スペイン継承戦争
背景
フランスの野心
フランス王ルイ14世は領土拡大を目論み、たびたび戦争を起こしたが︵ネーデルラント継承戦争、仏蘭戦争、大同盟戦争︶、イングランド王兼オランダ総督ウィリアム3世を中心とする周辺諸国の反発を招き、小規模な目的しか達成出来ずにいた。 1697年に大同盟戦争を終結させたレイスウェイク条約で、フランスは領土をほとんど手に入れられなかったばかりか、相手側の要求を認めたため実質的な敗戦となったが、ルイ14世は姻戚関係にあるスペイン王位に目をつけていたため妥協した結果であった。スペイン王家の断絶直前
スペインの分割案
イングランド王ウィリアム3世は、1698年、ルイ14世に対して打開策を提案し、ハーグで第一次分割条約に合意した[2]。2人は、ホセ・フェルナンドを後継者とするが、ナポリとシチリアはルイ14世の息子ルイ王太子︵グラン・ドーファン︶へ、ミラノ公国はレオポルト1世の次男カール大公へ、それぞれ割譲される内容だった[2]。 スペインもホセ・フェルナンドを後継者とすることに合意し、アストゥリアス公に叙爵したが、領土の割譲は拒絶した[3]。しかし、そのホセ・フェルナンドが1699年2月に6歳で夭逝してしまう。この直後から、ルイ14世はスペイン問題に熱心に介入し、第二次分割条約として、カール大公にスペイン本国を継承させる代わりに、ルイ王太子にナポリ、シチリア、トスカーナ、ギプスコア、ロレーヌを割譲することで、イギリスやネーデルラント連邦共和国の同意を得た[4]。当のスペイン王国及び皇帝レオポルト1世は反発し、両者はスペイン所領の一括相続では一致したものの、カルロス2世の体調悪化は深刻であり、後継者を巡る各国の策謀の中、カルロス2世はルイ王太子の次男アンジュー公フィリップを遺言で後継者に指名して、1700年11月1日に崩御する[4]。 カルロス2世の遺言では、スペイン領の一括相続を前提としてアンジュー公フィリップに王位が継承されるが、これをルイ14世が拒否した場合は、カール大公が相続すると定められていた[5]。ルイ14世は、スペインの分割ではなく、カール大公のスペイン継承に伴いフランスがハプスブルク家に挟撃されることを回避するため、同年11月9日カルロス2世の遺言の支持を表明し[5]、アンジュー公フィリップがスペイン王フェリペ5世として即位した。 フィリップへの王位継承は、スペイン宮廷にフランス支持者を増やしたルイ14世の画策によるものであったとされる。カルロス2世は一括相続して戦争が起こる場合を見越して、フランスが諸国に対抗出来るだろうとの期待から選んだものであった。仏西の合同を脅威と感じていたにもかかわらず、ウィリアム3世はフェリペ5世の即位を容認した[6]。王位継承候補者の系図
候補者︵緑背景︶とスペイン王家︵赤背景︶との関連性のみを抜粋する。詳細な系図は、#系図の節を参照。カルロス2世崩御と対立の表面化
全般の経過
和平
各戦線の攻防
ネーデルラント方面
フランス軍は、ルイ14世がマクシミリアン2世と弟のケルン選帝侯兼リエージュ司教ヨーゼフ・クレメンス・フォン・バイエルンと結んでいたため、簡単にオランダ侵攻が出来る最前線にまで駐屯が可能となり、ルイ・フランソワ・ド・ブーフレールが率いるフランス軍はケルン選帝侯領でオランダを伺っていた。しかし、マールバラ公はフランス軍を上回る機動力でフランス軍の補給地点を脅かしたり、マース川流域とケルン選帝侯領を占領したため、フランス軍はネーデルラントへ撤退、居場所を無くしたヨーゼフ・クレメンスはフランスへ亡命した。1703年にヴィルロワ公フランソワ・ド・ヌフヴィルがフランス軍の指揮権を引き継いだが、マールバラ公に牽制され、アントウェルペンからナミュールまでの防衛線確保に手一杯だった[23]。 1704年には、ドイツでフランス・バイエルン連合軍がオーストリアに接近したとの報告を受けたマールバラ公がドイツ遠征を決意したが、前線のフランス軍を残したまま南下することを恐れたオランダに反対されることが分かっていたため、フランス軍とオランダを騙して南下するという賭けに出た。オランダにはアウウェルケルク卿ヘンドリック・ファン・ナッサウを残してバイエルンへ向かい、同じく南下したヴィルロワに対しては途中のライン川を渡河して交戦すると見せかけて牽制、400kmも進みドイツ南部でイタリアから赴任したオイゲンとバーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムと合流した。そしてドナウ川流域を占領しつつバイエルンを荒らし回り、ブレンハイムの戦いでフランス・バイエルン連合軍に大勝し、ドナウ川の脅威を取り除いてイギリスへ帰国した。この戦いの恩賞としてマールバラ公はアンからブレナム宮殿を与えられている[24][25]。 マールバラ公は1705年にも南下を目論んだが、ドイツからクロード・ルイ・エクトル・ド・ヴィラールが妨害したためネーデルラントへ引き上げ、ネーデルラントでも戦果を上げられなかった。しかし翌1706年にヴィルロワがルイ14世の命令で東進した所を迎え討ち、ラミイの戦いで大勝、余勢を駆ってネーデルラントを占領した。1707年にフランスのイタリア方面司令官だったヴァンドーム公ルイ・ジョゼフ・ド・ブルボンがヴィルロワの代わりにネーデルラントへ向かうと戦線は停滞、1708年にルイ14世の孫でフェリペ5世の兄でもあるブルゴーニュ公ルイの指揮下に入ったヴァンドームにネーデルラント西部を占領されるが、イタリアから北上したオイゲンと合流してアウデナールデの戦いで勝利、西部を奪還して北フランスの要塞都市リールも落としてフランスに脅威を与えた︵リール包囲戦︶[26][27]。 1709年に和睦交渉が決裂したため、マールバラ公・オイゲンは北フランスへ進撃、ブルゴーニュ公・ヴァンドームから交代したヴィラール率いるフランス軍が構築した防衛線を崩す戦略を取り、ヴィラールは防衛線堅持の方向で迎え討った。両者はマルプラケの戦いで激突、連合軍は勝利したがフランス軍の倍の大損害を受けたため、トゥルネーとモンスの陥落だけに終わった。また、長期化に伴いイギリスの厭戦気分が高まり、1710年にゴドルフィンが更迭、総選挙でホイッグ党に代わって政権を握ったハーレーとシンジョンらトーリー党政権は、和睦とマールバラ公の罷免に動き出した[28][29]。 マールバラ公ら同盟軍は1710年から1711年にかけてフランス防衛線を徐々に崩していったが、1711年にマールバラ公はトーリー党に罷免され、後任のオーモンド公ジェームズ・バトラーはフランス外相のトルシー侯と和睦交渉していたハーレーらの命令でフランス軍と戦わず、翌1712年にシンジョンとトルシーが単独講和を結んだため、イギリス軍を引き連れて帰国した。イギリス軍の離脱で同盟軍の戦力は低下、オイゲンとアルベマール伯アーノルド・ヴァン・ケッペルは同盟軍を率いて戦争を続けたが、ドゥナの戦いで敗北してアルベマールは捕らえられ、ヴィラールが戦線を持ち直したため交戦を断念、ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結で終戦となった[30]。ドイツ方面
フランスはドイツにも軍を送り、アルザスを拠点としてライン川流域︵ラインラント︶で東進を狙っていた。これに対して、バーデン辺境伯ルートヴィヒ・ヴィルヘルムが対岸でストラスブールからシュトルホーフェンに及ぶ防衛線を構築、フランス軍を待ち構えていた。1702年にヴィラールは、バイエルンで挙兵したマクシミリアン2世に呼応してライン川の渡河を決意、ライン川を南下して南岸のフリートリンゲンの戦いで皇帝軍に勝利したが、一旦ストラスブールへ引き上げ、翌1703年に再度南下してライン川を渡河、バイエルン軍に合流してオーストリアの首都ウィーンに迫る勢いだった。 しかし、方針を巡ってヴィラールとマクシミリアン2世が対立、ヴィラールはフランスへ召還され、タラール伯カミーユ・ドスタンとフェルディナン・ド・マルサンがヴィラールの後任としてドイツ方面を受け持ったが、1704年にブレンハイムの戦いでマールバラ公・オイゲン率いる同盟軍に大敗して、タラールは捕虜となり、マルサンはライン川へ後退してマクシミリアン2世はネーデルラントへ亡命、ドナウ川のフランス軍は消滅してライン川戦線も劣勢になった。1705年にライン川方面軍に復帰したヴィラールはマールバラ公の南下を阻止、ライン川戦線を立て直した[31]。 ヴィラールは翌1707年にルートヴィヒ・ヴィルヘルムが死去して、ライン川司令官となったバイロイト辺境伯クリスティアン・エルンストが守るシュトルホーフェンを攻撃、クリスティアン・エルンストが放棄したシュトルホーフェン防衛線を突破、バーデン・ヴュルテンベルクを略奪して回り大戦果を上げた。失態を演じたクリスティアン・エルンストは罷免され、ハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒ︵後のイギリス王ジョージ1世︶がライン川に向かうと、ヴィラールはアルザスへ引き上げた。 1708年、ヴィラールとライン川方面に向かったマクシミリアン2世が再度対立したため、ヴィラールは南フランスへ左遷され、スペイン方面で活躍していたベリック公ジェームズ・フィッツジェームズがスペインからライン川に転任してマクシミリアン2世の補佐を務めた後、ライン川北岸のコブレンツで兵を集めネーデルラントへ向かったオイゲンの後を追って北上、ネーデルラントでブルゴーニュ公・ヴァンドームと合流、アウデナールデの戦いで損害を受けたフランス軍の立て直しと同盟軍の迎撃に当たった。以後、ライン川戦線は進展が無いまま終戦を迎えることになる[32]。イタリア・南フランス方面
イタリアでは早くも1701年から戦闘が始まり、オイゲンを司令官とするオーストリア軍がイタリアへ向かった。対するフランスの将軍ニコラ・カティナは、北イタリアの守備を固めオーストリアに至る道路を封鎖していたが、オイゲンはヴェネツィアを通りイタリアへ進出、カルピの戦いでフランス軍を破り、戦線を西へ後退させた。カティナは降格され、ヴィルロワが司令官となったがキアーリの戦いで大損害を受け、1702年のクレモナの戦いで捕らえられるなど惨憺たる結果に終わり、ヴィルロワは解放された後はネーデルラントへ転任、カティナはライン川方面司令官を短期間務めた後に引退︵後任はヴィラール︶、ヴァンドームがイタリア方面を担当することになった。 オイゲンはルッザーラの戦いでヴァンドームに勝利して戦線を膠着させたが、オーストリアから援助を受けられないことと、ドイツがバイエルンの挙兵で危機に立たされたことから、1703年にオーストリアへ向かい軍事権を掌握した後に、ドイツでマールバラ公と共に戦った。オイゲン不在のオーストリア軍はグイード・フォン・シュターレンベルクが指揮を執ったがヴァンドームの前に苦戦、サヴォイアの大半を制圧された。1705年にオイゲンはイタリアへ戻ったが、ヴァンドームにカッサーノの戦いで敗北、戦局を覆せないままに終わった[33][34]。 翌1706年、オイゲンがオーストリアへの援助を求めてウィーンに滞在して不在の隙を突いたヴァンドームにより、オーストリア軍はカルチナートの戦いで連敗、トリノがフランス軍に包囲されるまでになったが、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世とオーストリアの将軍ヴィリッヒ・フォン・ダウンが抵抗して持ちこたえていた。オイゲンはトリノ救援に向かいイタリアを西進、フランス軍はラミイの戦いで大敗して更迭されたヴィルロワと交代してネーデルラントへ向かったヴァンドームに代わりマルサンとオルレアン公フィリップ2世が指揮官として派遣されたが、2人はオーストリア軍を迎え討つ方針を巡って対立、オイゲンは包囲軍の不備を突いてトリノの戦いで勝利、マルサンは戦死してフィリップ2世はフランスへ敗走、トリノ救援とミラノ奪還を果たした[35][36]。 1707年にオイゲンはミラノを完全に平定、ナポリもダウンが制圧して、イタリアはオーストリアの手に入った。次にオイゲンとヴィットーリオ・アメデーオ2世はフランス南部の港湾都市トゥーロンを包囲したが、フランスの将軍テッセ伯ルネ・ド・フルーレの防衛と包囲側の不備から奪取の見込みが無くなり撤退、包囲は失敗に終わった︵トゥーロン包囲戦︶。その後、南フランスは一進一退となり、オイゲンは1708年にイタリアからネーデルラントへ向かい、ダウンがイタリア担当となり、ヴィットーリオ・アメデーオ2世とダウンがフランス占領下のサヴォイアに攻め入ってはヴィラールやベリックに撃退されるという状況が終戦まで繰り返されていった[37][38]。スペイン方面
系図
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アンリ4世 フランス王 |
| マリー・ド・メディシス |
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| フェリペ3世 スペイン王 |
| マルガリータ |
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| フェルディナント2世 神聖ローマ皇帝 |
| マリア・アンナ |
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ルイ13世 フランス王 |
| アナ |
| イサベル |
| フェリペ4世 スペイン王 |
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| マリア・アナ |
| フェルディナント3世 神聖ローマ皇帝 |
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ルイ14世 フランス王 |
| マリア・テレサ |
| フィリップ1世 オルレアン公 |
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| マリアナ |
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| フィリップ・ヴィルヘルム プファルツ選帝侯 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| フェルディナント・マリア バイエルン選帝侯 |
| マリア・ルイサ |
| カルロス2世 スペイン王 |
| マリアナ |
| マルガリータ・テレサ |
| レオポルト1世 神聖ローマ皇帝 |
| エレオノーレ・マグダレーネ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ルイ (グラン・ドーファン) |
| マリア・アンナ |
| マクシミリアン2世エマヌエル バイエルン選帝侯 |
| マリア・アントニア |
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| ヨーゼフ1世 神聖ローマ皇帝 |
| カール6世 神聖ローマ皇帝 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ルイ ブルゴーニュ公 (プチ・ドーファン) |
| フェリペ5世 スペイン王 |
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| ヨーゼフ・フェルディナント アストゥリアス公 |
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- 凡例
- スペイン・ハプスブルク家の人物
その他
スペイン継承戦争が始まる前、イングランドでは1701年に王位継承法が制定された。それにより、同君連合に抵抗のあったスペインとは対照的に、ステュアート朝断絶後はドイツ(神聖ローマ帝国)の領邦で選帝侯の一員でもあるブラウンシュヴァイク=リューネブルクから新たに国王を迎え入れることを決定した。
同じく選帝侯のブランデンブルク辺境伯兼プロイセン公フリードリヒ3世も、戦争支援の約束と引き換えにレオポルト1世から王号を許され「プロイセンの王」フリードリヒ1世として即位、プロイセン王国が成立した。
ハノーファーとプロイセンは戦後に列強の一員となり、ヨーロッパの勢力を変えることになる[42]。
脚注
注釈
出典
- ^ a b c 金澤 1966 p.96
- ^ a b 金澤 1966 p.97
- ^ 金澤 1966 p.97-98
- ^ a b 金澤 1966 p.98
- ^ a b 金澤 1966 p.99
- ^ a b c 金澤 1966 p.100
- ^ 金澤 1966 p.100-101
- ^ 友清 2007 p.11-26,47-56
- ^ マッケイ 2010 p.61-67
- ^ 金澤 1966 p.102
- ^ 金澤 1966 p.101
- ^ a b 金澤 1966 p.103
- ^ a b 金澤 1966 p.107
- ^ 金澤 1966 p.108
- ^ 金澤 1966 p.109
- ^ 金澤 1966 p.110
- ^ 金澤 1966 p.111
- ^ 友清 2007 p.181-194,220-241,249-263,307-309
- ^ マッケイ 2010 p.137-164。
- ^ 友清 2007 p.P303-304,332-366
- ^ マッケイ 2010 p.165-192
- ^ 友清 2007 p.367-394
- ^ 友清 2007 p.24-26,56-70
- ^ 友清 2007 p.97-122
- ^ マッケイ 2010 p.94-110
- ^ 友清 2007 p.137-143,161-173,206,220-241
- ^ マッケイ 2010 p.137-151
- ^ 友清 2007 p.249-264,269-288
- ^ マッケイ 2010 p.152-168
- ^ 友清 2007 p.309-314,317-333,340-352,355-365
- ^ 友清 2007 p.88-95,100-122,137-139
- ^ 友清 2007 p.199-203,222,232-233,266,292,314
- ^ 友清 2007 p.85-88,94-106,144-145
- ^ マッケイ 2010 p.68-98,111-117
- ^ 友清 2007 p.161,175-177
- ^ マッケイ 2010 p.123-128
- ^ 友清 2007 p.195,204-205,244,266,292,314,353
- ^ マッケイ 2010 p.128-136
- ^ 友清 2007 p.73-76,123-126,153-159,177-180
- ^ 友清 2007 p.197-199,242-244,267,292-294,314-315
- ^ 友清 2007 p.353,362-366
- ^ 友清 2007 p.30-39
参考文献
- 金澤誠「スペイン継承戦争」『世界の戦史』第6巻、人物往来社、1966年11月18日、73-111頁、ASIN B000JBHB7A。
関連作品
ボードゲーム ●Joseph Miranda"Marlborough",Strategy & Tactics No.238,Decision Games,2006関連項目
外部リンク
- 歴史文書邦訳プロジェクト - ウェイバックマシン(2003年12月14日アーカイブ分)