パリ市の標語は﹁たゆたえども沈まず︵ラテン語: Fluctuat nec mergitur︵フランス語版︶, フランス語: il est battu par les flots mais ne sombre pas︶[8]であり、これはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで、水上商人組合の船乗りの言葉だったが、やがて戦乱、革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年のパリ同時多発テロ事件の直後、パリの街角に多数掲げられた[8][9]。
語源はParisii︵パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius﹁田舎者、乱暴者﹂︶で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。
欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語ではΠαρίσι︵パリーズィ︶、イタリア語で Parigi︵パリージ︶と発音される。フィンランド語で Pariisi︵パリースィ︶と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア︵・パリースィオールム︶Lutetia︵Parisiorum︶、 ﹁パリシイ族の、水の中の居住地﹂︵シテ島のこと︶とも呼ばれていた。
秋のパリ
西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖である。夏︵6月 - 8月︶は気温が15度から25度までの範囲で、冷涼で乾燥しており過ごしやすいが、年間数日程度は32度を超える暑さとなる。しかし、2003年夏には30度以上の気温が数週間も続き、40度近い気温が観測され1万人以上の死者を出した。春︵3月 - 5月︶と秋︵9月 - 10月︶は天候は不安定で、暖かい時期と寒い時期が同居し、10月でも真冬並みの寒さとなることもある。冬︵11 - 2月︶は、もともと高緯度で昼間の時間が短いうえ、曇りや雨の日が多いため日照時間が少ないが、降雪・積雪はあまり見られない。年間数日程度は気温が氷点下5度以下まで下がる。しかしながら近年の冬は寒さが厳しく、2009年 - 2010年の冬にはパリ郊外では気温が-10度から-20度前後まで下がっているなど、寒気の影響を受けやすくなっている。年間降水量は555.7mmであり、それほど多くはない。
パリの気象観測は中心部から離れた14区にあるモンスーリ公園で行われている。
パリ (1991–2020)の気候
|
月 |
1月 |
2月 |
3月 |
4月 |
5月 |
6月 |
7月 |
8月 |
9月 |
10月 |
11月 |
12月 |
年
|
最高気温記録 °C (°F)
|
16.1 (61)
|
21.4 (70.5)
|
25.7 (78.3)
|
30.2 (86.4)
|
34.8 (94.6)
|
37.6 (99.7)
|
42.6 (108.7)
|
39.5 (103.1)
|
36.2 (97.2)
|
28.9 (84)
|
21.6 (70.9)
|
17.1 (62.8)
|
42.6 (108.7)
|
平均最高気温 °C (°F)
|
7.9 (46.2)
|
9.2 (48.6)
|
13.3 (55.9)
|
17.3 (63.1)
|
20.8 (69.4)
|
24.0 (75.2)
|
26.4 (79.5)
|
26.3 (79.3)
|
22.1 (71.8)
|
16.9 (62.4)
|
11.5 (52.7)
|
8.4 (47.1)
|
17.0 (62.6)
|
日平均気温 °C (°F)
|
5.4 (41.7)
|
6.0 (42.8)
|
9.2 (48.6)
|
12.2 (54)
|
15.6 (60.1)
|
18.8 (65.8)
|
20.9 (69.6)
|
20.8 (69.4)
|
17.1 (62.8)
|
13.1 (55.6)
|
8.7 (47.7)
|
5.9 (42.6)
|
12.8 (55)
|
平均最低気温 °C (°F)
|
3.5 (38.3)
|
3.5 (38.3)
|
6.0 (42.8)
|
8.2 (46.8)
|
11.4 (52.5)
|
14.4 (57.9)
|
16.4 (61.5)
|
16.4 (61.5)
|
13.2 (55.8)
|
10.3 (50.5)
|
6.6 (43.9)
|
4.0 (39.2)
|
9.5 (49.1)
|
最低気温記録 °C (°F)
|
−19.0 (−2.2)
|
−6.8 (19.8)
|
−9.1 (15.6)
|
−3.5 (25.7)
|
−0.1 (31.8)
|
3.1 (37.6)
|
6.0 (42.8)
|
6.3 (43.3)
|
1.8 (35.2)
|
−3.1 (26.4)
|
−14.0 (6.8)
|
−23.9 (−11)
|
−23.9 (−11)
|
降水量 mm (inch)
|
41.0 (1.614)
|
36.1 (1.421)
|
38.7 (1.524)
|
41.9 (1.65)
|
59.7 (2.35)
|
44.1 (1.736)
|
55.7 (2.193)
|
52.1 (2.051)
|
39.6 (1.559)
|
48.9 (1.925)
|
46.0 (1.811)
|
51.9 (2.043)
|
555.7 (21.877)
|
出典:http://www.pogodaiklimat.ru/climate2/07156.htm
|
パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。
16区 - 17区につながるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18区 - 20区からつながる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており、近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単に﹁郊外︵バンリュー︶﹂という場合、こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。
パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり、近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラ・デファンス地区には﹁新凱旋門グランダルシュ﹂をはじめ高層ビル群が集中しており、多数の企業の支店を抱える新都心となっている。
セーヌ川
パリ市内を横断する川であり、パリのセーヌ河岸は世界遺産に登録されている。パリではセーヌ川の北部を右岸︵Rive Droite︶、南部を左岸︵Rive Gauche︶という。パリ市中心部にある川中島であるシテ島は、パリ市発祥の地である。シテ島の東にもうひとつサン・ルイ島という島がある。セーヌ川は重要な運路であり、パリ市内では観光船のほか運搬船も多く行き来する。パリ市東部郊外のごく近い場所でセーヌ川とマルヌ川が合流し、ベルシーからパリに入り、途中サン・ルイ島とシテ島を抜け、アンヴァリッドのあたりで南西に折れ曲がり、そのまま15区と16区を抜けていく。パリを抜けたあとは蛇行を繰り返し、ノルマンディー地方を経て大西洋へと流れていく。パリ市内には多くの橋がかかっており、歴史やいわくのある橋も多い。詳細はセーヌ川の項を参照。
ノートルダム大聖堂付近のパノラマ
ビエーヴル川
13区のトルビヤック地区やゴブラン地区には、セーヌ川の支流であるビエーヴル川という自然の川がかつて流れていた。エソンヌ県に端を発する小規模な川で、パリ市の直前で暗渠に入る。今はパリ市内では暗渠として完全に地下化してしまい、現在の一般の地図上でその存在を確認することはできないが、古地図などでその川の流れを見ることができる。かつてはこの川を利用してゴブラン織の染色が行われていた。国立手工芸製作所︵ゴブラン織り工場︶はこの川の上に存在する。現在、このビエーブル川の一部を暗渠から再び掘り返して親水公園にする計画が立ち上がっている。
サン・マルタン運河
ラ・ヴィレット公園内のウルク運河
サン・マルタン運河
パリ東部セーヌ右岸を南北に流れる運河。セーヌ川に面したサン・マルタン運河の出入口はアルスナル港という。ここからバスティーユ広場を経て、運河は地下水道となる。10区に入ったあたりで運河は地上に顔を出す。この辺りには水位を上下するための水門︵閘門︶がいくつかある。10区の運河沿いにはかつて革製品などの町工場が多く並んでいたが、今はそれらの工場は衰退しており、徐々に再開発の動きが進んでいる。最近は、景観を生かしてレストランが並ぶ。10区と19区の境にある地下鉄2号、5号、7号線のジョレス駅およびスタリングラッド駅付近にあるラ・ヴィレット運河まで出たところで、サン・マルタン運河の名称は終わる。今はサン・マルタン運河を走る運搬船はほとんどないが、観光船が走っている。
ウルク運河
サン・マルタン運河と一続きの運河だが、ラ・ヴィレット運河より以北はこの名称になる。パリ19区からパンタン市へ、さらに遠方のウルク川へとつながっている。メトロ5番は、終点、ボビニー=パブロ・ピカソ駅手前でこのウルク運河沿いの地上部を走る。ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐︵合流︶している。
サン・ドニ運河
ラ・ヴィレット公園の手前でサン・ドニ運河と分岐・合流している。パリ市内では19区のごく一部を流れる。パリ郊外のオーベルヴィリエ市、サン=ドニ市を経て、パリ北部で蛇行するセーヌ川下流と合流する。ウルク運河経由で水路をショートカットするためにつくられており、運搬船が頻繁に行き来している。
パンテオン
人口推移(1801年から2008年)
パリ都市圏の人口分布
パリ市の人口は2011年現在、約225万人で[注1]、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。
この間、郊外︵市域外︶の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、イル=ド=フランス地域圏︵パリ地域圏︶全体の人口は1,198万人にのぼる。パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出︵インナーシティ問題︶はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である︵バンリュー参照︶。
パリの人口の推移年 | 1801 | 1851 | 1881 | 1926 | 1999 | 2005 |
---|
人口 | 54万7800 | 105万3000 | 224万0000 | 287万1000 | 212万5946 | 215万4000 |
---|
パリはほかの大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22パーセント、人口数の40.7パーセントは1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27パーセント、カップルのみの世帯数の割合は19パーセントであった。パリ市では47パーセント︵フランス全体の平均は35パーセント︶の人々が独身で、37パーセント︵同50パーセント以上︶が結婚している。また片親世帯の割合が26パーセント︵同17パーセント︶と高い。離婚率ももっとも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7パーセントを占めている。
出生率は1,000人中14.8人であり、国平均の13.2パーセントより高い。一方、子供の数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子供は1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である[12]。
パリの地区毎の年間平均所得の分布[13]
18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である[14]。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である[15]。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。
パリへの大量の移民の第一波は1820年代、ドイツの農民が、農業危機とナポレオン・ボナパルトの侵攻にともなって移住してきたことによる。その後、今日に至るまで、何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人、1917年のロシア革命後はロシア人、第1次世界大戦中は植民地の国々から、大戦間期はポーランド人、1950年代から70年代はスペイン人、イタリア人、ポルトガル人、北アメリカ人、またアフリカ・アジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた[16]。移民の居住区域は、それぞれ出身地ごとに異なっている。
フランス革命後の地方自治制度では、パリ市はセーヌ県︵当初の名称はパリ県︶に属する一コミューンであり、同県の県庁所在地であった。当時の市域は現在より狭く、フェルミエー・ジェネローの城壁︵現在は、ほぼその跡に沿ってメトロ2号線・6号線が走っている︶の内側のみであった。当初は、48の地区に細分化されていたが、各地区を統合する形で12の行政区が設けられるに至った。
1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり、同時に新たな20の行政区が設けられた。これらの行政区は、1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。
1968年1月1日に完全施行された﹁パリ地域の再編に関する1964年7月10日法﹂による再編以降、セーヌ県が廃止され、パリは県とコミューンの地位を併せ持つこととなる。パリは、1860年のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。
1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。
﹁パリの地位と都市計画に関する2017年2月28日法﹂では、コミューンと県を統合する特別自治体を2019年1月1日に創設することが規定され、同日、パリは﹁パリ市﹂という特別自治体に移行した。
市内20の区︵arrondissement︶は、パリ市街地の1区から、右回りの渦巻状に番号がつけられている。1 - 4、8 - 12、16 - 20区は右岸に、5 - 7、13 - 15区は左岸に位置する。
夜のパリ市庁舎
この街の行政的地位は何度も変更されている。1871年3月26日から5月22日まで、パリには、蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなうパリ・コミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政は、この出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。彼らは、パリの行政権をセーヌ県知事︵préfet de la Seine︶に、パリの警察権を警視総監︵préfet de police︶にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方、市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は、毎年、主として代表者としての機能を有する﹁議長﹂を選出していた。すなわち、パリには市長がいなかった。また街の予算は、国の同意を得る必要があった。
1975年12月31日法︵1977年の市町村選挙の際に施行された︶は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。
パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。
2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある[26] (この予算は国家によって決められたものである︶。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。
パリの議会の活動は、パリ市が資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社︵SEM︶によっても実現される。
ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外のコミューンとの間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の県との間では、下水道組合︵SIAAP, Syndicat interdépartemental pour l’assainissement de l’agglomération parisienne︶の再編を行った。また、イル=ド=フランス交通組合︵STIF︶は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。
ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる中心市街のみを範囲とするパリの街については、その実際的な範囲を明確にする必要がある。上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである[27]。
現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の山手線内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要︵交通や住宅など︶に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。
- 歴代市長
初代市長はジャン=シルヴァン・バイイ(在任:1789年7月15日 - 1791年11月18日)。
1795年 - 1848年の2月革命まで、12の区に分割され各区にConseil municipal(議会)が置かれ自治が行われたため、パリ市長は置かれなくなった。1795年 - 1977年の間、わずかな例外(2月革命後の4人の市長)を除いて市長は置かれず、各区のConseil municipalの議長が実質上は市長のような務めを果たした[28]。1977年以降は「パリ市長」がパリ県知事(Préfet)とコミューンの首長の性格を併せ持っていた。2019年に県とコミューンを統合した特別自治体「パリ市」が誕生したため、パリ市長はその首長となった。
- 予算と税収
2011年の当初予算︵街および県としてのもの︶は約85億8,200万ユーロで、うち69億600万ユーロが行政活動に、16億7,600万ユーロが投資に充てられている[29]。債務残高は約26億9,600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる[30]。
パリ(1区)には、司法と行政それぞれの最高裁判所である破毀院と国務院(コンセイユ・デタ) に加え、憲法評議会(英語版)(憲法院)も置かれている。
セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。
イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側の﹁小さな王冠﹂︵セーヌ=サン=ドニ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県︶、さらにその外側の﹁大きな王冠﹂は、それぞれイル=ド=フランス地域圏内の全認知件犯罪のおおむね3分の1ずつが発生している。パリでみられる犯罪類型としては窃盗が大部分で、全重罪および軽罪の3分の2を占める。2006年には、25万5,238件が認知され、犯罪発生率としては人口1,000人あたり118.58件であった。これは、全国平均61.03‰の約2倍であるが、大都市のみに限ってみれば平均的な数値である︵リヨン109.22件、リール118.93件、ニース119.52件、マルセイユ120.62件︶。女性被告人の割合は15パーセントを下回り︵全国平均をわずかに下回る程度︶、未成年の割合は11.02パーセント︵全国平均18.33パーセントを7ポイント下回る︶である。他方、外国人︵有効な滞在許可証を所持しフランスに住居を有する者︶の割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである[34][35]。
パリでは、2008年の強姦事件数1,413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった[36]。身体的暴行に関しては、2万7,857件であった[37][38]。暴行を行うとの脅迫に関しては、2008年において、パリでは5,165件認知された[39]。2008年の財産犯︵窃盗、器物汚損、器物破壊︶に関して、ブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された[40]。
パリの中央集権主義はまた、この街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサン・ニケーズ街テロ事件や、最近では、RER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらは、この街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特に、ヴィジピラート計画︵Plan Vigipirate︶[41]の実施により、観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察、憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる[42]。
セーヌ右岸からみたオテル・デュー ・ド・パリ
数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く、医療の伝統は中世にまでさかのぼる。651年にパリ司教だった聖ランドリーによって設立されたシテ島のオテル・デューは、パリでもっとも古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり、12世紀まではパリで唯一の病院であった。
大部分の医療施設は、1849年1月10日法によって創設された公的医療施設であるAP-HP︵Assistance publique - Hôpitaux de Paris、公的支援-パリ病院連合︶に名を連ね、パリ市の後方支援をしている。地域圏およびパリの医療センターの役割も果たし、多くの医師や公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館は、かつて病院の施設として使用されていたが、現在はAP-HPの博物館となっており、パリの医療の歴史を想起させている。AP-HPのパリ市内主要病院としては、ネッケル小児病院、コシャン病院、サルペトリエール病院、サン・タントワーヌ病院、サン・ルイ病院、ビシャ=クロード・ベルナール病院、ジョルジュ・ポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。
他方、アンヴァリッド軍病院はAP-HPに属していないが、保健大臣の監督のもと国防大臣に権限が委任されており、退役軍人などの治療を行っている。同様に、国立アンヴァリッド研究所[43]では、現役および退役軍人︵その家族などの被保険者を含む︶などが医療看護や外科的治療を受けられる。
パリの近郊﹁小さな王冠﹂では、パリ東・クレテイユ・ヴァル=ド=マルヌ大学︵パリ第12大学︶附属アンリ・モンドール大学病院センター︵クレテイユ︶、パリ南大学附属クレムラン・ビセートル大学病院センター︵ル・クレムラン=ビセートル︶、ル・ランシー=モンフェルメイユ・コミューン連携医療センター、ボジョン病院︵クリシー︶が有名な医療機関である[44]。﹁大きな王冠﹂においても、AP-HPに属してはいないが、いくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえば、アルジャントゥイユのビクトル・デュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。
また、医療研究機関としては、1260年にルイ9世によってパリの視覚障害者救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の衛生部に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院、ベガン軍研究病院を挙げることができる。
さらに、ヌイイ=シュル=セーヌには、1906年に設立された社会保障非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。
パリは、フランス全土でも医師の密度がもっとも高い街のひとつである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5,840人を下らないが、セーヌ=サン=ドニ県とヴァル=ドワーズ県には両県を合わせても3,349人の一般医しかいない[45]。
パリでは、公衆衛生を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立入浴施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている[46]。
- テレビ局
- ラジオ局
- 姉妹都市
「ローマのみがパリにふさわしく、パリのみがローマにふさわしい」[47][48][49]
- 友好都市
ヨーロッパ的な街並みに対し、「○○のパリ」と異名がつけられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。
フランス最大の金融街ラ・デファンス
2011年パリ・コレクション(パリのファッション週間)。パリの商人たちは、商品を同業者らに一連のショーを使って見せては大量の売買契約を結び、同時にマスコミにもイメージを流す、という巧みなビジネス手法を発展させた
フランスにおける経済の中心地であり、世界屈指の経済都市でもある。2014年のパリ都市圏の総生産は6,798億ドルであり、東京都市圏、ニューヨーク都市圏、ロサンゼルス都市圏、ソウル都市圏、ロンドン都市圏に次ぐ世界6位の経済規模を有する[50]。
多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングでは、ロンドンとともにヨーロッパでトップクラスである。BNPパリバ、トタル、アクサなど世界有数の大企業の本社が所在しており、世界500大企業の本社数では、ニューヨークやロンドンを凌ぎ、西洋の都市では最多である[51]。
工芸品や贅沢品や服飾品などの、ビジネスの集積地でもある。
アンシャン・レジームの時代では、貴族は服をたった1着手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、次にその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人、と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず[52]、おまけに訪ねる店は︵現代からは想像もつかないような︶まるで倉庫のようなありさまで、価格の表示もなく、客は顔色をうかがわれてとんでもない高値を吹っかけられ、支払いも高利の掛け売りというありさまで、皆、服を手に入れることにうんざりしていた[52]。だがアンシャン・レジーム末期のパリに、新しい経営方法を導入した服飾品の小売業者やモード商人が登場した。それまで注文を受ける側であった商人が、主導権を握って王妃などに着る服を提案することを始めたのであり、王族を宣伝塔として巧みに利用し流行を意図的・恣意的に作りだし、貴族たちを煽って金儲けをするようになった[52]。19世紀にはさらにオートクチュール︵オーダーメイド服︶への道を開き、ファッションショーなどを開催し、メディアも活用し巧みにイメージを作りだし、新興の富裕層︵=ブルジョワジー︶の欲望を掻きたて金儲けを行った[52]。しかしオートクチュールのビジネスは20世紀後半には衰退し、現在では主としてプレタポルテを扱うようになった。ショーの華やかな見た目に惑わされている一般人には見えないが、ファッションウィーク期間中のパリというのは、デザイナー側とバイヤー側が直接に会してビジネス上の冷徹でしたたかな交渉が行われる商業︵ビジネス︶の空間でもある。
若い女性の中には、商人によって(金儲けのために)ビジネスのツールとして作りだされ、雑誌などの各種メディアで流されている虚像を本当の像だと信じ、その像に近づこうとパリにフワフワとやってきてしまう事例が言われている。日本の若い女性でも、パリに来てある期間その実態を自分の目で見るうちに、自分が虚像を信じていたにすぎないことに気づかされ、やがて鬱状態になったり責められているように感じ苦しんで帰国していく事例も指摘されている(→パリ症候群を参照のこと)。
各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社及びそれに類する事業所等を置く企業も含める。
- 企業本社等
|
- ファッション、ラグジュアリーブランド等
|
ソルボンヌ広場とソルボンヌのチャペル
パンテオン広場にあるパリ第1大学と第2大学
サン・ジャック通りのパリ第3大学校舎
パリ第7大学
12世紀以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎︵寄宿学校︶が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。
18世紀以降、いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され、現在のグランゼコールの起源となった。エコール・ポリテクニークおよび高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は、19世紀、法・医・薬・文・神・理の6学部に組織化された。20世紀、五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたが、ソルボンヌはその震源地となった。その結果、パリ大学は、それぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。
パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区︵5区、6区、13区︶に存在している。カルチエ・ラタンには、パリ・ソルボンヌ︵パリ第4︶大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。
また、ほかの高等教育機関もこの地区に存在する。パリ政治学院、パリ第1大学、パリ第2大学、ジュシュー・キャンパス︵Campus de Jussieu‥パリ第6大学とパリ地球物理研究所による複合研究施設︶、パリ第3大学、社会科学高等研究院、古文書学校、美術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学︵EPCI︶、応用美術研究所︵LISAA︶、パリ国立高等鉱業学校︵ENSMP︶、パリ高等化学学校︵Chimie ParisTech︶、生活工業・環境科学研究所︵AgroParisTech︶、パリ高等電子工学研究所︵ISEP︶、パリ企業経営学院︵IAE de Paris︶などである。なお、パリ第9大学、エコール・ポリテクニーク、エセック経済商科大学院大学などは、いずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がり、かつて5区にあったパリ第7大学は、フランス国立図書館が移転した13区において、複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。
1960年代以降、バンリューに大学が作られ始めたが、その先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが、特に広大な敷地を求めて、同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地には、パリ第9大学やグランゼコール︵HEC経営大学院は1964年、高等電子学校は1975年、エコール・ポリテクニークは1976年にそれぞれ移転してきた︶のほか、サクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。
パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブール︵家具修理︶、エコール・エティエンヌ︵グラフィック・アート。特に装丁︶が有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学である。園芸に関するものは、エコール・デュ・ブルーユである。
2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童・生徒数は、26万3,812人であった。うち13万5,570人が初等教育、12万8,242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童・生徒数は13万8,527人で、うち9万1,818人が契約に基づく就学であった。パリには、優先的教育地域︵ZEP︶または優先的教育組織︵REP︶の施設︵小学校214校、コレージュ32校。5人に1人の割合︶がある。
2007年現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校︵日本の5年生までに相当︶、6校が病院内学校、110校がコレージュ︵日本の小学6年生および中学生に相当︶、72校がリセ︵普通および科学技術とも含む︶、34校が職業リセおよび2校が公的実験リセである。他方、契約に基づき入学する私立学校は256校であり、うち110校が幼稚園・小学校・特別学校、67校がコレージュ、73校がリセ︵普通および科学技術︶および5校が職業リセであった。
中等教育については、5区にそれぞれ所在するリセ・ルイ=ル=グランやリセ・アンリ=キャトルが全国的かつ国際的にも有名である。
パリ=シャルル・ド・ゴール空港
オルリー空港
メトロ路線図
メトロ入口
- 地下鉄
市内にはメトロ(地下鉄)とRER(高速地下鉄)がくまなく走っている。
メトロは14号線まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。
- 路面電車
2006年にパリ市最南端でトラム(路面電車)が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。
パリ周辺の高速道路網(黄色がペリフェリック)
シャンゼリゼ通り
フォブール・サントノレ通り
サンジェルマン通り
パリ市内では道路混雑を避けるため自動車交通の抑制が目指されており、バス・自転車専用レーンが多く設置され、一方通行路も多くルートが複雑であるため、不慣れであると運転が難しい。また主要交差点の多くは、ラウンドアバウト︵ロータリー︶方式となっている。地元民の多くは、狭い市内で駐車場所を確保するために前後間隔を密着させて道路脇に縦列駐車を行っており、路上駐車が非常に多い。
パリ市域の外縁を環状高速道路ペリフェリックが取り巻いており、その内側の市域には立体交差式の自動車専用道はあるものの、高速道路は存在しない。
フランスの道路の原点を象徴する『ポワン・ゼロ』
シャンゼリゼ通り
凱旋門のあるエトワール広場とパリ中心部のコンコルド広場を結ぶ、パリでもっとも有名な目抜き通り。フランス一周自転車ロードレース﹁ツール・ド・フランス﹂はここが目的地となる。7月14日の革命記念日にはミリタリーパレードが行われる。
フォブール・サントノレ通り
有名ファッションブランドの洋服店などが並ぶ、パリ8区内をシャンゼリゼ通りと並行して走る通り。ロワイヤル通りを挟んでパリ1区内を走るサントノーレ通りと結ばれていく。
リヴォリ通り
ルーヴル宮北側に沿って市内最中心部を横断する道路。
サンタントワーヌ通り
リヴォリ通りとバスティーユを結ぶ、パリ中心部を横断する道路のひとつ。
フォブール・サンタントワーヌ通り
バスティーユとナシオン広場を結ぶ通り。
クール・ド・ヴァンセンヌ通り
ナシオンからパリ最東端ヴァンセンヌ門までを結ぶ目抜き通り。目抜きと言ってもシャンゼリゼ通りのようには栄えておらず市の外れではあるが、決して寂れてはおらずパリの東の玄関の品格を保った通りである。週2回、パリ最大規模の朝市が開かれる。
オペラ通り
ガルニエ宮︵オペラ座︶から、コメディ・フランセーズやルーヴル宮に向かって伸びる通り。高級洋服店やホテルなどが立ち並ぶが、付近は日本人街でもある。
グラン・ブールヴァール
1860年のオスマン公によるパリ大改造で生まれたブールバールのうち、メトロ8番と9番が走る9区 - 10区の南部沿いの通り、および3区 - 4区の東部沿いの通りを指す。
サンジェルマン大通り
サンジェルマン・デ・プレからカルチエ・ラタンを通る、左岸の代表的な通り。
ムフタール通り
パリ5区にある道路であり、多くのレストランや市場などが立ち並んでいる。
ヴォワ・エクスプレス
セーヌ河岸沿いの一部は、パリを横断する一方通行専用の高速バイパス道路﹁ヴォワ・ジョルジュ=ポンピドゥー﹂︵fr︶となっている。なお、日曜日の昼間時には歩行者・自転車用に開放され、自動車の通行ができなくなる。
ブルヴァール・デ・マレショー
パリ市内最外周部を囲んで走る道路のうち、一般道をまとめてこう呼ぶ。ティエールの城壁の後に作られたブルヴァール。ペリフェリックより少し内側に位置する。
ペリフェリック
パリ市内最外周部を囲んでいる環状高速道路で、現在はこれがパリ市の境界となっている︵ブローニュの森、ヴァンセンヌの森など一部の区間を除く。これらの区間は地下化されている︶。
「芸術の都」という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には欧州文化首都に選ばれた。
ガルニエ宮の内部。世界最古のバレエ団のバレエを観賞し、かつての王や貴族の生活に想いを馳せたり、シャガールの天井画を堪能したりすることができる
世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。
パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団「パリ国立オペラ」があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新オペラ座のオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。
6月21日のFête de la musique(音楽祭)(1er arrondissement、2008年)
パリは音楽都市のひとつである。シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。
パリには管弦楽団が多数あり、コンサートが頻繁に行われている︵一時期は世界一流のレベルだったが近年はいくらか厳しい評価も聞かれる︶。
毎年夏至の日6月21日にはFête de la musique︵音楽祭︶がフランス全土で開かれ、パリでもさまざまな場所で、ジャズやブルースなども含めてさまざまなジャンルの音楽の演奏が行われる。
パリ国立高等音楽・舞踊学校︵コンセルヴァトワール・ドゥ・パリ︶をはじめ、エコールノルマル音楽院、スコラ・カントルムなどがあり、世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってくる。
パリはガストロノミー︵食によるおもてなし、食文化、一流の料理作り︶の中心地でもあり、有名なレストランがいくつもあり︵ギッド・ミシュランでは三ツ星が例年10店前後︶、世界で最高レベルのシェフの料理を堪能することができる。またフランス料理を習得しようと若い料理人たちがそれら有名店で修行に励んでいる。料理競技会も開催されている。
(一)^ フランス語: [paʁi] (
音声ファイル)
(二)^ Pourquoi Paris a la forme d’un escargot ? (フランス語) Le Bonbon, Laura, 15/09/2016
(三)^ Montmartre
(四)^ “Read @Kearney: 2020 Global Cities Index: New priorities for a new world” (英語). at.kearney.com. 2021年1月30日閲覧。
(五)^ “世界の都市総合力ランキング︵GPCI-2023︶”. The Mori Memorial Foundation. 2024年4月15日閲覧。
(六)^ “The Global Financial Centres Index - Long Finance”. www.longfinance.net. 2021年9月30日閲覧。
(七)^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
(八)^ ab“« Fluctuat nec mergitur » : la devise de Paris devient un slogan de résistance” (フランス語). Le Monde.fr. (2015年11月15日). https://www.lemonde.fr/attaques-a-paris/article/2015/11/15/fluctuat-nec-mergitur-la-devise-de-paris-devient-un-slogan-de-resistance_4810301_4809495.html 2018年12月8日閲覧。
(九)^ “パリは﹁たゆたえども沈まず﹂︵Fluctuat nec mergitur)‥大野ゆり子 | 記事 | 新潮社 Foresight(フォーサイト) | 会員制国際情報サイト”. 新潮社 Foresight(フォーサイト). 2018年12月8日閲覧。
(十)^ Bulletin de l'Alliance des arts, 2e année, no 4, Paris, 10 août 1843, p. 6, et Journal des artistes, 17e, no 8, 20 août 1843.
(11)^ Yvan Christ, Paris des Utopies, Paris, Éditions Balland, 1977, p. 201。
なお、再建される前の最初の凱旋門は1716年に取り壊された。再建凱旋門も、第三共和政時代に﹁共和国の凱旋像﹂に置き換えられた。
(12)^ APUR - observatoire des familles à Paris : Les familles parisiennes パリ市・パリ市の世帯の状況︵フランス語︶
(13)^ INSEE - À Paris, les ménages les plus aisés voisins des plus modestes 国立統計経済研究所・パリにおける所得分布の高低︵フランス語︶
(14)^ INSEE - Flux d'immigration permanente par motif en 2003. 国立統計経済研究所・出生地に基づくパリの移民統計︵フランス語︶
(15)^ INSEE - Aire urbaine 99 : Paris - Migrations (caractère socio-économique selon le lieu de naissance). 国立統計経済研究所・2003年における移民の動向︵フランス語︶
(16)^ Histoire de l'immigration en France. フランスの移民の歴史︵フランス語︶
(17)^ Arch. du Crédit Lyonnais: Note de Mazerat à Letourneur, 8 août 1871, cit. Jean Bouvier, Le Crédit Lyonnais de 1863 à 1882: les années de formation d'une banque de dépôts, Paris, 1961, 2vols, t. 1, p. 408, note 1.
(18)^ Marie-Jeanne Dumont, Le logement social à Paris 1850-1930: Les Habitations à Bon Marché, Liege, 1991, pp.32-34.
(19)^ 実際の建設ではロスチャイルド財団とルボディ財団の意匠が利用された。
(20)^ 下川耿史 家庭総合研究会 編﹃明治・大正家庭史年表:1868-1925﹄河出書房新社、2000年、397頁。ISBN 4-309-22361-3。
(21)^ フランス政府、ツールへ移転﹃東京日日新聞﹄昭和15年6月12日︵﹃昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年﹄本編p372 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年︶
(22)^ パリ、非武装都市を宣言﹃東京朝日新聞﹄昭和15年6月14日︵﹃昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年﹄本編p372︶
(23)^ ドイツ軍、パリに無血入城︵﹃東京日日新聞﹄昭和15年6月15日夕刊︶﹃昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年﹄p372
(24)^ パリついに陥落、連合軍の手に﹃朝日新聞﹄昭和19年8月31日︵﹃昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年﹄本編p412︶
(25)^ 市民も蜂起、パリ全市で激戦﹃毎日新聞﹄昭和19年8月27日東京版︵﹃昭和ニュース事典第8巻 昭和17年/昭和20年﹄本編p412︶
(26)^ Paris Politiques> Statut et institutions de Paris> L’évolution du statut de Paris> Les récentes évolutions législatives
(27)^ Une histoire croisée de Paris et de ses banlieues.
(28)^ ﹁パリ市長の歴史をたどる﹂
(29)^ Budget 2011 de la ville et département de Paris
(30)^ Le budget primitif 2008 : état de la dette
(31)^ [1] Le tribunal de grande instance de Paris︵consulté 2013-04-07︶
(32)^ [2] La cour d'appel de Paris︵consulté 2013-04-07︶
(33)^ [3] La cour d'appel de Versailles︵consulté 2013-04-07︶
(34)^ La documentation Française - Criminalité et délinquance constatées en France - Tome I (Année 2006)
(35)^ La documentation Française - Criminalité et délinquance constatées en France - TomeⅡ(Année 2006)
(36)^ http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-sexuelles-2008.pdf
(37)^ http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-physiques-crapuleuses2008.pdf
(38)^ http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/violences-physiques-non-crapuleuses2008.pdf
(39)^ http://www.lefigaro.fr/assets/pdf/menaces-violence-2008.pdf
(40)^ http://www.lefigaro.fr/actualite-france/2009/04/16/01016-20090416ARTFIG00601-la-nouvelle-carte-de-france-de-l-insecurite-.php
(41)^ Le plan vigipirate expliqué sur le site du Ministère de l'intérieur
(42)^ Document expliquant le plan vigipirate en Île-de-France
(43)^ Site de l'Institution nationale des Invalides, sur invalides.fr. Consulté le 16 mai 2013.
(44)^ Carte des hôpitaux, sur aphp.fr. Consulté le 17 mai 2013.
(45)^ Ordre national des médecins - Démographie médicale
(46)^ Bains-douches municipaux de la ville de Paris, article du 16 septembre 2013, sur paris.fr, consulté le 16 septembre 2013.
(47)^ “Twinning with Rome”. 2010年5月27日閲覧。
(48)^ “Les pactes d'amitié et de coopération”. Mairie de Paris. 2007年10月14日閲覧。
(49)^ “International relations: Special partners”. Mairie de Paris. 2007年8月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月28日閲覧。
(50)^ Cities Rank Among the Top 100 Economic Powers in the World Chicago Council on Global Affairs 2016年10月28日閲覧。
(51)^ フォーチュン・グローバル500 2011年版︵英語︶
(52)^ abcd角田奈歩﹃パリの服飾品小売とモード商―1760-1830﹄
(53)^ パリの美術館所蔵の10万点以上のアート作品画像が無料取得、商用利用が可能に Kay-You, 2020.01.10