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1年間の兵役を終えてパリに戻ったとき、すでにダダイスムの運動は終焉に向かっていた。主な原因はブルトンとツァラの対立、決裂であったが<ref>{{Cite book|title=Dada à Paris|url=http://books.openedition.org/editionscnrs/8824|publisher=CNRS Éditions|date=2016-06-20|location=Paris|isbn=978-2-271-09127-7|pages=280–304|language=fr|first=Michel|last=Sanouillet}}</ref>、一方で、ブルトン、[[ルイ・アラゴン]]、[[フィリップ・スーポー]]が1919年3月に創刊し、一時はダダイスムの機関誌でもあった文学雑誌(むしろ反文学雑誌)『[[リテラチュール]] (文学)』が次第にダダイスムから離れて新たな方向を模索し始めていた。デスノスは1922年9月の『リテラチュール』誌第4号から詩を発表し始め、1924年6月の最終号(第13号)まで毎回寄稿した。特筆すべきは同誌に[[マルセル・デュシャン]]が([[マン・レイ]]撮影のデュシャン[[女装]]肖像写真《プローズ・セラヴィ》で知られる)「[[ローズ・セラヴィ]](プローズ・セラヴィ)」の偽名で[[アフォリズム]]や[[言葉遊び|言葉遊戯]]の詩を書いていること、そしてデスノスがこれを受けて「プローズ・セラヴィ」と題するアフォリズムや言葉遊戯の詩を書いていることである。たとえば、「賢人(サージュ)の解決策(ソリュシオン)とは、(書物の)ページ(パージュ)を汚すこと(ポリュシオン)なのか (''La solution d’un sage est-elle la pollution d’un page ?'')」、「プローズ・セラヴィは知りたいと思う、愛・性行為(アムール)というこの[[ハエ取り紙]](コラムーシュ)は、柔らかい布団(モルクーシュ)を硬くするものなのかどうか (''Rrose Sélavy voudrait bien savoir si l’amour, cette colle à mouches, rend plus dures les molles couches.'')」などである<ref>{{Cite web|title=Rrose Sélavy|url=https://www.robertdesnos.com/rrose-selavy|website=robert-desnos|accessdate=2020-01-02|language=fr|publisher=Association des Amis de Robert Desnos}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Hans T. Siepe|editor=Henri Béhar|year=2010|title=Le Lecteur du surréalisme. Problèmes d’une esthétique de la communication|url=http://melusine-surrealisme.fr/henribehar/wp/wp-content/uploads/2014/10/6.-Siepe_BAT.pdf|journal=Melusine|volume=|page=|publisher=Association pour la recherche et l'étude du surréalisme|language=fr}}</ref>。 |
1年間の兵役を終えてパリに戻ったとき、すでにダダイスムの運動は終焉に向かっていた。主な原因はブルトンとツァラの対立、決裂であったが<ref>{{Cite book|title=Dada à Paris|url=http://books.openedition.org/editionscnrs/8824|publisher=CNRS Éditions|date=2016-06-20|location=Paris|isbn=978-2-271-09127-7|pages=280–304|language=fr|first=Michel|last=Sanouillet}}</ref>、一方で、ブルトン、[[ルイ・アラゴン]]、[[フィリップ・スーポー]]が1919年3月に創刊し、一時はダダイスムの機関誌でもあった文学雑誌(むしろ反文学雑誌)『[[リテラチュール]] (文学)』が次第にダダイスムから離れて新たな方向を模索し始めていた。デスノスは1922年9月の『リテラチュール』誌第4号から詩を発表し始め、1924年6月の最終号(第13号)まで毎回寄稿した。特筆すべきは同誌に[[マルセル・デュシャン]]が([[マン・レイ]]撮影のデュシャン[[女装]]肖像写真《プローズ・セラヴィ》で知られる)「[[ローズ・セラヴィ]](プローズ・セラヴィ)」の偽名で[[アフォリズム]]や[[言葉遊び|言葉遊戯]]の詩を書いていること、そしてデスノスがこれを受けて「プローズ・セラヴィ」と題するアフォリズムや言葉遊戯の詩を書いていることである。たとえば、「賢人(サージュ)の解決策(ソリュシオン)とは、(書物の)ページ(パージュ)を汚すこと(ポリュシオン)なのか (''La solution d’un sage est-elle la pollution d’un page ?'')」、「プローズ・セラヴィは知りたいと思う、愛・性行為(アムール)というこの[[ハエ取り紙]](コラムーシュ)は、柔らかい布団(モルクーシュ)を硬くするものなのかどうか (''Rrose Sélavy voudrait bien savoir si l’amour, cette colle à mouches, rend plus dures les molles couches.'')」などである<ref>{{Cite web|title=Rrose Sélavy|url=https://www.robertdesnos.com/rrose-selavy|website=robert-desnos|accessdate=2020-01-02|language=fr|publisher=Association des Amis de Robert Desnos}}</ref><ref>{{Cite journal|author=Hans T. Siepe|editor=Henri Béhar|year=2010|title=Le Lecteur du surréalisme. Problèmes d’une esthétique de la communication|url=http://melusine-surrealisme.fr/henribehar/wp/wp-content/uploads/2014/10/6.-Siepe_BAT.pdf|journal=Melusine|volume=|page=|publisher=Association pour la recherche et l'étude du surréalisme|language=fr}}</ref>。 |
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さらに重要なのは、1922年11月の﹃リテラチュール﹄誌第6号に﹁霊媒の登場﹂と題する報告書が掲載されたことである<ref>アンドレ・ブルトン著﹁霊媒の登場﹂[[巖谷國士|巌谷國士]]訳﹃[[現代詩手帖]]﹄(第14巻第8号、8-18頁、1971年8月、[[思潮社]])、および﹃アンドレ・ブルトン集成6﹄﹁失われた足跡﹂([[人文書院]]、1974年) 所収。</ref>。これは同年9月に行われた催眠実験の報告書で、デスノス、ペレ、[[ルネ・クルヴェル]]が被験者になり、催眠状態に入った3人が他の参加者の質問に答えるという[[霊媒]]実験を模した試みであった<ref>{{Cite journal|和書|author=泉谷安規| |
さらに重要なのは、1922年11月の﹃リテラチュール﹄誌第6号に﹁霊媒の登場﹂と題する報告書が掲載されたことである<ref>アンドレ・ブルトン著﹁霊媒の登場﹂[[巖谷國士|巌谷國士]]訳﹃[[現代詩手帖]]﹄(第14巻第8号、8-18頁、1971年8月、[[思潮社]])、および﹃アンドレ・ブルトン集成6﹄﹁失われた足跡﹂([[人文書院]]、1974年) 所収。</ref>。これは同年9月に行われた催眠実験の報告書で、デスノス、ペレ、[[ルネ・クルヴェル]]が被験者になり、催眠状態に入った3人が他の参加者の質問に答えるという[[霊媒]]実験を模した試みであった<ref>{{Cite journal|和書|author=泉谷安規 |date=2010-08 |url=https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/records/312 |title=アンドレ・ブルトン﹃通底器﹄における夢の記述の一読解の試み(Ⅰ) |journal=人文社会論叢. 人文科学篇 |ISSN=1344-6061 |publisher=弘前大学人文学部 |issue=24 |pages=1-12 |hdl=10129/3787 |CRID=1050282677515270400}}</ref>。ブルトンとスーポーはすでに1919年に[[ジークムント・フロイト|フロイト]]の[[自由連想法]]の影響を受けた[[自動記述]]、すなわち、[[理性]]に制御されない純粋な思考の表現を試み、翌1920年に自動記述による﹃磁場﹄を発表していた<ref>{{Cite web|和書|title=自動記述|url=https://kotobank.jp/word/%E8%87%AA%E5%8B%95%E8%A8%98%E8%BF%B0-840324|website=コトバンク|accessdate=2020-01-02|language=ja|publisher=}}</ref><ref>{{Cite web|title=Philippe Soupault|url=https://www.larousse.fr/encyclopedie/personnage/Soupault/144953|website=www.larousse.fr|accessdate=2020-01-02|language=fr|first=|last=|publisher=Éditions Larousse - Encyclopédie Larousse en ligne}}</ref>。デスノスは遅れて参加したとはいえ、自動記述、催眠実験、[[夢]]の記述などシュルレアリスムのあらゆる試みにおいて自由自在にとめどなく語り、詩を書き、素描を描いた。しかもそれらは音楽性のある表現であった<ref name=":1" />。ブルトンは、デスノスの﹁[[デペイズマン]]の力﹂を称え<ref>{{Cite web|title=Les Rayons et les ombres|url=http://www.gallimard.fr/Catalogue/GALLIMARD/Blanche/Les-Rayons-et-les-ombres|website=www.gallimard.fr|accessdate=2020-01-02|publisher=Éditions Gallimard|language=fr}}</ref>、﹁シュルレアリスムの預言者﹂であるとし<ref name=":4" />、シュルレアリストのなかでも﹁最もシュルレアリスムの真実に近づいた人間﹂だと評した<ref name=":0" />。
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﹃リテラチュール﹄誌が終刊となった1924年は、シュルレアリスムの運動が正式に発足した年である。[[パリ7区]]の{{仮リンク|グルネル通り|fr|Rue de Grenelle|label=}}にシュルレアリスム研究所が設立され、シュルレアリスム宣言が発表され、さらに同年末には文芸誌﹃[[シュルレアリスム革命]]﹄が創刊された。この運動の重要なテーマをすべて取り上げ<ref>{{Cite web|和書|title=︽シュルレアリスム革命︾|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%80%8B-1337840|website=コトバンク|accessdate=2020-01-02|language=ja|publisher=}}</ref>、ブルトン、アラゴン、スーポー、クルヴェル、ペレのほか、[[ポール・エリュアール]]、[[アントナン・アルトー]]、[[ミシェル・レリス]]、[[レーモン・クノー]]、{{仮リンク|ジャック・バロン|fr|Jacques Baron|label=}}、[[ピエール・ナヴィル]]らが主な寄稿者で、芸術家では[[マックス・エルンスト]]、[[アンドレ・マッソン]]、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]、[[ルネ・マグリット]]、[[フランシス・ピカビア]]、マン・レイ、デュシャンらが作品を掲載した<ref>{{Cite journal|author=|year=|date=1929-12-15|title=Table des douze premiers numéros|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k58451673|journal=La Révolution surréaliste|volume=12|page=|pages=77-80|language=fr}}</ref>。本誌は1929年12月15日の第12号をもって終刊となったが、デスノスは創刊号から第11号まで毎回寄稿し、その多くが﹃リテラチュール﹄誌掲載の詩と同様に言葉遊戯を駆使したユーモラスなものである。同誌掲載の詩は、[[巖谷國士]]編﹃シュルレアリスムの箱﹄所収の﹁亡霊の日記﹂を除いてほとんど邦訳されていないが、1927年に代表作の散文﹃自由か愛か﹄を発表し、1930年にはそれまで雑誌に発表した詩を﹃肉体と幸福﹄として出版した︵著書参照︶。
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﹃リテラチュール﹄誌が終刊となった1924年は、シュルレアリスムの運動が正式に発足した年である。[[パリ7区]]の{{仮リンク|グルネル通り|fr|Rue de Grenelle|label=}}にシュルレアリスム研究所が設立され、シュルレアリスム宣言が発表され、さらに同年末には文芸誌﹃[[シュルレアリスム革命]]﹄が創刊された。この運動の重要なテーマをすべて取り上げ<ref>{{Cite web|和書|title=︽シュルレアリスム革命︾|url=https://kotobank.jp/word/%E3%80%8A%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%A0%E9%9D%A9%E5%91%BD%E3%80%8B-1337840|website=コトバンク|accessdate=2020-01-02|language=ja|publisher=}}</ref>、ブルトン、アラゴン、スーポー、クルヴェル、ペレのほか、[[ポール・エリュアール]]、[[アントナン・アルトー]]、[[ミシェル・レリス]]、[[レーモン・クノー]]、{{仮リンク|ジャック・バロン|fr|Jacques Baron|label=}}、[[ピエール・ナヴィル]]らが主な寄稿者で、芸術家では[[マックス・エルンスト]]、[[アンドレ・マッソン]]、[[ジョルジョ・デ・キリコ]]、[[ルネ・マグリット]]、[[フランシス・ピカビア]]、マン・レイ、デュシャンらが作品を掲載した<ref>{{Cite journal|author=|year=|date=1929-12-15|title=Table des douze premiers numéros|url=https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k58451673|journal=La Révolution surréaliste|volume=12|page=|pages=77-80|language=fr}}</ref>。本誌は1929年12月15日の第12号をもって終刊となったが、デスノスは創刊号から第11号まで毎回寄稿し、その多くが﹃リテラチュール﹄誌掲載の詩と同様に言葉遊戯を駆使したユーモラスなものである。同誌掲載の詩は、[[巖谷國士]]編﹃シュルレアリスムの箱﹄所収の﹁亡霊の日記﹂を除いてほとんど邦訳されていないが、1927年に代表作の散文﹃自由か愛か﹄を発表し、1930年にはそれまで雑誌に発表した詩を﹃肉体と幸福﹄として出版した︵著書参照︶。
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2024年2月21日 (水) 07:18時点における版
ロベール・デスノス Robert Desnos | |
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![]() ロベール・デスノス(1924年) | |
ペンネーム | リュシアン・ガロワ、ピエール・アンディエ、ヴァランティン・ギロワ(地下出版) |
誕生 |
ロベール・ピエール・デスノス 1900年7月4日 ![]() |
死没 |
1945年6月8日(44歳没)![]() |
墓地 | モンパルナス墓地 |
職業 | 詩人、放送作家、音楽評論家、映画評論家、ジャーナリスト |
言語 | フランス語 |
国籍 |
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文学活動 | シュルレアリスム |
代表作 |
『自由か愛か』 『肉体と幸福』 『財産』 『エロティシズム』 「プローズ・セラヴィ」 「ファントマ大哀歌」 |
パートナー | ユキ・デスノス=フジタ |
影響を受けたもの
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生涯
背景
1900年7月4日、ロベール・ピエール・デスノスとしてパリ11区リシャール・ルノワール大通り32番地に生まれた[1]。ロベール・ピエールは音が﹁ロベスピエール﹂に通じるため、後のシュルレアリスムの催眠実験で﹁ロベスピエール﹂と何度も書き付けるなど、この革命家と﹁神秘的な結び付き﹂があると主張していた[2]。 デスノス一家はパリ2区レ・アール地区のサン・マルタン通り、次いで4区のロンバール通り、リヴォリ通りへ越したが、いずれも商人や職人が多く住むパリの下町で、父リュシアンはエミール・ゾラが﹁パリの胃袋﹂と呼んだ中央市場︵レ・アール︶の卸売業者で、2区の助役を務めていた[3][4][5]。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/Les_Halles-L%C3%A9on_Augustin_Lhermitte.jpg/270px-Les_Halles-L%C3%A9on_Augustin_Lhermitte.jpg)
象徴主義の影響
1919年からジャン・ド・ボンヌフォンに師事し、秘書を務めた。ボンヌフォンは、﹁反教権主義的カトリック教徒﹂を自称して政教分離を支持し、また、出版社を設立して複数の文学雑誌を主宰した人物である[4][5]。同年、前衛雑誌﹃トレデュニオン﹄に初めて数篇の詩を発表した。ギヨーム・アポリネールの影響が伺われる詩であった[7]。また、﹁文学、政治、芸術、ユーモア﹂を副題とする社会主義的な雑誌﹃トリビューヌ・デ・ジューヌ﹄[8] などにも発表し始めたが、デスノスの初期の詩は、アポリネールに限らず、ボードレール、ローラン・タイヤード、ジェルマン・ヌーヴォー、アルチュール・ランボーなどの高踏派、象徴主義の影響の強いものであった[3]。 第一次大戦後のパリでは新しい芸術・文学運動が次々と起こったが、なかでも重要なのは、既成の価値の破壊やブルジョア的な社会秩序の壊乱を目指すダダイスムの運動であり、アンドレ・ブルトンと1919年に活動の場をチューリッヒからパリに移したトリスタン・ツァラが中心的な役割を果たしていた。この頃出会ったほぼ同い年の詩人で、1920年にブルトンに出会ったばかりのバンジャマン・ペレ[9] を介して運動に参加しようとしたが叶わず、おまけに徴兵年齢に達していた。デスノスは兵役に服し、オート=マルヌ県ショーモンの部隊、次いでモロッコの部隊に配属された[3]。シュルレアリスム
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/RroseSelavy.jpg/180px-RroseSelavy.jpg)
ブロメ通りバル・ネーグル -﹁謎の女﹂イヴォンヌ
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c6/Yvonne_george.jpg/170px-Yvonne_george.jpg)
シュルレアリスム運動からの離反
一方で、上述の共産党入党をめぐってシュルレアリスム運動内に分裂が生じ、他方で、デスノスのジャーナリズム活動や彼の詩の叙情的な傾向がブルトンらに批判されたことから、デスノスは次第にシュルレアリスムから離れて行った。こうした分裂は、1929年にシュルレアリスムの政治的な立場を明確にした第二宣言が発表されたときに決定的なものとなり、デスノスのほか、アルトー、スーポー、レリス、マッソン、ピカビアが脱退した[31]。 1930年にはジョルジュ・バタイユを中心に元シュルレアリスト20人が参加して、ブルトンと彼を中心とするシュルレアリスムを批判する小冊子﹃死骸﹄が刊行された。20人のうち5人は、これもバタイユとトロカデロ民族学博物館︵現人類博物館︶の副館長ジョルジュ・アンリ・リヴィエールによって1929年4月に創刊された考古学、美術、民族誌学の学術雑誌﹃ドキュマン﹄の寄稿者であった[32][33][34]。ブルトン批判の﹃死骸﹄寄稿者、かつ、﹃ドキュマン﹄誌寄稿者であったシュルレアリスム離反者は、デスノス、レリスらである。とはいえ、デスノスは、この頃、民族学者としても活躍し始めていたレリスと違って、﹃ドキュマン﹄誌に頻繁に寄稿していたわけではない。しかも、同誌は早くも翌1930年に終刊となった。音楽・映画評論、庶民文化
デスノスは以後、音楽評論、映画評論を多く書くようになり、また、詩作は続けていたものの、その傾向は生まれ育った下町の文化や民衆言語への関心に基づく、より庶民的なものへと変わっていった[35]。 1928年のキューバ旅行は一つの転機とあった。ルンバのようなパリでは馴染みのない音楽︵リズム、音︶に惹かれ、また、アレホ・カルペンティエルと出会ったことで政治への関心を深めた。カルペンティエルは同年、フランスに亡命し、以後、活動を共にすることになる[36]。 デスノスが1926年から1927年にかけて書いた550行の長詩﹃愛なき夜ごとの夜﹄は、音楽的な要素の強い抒情詩であり、1930年にアンヴェールで刊行されたが、販売はせず、1942年の﹃財産﹄に収められることになるが、この詩の一部にイヴ・モンタンが曲を付けて歌っている[37]。また、アルテュール・オネゲルやアンリ・クリケ=プレイエルの映画音楽の歌詞も書いている。![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/Desnos_youki.jpg)
放送作家 -﹁ファントマ大哀歌﹂
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Plaque_Robert_Desnos%2C_19_rue_Mazarine%2C_Paris_6.jpg/210px-Plaque_Robert_Desnos%2C_19_rue_Mazarine%2C_Paris_6.jpg)
第二次大戦 - 対独レジスタンス
1939年9月に第二次大戦が勃発し、デスノスは動員された。1940年5月にドイツ軍がフランスに侵攻、6月22日には独仏休戦協定が締結され、パリを含むフランス北部はナチス・ドイツの占領下に置かれた。1942年11月に、ドイツ軍は南部のヴィシー政権下の自由地域への侵攻を開始。この間、デスノスはユキとともにパリに留まり、対独レジスタンスに参加した。ラジオ番組の制作を中断せざるを得なくなり、1940年9月にアンリ・ジャンソンによって創刊された﹃オージュルデュイ﹄紙の記者を務めたが、ジャンソンはヴィシー政権を批判し、ドイツ軍の反ユダヤ主義に抵抗して編集長を辞任[42]。ジャンソンの仕事を引き継いでしばらく記者活動を続けたが、やがて同紙を離れて地下活動に入った。ミシェル・オラール陸軍中佐が結成したレジスタンス・グループAGIR︵Réseau AGIR︶に参加し、地下出版の新聞に秘密情報を提供する役割を担い、また、ユダヤ人やレジスタンス運動家のために身分証明書を偽造する活動にも参加した[3]。 一方、詩作を再開し、30年代に書かれた詩を編纂した﹃財産﹄︵1942年︶、詩と歌や音楽を組み合わせたリフレインによる﹃覚醒状態﹄︵1943年︶、子供向けの﹃お話歌﹄︵1944年︶、隠語によるソネット﹃アンドロメダとの入浴﹄︵1944年︶などを刊行。さらに、1943年にはポール・エリュアールが編纂したレジスタンスの詩人22人の作品集﹃詩人たちの名誉﹄︵地下出版の深夜叢書から刊行︶に﹁遺産﹂、﹁戦争を憎む心﹂、翌年刊行された第2部﹁欧州編﹂には﹁シャンジュ橋の夜回り﹂︵堀口大學訳﹃デスノス詩集﹄所収︶などを偽名︵リュシアン・ガロワ、ピエール・アンディエ、ヴァランタン・ギロワ︶で発表した[43]。 1944年2月22日の朝、マザラン通りの自宅でゲシュタポに逮捕された。フレンヌ刑務所に収容された後、コンピエーニュ︵オワーズ県︶のロワイヤリュー収容所に移送され、4月27日に︵ユダヤ人を除く︶レジスタンス運動家専用の列車で[44]アウシュヴィッツ強制収容所、次いでブーヘンヴァルト強制収容所、さらにフロッセンビュルク強制収容所、最後に2週間に及ぶ死の行進の後、1945年4月14日にテレージエンシュタット強制収容所︵チェコスロバキア︶に到着した。収容所は5月9日にソ連赤軍によって解放されたが、衰弱しきってチフスを患っていたデスノスは、6月8日に死去した[45]。最期に立ち会ったのは、かつてパリで知り合った2人のチェコ人医学生であった[1][46]。享年44歳。モンパルナス墓地に眠る。 なお、死亡時に医学生の一人が死亡時に発見したという﹁最後の詩﹂は、没後作品集に収められ、フランシス・プーランクが作曲するなど[47]、一時は代表作の一つと見なされたが、実際には上述のイヴォンヌに捧げた﹁あまりにきみを夢見たので﹂の最後の部分と酷似しており、実際にデスノスが書いたものかどうかは不明である[48]。 デスノスの遺灰を前にしたエリュアールは、﹁デスノスの詩は勇気の詩だ。自由の思想が凄まじい炎のように走っている﹂と語った[24]。著書
●Rrose Sélavy (プローズ・セラヴィ), 1922-1923 - 初版﹃リテラチュール﹄誌掲載 ●L’Aumonyme (恵みの同音), 1923 - 初版﹃リテラチュール﹄誌掲載 ●Deuil pour deuil (喪には喪を), 1924 ●Les gorges froides (冷たい喉) , 1926 ●C’est les bottes de sept lieues cette phrase « Je me vois », Éditions de la Galerie Simon, 1926 - アンドレ・マッソンによる挿絵 ●La Liberté ou l'Amour, 1927 ●﹃自由か愛か﹄窪田般彌訳、白水社、1976年 ●Nouvelles Hébrides suivi de Dada-Surréalisme (ヌーヴェル・エブリード、ダダ=シュルレアリスム), 1927 ●Langage cuit (火を通した言葉) 1929 - 初版﹃シュルレアリスム革命﹄所収 ●Les Ténèbres (闇), 1927 ●La Place de l'Étoile, 1929 - ﹃ル・ソワール﹄紙掲載の戯曲 ●﹁海星広場﹂小笠原豊樹訳、﹃盲目の女神 ― 20世紀欧米戯曲拾遺﹄みすず書房、2011年 ●Corps et biens (肉体と幸福), Gallimard (NRF), 1930 - 上記の詩を編纂した詩集 ●Sans cou (首なし), 1934 ●Les Hiboux (フクロウ / 人間嫌い), 1938 ●Fortunes (財産), 1942 ●The Night of loveless nights (愛なき夜ごとの夜), 1930 - ジョルジュ・マルキーヌによる挿絵 ●État de veille (覚醒状態), R.-J. Godet, 1943 - 詩集 ●Le vin est tiré... (身から出た錆), Gallimard (NRF), 1943 - 小説 ●Le Legs (遺産), Ce cœur qui haïssait la guerre (戦争を憎む心) - ポール・エリュアール編﹃詩人たちの名誉﹄所収 - 深夜叢書から地下出版、リュシアン・ガロワ、ピエール・アンディエの偽名による - 1943 ●Le Veilleur du Pont-au-change (シャンジュ橋の夜回り) - ﹃詩人たちの名誉︵欧州編︶﹄所収 - 深夜叢書から地下出版、ヴァランタン・ギロワの偽名による - 1944 ●﹁両替橋の夜警番﹂﹃デスノス詩集﹄︵堀口大學訳、彌生書房、1978年︶所収 ●Chantefables, 1944 - 児童文学作品 ●﹃おはなしうた﹄二宮フサ訳、晶文社、1976年︵挿絵‥飯野和好︶ ●Rue de la Gaité. Voyage en Bourgogne. Précis de cuisine pour les jours heureux (ゲテ通り、ブルゴーニュへの旅、幸せな日々のための料理概要) - リュシアン・クートーによる挿絵 ●Les Trois solitaires. Œuvres posthumes, nouvelles et poèmes inédits (3人の隠者 ― 没後出版作品、未発表の短編・詩), Éditions Les 13 épis, 1947 - イヴェット・アルドによる挿絵 ●Domaine public (パブリックドメイン), Gallimard (NRF), 1952 ●De l'érotisme, 1953 ; Gallimard, Collection « L'Imaginaire », 2013 - 新版はアニー・ル・ブランによる序文 ●﹃エロチシズム﹄澁澤龍彦訳、ユリイカ、1958年。のち﹁翻訳全集﹂河出書房新社 ︵ジャック・ドゥセ氏への手紙 / 序言 / 定義への試み / サド以前のエロチシズム / 古代の作家たち / サド以前のエロチシズム︵続︶ / 近世の作家たち / サドと同時代の作家たち / マルキ・ド・サドの啓示 / 十九世紀の諸作家 / 今日のエロチシズム︶ ●﹃エロティシズム﹄松本完治訳、エディション・イレーヌ、2021年。新版からの訳書 ●La Complainte de Fantômas (ファントマ哀歌), 1954 ●Mines de rien (素知らぬ振り), 1957 ●Calixto suivi de contrée (カリスト、地方), 1962 ●Cinéma (シネマ), 1966︵脚本集︶ ●Chantefables et chantefleurs (お話歌、お花歌), 1970 - 児童文学作品 ●Destinée arbitraire (恣意的な運命), 1975 ●Nouvelles-Hébrides et autres textes (ヌーヴェル・エブリードほかのテクスト), 1978 - 1922年から1930年にわたって書かれた未発表または絶版になった散文作品を編纂 ●Les Rayons et les ombres. Cinéma (光線と影 ― シネマ), Gallimard, 1992 - 映画評論 ●Robert Desnos pour l'an 2000 (2000年のロベール・デスノス), Actes du colloque de Cerisy-la-Salle (10-17 juillet 2000) suivi de Lettres inédites à Georges Gautré (1919-1928) et à Youki (1939-1940), Gallimard, 2000 - シンポジウムの報告書、ジョルジュ・ゴートレとユキに宛てた未発表の書簡 ●Chantefables. Chantefleurs. La Ménagerie de Tristan. Le parterre d'Hyacinthe. La Géométrie de Daniel (お話歌、お花歌、トリスタン動物園、ヒヤシンスの花壇、ダニエルの幾何学), Éditions Gründ, 2000 - 児童文学作新、ジャン=クロード・シルベルマンによる挿絵 ●Œuvres de Robert Desnos (ロベール・デスノス作品集), Gallimard, Collection « Quarto », 2003 - マリー=クレール・デュマ監修 邦訳補足脚注
参考資料
- Marie-Claire Dumas, Robert Desnos, ce coeur qui haïssait la guerre, L'Humanité (5 juin, 2015)
- Marie-José Sirach, Desnos, alias Robert le Diable, le veilleur du Pont-au-Change, L'Humanité (5 mars, 2015)
- Biographie de Robert Desnos - Association des Amis de Robert Desnos
- Robert Desnos - Éditions Larousse (Encyclopédie Larousse en ligne)
- Jacques Bens, ROBERT DESNOS - Encyclopædia Universalis
- Robert Desnos - Poètes en résistance - Réseau Canopé
- 谷昌親「アナーキズムからアセファルへ — シュルレアリスムとファントマス」『シュルレアリスムの射程 ― 言語・無意識・複数性』(鈴木雅雄編、せりか書房、1998年)所収
関連書籍
- 小高正行『ロベール・デスノス ― ラジオの詩人』水声社、2015年
- 篠原一郎『海の星 ― イヴォンヌ・ジョルジュを求めて』港の人、2003年
- ユキ・デスノス『ユキの回想 ― エコル・ド・パリへの招待』河盛好蔵訳、美術公論社、1979年
- 千葉文夫『ファントマ幻想 ― 30年代パリのメディアと芸術家たち』青土社、1998年
- 清岡卓行『マロニエの花が言った』新潮社 上・下、1999年 - 長編小説