか
外国人に教えたいので間違えたらもったいない
宜しくお願いします--118.86.148.179 2008年6月26日 (木) 11:18 (UTC)
(一)小判に書かれているように1両は10匁の金と交換可能であるという金本位制度で貨幣価値が定義されています。千両は37.5g * 1000 = 37500gの金と等価ということなので本日のニューヨーク市場の金相場レート(1 oz = 28.3495231 g = $894.30)からすると千両は$1,182,956.41[6]です。本日のドル日本為替レートからすると$1,182,956.41 * 107.650000 = 127,345,258円です。ただし金と他の物との相対価値が江戸時代も今日も変わらないという仮定を含みます。物価ベース︵購買価値評価、つまり千両で今日のいくら分の物が購入できるかという価値評価︶ではこの資料によると千両は米価格換算で約4000万円、大工の賃金で3億~4億円、そば代金で12億~13億円という試算もできるそうです。
(二)Wikipedia吉原遊郭には広さが書かれていないので外部サイトを引用すると6万8千平方メートル余だそうです。
--あら金 2008年6月26日 (木) 12:04 (UTC)
東条大将の三奸四愚とは誰が言い始めたのでしょうか。三奸四愚の内訳や、その評価の理由は知っています。--代言人(話/歴) 2008年8月14日 (木) 14:03 (UTC)
- オリンピック憲章(http://www.joc.or.jp/olympic/charter/pdf/olympiccharter2004.pdf)第5章「オリンピック競技大会」S.33-2によれば、各大会の開催日程決定はIOC理事会に委ねられています。IOC関連のドキュメントが
- http://www.olympic.org/uk/utilities/reports/index_uk.asp
- に公表されていますので、ここを探せば北京5輪の開催時期に関するIOCの公式見解が見つかるかもしれません。--おーた 2008年8月24日 (日) 11:55 (UTC)
連合国軍は、ノルウェー亡命政府が、レジスタンスを必死になって指導ことと、ナチスドイツが降伏したにもかかわらずノルウェーの解放になかなか、
取り組まずにいた。このことに対し、残存ノルウェー軍とノルウェー亡命政府は、イライラしていた。当のアメリカ、イギリス、フランスは、計画中だった。
--211.125.44.30 2008年10月13日 (月) 06:17 (UTC)
1940年ナチスドイツに侵攻され、占領され、ホーコン7世はロンドンに亡命し、ノルウェーの亡命政府をうちたてた。
ノルウェー亡命政府は、レジスタンスを指導した。
ところが1943年~連合国軍はドイツへの攻勢を開始し、1944年にはノルマンディー上陸作戦を行い西部戦線を開始する。
1943年イタリア本土へ、上陸した米英軍はイタリアを降伏させた。
1945年連合国軍はドイツをついに、降伏させた。
一方のノルウェーは、なかなか解放されずにいた。長年のレジスタンスも、1945年実を結ぶことになるそしてついにオスロは解放された。
--211.125.44.30 2008年10月14日 (火) 10:42 (UTC)
1940年ドイツは、北欧へ侵攻を開始した。デンマークは、被モデル占領国としてドイツの支配下に置かれた。
ノルウェーでもドイツと連合国軍の戦いが、始まった。しかしイギリス海軍がノルウェー沖でドイツ海軍に敗れるとノルウェーもドイツの支配下に置かれ、
ドイツ傀儡政権による統治がドイツ降伏まで続いた。ホーコン7世はイギリスロンドンに亡命した。
ノルウェー亡命政府はレジスタンス運動を指導した1945まで。—以上の署名の無いコメントは、211.125.44.30︵会話/whois︶さんが[2008年10月20日 (月) 01:56 (UTC)]に投稿したものです。
- ここはメモ置き場ではありません。加筆して欲しい内容についてはしかるべき項目のノートにお書きください。--Aotake 2008年10月20日 (月) 09:28 (UTC)
白系ロシア人とは何者ですか?--210.146.118.59 2009年12月5日 (土) 06:43 (UTC)
- 白系ロシア人の記事を参照ください。--おーた 2009年12月5日 (土) 09:33 (UTC)
--122.24.150.45 2010年4月17日 (土) 13:56 (UTC)
- 知りたいのは鎌倉幕府第三代将軍でしょうか? 鎌倉幕府の関連項目に鎌倉将軍一覧があります。さらに詳しく知りたい場合はその表のリンクを辿ってください。--アルビレオ 2010年4月17日 (土) 22:47 (UTC)
Hello, and please excuse me, i don't speak japanese. Would anyone be so kind and translate into english oder german what is written on the left side of this scroll (see en:He-gassen) Thank you very much. - 78.50.206.22 2012年3月9日 (金) 13:21 (UTC)
Hi, I think it is difficult task for Japanese speakers even native, becasue the caracters of the scroll are written in old style Japanese. I googled for a web copy in the readable form, but couldn't find out. Sorry. --Calvero︵会話︶ 2012年5月4日 (金) 13:27 (UTC)
私に読めるところでは
延寶八庚申のとし菱川 師信の古○○○○
写畫○○を古○ひ増補して製○ぬ
弘化三丙午のとし仲冬
福山画師
六十九翁 相覧
のようです。現代日本語にすると
延宝8年庚申の年に菱川師信の古画を写し補修した。
弘化3年丙午仲冬
福山画師
六十九翁 相覧︵村片相覧か︶ でしょうか。
I suppose what is written means﹃I copied and repaired old picture made by Hishikawa-Moronobu in Enpō 8(A.D. 1680). Kōka 3 Nov. (Dec 1846). Painter from Fukuyama. 69 old man, Souran.﹄--アルビレオ︵会話︶ 2012年5月5日 (土) 01:49 (UTC)
- 諸戸清六 (初代)には3項目しかないですね。残念ながら他のサイトにも見当たりません。--Triglav(会話) 2013年4月10日 (水) 21:48 (UTC)
飛脚によると西洋にも存在するそうですが、出典がないのでどういうものなのかリンクのあるロシア語版やウクライナ語版を確認するといきなり項目名に飛脚、ひきゃくと並記されていて拍子抜けしました。どちらも日本文化の記事のようです。日本語版にある飛脚#西洋の飛脚って何の情報なのでしょう?--Nasoyahi︵会話︶ 2017年1月25日 (水) 20:17 (UTC)
出典が明記されていないので、独自研究の可能性が強いかもしれません。ただ、ヨーロッパにおいても日本の﹁飛脚﹂と同じように、自分の足で荷物や手紙を運んだ人たちはいたと考えられています︵大学飛脚︵コトバンク︶︶。これを書こうとしたのかもしれませんが、﹁これです﹂というものは通常の検索でも見当たりません。考え方によっても様々な解釈がありますが、日本における﹁飛脚﹂は古代は馬による駅制から代わること鎌倉時代から江戸時代までの通信手段の一つとして発展するものの、明治期には飛脚は逓信省管轄の郵便制度へ移行していきます。要するに﹁飛脚﹂というものは日本で独自に発達した逓信形式と言える︵インカ帝国ではen:Chasquiというものがあったようですが︶ので、例えば大学飛脚というものが﹁西洋の飛脚﹂と銘打つほどの制度とは言い難い︵大学飛脚自体が学生が故郷に帰る際に手紙配達をついでに請け負ったことなので、生業としていたとは言えませんし、広い大陸では飛脚よりも馬による通信のほうが発達していたと考えられます︶かもしれません。--アルトクール︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 00:29 (UTC)
コメント ありがとうございます。コトバンクの大学飛脚の記述は見ていましたが、よく見ると世界大百科事典の﹁郵便﹂の項目を参照したもので郵便制度の歴史として解説されているようです。また、西洋の飛脚の節にあるペニー飛脚の英語版へのリンクはLondon Penny Postですが、その英語版の定義にはpostal systemとあるので郵便制度の説明ではないでしょうか。﹁ペニー飛脚﹂という言葉は日本語版の郵便にも見られますが、出典がなく、﹁ペニー飛脚﹂という訳を使っている情報源を知りたいです。
郵便の記事には飛脚との違いは明確でないと書いてありますが、そうなら﹁郵便の歴史﹂と﹁西洋の飛脚﹂の記述は何を基準に分けられるのか疑問が残ります。世界大百科事典でも﹁郵便﹂の項目で大学飛脚、都市飛脚、肉屋郵便など並列的に叙述して郵便制度の歴史を解説しているようであり、﹁飛脚﹂と付いている言葉だけを抽出して別個に解説するようなことはしていないようです。このほかの信頼できる情報源でどのように扱われているかも知りたいところです。--Nasoyahi︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 04:47 (UTC)
星名定雄﹃情報と通信の文化史﹄法政大学出版局、2006年に﹁中世ヨーロッパの成立と飛脚の台頭﹂ という章があるみたいです([7])。--伊佐坂安物︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 05:58 (UTC)
コメント 情報ありがとうございます。ずいぶん種類があって驚きです。情報通信史に関する文献で飛脚や郵便だけでなく古代の駅制なども一つの歴史にまとまっているようです。日本語版には伝馬、飛脚、郵便などの項目がありますが、どの地域のどの時代のシステムにどういう名前の項目が充てられるか、相互の関連の問題もあるので、考えると大変難しいように感じます。--Nasoyahi︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 07:08 (UTC)
言ってしまうと﹁飛脚﹂は日本における逓信制度の一つではありますが固有名詞が与えられた﹁一つで完結した事柄﹂なんですが、﹁西洋の飛脚﹂は日本の飛脚に近しい制度止まりなので、郵便で語られる逓信制度の一つ︵郵便を語るうえでは外せないが、固有名詞が与えられている事柄とは言い切れない︶ともいえます。法政大出版の本ではもしかすると﹁飛脚﹂に対応するような英単語があるかもしれませんが、そうでなければ﹁一つの制度﹂としては単独項目で解説できないかなとは思います︵これは、日本に西洋文化が入ってきて﹁レストラン﹂のような和製英語がつくられる以前の制度なので、﹁飛脚﹂に対応する英単語が存在しないのであれば、﹁飛脚﹂では扱えないという考え方です︶。近現代の郵便は﹁切手を貼って手紙を送ってもらうもの﹂ですが、郵便制度が未発達であったころは﹁料金を払って手紙を届けてもらうもの﹂全般が﹁郵便の歴史﹂に内包されるので、伝馬や飛脚も﹁郵便﹂の一部︵正しくは郵便を語るうえで外せない歴史の一部︶であったと考えることができます。--アルトクール︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 07:35 (UTC)
アルトクールさんの仰るとおり、私も﹁飛脚﹂の記事では日本の飛脚についてのみ扱った方が良いと思います。おそらく西洋の﹁飛脚﹂については騎士飛脚、大学飛脚、僧院飛脚のような記事で扱うのが適切だと思うのですが、残念ながら英語版等で対応する記事を見つけることはできませんでした。ちなみにこういう論文︵[8]︶があるようで、少しだけ大学飛脚等について扱われています。--伊佐坂安物︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 10:36 (UTC)
ロシア語版のru:Хикяку(=hikyaku)という記事は、日本の飛脚に関する記事なのですが、この記事の冒頭の﹁гонец﹂という単語は、手持ちのロシア語辞典では﹁飛脚,急使;告知者﹂とありました︵井桁貞義編 ﹃コンサイス露和辞典︵第5版︶﹄ 三省堂、2009年。p168︶。西洋にも、飛脚と訳せるような何か︵職業?制度?︶はあったかもしれません。︵また、もし記事を分離するならen:Post ridersあたりとリンクするのでしょうか?︶。よろしければ参考までに報告です。--ノフノフ︵会話︶ 2017年1月26日 (木) 10:55 (UTC)
情報ありがとうございます。﹁Post riders﹂には別の訳語もあるかもしれませんね。少し調べてみます。--伊佐坂安物︵会話︶ 2017年1月29日 (日) 08:07 (UTC)
結論としては、英語で言えば﹁Messenger﹂や﹁Post﹂にあたる単語に、その時々に応じて便宜的に﹁飛脚﹂という訳語を当てているという感じのようです︵﹁ペニー飛脚﹂という訳語は上の法政大学出版局の書籍で確認できました︶。タクシス家︵英語版︶による神聖ローマ帝国の郵便制度創設以前と以後で﹁飛脚﹂と﹁郵便﹂を訳語として使い分けているような事例もあるようですが、﹁西洋の飛脚﹂と言えるような制度があったわけではなさそうです。--伊佐坂安物︵会話︶ 2017年2月25日 (土) 12:16 (UTC)
--107.77.194.176 2018年4月18日 (水) 03:42 (UTC)
伽耶王朝の頃、文王様が中国に優秀で、技量の立つ孫家が宮大工として多くの建造物を残している事を聞き付け、自分の国に招いて厚く持て成し、多くの建造物を手掛けて頂いたと、聞いています。後に、その一族が慧慈と共々日本に渡り、南は九州から北は盛岡、弘前(青森)に至るまで一族の流れは途切れることなく続いて来たようです。来たようですとは、私の、ご先祖の初代から3代まで、*大工 孫十郎*と過去帳に刻まれており1600年代に本家から分家として別れております。おそらく本家は、400〜600年以上は続く宮大工である可能性があります。私、工藤家に、ご先祖は宮大工だったと言い伝えられており、10代を経た今でも付き合いのある本家では、大工を継続しております。それと、中国で孫氏を名乗っていた一族は、これまた、西の方から招かれて来た建築技術集団であるようだと、伽耶王朝の説明をしてくださった方は、申しておりました。
﹁ウィキペディアに記事がない﹂もしくは﹁記事はあるが書かれていない﹂といったお話でしょうか?もしそうであれば、今一度冒頭の﹁質問をする前に以下をお読みください。﹂をご参照ください(特に4)。ただ、個人的な言い伝えや伝聞は独自研究となりますので、もしその事について研究されている第三者がいらっしゃるなら、その方の記事なり論文なりを出典となさるといいかもしれません。--Hiroes︵会話︶ 2018年4月18日 (水) 08:45 (UTC)