「片山右京」の版間の差分
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前年の広告面での成果が想定より悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退、チームは資金難となる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。 |
前年の広告面での成果が想定より悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退、チームは資金難となる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。 |
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またこの年の右京とティレルとの契約がなかなか合意に達しない間にも新シャーシ(ティレル024)の開発は進行しており、既にチームと契約済みだったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められていた。その為、右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。トップチームへの移籍を見越してチームと95年の単年契約を結んだ事が結果的に仇となった。 |
またこの年の右京とティレルとの契約がなかなか合意に達しない間にも新シャーシ(ティレル024)の開発は進行しており、既にチームと契約済みだったミカ・サロの体型(身長175cm)に合わせてコクピット形状が決められていた。その為、身長165cmの右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。トップチームへの移籍を見越してチームと95年の単年契約を結んだ事が結果的に仇となった。 |
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その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切れ角にズレが生じてしまう事になった(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)。右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされた。ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで実行された。 |
その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切れ角にズレが生じてしまう事になった(右京はこの現象を「手アンダー」と呼んでいた)。右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされた。ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした「奇策」まで実行された。 |
2024年4月18日 (木) 16:42時点における版
片山 右京 Ukyo Katayama | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 神奈川県相模原市 |
生年月日 | 1963年5月29日(61歳)[1] |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1992 - 1997 |
所属チーム | |
出走回数 | 97 (95 starts) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 5 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
初戦 | 1992年南アフリカGP |
最終戦 | 1997年ヨーロッパGP |
F1関連記事 |
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関連リスト |
来歴
生い立ち
レースデビュー
たまたまガールフレンドの家のテレビに映っていた﹃モナコグランプリ﹄の映像で見た海沿いのコースを猛スピードで走っている光景を﹁別世界での出来事﹂に感じ衝撃を受け、レーシングカーが欲しいと衝動的に思ったのをきっかけに、三つの仕事を掛け持ちして資金を貯め、ようやくかなりぼろぼろの中古ツーリングカーを購入[4]。その後、一度でいいからシングルシーターのフォーミュラーカーに乗ってみたいという欲が出はじめた。 あるとき、読んでいたレース雑誌に中古のフォーミュラカー売りますとの告知を見つけ、茨城県の筑波サーキットの正門前にあるレースガレージ﹁オートルック ツクバガレージ﹂に出向く。そこではちょうどメカニック募集の貼り紙がしてあり、それを見て右京はそのまま家に帰らず、作業場に寝泊りするようになった[7]。以降もパチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年に筑波FJ1600Bシリーズでレースデビューすると、そのレースでポールポジションを獲得し優勝。同シリーズでチャンピオンに輝き、翌1984年はオートルック社長の反対を押し切り、筑波から飛び出してしまう形で三重県の鈴鹿へと移る。これは﹁鈴鹿がサーキットレイアウトの変化に富んでいて、出場者の闘争心がハイレベルなレースに感じていた﹂ためであった。まず修理工場で働きはじめ、約1年ほど京都の建設現場でも働き、その近くの作業員用宿舎で生活。そこには暖房などなく冬は寒さで寝付けないためレーシングスーツを着て寝ていた[4]。その環境で得た資金をすべてレースのために使い、鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを獲得する好成績を残す[8]。﹁カミカゼ・ウキョウ﹂
1985年に全日本F3選手権にステップアップし、ランキング6位の成績を残す[8]。またこの年の8月にフランスへと渡り、フォーミュラ・ルノースクール︵ウィンフィールド・レーシングスクール︶を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。 首席での卒業のため、本来であればエルフのスカラシップを獲得するところだが、日本でF3の出走経験があったことからスカラシップの対象外とされ、次席のエリック・コマスがスカラシップを獲得した[9]。 1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす[9]。同年シリーズ途中から1987年までチーム・デュケンからフランスF3に参戦。リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集めた。レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ﹁片山右京 死亡﹂の誤報が流れたこともあった。その恐いもの知らずの走りから﹁神風︵神風特別攻撃隊の意︶右京﹂と呼ばれた。 '87フランスF3での結果が好転せず、資金の問題も生じた。同年秋に帰国し、翌年へ向けて日本のレース参戦を模索する。全日本F3000
1988年
日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場[10]。メインスポンサーにアパレルメーカー﹁BA-TSU﹂が付きその資金を元に、自前チームの片山企画から参戦した為、ドライバーとチームマネージャーの二足のわらじを履いた。マシンは前年に星野一義が使用していたものであった。ドライバーとマネージャーの二足のわらじによる多忙さに加えてチームの資金難や型落ちマシン故に苦戦したが、第5戦菅生で5位入賞。最終戦鈴鹿では終盤まで3位を走行するものの、レース中盤にジェフ・リースに接触して左リアサスペンションを破損した箇所が悪化してリタイア。レース後は悔しさをにじませた場面もあった。またル・マン24時間レースにフランスのクラージュ・コンペティションから出場した。 この年の全日本F3000のチャンピオンとなったのは、F3時代から仲が良かった先輩・鈴木亜久里だったが、F1への参戦が決まった亜久里から﹁来年どうするの?﹂と聞かれ、﹁行くところがないんです﹂と答えたところ、亜久里が﹁じゃあ俺が抜けるフットワークは良いチームだから紹介するよ﹂と言われ、亜久里の後任として全日本F3000チャンピオンチームとなったフットワーク︵ムーンクラフト︶への移籍が決まった[11]。1989年
亜久里の仲介もあり、由良拓也率いるムーンクラフト︵フットワーク︶に加入したが、同年の﹁ムーンクラフト・MC040﹂はマシンバランスが悪く、熟成不足のオリジナルシャーシでの参戦であったために、3戦でリタイアなど結果が出なかった。また同チームより国際F3000選手権にも遠征しスポット参戦したが、同様の理由から低迷した。このシーズンについて﹁僕にもっと開発能力があればオリジナルマシンでももっとやれたと思うし、由良さんも去年チャンピオンを取ったのに右京になったら調子が落ちたって思ってるかもしれない。﹂と悔しさを述べている[11]。 併せて全日本ツーリングカー選手権にも﹁出光石油 with Footwork﹂からエントリーし、村松栄紀とともにホンダ・シビックをドライブした。常に上位争いに顔を出し、第4戦ではクラス優勝を飾った。1990年
名門ヒーローズレーシングへ移籍[12]。田中弘監督の指導のもと、のちに片山個人が大きな支援を受けることとなるCABINブランドをメインスポンサーに持つ名門チームに加入し、これまでにない恵まれた体制での参戦環境となったが、一方で好成績しか許されない厳しい環境でもあった。バブル景気の真っただ中で参戦台数が多く上位争いが激しかった中で、優勝は奪えなかったが2位1回を含む3回表彰台に上り、一躍F3000トップドライバーの一員となった。田中監督からは特に日本独特のハイグリップタイヤでのドライビングについて指導があり、自らの走り方を貫きたい右京は葛藤しながらのシーズンでもあったが、シーズンランキング5位を獲得。しかし、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。なおこの年にF1のブラバム・ヤマハのテストドライバーに抜擢された。1991年
ヒーローズレーシングでの二年目、開幕戦鈴鹿でF3000初優勝を果たす[13]。第5戦で2勝目を挙げるなど常に上位争いに加わり、着実にポイントを稼ぎライバルであったロス・チーバー、星野一義、小河等、エディ・アーバイン、フォルカー・ヴァイドラーらを下して、最終戦の富士スピードウェイにおいてシリーズチャンピオンとなる。 この年の7月に日本人初のF1レギュラードライバーである中嶋悟の引退が発表されたため、﹁今年F3000チャンピオンを取る片山が次のF1最有力﹂との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたという。F1
1992年
1993年
1994年
1995年
1996年
前年の広告面での成果が想定より悪かった事でメインスポンサーの﹁NOKIA﹂が撤退、チームは資金難となる︵ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して﹁NOKIA﹂を怒らせてしまったとの説がある︶。 またこの年の右京とティレルとの契約がなかなか合意に達しない間にも新シャーシ︵ティレル024︶の開発は進行しており、既にチームと契約済みだったミカ・サロの体型︵身長175cm︶に合わせてコクピット形状が決められていた。その為、身長165cmの右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった︵シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された︶。トップチームへの移籍を見越してチームと95年の単年契約を結んだ事が結果的に仇となった。 その結果、実際にステアリングを切った量と右京がイメージする切れ角にズレが生じてしまう事になった︵右京はこの現象を﹁手アンダー﹂と呼んでいた︶。右京用のシャーシが製作されたシーズン中盤までこの現象に悩まされた。ドイツGPの予選では前後のタイヤを同じフロントタイヤを装着して少しでも空気抵抗を減らそうとした﹁奇策﹂まで実行された。 夏からは翌年に向けシート交渉が活発化し、ケン・ティレルからは慰留されたが、同年限りでヤマハエンジンを失うことが決定しており、さらにチームメイトのサロ寄りの体制になったことに不満を抱いていたことから、ティレルと袂を分かつことが決定的となる。 4年仕事を共にしたヤマハエンジンは、97年からアロウズへ供給先を変更することを発表。これまでのヤマハとのつながりの深さから﹁片山もアロウズへの移籍が最有力か﹂との報道も多くされていたが、空席のセカンドドライバー︵アロウズのナンバーワンドライバーには既にウィリアムズからチャンピオンのデイモン・ヒルの加入が発表済であった。︶には、名前こそ明言しなかったが﹁日本人ドライバーを乗せることはない﹂とアロウズ代表のトム・ウォーキンショーが早々にアナウンスする事態となり、本人の﹁人間片山右京が終わるわけではない﹂との発言もあって、移籍か引退かの報道が過熱することとなった。この時点でシートの空席はすでに少なくなっており、スポンサーの絡みもあって、移籍するならばザウバーかミナルディの二択に事実上絞られることとなった。 ●出走回数‥16戦 ●獲得ポイント‥0 ●予選最高位‥12位︵イギリスGP︶ ●決勝最高位‥7位︵ハンガリーGP︶1997年
結局、97年シーズンはフラビオ・ブリアトーレがオーナーとなっていたミナルディに移籍することになった[15]。ナンバーワンドライバーとして、またのんびりと家庭的なイタリアのチームを、闘う集団とするための立て直しのリーダーとして、チーム改革を期待されての移籍であった。 チームメイトはルーキーのヤルノ・トゥルーリ[16]。このルーキードライバーに片山自身も惜しみなくアドバイスを送り、良好な関係を築いている[16]。(シーズン序盤、トゥルーリが好走をすると、﹁右京のアドバイス通りに走った﹂とコメントするのが常であった。︶ この年はマシン性能から明らかなる苦戦が予想されていたものの、開幕戦のオーストラリアGPでは前年までと遜色ない予選15番手を獲得し、関係者を驚かせ健在ぶりを示した。しかし、シーズンが進むにつれ、他チームのマシン性能がアップデートされていくとミナルディの戦闘力不足はいかんともしがたく、F1参戦を通じて最多となるシーズン8戦で完走を果たしたものの、同じV8エンジンユーザーの古巣ティレルとのテールエンダー争いに終始した。チームからは働きを評価され翌年の契約延長のオファーをもらい、複数チームから移籍オファーもあったとされるが、﹁後進にF1シートを譲りたい﹂との理由で[17]、日本GPにて同年限りでのF1引退を発表、最終戦をもって引退した。この決断の理由として﹁チームメイトのルーキー、ヤルノ・トゥルーリの急激な成長を目にして、自分にはすでに伸びシロが無くなっていたことを認識させられた﹂と述べている。 F1通算での入賞回数3回︵当時は6位以内︶はF1ドライバーとしてはごくごく平凡な記録であり、また入賞を記録したのも1994年シーズンのみであったが、その1994年シーズンの速さによって、日本人ドライバーがF1で優勝することをファンに現実的に感じさせてくれた初めてのドライバーであると言われる。F1通算出走回数は95戦。この95戦という記録は、引退から26年を経た2023年時点においても日本人ドライバーの中では歴代最多であり、遺した足跡は大きい。 ●出走回数‥17戦 ●獲得ポイント‥0 ●予選最高位‥15位︵オーストラリアGP︶ ●決勝最高位‥10位︵モナコGP、ハンガリーGP︶ル・マン24時間レース
その他のカテゴリー
その後は、同じく関係の深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、ダカールラリー、アジアクロスカントリーラリーなどにも参戦した[19]。他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム﹁ル・ボーセ・モータースポーツ﹂を、F3時代からの担当メカニックだった坪松唯夫と運営した︵2019年に活動終了︶。また、2007年11月からスタートしたスピードカー・シリーズにも参戦していた。 2011年はグッドスマイルレーシングとStudieが運営するチームにTeamUKYOが参加、スポーティングディレクターに就任した[20]。2012年も継続してスポーティングディレクターを務めると共に、チームが2台体制になったのに伴い4号車の監督を兼務した。2014年からはグッドスマイルレーシングがエントラントとなり体制変更を受けてチーム監督に就任した。登山
F1現役当時から登山を趣味としており、北米キリマンジャロなどに登頂。幼少期、元々は父親の影響で登山家・冒険家を志していたという[21]。F1引退後は登山をライフワークと位置づけ活動。2001年にはチョ・オユー登頂に成功。2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、途中断念した。2006年にはマナスルの登頂に成功した。 2007年にはガッシャーブルムII峰に遠征。天候不順により登頂を断念した。この遠征中に、竹内洋岳を含むドイツ隊の5人が雪崩に巻き込まれる事故が発生。酸素ボンベの提供などの救援活動に従事している[22]。 2009年12月17日、南極大陸のヴィンソン・マシフ登頂に挑戦するための訓練として、自身が経営する片山プランニングの社員2名と共に富士登山中に遭難した[23]。片山本人は翌18日に自力で下山する途中、静岡県警山岳救助隊員に発見、保護された[24]。翌19日の正午過ぎ6合目付近で男性2人の遺体が発見され、行方不明となっていた社員2名と確認された[25]。同日に記者会見が行われ、片山の事務所は同月25日から予定していた[23]南極行きの中止を発表[26]。片山自身も以降の登山活動を自粛していたが、警察の捜査終了後、翌年3月24日より再開した[27][28]。 これを受けて日本山岳協会理事長の尾形好雄は﹁冬の富士山で一番怖いのは突風であり、風によって滑落、転倒するのが冬富士の遭難の典型﹂と指摘している[29]。また、﹁無理はせず、強い風が吹けば引き返すのが当たり前﹂と発言している。自転車
2000年代に入ってからは自転車関連の事業も手がけ、ロードレースに選手として参加。2006年のシマノもてぎレース2時間エンデューロ2人クラスで初めてながら4位に入る健闘を見せる。2008年のエタップ・デュ・ツールでも日本人最高位で完走を果たした[30]。他にオリジナルマウンテンバイクの開発や、今中大介のインターマックスとも提携している。さらに2005年からは女子自転車競技チーム﹁チーム・エレファント﹂の監督も務めた。 2009年より活動を開始した宇都宮ブリッツェンにもドライバー・スタッフ︵当初はメンタル・アドバイザー︶として参加。2010年のジャパンカップ・クリテリウムにおいて、宇都宮ブリッツェンの選手としてデビュー[31]する。2011年は﹁宇都宮ブリッツェン・TeamUKYO﹂のチーム名義でJBCF︵実業団︶Jエリートツアーに参戦した。 2012年には宇都宮ブリッツェンを離れ、新たにTeamUKYOとして国際自転車競技連合 (UCI) 登録のコンチネンタルチームを設立、自ら監督を務める傍ら右京自身も﹁TeamUKYO Reve﹂︵Reveはフランス語で﹁夢﹂の意︶のチーム名義で引き続きJエリートツアーに参戦している。 2018年には全日本実業団自転車競技連盟 (JBCF) の理事長に就任。 2020年6月に全日本実業団自転車競技連盟 (JBCF) の理事長を退任、理事を辞職[32]。 2020年11月、翌年開始のジャパンサイクルリーグのチェアマンに就任[33]。 2021年7月 - 2021年8月に開催された、東京オリンピック・パラリンピックの自転車競技のスポーツマネージャーを務めた。その他の活動
現役時代には子供番組﹁ウゴウゴルーガ﹂にゲスト出演。F1引退後はフジテレビのF1中継番組﹁F1グランプリ﹂に解説者のひとりとして出演し、熱い語り口を聞かせている。また、am/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ﹃水戸黄門﹄に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。自身をメインパーソナリティーとする、ラジオやテレビのレギュラー番組も持っている。 前述の富士山登山中の遭難事故により、2009年12月18日より全てのTV・ラジオ番組の出演を無期限で休止していたが、翌年3月23日に復帰することを発表した。現在は引き続きフジテレビCSのF1中継の解説者を務め、2014年9月より開幕するFIAフォーミュラE選手権のテレビ朝日のテレビ中継の解説者を務めた。年表
●1983年 - 筑波FJ1600Bクラスデビュー ●1984年 - 鈴鹿FJ1600Aクラスチャンピオン ●1985年 - 全日本F3︵チーム‥ハセミモータースポーツ︶︵マシン‥ハヤシ322日産︶最高位4位、1FL シリーズ6位 ●1986年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦 ●1987年 - フランス フォーミュラ・ルノー参戦 フランスF3 スポット 参戦 ●1988年 - 全日本F3000参戦︵チーム‥BA-TSUレーシング︶︵マシン‥マーチ87B&ローラT88/50無限︶最高位5位 シリーズ11位 ●1989年 - 全日本F3000︵チーム‥フットワーク︶︵マシン‥ムーンクラフト040&041無限︶最高位7位。国際F3000スポット参戦 同チーム同マシンにより参戦。 ●1990年 - 全日本F3000︵チーム‥ヒーローズ︶︵マシン‥ローラT90/50無限&DEV︶最高位2位、1FL シリーズ5位 ●1991年 - 全日本F3000︵チーム‥ヒーローズ︶︵マシン‥ローラT90/50&T91/50DEV︶2勝、2PP、2FL シリーズチャンピオン ●1992年 - F1参戦︵チーム‥ラルース︶︵マシン‥ベンチュリLC92ランボルギーニ︶最高位9位、トヨタTS010にてルマン24時間レース出場 決勝15時間後/192周回目にエンジントラブルでリタイヤ ●1993年 - F1︵チーム‥ティレル︶︵マシン‥ティレル020C&021ヤマハ︶最高位10位 ●1994年 - F1︵チーム‥ティレル︶︵マシン‥ティレル022ヤマハ︶最高位5位 シリーズ17位 ●1995年 - F1︵チーム‥ティレル︶︵マシン‥ティレル023ヤマハ︶最高位7位 ●1996年 - F1︵チーム‥ティレル︶︵マシン‥ティレル024ヤマハ︶最高位7位 ●1997年 - F1︵チーム‥ミナルディ︶︵マシン‥ミナルディM197ハート︶最高位10位、F1引退表明。 ●1998年 - ルマン24時間耐久レース参戦︵チーム‥トヨタ・チーム・ヨーロッパ︶︵マシン‥トヨタTS020 GT-ONE︶総合9位 ●1999年 - ルマン24時間耐久レース参戦︵チーム‥トヨタ・チーム・ヨーロッパ︶︵マシン‥トヨタTS020 GT-ONE︶総合2位 ●2000年 - JGTC︵GT500︶参戦︵チーム‥NISMO︶︵マシン‥日産・スカイラインGT-R︵R34︶︶シリーズ11位 非選手権セパン戦で優勝。 ●2001年 - JGTC︵GT500︶TeamUKYOを設立︵マシン‥トヨタ・スープラ︶ ●2002年 - ダカールラリー参戦︵チーム‥アラコ︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶リタイア JGTC︵GT500︶︵チーム‥TeamUKYO︶︵マシン‥トヨタ・スープラ︶シリーズ27位 シーズン中下田隼成にシートを譲り降板。 ●2003年 - ダカールラリー参戦︵チーム‥アラコ︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶リタイア ルマン24時間耐久レース︵チーム‥KONDO Racing︶︵マシン‥童夢S101無限︶総合13位 ●2004年 - ダカールラリー参戦︵チーム‥アラコ︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶リタイア ●2005年 - ダカールラリー参戦︵チーム‥トヨタ車体︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶総合30位、クラス3位。 大阪産業大学工学部交通機械工学科の客員教授に就任。交通機械工学を講義する。アジアクロスカントリーラリー参戦︵チーム‥TeamUKYO︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶ ●2006年 - アジアクロスカントリーラリー参戦︵チーム‥TeamUKYO︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶バイオディーゼル燃料を利用して完走。総合14位 ●2007年 - ダカールラリー参戦︵チーム‥TeamUKYO ECOプロジェクト︶︵マシン‥トヨタ・ランドクルーザー100︶使用済み天ぷら油をリサイクルして燃料としたディーゼル車にて完走。総合68位、クラス19位 ●GP2アジアシリーズとの併催で2007年冬より新たにスタートするストックカーレース、スピードカーシリーズへの参戦を発表。F1時代からの友人であるジャン・アレジやジョニー・ハーバートから熱心に誘われ、実際にテストをしてみてから本人が決断したとのことで、久々にサーキットレースへの復帰を果たす。 ●2009年 - 南米移転後のダカールラリー参戦︵チーム‥TeamUKYO ECOプロジェクト、マシン‥トヨタ・ランドクルーザープラド︶。ステージ5でエンジンオーバーヒートによりリタイア。レース戦績
全日本F3選手権
年 | チーム | シャシー | エンジン | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | オートルックハセミモータースポーツ | ハヤシ・321 (R1) ハヤシ・322 (R2-R7) |
日産 | SUZ 6 |
FSW 4 |
SUZ 11 |
TSU 5 |
NIS 4 |
SUZ 13 |
SUZ 7 |
6位 | 38 |
フランス・フォーミュラ3選手権
年 | チーム | シャシー | エンジン | タイヤ | 車番 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1986年 | オートルック・レーシングプロジェクト | デュケン・VG4 | アルファロメオ | 55 / 64 | NOG | ALB | MAG | PAU | LAC | ROU | LEC Ret |
ALB Ret |
BUG Ret |
LED 17 |
CET 14 |
NC | 0 | |||
1987年 | オートルック RGプロジェクト | デュケン・VG5 | トヨタ | M | 23 | ALB 17 |
NOG DNQ |
MAG DNQ |
DIJ | LEC 15 |
PAU 10 |
ROU | NC | 0 | ||||||
AA Sport | ラルト・RT31 | VW GX | LEC 10 |
LAC | NOG | BUG | LED | CET |
国際F3000選手権
年 | チーム | シャシー | エンジン | タイヤ | 車番 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | フットワーク・フォーミュラ | ムーンクラフト・MC041 | 無限・MF308 | A | 23 | SIL DNQ |
VLL Ret |
PAU DNQ |
JER 18 |
PER | BRH | BIR | SPA | BUG | DIJ | NC | 0 |
全日本F3000選手権
年 | チーム | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | BA-TSU RACING TEAM | SUZ 11 |
FSW Ret |
NIS Ret |
SUZ 7 |
SUG 5 |
FSW 8 |
SUZ 12 |
SUZ Ret |
11位 | 2 | |||
1989年 | Footwork FORMULA | SUZ 9 |
FSW Ret |
NIS | SUZ Ret |
SUG Ret |
FSW 15 |
SUZ 18 |
SUZ 7 |
NC | 0 | |||
1990年 | CABIN RACING with HEROES | SUZ Ret |
FSW 3 |
NIS 5 |
SUZ Ret |
SUG 12 |
FSW 5 |
FSW 2 |
SUZ 3 |
FSW Ret |
SUZ DSQ |
5位 | 18 | |
1991年 | SUZ 1 |
AUT 4 |
FSW 9 |
MIN Ret |
SUZ 1 |
SUG 6 |
FSW 2 |
SUZ 2 |
FSW C |
SUZ 10 |
FSW 2 |
1位 | 40 |
F1
年 | チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1992年 | ヴェンチュリー | LC92 | RSA 12 |
MEX 12 |
BRA 9 |
ESP DNQ |
SMR Ret |
MON DNPQ |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL 17 |
ITA 9 |
POR Ret |
JPN 11 |
AUS Ret |
25位 | 0 | |
1993年 | ティレル | 020C | RSA Ret |
BRA Ret |
EUR Ret |
SMR Ret |
ESP Ret |
MON Ret |
CAN 17 |
FRA Ret |
GBR 13 |
28位 | 0 | ||||||||
021 | GER Ret |
HUN 10 |
BEL 15 |
ITA 14 |
POR Ret |
JPN Ret |
AUS Ret |
||||||||||||||
1994年 | 022 | BRA 5 |
PAC Ret |
SMR 5 |
MON Ret |
ESP Ret |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR 6 |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA Ret |
POR Ret |
EUR 7 |
JPN Ret |
AUS Ret |
17位 | 5 | ||
1995年 | 023 | BRA Ret |
PAC 8 |
SMR Ret |
ESP Ret |
MON Ret |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 7 |
HUN Ret |
BEL Ret |
ITA 10 |
POR Ret |
EUR | PAC 14 |
JPN Ret |
AUS Ret |
20位 | 0 | |
1996年 | 024 | AUS 11 |
BRA 9 |
ARG Ret |
EUR DSQ |
SMR Ret |
MON Ret |
ESP Ret |
CAN Ret |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 7 |
BEL 8 |
ITA 10 |
POR 12 |
JPN Ret |
17位 | 0 | ||
1997年 | ミナルディ | M197 | AUS Ret |
BRA 18 |
ARG Ret |
SMR 11 |
MON 10 |
ESP Ret |
CAN Ret |
FRA 11 |
GBR Ret |
GER Ret |
HUN 10 |
BEL 14 |
ITA Ret |
AUT 11 |
LUX Ret |
JPN Ret |
EUR 17 |
24位 | 0 |
全日本GT選手権
年 | チーム | コ.ドライバー | 使用車両 | クラス | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1999年 | TOYOTA Castrol TOM'S | 鈴木利男 | トヨタ・スープラ | GT500 | SUZ 3 |
FSW | SUG 11 |
MIN 2 |
FSW 15 |
TAI 15 |
TRM 10 |
15位 | 28 | |
2000年 | NISMO | ミハエル・クルム | 日産・スカイラインGT-R | GT500 | TRM | FSW 2 |
SUG 11 |
FSW 6 |
TAI 11 |
MIN Ret |
SUZ 4 |
11位 | 31 | |
2001年 | TOYOTA TEAM CERUMO WITH UKYO | 近藤真彦 | トヨタ・スープラ | GT500 | TAI 12 |
FSW 14 |
SUG 13 |
FSW 14 |
TRM | SUZ Ret |
MIN 13 |
NC | 0 | |
2002年 | TOYOTA TEAM CERUMO | 近藤真彦 | GT500 | TAI 15 |
FSW | SUG 9 |
SEP | FSW | TRM | MIN | SUZ | 27位 | 2 |
全日本GT選手権 (ノン・チャンピオンシップ)
年 | チーム | コ.ドライバー | 使用車両 | クラス | 1 | 2 |
---|---|---|---|---|---|---|
1996年 | TOYOTA Castrol TEAM | 関谷正徳 | トヨタ・スープラ | GT500 | CEN 4 |
|
1997年 | GT500 | TRM1 Ret |
TRM2 5 | |||
1999年 | TOYOTA Castrol TEAM TOM'S | 鈴木利男 | GT500 | AUT Ret |
||
2000年 | NISMO | ミハエル・クルム | 日産・スカイラインGT-R | GT500 | SEP 1 |
|
2001年 | TOYOTA TEAM CERUMO WITH UKYO | 近藤真彦 | トヨタ・スープラ | GT500 | SEP 11 |
ル・マン24時間レース
年 | チーム | コ・ドライバー | 車 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1988年 | クラージュ・コンペティション | ポール・ベルモンド フランソワ・ミゴール |
クラージュ・C22-ポルシェ | C1 | 66 | DNF | DNF |
1992年 | トヨタ・チーム・トムス | ジェフ・リース デビッド・ブラバム |
トヨタ・TS010 | C1 | 192 | DNF | DNF |
1998年 | トヨタ・モータースポーツ | 鈴木利男 土屋圭市 |
トヨタ・GT-One | GT1 | 326 | 9位 | 8位 |
1999年 | 鈴木利男 土屋圭市 |
LMGTP | 364 | 2位 | 1位 | ||
2002年 | ペスカロロ・スポール | エリック・エラリー ステファン・オルテリ |
クラージュ・C60-プジョー | LMP900 | 144 | DNF | DNF |
2003年 | KONDO Racing | 近藤真彦 福田良 |
童夢・S101-無限 | LMP900 | 322 | 13位 | 8位 |
全日本ツーリングカー選手権
年 | チーム | コ.ドライバー | クラス | 使用車両 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 順位 | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | IDEMITSU RACING With Footwork FORMULA |
村松栄紀 | JTC-3 | ホンダ・シビック | NIS 4 |
SEN Ret |
TSU Ret |
SUG 3 |
SUZ 1 |
FSW 8 |
人物
ドライビング
●マシンセッティングの好みはオーバーステア寄りのセッティングを好み、コーナー入口ではワイドなラインかつハードブレーキングで入り路面に食いつかせ、アクセルを踏みこんでスライドさせながらコーナーを立ち上がっていくスタイルであった。しかし1990年から所属したヒーローズレーシングの田中弘監督からは﹁その走り方だと日本のレースでは勝てないよ。﹂と指摘され、日本の高性能のタイヤを活かすためにタイヤの負担を減らし、アクセルを踏み込み過ぎず、効率よくタイヤを活かすための頭を使った走りを求められた。このため本来の﹁踏んでしまう﹂スタイルを自制する必要があり、全日本F3000で結果を残すために走行スタイルを﹁日本式﹂にアジャストした[41]。 ●しかし1992年からF1デビューすると、F1用のグッドイヤータイヤの特性からすると﹁日本の走り方では全くタイムが出ない﹂ため、コーナー出口でのトラクションの掛け方を変える必要があった。それは自分本来の走り方に戻す方向であったが、﹁日本の走り方が身に染みついちゃって、簡単に元に戻らないんですよ︵笑︶﹂と1992年モナコGP後に述べている。その席では﹁もともと横Gを掛けて乗るのが好きなんだけど、日本でそういう走り方をすると田中監督にすぐ叱られましたね。日本でグッドイヤーに向いてる走り方をして、コーナーを外から思い切り入って横Gを掛けると、日本のタイヤはコーナーの中でタイヤがつぶれる動きになるんです。コーナー出口ではそれが反発する動きになって、オツリみたいな感じでマシンをふらつかせてしまう。僕の90年とか、ジョニー・ハーバートが日本で苦労したのもそのせいなんですよ。﹂と走り方の違いを語っている[42]。 ●ティレルでチームメイトのミカ・サロは右京のスタイルについて、﹁良いドライバーなのは間違いない。ただ、マシンテストのときは、僕とはドライビングのスタイルが極端に違っていたのでセッティングの共有は全くできなかった。僕よりもブレーキング・ポイントがすごく深くまで入るワイルドなスタイルだ。右京のセッティングの好みはオーバーステア気味の仕上がりだけど、僕はオーバーステアが嫌い。こんな感じで共通点がほとんど無いので、走った後のマシンの感想も違ってしまう。これは開発するハーベイ・ポスルスウェイトにとって困った問題だったかもしれないね。﹂と語っている[43]。 このほか、ドライビングの悪い癖を直し、サーキットの走行時間を増やしたいという理由から、現役レーサーとしては珍しくドライビング・コーチについて練習していた[44]。長年の付き合いである先輩・鈴木亜久里は﹁右京はフォーミュラはいいけど、ツーリングカーだと速くないよね︵笑︶﹂と右京本人に話したのに対して﹁その通りでございます﹂と返答している[45]。出演
テレビ
●トップランナー ●1999年7月23日NHK総合テレビで放送。 ●課外授業ようこそ先輩 ●2001年9月23日﹁君の体は心が動かす﹂NHK総合テレビで放送。 ●自転車つれづれ旅日和 ●2011年10月4日からBS-TBSで放送。 ●Car散歩〜車で巡るちょっと贅沢な休日旅〜 ●2013年4月からBSフジで放送。 ●片山右京の02POSITION ●2013年4月からテレビ神奈川・テレビ埼玉・千葉テレビ放送で放送。テレビドラマ
●水戸黄門 第32部第11話﹁紅花咲かせた豪傑女医﹂︵2003年10月27日︶ - 松平忠雅 役ラジオ
●TOYOTA Presents 片山右京のShall We Drive?〜ドライブしようよ!〜 ●2005年10月より2009年3月までTBSラジオ他JRN各局で放送されていたラジオ番組。 ●feel the mind〜最上の出会い〜 ●2009年4月6日から2011年4月までTBSラジオ他JRN各局で放送されていたラジオ番組。富士山遭難事故のため、事故当日︵当日は放送休止︶から翌年4月まではつなぎ番組および辰巳琢郎が代理パーソナリティを務めた。 ●NEXCO中日本 DRIVE ON THE HEART ●TOKYO FMのラジオ番組。NEXCO中日本管轄エリアのJFN各局で放送。富士山遭難事故のため出演休止、そのまま降板︵後任は永井大︶。 ●玉川美沙 ハピリー ●文化放送の番組。﹁片山右京・玉川美沙 Radio Koguuu!︵レディオ・コグー︶﹂のコーナーに出演︵2012年4月〜︶ ●片山右京 DREAM REVIEW ●文化放送の番組。︵2018年4月〜︶テレビCM
●日本たばこ産業︵1992年-1993年︶ ●トヨタ・カローラレビン︵1993年︶ ●am/pm︵1996年-1997年︶ ●横浜ゴム︵2018年-2019年︶ ●ミロク情報サービス︵2020年-︶ゲーム
●﹃ヘブンリーシンフォニー﹄︵メガCD︶では、F1選手として登場した。 ●﹃F1GP﹄︵3DO︶では、F1選手として登場した。[46]脚注
注釈
出典
参考文献
- 「特集 片山右京」『Racing on』第486巻、三栄、2017年。
関連項目
外部リンク
- Team UKYO
- 中日スポーツ:コラム 片山右京・チャレンジライフ一覧:コラム 片山右京・チャレンジライフ(CHUNICHI Web)
- 片山右京 F1 Blog/ウェブリブログ (更新終了)
- 片山右京 (ukyo.katayama) - Facebook
- 白山ジオトレイル
タイトル | ||
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先代 星野一義 |
全日本F3000選手権 1991年 |
次代 マウロ・マルティニ |