広島市への原子爆弾投下
表示
この広島市への原子爆弾投下︵ひろしましへのげんしばくだんとうか︶の項目では、第二次世界大戦末期にアメリカ合衆国により日本の広島市に対して投下された原子爆弾の投下に関する記述をする。これは実戦で使用された世界初の核兵器による都市攻撃である。これは都市を対象とした爆撃の内で史上最大の規模のものであり、この一つの爆弾により一般市民十数万人が殺戮され、都市は壊滅した。
原子爆弾投下前の広島市中央部
同心円の中心が爆心地
すぐ左上に目標の相生橋
画面右上の矩形は広島城
午前7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレート・フラッシュ号である。イーザリー少佐は上空が快晴であることを確認し、四国沖上空のエノラ・ゲイ号に作戦可能の連絡を入れた。﹁天候晴れ、歴史的爆撃作戦に支障なし。視界10マイル、高度15,000フィートの雲量12分の1﹂この時点で、投下目標は広島に絞られた。原子爆弾投下は目視で行うため、上空の視界の情報が重要であった。この観測機は日本側も捕捉しており午前7時9分に警戒警報が発令された。
午前7時31分、B-29はそのまま広島上空を通過離脱していたため、警戒警報は解除された。
午前8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。
午前8時10分、3機のB-29が広島県に侵入したことを捕捉された。数分後、広島の中国軍管区司令部は警報発令の準備指示を出す。その間、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600ft(9,632m)。まず原子爆弾による風圧等の観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ落下させた[4]。青空に目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている。
午前8時12分、航法士セオドア・ヴァン・カーク陸軍大尉がイニシャル・ポイント(IP)に入った事をティベッツに報告、直ちに自動操縦に切り替えられ、爆撃手トーマス・フィアビー陸軍少佐に操縦が渡された。フィアビーはノルデン照準器に高度・対地速度・風向・気温・湿度等のデータ入力を開始した。エイミング・ポイント(AP)を相生橋にロックオンした彼は﹁やったぞ﹂とティベッツに報告した。
午前8時13分、再度広島に警戒警報が発令された。﹁中国軍管区情報、敵大型機3機が西条上空を西進しつつあり、厳重な警報を要す。﹂
午前8時15分17秒、核爆弾リトルボーイが自動投下された。投下目標(AP)は、広島市の中央に流れる太田川にかかる相生橋であった。この橋は川が分岐する地点にかけられたT字型の橋であり、上空からでもその特徴がよく判別できたため選ばれた。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の直撃による墜落を避ける為にバンクして進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を激しい勢いで急降下させ、キャビンは一時無重力状態になった。
広島に投下された原爆によるきのこ雲
リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した。間もなく尾部の安定翼が空気を掴むと、放物線を描いて約43秒間落下した後、高度約600メートルの上空にて核分裂爆発を起こした。
(正確な爆心地は、相生橋よりやや東南の島病院上空と戦後に分析された。[5])
爆心地から250mの全壊したRC建築
広島瓦斯本社ビル
爆発の瞬間の爆発点は数十万気圧に達し、これが爆風を起こした。
爆心地における風速は440メートル/秒以上と推定されている。これは音速350メートル/秒[6]を越える超音速の爆風であり、前面に衝撃波を伴い爆心地の一般家屋の殆どを破壊した。
比較するとこの風速は、強い台風の中心風速の10倍である。運動エネルギーは速度の二乗に比例する。すなわち、原子爆弾の爆風は、エネルギー比では台風の暴風エネルギーの100倍の爆風であった。
また爆心地における爆風圧は350万パスカルに達した︵1m²あたりの加重が35トンとなる︶。半径1キロメートル圏でも100万パスカルである。耐震設計の鉄筋コンクリート建築以外の建造物は、爆風圧に耐え切れずに全壊した。半径2キロメートル圏で30万パスカルとなり、この圏内の木造家屋は全壊した。
熱線により影が焼き付いた跡
放出された熱線エネルギーは22兆ジュール︵5.3兆カロリー︶である。熱線は赤外線として、爆発後約3秒間に大量に放出された。地表に作用した熱線のエネルギー量は距離の二乗に反比例する。地表で受けたエネルギーは、爆心地では平方センチあたり100カロリー、500メートル圏で56カロリー、1キロメートル圏で23カロリーであった。
比較すると、爆心地の地表が受けた熱線は通常の太陽の照射エネルギーの数千倍に相当する。
このような極めて大量の熱量が短期間に照射される特徴から、熱が拡散されず、照射を受けた表面は直ちに高温となった。爆心地付近の地表は3000~4000℃に達した。屋根瓦は表面が溶けて泡立ち、また表面が高温となった木造家屋は自然発火した。
アインシュタインとオッペンハイマー
1939年、ナチスを逃れてアメリカに亡命した物理学者のレオ・ジラード(Leo Szilard)等は当時研究が始まっていた原子爆弾をドイツが先に保有することを憂慮し、アメリカが原子爆弾開発を行うことを大統領へ進言することを計画した。署名者には同じ亡命科学者の著名なアインシュタインの名を借りた。この手紙は10月11日に送り届けた。その中で当時のウラン鉱石の埋蔵地の位置も示している。ヨーロッパのチェコの鉱山はドイツの支配下であり、アフリカのコンゴの鉱山をアメリカが早急におさえるように提言している。ルーズベルト第32代アメリカ合衆国大統領は意見を受けてウラン諮問委員会を一応発足させたものの、この時点ではまだ可能性も不明であり大きな関心は示さなかった。なお1939年9月1日には第二次世界大戦が勃発している。
2年経過した1941年7月、イギリスの亡命物理学者オットー・フリッシュ(Otto Robert Frisch)とルドルフ・パイエルスがウラン原子爆弾作成のために必要なウランの臨界量の理論計算と、ウラン原子爆弾の基本原理をレポートにまとめ、MAUD委員会︵MAUD Committee, イギリス原子爆弾開発委員会︶に報告した(Frisch-Peierls memorandum)。そこで初めて原子爆弾が実現可能なものであり、爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされていた。1941年10月、このレポートの内容を知ったルーズベルト大統領は原子爆弾開発に踏み切ることを決断する。
1942年6月、ルーズベルトはマンハッタン計画︵DSM計画︶を秘密裏に開始させた。総括責任者にはレズリー・グローヴス准将を任命した。1943年4月にはニューメキシコ州に有名なロスアラモス研究所が設置される。開発総責任者はオッペンハイマー。20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員したこの国家計画の技術上の中心課題はウランの濃縮である。テネシー州オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2年後の1944年6月には高濃縮ウランの製造の目途がついた。
1944年9月18日、ルーズベルト米国大統領とチャーチルイギリス首相は、ニューヨーク州ハイドパークで首脳会談した。内容は核に関する秘密協定であり、その中では日本への原子爆弾投下の意志が示された。その他、核開発に関する米英の協力と将来の核管理について合意がなされた。︵ハイドパーク協定︶
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下実行部隊の第509混成部隊の編成を指示した。混成部隊とは陸海空軍から集めて編成されたためである。1944年9月1日に隊長を任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12月に編成を完了し︵B-29計14機及び部隊総員1767人︶、ユタ州ウェンドバー基地で原爆投下の秘密訓練を開始した。1945年2月には原爆投下機の基地はテニアン島に決定され、部隊は1945年5月18日にテニアン島に移動した。
ボーア
理論物理学者ニールス・ボーアは、1939年2月7日ウラン同位体の中でウラン235が低速中性子で分裂すると予言し、同年4月25日には、核分裂の理論を米物理学会で発表した。この時点ではボーアは自分の発見が世界にもたらす事に気づいていなかった。
第二次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害をみて、ボーアは1943年12月にイギリスに逃れた。ここで米英により原子力が平和利用ではなく、原子爆弾として開発が進められていることを知る。原子爆弾の出現による世界の不安定化を怖れたボーアは、ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えることに以後尽力することになる。
1944年5月16日にはチャーチルと会談したが説得に失敗、同年8月26日にはルーズベルトと会談したが同様に失敗した。逆に同年9月18日の米英のハイドパーク協定︵既述︶では、ボーアの活動監視とボーアのソ連との接触阻止が盛り込まれてしまう。ボーアは翌年1945年4月25日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みたが、ルーズベルトに声が届くことはなかった。
また別の科学者の動きでは、1944年7月にアーサー・コンプトン︵シカゴ冶金研究所︶が発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来を検討を行い、1944年11月18日に﹁ニュークレオニクス要綱﹂をまとめている。そのなかで、原子力の平和利用の開発に注力すべきで原子爆弾の都市破壊への利用をすべきでないと提言している。この提言も生かされることはなかった。
さらにドイツ降伏後の1945年5年28日には、米国の核開発を進言したその人であるレオ・ジラードがバーンズ長官に原子爆弾使用の反対を訴えている。ジラードは、7月17日にも原子爆弾使用反対の書簡を科学者たちと連名で提出したが、流れを変えることはできなかった。
1945年6月11日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、グレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒューズ、J・C・スターンス、エウゲニー・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち7名の科学者と連名で報告書﹁フランクレポート﹂を大統領諮問委員会に提出した。その中でフランクは、社会的倫理的に原爆投下を反対し、原子爆弾の威力を各国の前でデモンストレーション︵砂漠か無人島にて︶で示すことにより戦争終結の目的が果たせると提案しているが、この提案は政府に拒絶された。またフランクは同レポートで核兵器の国際管理の必要性をも訴えていた。
軍人では1945年7月20日に、ヨーロッパ戦線を勝ち抜いたアイゼンハワー将軍が、対日戦の勝利にはもはや原子爆弾の実戦使用は不必要であることをトルーマン大統領に進言している。また政府側近でも、バードのように原子爆弾使用にしても事前警告無しに投下することには反対するものもいた。
これら一連の原子爆弾投下阻止の試みが、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領の決意を動かすことはなかった。
広島市の中心に立つ広島城 (焼失前は国宝)
広島市は戦国時代の大名毛利輝元により太田川河口三角州に城下町として開かれて以来、中国地方の中心であり続けた。江戸時代には浅野藩の城下町として栄え、明治維新後は広島県県庁所在地となり、中国地方の経済的な中心地と発展していた。
また、広島高等師範学校・広島女子高等師範学校・広島文理科大学・広島工業専門学校・広島高等学校を有する学都でもあった。特に広島高等師範学校は東京高等師範学校に次ぐ位置にて、西日本の教育界に影響を与える人材を輩出していた。
また、広島は軍都の側面もあった。日清戦争期には前線により近い広島に大本営が置かれ、また臨時帝国議会も広島で開かれるなど、一時的に首都機能が広島に移転されている。これを契機として、陸軍の施設が広島に多くおかれるようになった。広島城内には陸軍第五師団司令部がおかれ、その周囲には各部隊駐屯地等が配置された。また宇品港におかれた陸軍船舶輸送司令部は兵站上の重要な拠点であった。
被爆当時の市中人口は約35万人と推定されている。内訳は、(1)居住一般市民約29万人、(2)軍関係約4万人、および(3)市外から市中に用あって入った者約2万人である。
民家が並ぶ被爆前の中島地区。
上端中央のT字の橋が相生橋、左右の川にかかる2つの橋は右が元安川・元安橋、左が本川・本川橋。この両橋を通る道は旧西国街道で、街道沿いは江戸時代から栄えていた。
現在の広島の地図から名前が消えた中島地区︵中島本町・材木町・天神町・元柳町・木挽町・中島新町︶は、数千人の一般庶民が暮らす街であり、また広島の第一の歓楽街・繁華街であった。街には下町の長閑な暮らしがあり、映画館など娯楽施設もあった。木造低層家屋が立ち並んでいたこの地区は爆心から500メートル以内の爆心地にあり、原子爆弾により街は完全に壊滅している。唯一、RC建築の燃料会館︵旧大正屋呉服店︶が爆風に耐え残った。
戦後、この地区は広島平和記念公園として生まれ変わることになる。燃料会館は全焼した内部を全面改築して公園のレストハウスとなり現在も残っている。
被爆後の中島地区
爆心地500m圏内では閃光と衝撃波が殆ど同時に訪れた。巨大な爆風圧が建築物の大半を一瞬にして破壊した。木造建築は全数が全壊した。鉄筋コンクリート建築である産業奨励館は垂直方向の衝撃波を受けて天蓋部は鉄骨を残して消失、一部の外壁を残して大破した。相生橋や元安橋の石の欄干も全て爆風で飛ばされた。
また強力な熱線により屋外にいた人は全身の皮膚が炭化し、内部の内臓等の組織が高熱で蒸発した。苦悶の姿態の形状を示す﹁水気の無い黒焦げの遺骸﹂が道路などに大量に残された。
丁度、爆心地を通過していた路面電車は炎上したまま、黒焦げの遺骸を乗せて慣性力で暫く走り続けた。吊革を手で持った形のまま、死んだ者もいた。
この地域での生存者は極僅かであるため、状況の手掛りは少ないが、爆発で飛ばされて失神し、それから覚めた直後は一寸先も見えない闇の世界であったという。
原子雲と爆風で舞い上げられた大量の粉塵が太陽の光を完全に遮断したためである。
闇の中で高温に熱せられた木造建築等の発火が始まっていた。
[7]
赤十字病院より北西
爆心地1キロメートル地点で爆心点は上空31度、2キロメートル地点で17度の角度となる。したがって野外にあっても運良く塀や建物等の遮蔽物の陰にいた者は熱線の直撃は避けられたが、そうでない大多数の者は熱線を受けた部分が一瞬にして重度の火傷を負った。青空の下で建物疎開作業中の勤労奉仕市民や中学生・女学生等は隠れる間もなく大量の熱線をまともに受けた。奉仕に来ていた学年が全滅となった学校も多かった。また熱線照射の直後の爆風で数メートル~十数メートル吹き飛ばされ、昏倒した。さらにこの爆風は被爆者の衣類をぼろぼろにして剥ぎ取り、火傷の表皮をも皮膚組織から剥ぎ取った。昏倒から覚めた被爆者は自分の腕の皮膚が剥がれて垂れ下がり、爪のところでようやくつながっていることをみる。背中全体の皮膚が離脱し、腰からぶらさがっているものもいた。強い衝撃で眼球が眼窩から飛び出したもの、腸が腹腔から飛び出して苦悶するものもいた。
建物の内部にいたものは熱線の直射は避けれたものの、爆風により、2キロメートル圏内では木造家屋は一瞬にして全壊したため、家屋の瓦礫の下に閉じ込められた。自力で脱出した者、もしくは他者に助け出された者の他は、熱線の照射による発火で起こった家屋の火災に巻き込まれて、生きながら焼かれて死亡した。火災は同時多発に発生して大火となったため、家屋の下から助けを求める家族・知人の声を聞きながらも已む無く見捨てて逃げざるをえない者も多かった。逃れた者も、家屋倒壊の際に様々な外傷を受けていた。
赤は全焼区域
火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がった。大火による大量の熱気は大量の上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強い風を生み出し、火災旋風となった。風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒らした。火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させた。
瀕死の重症を負った男性。腰の周りだけ胴巻きのためか火傷を免れてい る
爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及んだ。さらに生き残った者も6日目までに約半数が死亡、次の6日間でさらに25パーセントが死亡していった。
11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡した。1945年の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されている。
︵この項未完成︶平和への祈りが込められた折り紙
1949年
広島平和記念都市建設法が制定。
1951年
広島原爆傷害者更正会結成。
1954年
爆心地周辺が広島平和記念公園として整備。
ビキニ水爆実験で日本の漁船第5福竜丸が被曝。原水爆禁止運動が起こる。
1956年
日本原水爆被害者団体協議会︵日本被団協︶結成。援護法要望運動の開始。
1957年
原子爆弾被爆者の医療等に関する法律︵原爆医療法︶が制定されたが、極めて限定的な内容。
1958年
原爆症で死亡した佐々木禎子をモデルにした原爆の子の像が平和記念公園内に完成。
1960年
原爆医療法の改正。
1968年
原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律︵被爆者特別措置法︶が制定。
1980年代
この頃より欧米に反原水爆の市民運動が根付く。
1994年
被爆者念願の被爆者援護法が戦後50年でようやく制定。
1996年
原爆ドームが負の遺産としてユネスコの世界遺産に登録。
1999年春
爆心地に近い市立袋町小学校の校舎の立替え工事にあたる壁の検査をしていたとき、壁が剥がれ落ち、そこに文字が発見された。それは被爆後、この校舎は鉄筋で立てられていたため校舎は焼け残り、被爆して怪我をした人のの救援所になっていた。そこにこの学校の教師が児童の安否を調べるために壁にチョークで伝言を書いたものだったと調査で分かった。その後、この出来事はニュースで取りあげられ、さらにその年の夏、伝言を書いた教師とその児童が54年振りに再会し、話題を盛りあげた。現在この壁は、袋町小学校平和記念資料館に保存されている。
2002年
被爆者を追悼する国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館。
原子爆弾投下時
グアム島
8月2日、グアム島の第20空軍司令部から、テニアン島の第509爆撃隊に以下の極秘の野戦命令がでた。 作戦命令書13号 1945年8月2日 (一)攻撃日 8月6日 (二)攻撃目標 広島中心部と工業地域 (三)予備第2目標 小倉造兵廠および同市中心部 (四)予備第3目標 長崎市中心部 (五)特別指令 目視投下に限ることテニアン島
8月4日には、エノラ・ゲイ号は最後の原爆投下訓練を終了した。 翌8月5日夜9時20分、広島上空に1機のB29があらわれ、7分後に空襲警報が発令された。これは第509混成部隊に所属する観測機で、翌日の広島の天候が良好であるとテニアン島に報告した。 ほぼ同時刻、テニアン島では、ポール・ティベッツ陸軍大佐がエノラ・ゲイの搭乗員に出撃命令を伝えていた。 ﹁今夜、われわれの努力によって歴史が作られるのだ。﹂と。 1945年8月6日午前1時27分、マリアナ諸島テニアン島北飛行場[1]から核爆弾リトルボーイを搭載したB-29(エノラ・ゲイ)[2]が始動した。1時45分、エノラ・ゲイはA滑走路の端から離陸した。 テニアン島から目標の広島市までは約7時間の飛行である。エノラ・ゲイ離陸2分後の午前1時47分、原子爆弾の威力の記録を行う科学観測機(グレート・アーティスト号)が、更に2分後の午前1時49分には写真撮影機(#91 or ネセサリー・エビル号)の各1機のB-29も飛び立った。 なお、これに先立つ午前0時37分に気象観測機が3機、ストレート・フラッシュ号が広島へ、ジャビット3世号が小倉へ、フル・ハウス号が長崎へ向けて離陸していた。続く午前0時51分には予備機のトップ・シークレット号が硫黄島へ向かった。 即ちこの日、6機のB-29が原爆投下作戦に参加し、内3機が広島上空へ向かっていた。四国上空
午前6時30分、兵器担当兼作戦指揮官ウィリアム・S・パーソンズ海軍大佐は起爆装置に赤プラグを装填した。 この直後、レーダースコープが敵味方識別不能の飛行物体(ボギー)を表示した。回避するため、エノラ・ゲイ号は高度2000m前後の低空飛行から急上昇し、午前7時30分に8,700mまで高度を上げた。 さらに四国上空の通過中に日本軍からレーダー探知され、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機︵所属不明︶はハーフターンして第二航過で射撃しようとしたが射撃位置の占有に失敗した。[3] エノラ・ゲイ号は危機を回避し、目的地への飛行を再開した。広島
帰島
原爆の爆風はエノラ・ゲイにも襲い掛かった。エノラ・ゲイはひどく揺さぶられ、ティベッツは日本軍高射砲による対空射撃と勘違いして﹁高射砲だ!﹂と叫び、フィアビーは﹁くそったれめ!撃ってきやがった!﹂と叫んだ。間もなくして核爆発の衝撃波であると気付いた。 午後2時58分、エノラ・ゲイ号は快晴のテニアン島の北飛行場に帰還した。12人の搭乗員は数百人の将兵らに祝福された。戦略空軍総司令官カール・スパーツ少将から、ティベッツ大佐には栄誉十字章が、他の12人には銀星章が与えられた。 その日は夕方から、第509混成部隊の将兵や科学者らによって、深夜まで盛大な祝賀パーティが催された。 なお、投下時にはカラーフィルムにより撮影が行われたが、テニアン島に帰還後、現像に失敗したために失われた。爆発から約3分後に別機の科学調査リーダー、ハロルド・アグニューにより8mmカメラによって撮影されたキノコ雲の映像が、広島の原爆投下を捕らえた現在唯一の映像である。原子爆弾の威力
広島原爆は約50キログラムのウラン235が搭載されており、このうち核分裂を起こしたのは1キログラム程度と推定されている。爆発で放出されたエネルギーは63兆ジュール、TNT火薬換算で1万5千トン︵15キロトン︶相当に及んだ。エネルギーは爆風︵衝撃波︶・熱線・放射線の形となって放出され、それぞれの割合は50パーセント・35パーセント・15パーセントであった。 なおB-29の通常爆弾最大積載量は5トンであるから、B-29の3000機分の通常爆弾が一度に投下されたことに相当する。比較として東京大空襲︵1945年3月10日︶の攻撃B-29は344機であるから投下された爆弾︵焼夷弾︶は総計2000トンであった。すなわち、広島原爆︵15,000トン︶はこの東京大空襲の約8倍相当の規模のエネルギーを、東京の十分の一程度の都市の上に一時に投下/放出したことになる。爆風
熱線
放射線
核分裂反応により大量のアルファ線・ベータ線・ガンマ線・中性子線が生成され、地表には透過力が強いガンマ線と中性子線が到達した。さらに地表では中性子線により誘導放射能が生成された。 爆心地の地表に到達した放射線は、1平方センチあたり高速中性子が1兆2千億個、熱中性子が9兆個と推定されている。黒い雨
原子爆弾の炸裂の高熱により巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。これは爆発による高熱で発生した上昇気流に、吹き上げられた粉塵が上空で拡散したため、あのような特徴的なキノコ形になったものと考えられる。 低高度爆発であった為にキノコ雲は地表に接し、爆心地に強烈な誘導放射能をもたらした。雲は急速に上昇し、湿った熱気は上空で冷やされ雨を降らせた。爆風が舞い上げた大量の粉塵・煙を含み、粘り気のある真っ黒で大粒の雨となった。そのため、この雨を黒い雨という。 当日の上空では南東の風が吹いていたため、キノコ雲は北北西に徐々に移動し、黒い雨の降雨領域は市内から北北西方向へ伸びる長径19キロメートル、短径11キロメートルに広がった。この雨は放射性降下物を含んだため、雨に当たった者を被曝させ、土壌や建築物及び河川を放射能汚染した。原爆投下の背景と経緯
ルーズベルトの決断
原子爆弾投下阻止の試みと挫折
原子爆弾投下都市の選択
1945年4月12日のルーズベルトの急死によりトルーマンが大統領に就任した。ルーズベルトの原子爆弾政策の遺志を継いだトルーマンには﹁いつ・どこへ﹂を決定する仕事が残されていた。原子爆弾を投下する都市の選択は、1945年4月27日に開かれた米軍の目標検討委員会第1回会議にて定められた選定基準により、まず17地域が﹁研究対象﹂に選ばれた。 選定基準の要約は以下の通り。 (一)市街地が約4.8キロメートル以上の直径を持つこと、また市街地周辺にも居住地が広がっていること。 (二)投下目標は、東京から長崎の間に位置している都市とすること。 (三)目標とする都市が、高度な戦略的価値を持つこと。 この日に研究対象として選ばれた17都市及び地点。 関東 東京湾、川崎市、横浜市 東海 名古屋市 関西 大阪市、神戸市、京都市 中国 広島市、呉市、下関市、山口市 九州 八幡市、小倉市、熊本市、福岡市、長崎市、佐世保市 この時、上記17都市及び地点の内、既に空爆で破壊した都市は除外するべしとされた。 ﹁研究﹂の中で、投下目標は原子爆弾の﹁爆風の効果﹂が分かるような地勢を備えるべしとの条件が加わり、1945年5月11日の目標検討委員会第2回会議では、投下目標は京都・広島・横浜・小倉の4都市に絞り込まれた。その後、﹁アメリカと親しい日本﹂をつくる上で京都への原爆投下は戦略的に問題であるとして、京都市が除外されて新潟市が加えられた。ただし、京都盆地に位置し、原爆の効果を確認するには最適の京都への投下を強く求める将校、科学者も多く存在した。 1945年5月28日、これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。禁止の目的は、原子爆弾のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。これが﹁○○には空襲がない﹂という誤った流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなる。 ︵尚、1944年11月以降、カーチス・ルメイ米空軍少将が考案した本土への無差別戦略爆撃は、1945年3月の東京大空襲︵3月10日︶・大阪大空襲︵3月14日︶・名古屋大空襲︵3月19日︶を頂点として、その後地方都市にも空爆の作戦範囲を広げていた。︶ 1945年6月14日に京都・横浜を目標から外し、その後新潟も外され、長崎が再登場した。最終的な投下目標は、広島・小倉・長崎に決定された。なお、6月1日の会議では原子爆弾の投下目標地点イメージについて、周囲に労働者の家屋が広がっている軍需工場地帯で、原子爆弾投下の事前警告は行わないことが決定されている。 1945年7月25日、トルーマン大統領は原子爆弾投下の命令を発令した。広島・小倉・長崎・新潟の何れかの都市に8月3日以降の目視爆撃可能な天候の日に﹁特殊爆弾﹂を投下するべしとした。さらに8月2日により具体的な原子爆弾投下作戦命令書﹁野戦命令第13号﹂が発令された。その攻撃の第1目標は﹁広島市中心部と工業地域︵照準点を相生橋とする︶﹂、予備の第2目標は﹁小倉造兵廠ならびに同市中心部﹂、予備の第3目標は﹁長崎市中心部﹂である。しかしこの命令直後の数日間は台風8号の影響で天候不順のため作戦実行を避けられ、太平洋高気圧が張り出して天候が回復した8月6日が作戦決行日と最終決定された。模擬原子爆弾﹁パンプキン﹂の投下練習
一方1945年7月20日以降、第509混成部隊ではファットマンと同形の爆弾に通常爆薬を詰めたもの﹁パンプキン﹂︵総重量4,774kg、爆薬重量2,858kg︶の投下練習が繰り返し行われていた。すなわち原子爆弾の投下予行演習である。テニアン島から日本列島の決められた都市まで飛行し、目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。 このパンプキン練習作戦は、7月24日、7月26日、7月29日、8月8日、8月14日と終戦寸前まで行われた。 また平行して完成した原子爆弾部品の輸送が行われた。原子爆弾を積んだアメリカ海軍の重巡洋艦インディアナポリスは1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。また陸軍航空隊のDC-4輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。原子爆弾の最終組立はテニアン島の基地で行われた。 ︵なお、このインディアナポリスは帰路の7月30日、フィリピン海で大日本帝国海軍伊号第五八潜水艦(艦長 橋本以行海軍中佐)の雷撃により撃沈している。歴史に﹁if﹂は禁物だが、もしインディアナポリスが往路に撃沈されていれば、8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。︶広島市の状況
略史と特徴
中島地区
原子爆弾投下直前
8月6日は月曜、ただし当時は週末の休みは無く、朝は午前8時が勤務開始である。大半の労働者・徴用工・女子挺身隊、および勤労動員された中学上級生︵1万数千人︶たちは、三菱重工や東洋工業を始めとする数十の軍需工場での作業となった。 また建物疎開には、中学下級生︵数千人︶および一般市民の勤労奉仕隊︵母親たち︶や病気等の故あって徴兵されなかった男子等が参加した。動員は市内の他、近隣の農村からも行われた。建物疎開とは、空襲による類焼を食い止めるために建物の間引きを行う作業である。建物の破壊は軍が行い、瓦礫の処理を奉仕隊が行った。当然、青空の下の作業である。彼等は直接原子爆弾の大量の熱線の照射を浴びることになる︵後述︶。 小学上級生の児童は昭和20年4月に行われた集団疎開で市を離れたものが多かったが、下級生は市に留まっていた。児童は各地区の寺子屋学校での修学となっていた。就学以前の幼児は自宅に留まっていた。 8月3日、4日と天候は悪かったが、5日以降は高気圧に覆われ天気は回復した。 8月5日は深夜の2回空襲警報が発令され、その度に市民は防空壕に隠れ入ったため、寝不足の市民も多かった。翌日の8月6日は午前7時9分の空襲警報で防空壕に一旦は市民は隠れたものの7時31分には警報解除されたため、防空壕から外へ出て一日の活動を開始していた。 8月6日の朝の気温は26.7度、湿度80%、気圧1018ヘクトパスカルであった。北北東の風約1メートル/秒が吹き、雲量8~9であったが、薄雲であり視界は良好だった。原子爆弾投下直後
爆心地
全壊全焼圏内
被爆救護活動
広島市の行政機関︵市役所・県庁他︶は市の中央に集中し、そこは爆心地の近傍(1,500メートル以内)であったため、家屋は全壊全焼し、職員も多くが死傷し、被災直後は組織的な能力を失った。また広島城周辺に展開していた陸軍第五師団の部隊も同様に機能を喪失した。 市内の爆心地からやや遠方︵4キロメートル︶にあった宇品港の陸軍船舶指令部隊が被害が軽かった為、この部隊(通称﹁暁部隊﹂)が救護活動の中心となった。船舶司令部は直ちに消火艇を派遣して大火災を起こした河岸部の消火活動を始めた。 陸軍船舶練習部に収容し手当てした被爆者は、初日だけで数千人に及んだ。また原子爆弾の被災者は広島湾に浮かぶ似島の検疫所にも多く送られている。その数は一万人にのぼるという。この船舶練習部以外にも市内各所に計11ヶ所の救護所が開設された。船舶練習部は野戦病院と改称し、救護所は最大53ヶ所まで自然増加した。 市内の医療関係者は9割近くが罹災したため、救援に周辺の地域︵県外含む︶から多くの医療救護班が入った。8月・9月の救護所収容の累計は十万人を超え、外来治療者は二十万人を超えた。 [8]被爆直後の被害調査報告と報道
第一報8月6日
午前8時9分過ぎエノラ・ゲイが広島市街を目視確認していた頃、松永監視哨・中野探照燈台・板野探照燈台等、中国地方のレーダーサイトから陸軍中国軍管区司令部へ広島上空にB-29少数機が侵入したという報告が次々に入り、司令部作戦司令室は警戒警報を発令した。高射砲陣地が戦闘配置し、対空戦闘用意の態勢に移行して高度標定機による敵機観測と高射砲弾の信管調定を開始した。また呉鎮守府飛渡瀬砲台では155mm高角砲がエノラ・ゲイを有効射程内に捕捉し、射撃命令を待っていた。 指揮連絡室では、オペレーターの岡(旧姓大倉)ヨシエが8時15分に警戒警報発令を受け、各司令部や報道関係宛に﹁広島、山口、警戒警報発令﹂と発信した瞬間、核爆発が起きた。 またNHK広島放送局ではm当直アナウンサー古田正信が警戒警報発令のベルを聞き、ラジオスタジオに入った。古田が﹁中国軍管区情報。敵大型3機、西條上空…﹂まで読んだ瞬間、核爆発が起きた。この広島放送局は約40名の職員が犠牲となった。[9] 広島城内の指令部地下壕は半地下式のコンクリート耐爆シェルターであった為、熱線の被害は限定されたが、小窓から入った衝撃波が多数の死傷者を出した。岡も衝撃で全身を強く打って気絶したが、間もなく意識を取り戻し壕の外へ出ると、変わり果てた広島の姿を目にした。岡は直ちに通信回線を繋いで第16方面軍(福岡)と福山市の司令部に﹁広島に新型爆弾﹂、﹁広島全滅﹂の第一報を電話で伝えた。 この第一報は日本全国の多くの通信所で傍受された。これは瞬く間に噂になり、日本全国のみならず遠くは朝鮮や満州まで﹁新型爆弾﹂﹁広島にウラン爆弾﹂という噂が燎原の火の如く広がった。慌てた軍部や特高は緘口令を敷いたものの、恐怖心に駆られた国民の動揺を前にして効果は無かった。NHK原放送所
上記のごく一部を除いてあらゆる通信が途絶した広島は被害状況報告や救援要請を行う手段を失った。しかし、広島市郊外にあるNHK広島放送局原放送所の回線が確保されていた。原放送所は同盟通信社広島支社の緊急避難先となっていたが、偶然郊外の同僚宅にいて無事だった同盟通信記者の中村敏が午前11時30分頃︵16時の説もある︶、同盟通信社岡山支社に﹁6日午前8時16分頃、敵の大型機1機ないし2機、広島上空に飛来し、特殊爆弾を投下、広島市は全滅した。死者およそ17万人の損害を受けた﹂[10]との第一報を送った。この第一報は同盟通信岡山支社経由で東京本社に届けられ、昼過ぎには大本営にも転送された。日本政府の声明8月7日
6日午前8時30分頃、呉鎮守府が大本営海軍部に広島が空襲を受けて壊滅した旨を報告している。続いて午前10時頃には第2総軍が船舶司令部を通じて大本営陸軍部に報告した。加えて、昼過ぎには同盟通信からも特殊爆弾により広島が全滅したとの報を受けた大本営は、政府首脳にも情報を伝え、午後早くには﹁広島に原子爆弾が投下された可能性がある﹂との恐るべき結論がなされた。夕刻には蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇に﹁広島市が全滅﹂と上奏した。上奏を受けた昭和天皇は顔を曇らせたという。 大本営は翌7日に原子爆弾対策委員会を開催し、同日午後3時30分にプレスオープンをだした。 (一)昨8月6日、広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり (二)敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも、詳細目下調査中なり このプレスオープンを受けて新聞各社は一斉に広島に新型爆弾が投下された旨を一面トップで報道した。米国政府の声明8月7日
5日深夜(米東部標準時 - EST。日本時間7日未明)、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のホワイトハウスにてハリー・S・トルーマン米大統領の名前で次のような内容の声明を発表した。 16時間前、アメリカの飛行機が日本軍の最重要陸軍基地・広島に一発の爆弾を投下した。この爆弾の威力はTNT2万tを上回るものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランドスラム爆弾と比べても、二千倍の破壊力がある。(中略)つまり原子爆弾である。 ポツダムで7月26日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もし彼らがアメリカの出している条件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が降りかかるものと思わねばならない。 このように原子爆弾の完成と広島空襲に用いた事を全世界に知らしめ、未だ降伏の意思を示さない日本に恐るべき警告をした。この声明は日本政府や大本営にとって広島が核攻撃を受けたのではないかという危惧が現実のものとなった事を意味した。呉鎮守府司令部もこの声明を傍受した。調査8月6日~10日
火勢がやや収まってきた6日午後5時30分、呉鎮守府の呉工廠調査班が入市調査を開始し、翌7日までには熱線や爆風による効果及び正確な爆心地を解析し、8日には大本営海軍部調査団と合同で﹃8月6日廣島空襲被害状況報告書﹄にて原子爆弾の空中爆発による攻撃であると断定した。また同日、帝国陸軍参謀本部第二部長の有末精三中将を団長とした大本営調査団[11]9名が、陸軍軍医学校の教官を中心とする陸軍省広島災害調査班と共に空路現地入りした。 9日、陸軍省広島災害調査班が日本赤十字広島赤十字病院の地下室でレントゲンフィルムが全て感光していた事実を発見し、直ちに陸軍軍医学校に放射線専門家の派遣を要請している。これを受けた陸軍軍医学校は、陸軍軍医学校レントゲン教官である御園生圭輔軍医及び理化学研究所の研究者玉木英彦研究員・村地孝一研究員・木村一治研究員らを派遣して残留放射能測定や血液検査等を行った。この結果、土壌中からストロンチウム92やセシウム137が大量に検出され、被爆者に白血球減少症が多い事が分かった。後に遺体病理解剖にて被爆者を蝕む放射線がα線、γ線、β線、中性子線である事が判明した。 10日午前10時、広島陸軍補給廠にて第2総軍や陸軍船舶練習部及び海軍呉鎮守府等の軍関係者や目撃者を交えた陸海軍合同検討会を開催した結果は、 (イ)彈種、通常ノ爆薬又ハ焼夷剤ニ非ズ 原子爆彈又ハ威力之ト同等ノ特殊爆彈ナルモノト認ム (ロ)爆發位置 護国神社南方三〇〇米、高度五五〇米 (ハ)爆圧、爆心地上ニ於テ六粁/平方糎程度ト推定スルモ 尚検討ヲ要ス (ニ)火傷原因 光線ノ影響ナルモ尚β線及X線ノ影響アルベシ、光線ノ持續時間ハ瞬間ニ非ザルモノノ如シ (ホ)火災ノ原因 熱戦ニ依り引火シ易キ物質︵藁、黒幕等︶發火シ火災ノ原因トナルコトアリ (ヘ)投彈法 必シモ落下傘ヲ伴ハズ 以上を直ちに政府に報告した。政府は抗議文をスイス政府を通じて米国政府に提出し、欧米系捕虜を用いた英語放送で広島の悲劇を伝えた。 広島や長崎を襲った正体が原子爆弾であると確認した軍部は緘口令を諦めてプレスコードを解除すると、11日から12日にかけて新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原子爆弾であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。[12] 8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原子爆弾の解説を行った。被爆者
短期的影響
熱傷
い所に熱線が集中したため文様が体に焼き付き火傷した女性 原子爆弾から照射された熱線は強烈な赤外線・紫外線・β線を含んでおり、爆心地から1キロメートル以内では5度の重い熱傷を生じ表皮は炭化した。熱線による被害は3.5キロメートルの距離にまで及んだ。また熱線にて発火した家屋の火災による第2次熱傷を受けたものもいた。爆心地から1キロメートル以内で屋外被爆したものは重い熱傷のため、7日間で90パーセント以上が死亡している。 ︵この項未完成︶外傷
原子爆弾の爆風により破壊された建物のガラスや木片等が散弾状となり全身に突き刺さり重傷を負ったものが続出した。戦後何十年も経過した後に体内からこのときのガラス片が見つかるといった例もあった。 また、爆風により人間自体が吹き飛ばされて構造物等に直撃し全身的な打撲傷を負ったり、体への強い衝撃により眼球や内臓が体外に飛び出すといった状態を呈したものもいた。 このような全身的な被害をうけたものは大半が死亡した。 ︵この項未完成︶放射能症
爆心地における放射線量は、103シーベルト︵ガンマ線︶、141シーベルト︵中性子線︶、また爆心地500メートル地点では、28シーベルト︵ガンマ線︶、31.5シーベルト︵中性子線︶と推定されている。すなわち、この圏内の被爆者は致死量の放射線を浴びており、即日死ないしは一ヶ月以内に大半が死亡した。また爆心地5キロメートル以内で放射線を浴びた被爆者は急性放射線症を発症した。︵参照‥人体に対する放射線の影響︶ 急性放射能症は、悪心・嘔吐・食思不振・下痢・発熱の症状の後、被爆から2週間後ごろに放射能症に特徴的な脱毛が始まり、20日過ぎごろに皮下出血斑︵点状出血︶、口腔喉頭病巣を生じる。また、大量の放射線により骨髄・リンパ腺が破壊され、白血球・血小板の減少など血液障害を起こした。︵この項未完成︶
二次被爆
大量の中性子線は誘導放射能を生み、それにより被曝したのが二次被爆者である。原子爆弾投下の直後に爆心地へ入市し救援活動等で数時間滞在したものは0.2シーベルト、翌日に入市し同様に活動したものは0.1シーベルトの被曝をした。 さらにフォールアウトにより被曝した二次被爆者が発生した。特に市北西部の19キロメートル×11キロメートルの楕円形の領域では黒い雨が1時間以上強く降っており、雨に当たった住民は被曝した。 ︵この項未完成︶長期的影響
熱傷
爆心地から2キロメートル以内で被爆した者は高度から中度の熱傷が生じたが、2キロメートル以遠で被爆した者は軽度の熱傷にとどまり、治癒に要した期間も短かった。しかし、3~4ヶ月経過して後、熱傷を受けて一旦平癒した部分に異変が生じ始めた。熱傷部の組織の自己修復が過剰に起こり、不規則に皮膚面が隆起し、いわゆるケロイドを生じた。ケロイドは外科手術により切除を試みても、しばしば再発した。特に年頃の女性被爆者は心に深い傷を刻み込まれた。彼女等は﹁原爆乙女﹂と呼ばれた。 ︵この項未完成︶放射線症
被爆して大量の放射線を浴びた者は、白血病の発症率が増加した。発症の頂点は1951年、1952年であり、その後は徐々に発生率が下がる。広島被爆者では慢性骨髄性白血病が多く、受けた放射線の被曝線量の増加にほぼ比例する形で白血病発生率が増加している。また、若年層ほど白血病の発症時期が早かった。発症すると、白血球が異常に増加し、逆に赤血球等の他の血液細胞が減少して障害をまねく。さらに白血球の機能も失っていく。 1950年代は白血病は治療法のない代表的な不治の病の一つであり、発症者の多くが命を落とした。原爆の子の像のモデルとなった佐々木禎子は、わずか12才の時に白血病で亡くなっている。 ︵この項未完成︶胎内被爆
原子爆弾が投下された当時、母親の胎内にいて被爆したことを、胎内被爆という。胎内被爆により、小頭症を発症する者がいた。これは同年齢の者の標準に比べて、頭囲が2分の1以下の場合を言う。諸説あるが、被爆時に胎齢3週~17週の胎内被爆者に多く発症した。小頭のほか、身体や脳に発育遅延が認められ、成人前に死亡した例もある。一般的に﹁原爆小頭症﹂と言われている。﹁最も若い被爆者﹂と言われるが、現在は皆が還暦を迎える年齢になり、彼らの肉親も相当の年齢に達しており、将来的な不安要素も多々考えられる。 ︵この項未完成︶精神的影響
原爆の手記を分析した結果によると、3人に1人が罪の意識︵自分だけが助かった、他者を助けられなかった、水を求めている人に答えてあげられなかった等々︶を持っていることが判明した︵一橋大石田による調査︶。このような自責の念により被爆者は肉体的苦痛のみならず、精神的にも苛み続けたのである。 ︵参照‥サバイバーズ・ギルト、心的外傷後ストレス障害︶その後の広島
終戦
●3日後の8月9日、長崎市に再び原子爆弾が投下され、数万人が死亡した。広島と異なり、プルトニウム型︵コード名‥ファットマン︶であった。同じ日にソ連が日ソ中立条約を破棄、日本へ宣戦布告し、満州で攻撃を開始する。またこの日、広島電鉄市内線の一部区間が運行を再開。 ●8月14日、御前会議にてポツダム宣言受諾を決定し、日本政府は連合国に受諾を伝える。 ●8月15日、玉音放送。国民への終戦の告知。 ●8月28日、連合国占領軍上陸。 終戦とGHQ支配により、軍は武装解除・兵は復員開始された。広島の被爆者救護を担ってきた暁部隊も解体し、救護活動は自治体に移行された。しかし戦時災害保護法︵1942年制定︶の規定により救護期限は2ヶ月と定められていたため、10月上旬に救護所は閉鎖されてしまう。 ●9月8日、米国による原子爆弾災害調査が開始される。活動は1947年発足の原爆傷害調査委員会(ABCC)の母体となる。 ●9月19日、GHQよりプレスコード発令。原子爆弾被害に関する報道は禁止される。 ●9月下旬、日本映画社により原爆被害撮影が開始される。撮影は中途から米軍の管理下となる。映像は1946年4月に"The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"として完成後、フィルムは米軍に没収された。[13]枕崎台風
1945年︵昭和20年︶9月17日、被爆で壊滅状態の広島を昭和の三大台風のひとつの枕崎台風が襲った。広島県の死者・行方不明者合計は、2000名を越える大惨事となっている。戦後
広島原爆をテーマとした作品
各ジャンル内は出版︵発表︶順に並べる。ノンフィクション
●柳田邦男﹃空白の天気図﹄新潮文庫、1981年、ISBN 4101249016︵現在は﹁新潮オンデマンドブックス﹂で刊行中/内容の一部は映像化され、江波山気象館で見ることができる︶ ●堀川恵子、小笠原信之﹃チンチン電車と女学生﹄日本評論社、2005年7月、ISBN 4535584257小説
●大田洋子 ﹃屍の街﹄、1946 - ISBN 4061963287、﹃半人間﹄ ●原民喜 ﹃壊滅の序曲﹄・﹃夏の花﹄・﹃廃墟から﹄、1947 - ISBN 4101163014︵青空文庫:原民喜︶ ●堀田善衛 ﹃審判﹄、1960 - ISBN 4480700552 ●竹西寛子 ﹃管絃祭﹄、﹃儀式﹄、1963 - ISBN 4061975595] ●井上光晴 ﹃地の群れ﹄、1963 ●高橋和巳 ﹃憂鬱なる党派﹄、1965 ●いいだもも ﹃アメリカの英雄﹄、1965 ●井伏鱒二 ﹃黒い雨﹄、1966 - ISBN 4101034060 ●福永武彦 ﹃死の島﹄、1966 ●阿川弘之 ﹃春の城﹄ - ISBN 4101110018 ●佐多稲子 ﹃樹影﹄、1970 ●渡辺広士 ﹃終末伝説﹄、1978 ●小田実 ﹃HIROSHIMA﹄、1981 - ISBN 4061975749 ●今西祐行 ﹃あるハンノキの話﹄ - ISBN 4036501208戯曲
●井上ひさし ﹃父と暮らせば﹄ - ISBN 4101168288詩集
●峠三吉 ﹃原爆詩集﹄、1951 - ISBN 425095031X - ︵青空文庫:峠三吉︶ ●栗原貞子 ﹃生ましめん哉﹄ - ISBN 4812014808歌集
●正田篠枝 ﹃さんげ﹄、 1947 - ISBN 4390115677手記
●長田新編 ﹃原爆の子﹄ - ISBN 4003317718 ●関千枝子 ﹃広島第二県女二年西組―原爆で死んだ級友たち﹄ - ISBN 4480022414随筆
●大江健三郎 ﹃ヒロシマ・ノート﹄ - ISBN 4004150272映画
●今村昌平 ﹃黒い雨﹄ ●新藤兼人 ﹃原爆の子﹄﹃さくら隊散る﹄ ●黒澤明 ﹃八月の狂詩曲︵ラプソディー︶﹄ ●黒木和雄 ﹃父と暮らせば﹄ ●吉田喜重 ﹃鏡の女たち﹄ ●アラン・レネ ﹃二十四時間の情事﹄︵原題‥Hiroshima,Mon Amour︶音楽
●作曲‥木下航二、作詞‥浅田石二 ﹃原爆をゆるすまじ﹄ ●作曲‥林光、作詞‥原民喜 ﹃原爆小景﹄ ︵﹁水ヲ下サイ﹂﹁日ノ暮レチカク﹂﹁夜﹂﹁永遠のみどり﹂︶
●作曲‥森脇憲三、作詩‥薄田純一郎 レクイエム﹃碑﹄
●作曲:松下耕、作詞:鳥潟朋美 混声合唱組曲︵混声3部︶﹃風の夏﹄︵とくに、﹁夏﹂は広く愛唱されている︶
漫画
●中沢啓治 ﹃はだしのゲン﹄ - ISBN 4811304004 ●こうの史代 ﹃夕凪の街 桜の国﹄ - ISBN 4575297445童話
●正田篠枝 ﹃ピカッ子ちゃん﹄ - ISBN 4803118027 ●丸木俊・丸木位里﹃ピカドン﹄ISBN 4338010207 ●山口勇子作・四国五郎絵 ﹃絵本 おこりじぞう﹄ ISBN 4323002378絵本
●丸木俊 ﹃ひろしまのピカ﹄ ISBN 4338022019 ●那須正幹 ﹃絵で読む広島の原爆﹄写真集
●土門拳 ﹃ヒロシマ﹄、1958年 ●福島菊次郎 ﹃ピカドン ある原爆被災者の記録﹄、1961年 ●土門拳 ﹃生きているヒロシマ﹄、1978年 ●松重美人(en) ﹃なみだのファインダー - 広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録﹄ - ISBN 4324071144 8月6日に撮影した唯一のカメラマン ●林重男 ﹃爆心地ヒロシマに入る―カメラマンは何を見たか﹄ - ISBN 4005002080絵画集
●NHK広島放送局 ﹃原爆の絵―ヒロシマの記憶﹄、 - ISBN 4140807520ドキュメンタリー
●ジョン・ハーシー ﹃ヒロシマ﹄、1949 - ISBN 4588316125 ●スティーヴン・ウォーカー ﹃カウントダウン・ヒロシマ﹄、2005 - ISBN 4152086548 ●広島テレビ放送編﹃碑︵いしぶみ︶﹄ ●久保 安夫、中村 雅人、岩堀 政則﹃原爆搭載機(B29エノラ・ゲイ)﹁射程内ニ在リ﹂﹄1990 - ISBN 465114201TVドキュメンタリー
●広島テレビ放送﹃チンチン電車と女学生 2003・夏・ヒロシマ﹄︵2003年8月31日に日本テレビ系列で全国放映︶ ●NHK特集﹁夏服の少女たち~広島・昭和20年8月6日~﹂︵1988年8月6日に放送。アニメーションとドキュメンタリーのカップリング︶TVドラマ
●﹃広島 ~1945年8月6日~﹄︵TBSテレビ系列︶関連事項
●原爆下の対局注釈
(一)^ 現在のテニアン島ハゴイ飛行場にあたる (二)^ ボーイングB-29スーパーフォートレス爆撃機であり、機番は82 (三)^ 高高度性能に劣る日本軍戦闘機は、ターボチャージャーや与圧キャビンを装備して成層圏を飛行するB-29に対して戦闘機動を行うのは極めて困難であったためである。なお、エノラ・ゲイ号は尾部砲塔以外の防御火器を廃止して9,000ポンドの原子爆弾を搭載した鈍重で無防備な状態であったため、低空飛行では撃墜の危険もあった。 (四)^ この時の計測用ラジオゾンテを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、﹁原子爆弾は落下傘に付けられて投下された﹂と云う説が一般に流布した事があった。なお、一部のラジオゾンデは日本軍が鹵獲に成功した。 (五)^ 爆発時刻については、広島市は8時15分を採用しているが、米国をはじめ海外では落下時間を考慮した8時16分が一般的である (六)^ 音速は温度に依存するため、真夏の気温30℃を想定した音速を記した (七)^ この圏内の生存者で広く知られているのが核爆発の瞬間、燃料会館の地下室に書類を捜しに入っていて難を逃れた生存者である故野村英三氏(昭和57年6月死去)の証言である。燃料会館は爆心直下の島病院や産業奨励館の直近170mに位置した爆心地であり、被爆直後のキノコ雲の中から生存者が生還したのはまさに奇跡というほかない。燃料会館からの脱出に成功した者は8名いたが、野村氏以外は、大量被曝による急性放射線障害で間もなく全員死亡した。 (八)^ 軍部の指導で行われた被爆者の臨床検査では白血球減少症が見られた為、L-システインを投与して症状の緩和に成功している。 - このシステイン云々の情報の出典不明 (九)^ 広島放送局から被爆直後に女性の声で﹁大阪さん、大阪さん﹂とNHK大阪放送局に向け助けを求める放送を聞いたという証言が多数存在する。これは放送プロデューサー白井久夫によって詳細なルポルタージュが行われ、﹃幻の声 NHK広島8月6日﹄︵岩波新書ISBN4-00-430236-6︶にまとめられている。 (十)^ 通報の内容は記憶によるため、伝聞により揺らぎがある。また、この時点で死者数の推定ができるかどうか疑問も残る。 (11)^ 理化学研究所の仁科芳雄博士をはじめとする日本の原子爆弾開発計画﹁ニ号研究﹂のスタッフらを含んだ、原子物理学の専門家達であった (12)^ 戦後連合国軍最高司令官総司令部によって、原爆報道が禁止されたのであるが、被爆直後の生々しいルポは戦時中のプロパガンダを含むにせよ資料的価値は大きい。なお、この原爆報道により、パニックに陥った新潟県は8月11日に新潟市民に対して﹁原爆疎開﹂命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出した。これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報も流れたからである。原爆疎開が行われた都市は新潟市のみであった。 (13)^ なおこのフィルムは1967年に米国国立公文書館にコピーが収められた後パブリックドメイン扱いとなり、映像の断片が様々な報道や作品に繰り返し引用されることになる。外部リンク
- 広島平和記念資料館WEB SITE
- A-Bomb WWW Museum
- ヒロシマの心を伝える会
- 放射線の影響 (放射線影響研究所 RERF)
- 財団法人 広島平和文化センター
- 地下壕
- 私の被爆体験と平和への思い
- RCCテレビ『被爆60年 ヒロシマの記憶』 ("The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki"の映像を元にした作品。動画あり)