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* {{cite journal|ref=harv|last=Jacobsen|first=Lyle E.|year=1983|title=Use of Knotted String Accounting Records in Old Hawaii and Anicent China|url=https://www.jstor.org/stable/40697779|journal=The Accounting Historians Journal|volume=10|issue=2|pages=53–61|issn=0148-4184}} |
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* {{cite book|ref=harv|last=Knight|first=Charles|year=1835|title=The Penny Cyclopaedia of the Society for the Diffussion of Useful Knowledge|publisher=Society for the Difussion of Useful Knowledge|volume=4|url=https://books.google.co.jp/books?id=2C89LepPuvsC&lpg=PA517}} |
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* {{cite journal|ref=harv|last=Nastevičs|first=Uģis|title=The Knot Script - the Lost Writing System of the Latvian Language|publisher=Education Reform in Comprehensive School|journal=Education Content Research & Implementations Problems|pages=77-89|year=2016|url= |
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* {{cite news|ref=harv|last=Wilford|first=John. N.|title=String, and Knot, Theory of Inca Writing|publisher=The New York Times|year=2003|date=2003-8-12|url=http://www.weisun.org/apworld/assign/unit_03/supp_reading/john_noble_wilford.pdf}} |
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2021年1月8日 (金) 07:29時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a7/Inca_Quipu.jpg/300px-Inca_Quipu.jpg)
古代の結縄
史料
結縄が記録媒体として用いられた最も古い記録の1つとして、中国では﹃易経﹄の繫辞・下伝に、 上古結縄而治。後世聖人易之以書契。[3] 上古は縄を結びて治まる。後世の聖人︵伏羲︶、之れに易︵か︶うるに書契︵文字や割符︶を以てす。 の記述がある。唐代の易の注釈である﹃周易集解﹄は﹃九家易﹄︵前漢、逸書︶を引き、﹁古は文字無く、其れ約誓の事有らば、事の大ならば其の縄を大結し、事の小ならば其の縄を小結し、結の多少は物の衆寡に随う﹂[4]と述べる。ここから、文字のなかった時代の政治を﹁結縄の政﹂と言い、特に老荘の書にはその理想が垣間見える。例えば、﹃老子﹄第80章﹁小国寡民﹂には﹁民をして復た縄を結いて之れを用いしむ﹂[5]などとある。 日本に関して、﹃隋書﹄巻81東夷伝倭国条には、倭人の風俗として﹁文字無し、唯だ木を刻み縄を結ぶのみ﹂と記しているが、唐古・鍵遺跡や鬼虎川遺跡など弥生時代の遺跡からは、結び目の付いた大麻の縄やイグサの結び玉と考えられるものも発見されている[6]。また藤原相之助によれば、古来日本では、萱や菖蒲などの長い葉を取って2・3か所玉結びにして、その結び方や場所によって祝意や恋愛などの様々な意味を表したとされている︵草結び︶[7]。 また古代ギリシアにおいては、ヘロドトスの﹃歴史﹄︵紀元前5世紀︶に記録がある。アケメネス朝ペルシアの王ダレイオスは、同盟のギリシア軍に橋頭の防衛を任せてスキュティアに進軍する際、60個の結び目がついた革ひもを渡しながら、次のような言葉を残したとされる。 そなたらはわしがスキュタイ人攻撃に出発するのを見たならば、その時から始めて毎日結び目を一つずつほどいていってくれ。その期間にわしが戻ってこず、結び目の数だけの日が経過したならば、そなたらは船で帰国してくれてよい。[8] 古代エジプトのヒエログリフには、結び目の付いた紐を模したものがある。エジプトの測量術において、結び目のついたロープを使って直角三角形を作っていたことは知られているが、こうした測量技師は同時に結び目を作り計数管理をする技術者であった可能性もある[9]。宗教儀礼と結縄
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Tzitzith.jpg/200px-Tzitzith.jpg)
南北アメリカ
インカ帝国
中南米
歴史家のエルランド・ノルデンシェルドは、結縄が中米のコロンビアやパナマのインディオ、メキシコ中部~北部、アマゾンからポリネシアにまで存在したと指摘したうえで、十進法を知らなかった点で中米の結縄はペルーのそれとは区別されるべきであると主張する。ルイ・ボーダンも、コロンビアのポパヤン、オリノコ川カリブ、北米のインディアンの一部、文字出現前のメキシコに結縄が使われていたと述べる。16世紀イエズス会士のホセ・ゲバラ神父はトゥピ・グアラニー語族がキープを使う伝統について語っており、ペドロ・ロサノ神父も、アンダルガラ︵アルゼンチン︶のインディオが1611年現在でもそれを使っていたと報告している。驚くべきことに、インカ帝国の版図に組み込まれなかった地域でもキープが使われており、チリのマプチェの間では19世紀にもその慣習が行われていた[18]。 それがインカ帝国に由来する、あるいは独自に発生したにせよ、類似する風習は今日まで南米に伝わっている。例えば仏領ギアナのトゥピ・グアラニー系の民族の間では、宗教儀礼の順序を示すための記録あるいはロザリオとしてウドゥクル︵udukuru︶と呼ばれる結縄が用いられる[18]。北米
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/68/The_belt_of_wampum_delivered_by_the_Indians_to_William_Penn_at_the_%22Great_Treaty%22_%281682%29.jpg/350px-The_belt_of_wampum_delivered_by_the_Indians_to_William_Penn_at_the_%22Great_Treaty%22_%281682%29.jpg)
東アジア
上述のように中国の古典籍に結縄の習俗が伝わっているが、近年に至るまで、琉球諸島や台湾、中国、アイヌ社会、あるいは日本内地でも類例が報告されている。北海道
日本︵内地︶
宮中行事で大嘗祭の前日に行われる鎮魂の儀に﹁糸結び︵御魂結び︶﹂があり、結びを用いて百を数え、遊離する魂を鎮める習わしがある[7]。同様の鎮魂祭は、奈良の石上神宮・新潟の弥彦神社・島根の物部神社などにも伝わっている[24]。 本居宣長の﹃玉勝間﹄第13巻には、讃岐の田舎に伝わる求婚の風習が記されている。男が女に2つ結び目のついた藁を送り、女は拒絶する場合には結び目を外して返し、承諾の場合には結び目を中央に集めて返すものという[25]。坪井正五郎が柏原学而から伝え聞いた話によると、現在の静岡市駿河区久能山付近では家々の勝手ロに縄が2本下げてあり、塩売りが塩を置いて行く際にその量に従って縄に結び玉を作り、勘定を受け取るときにはこの玉を数える習慣があった[23]。沖縄
台湾
アミの人々は文字・数の表現の代用として結縄を多く使用し、大正時代、地域によっては昭和初期まで、相手への意思伝達や記録計算において結縄が用いられていた。計算のための結縄は太さの異なる3本の麻糸を束ねて作られ、それぞれの糸が位取りを表した︵アミの経済観念は非常に単純で、3桁以上の演算を必要としなかった︶。このほか、借用証書として、さらに男子の集会所における祭礼や作業負担の記録のために結縄が用いられている[28]。 プユマ社会では、男女の情愛のほどを確かめるのに結縄が用いられる。男には赤色、女には青または黄色の糸を用い、男女2本の糸をつないで数ヶ所の結び目を作り、その結び目の位置や結び方の一致・不一致によって互いの愛情を確認しあった[29]。雲南・チベット
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/7/74/Wa_knot_system-Manuscripts_in_the_Yunnan_Nationalities_Museum_-_DSC04049.jpg/200px-Wa_knot_system-Manuscripts_in_the_Yunnan_Nationalities_Museum_-_DSC04049.jpg)
西南アジア
英領インドで1872年に国勢調査が行われた際、ジャールカンド州サンタル・パルガナ地区のサンタルの首長は、男女と成人・子供の別に4色の糸を用いて人口を報告した[31]。南インドのコンドの婚姻儀礼では、求婚者の手に結び目の付いた紐が与えられ、同様の紐が花嫁の家族のもとに保管される。結婚式の日取りは、毎朝この結び目をほどいていくことで調整される[32]。 このことは、旧約聖書のエレミヤ書の次の記述とも関連するかもしれない。ヘブライ語で帯を意味するקִשֻּׁרִים︵qishshurim︶は、文字通り﹁結び目﹂や﹁結縄﹂も意味する[33]。 おとめはその飾り物を忘れることができようか。花嫁はその帯を忘れることができようか。ところが、わたしの民の、わたしを忘れた日は数えがたい。[34]ヨーロッパ
ラトビア、およびリトアニアのラトビア人コミュニティには、20世紀まで、暦や呪術的治療、招待状、そしてとりわけ民謡を記録する目的でメズグル・ラクスティ︵ラトビア語: Mezglu Raksti; 逐語訳は︿結び目の文字﹀︶という結縄が用いられていた歴史がある[35]。民謡を記録した糸はヅィエスム・カムオルス︵dziesmu kamols; 逐語訳は︿歌の毛糸玉﹀︶と呼ばれ、500曲以上のラトビア民謡の中に登場する。結び目はラトビア語アルファベットに対応しており、アルファベットとの対応関係や紐の組み合わせを異にする3種類の表記法が知られている[36]。また、ドイツでは19世紀末に、製粉業者がパン屋と取引する際に結縄を使用していた例がある[19]。アフリカ
租税や貸借に結縄を用いる習慣は、西アフリカ一帯、とくにナイジェリア・ラゴスの後背地に住むイェブの社会に認められる。ジャン=バティスト・ラバが1720年に黄金海岸︵ガーナ︶を訪れた記録では、上流階級の黒人はポルトガル語の読み書きができたが、大多数の下層階級は結縄を用いていた[37]。 コンゴ周辺にも商取引や暦のための結縄を用いる部族が多い。コンゴ共和国のテンボ社会にはラフィアヤシの繊維から編んだ縄を用いて求婚のメッセージをかわす習慣がある。アフリカ南部のモノモタパ王国では王が即位するごとに宮廷歴史家が結び目を1つ作る習わしがあり、1929年時点で35個の結び目があって、15世紀中葉にさかのぼる全ての王を区別することができた。ラーゲルクランツが1960年代に、アフリカにおける結縄文化の分布図を残している[38]。オセアニア
ハワイの徴税人が結縄を用いていた事実は、1820年代のイギリス人宣教師らの日誌に記されている。彼らの記すところでは、﹁徴税人たちは、読み書きができないが、島中の住民から集められたあらゆる種類の品々についての非常に詳細な記録をつけている。これは主として1人の人間によって行われ、そして記録するものは、400~500尋︵約750~950 m︶の縄1本にすぎない﹂[39]。東洋学者のテリアン・ド・ラクペリは1885年にハワイの結縄についてより詳細な記述を残しており、異なる形状・色・大きさの縄や結び目・房によって記録が行われると解説している[40]。 ハワイ諸島民の祖先はマルキーズ諸島を経由して来住したとされるが、マルキーズ諸島では家系図・民謡・伝説を記録するのに結縄を用いていた。カール・フォン・デン・シュタイネンの20世紀末の記録では、マルキーズ諸島の家系図は159世代前まで遡り、島への到達や宇宙創造の伝説を記録している[41]。また、死者が出たときには僧侶がココナッツの繊維から作られた紐に結び目を作り、死亡者の統計を作っていた[42]。人類学者ラルフ・リントンは1920年から1921年にかけての調査において、﹁結縄の使用は、ポリネシアの他のいかなる地域よりも、マルキーズ諸島において最も高度に発達しているように思われる﹂と綴っている[43]。結縄文化はソシエテ諸島を経由してニュージーランドまで伝わり、現地のマオリの間ではタウポナポナ︵tau-ponapona︶と呼ばれていた。イースター島にも結縄による家系図が残っている[42]。 ポリネシア以外でも、メラネシアのソロモン諸島やナウル、さらにフィリピンでも日付を数えるための結縄の使用が報告されている[44]。18世紀に西洋を訪れた太平洋諸島人として知られるパラオ︵ミクロネシア︶のリー・ボー王子は、結縄を用いて航海日誌をつけるなかで文字の便利さに気づき、学習を始めたが、イングランドの学校に通ううちに天然痘で客死した[45]。その他の例
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/84/String_Alphabet.png/250px-String_Alphabet.png)
出典
- ^ 壇辻 2001, p. 394.
- ^ 壇辻 2001, pp. 394–396.
- ^ 『易経』繫辞下伝
- ^ 『周易集解』巻15
- ^ 『老子』第80章
- ^ 布目 1996, pp. 90–93.
- ^ a b 布目 1996, p. 92.
- ^ ヘロドトス 1972, p. 68.
- ^ Gandz 1930, pp. 213–214.
- ^ 宮田 2018, pp. 74–75.
- ^ 『民数記』15:37-39
- ^ 溝田 2008.
- ^ 壇辻 2001, pp. 394–395.
- ^ 池田 1952, p. 98.
- ^ 池田 1952, p. 101.
- ^ Wilford 2003.
- ^ Cossins 2018.
- ^ a b Radicati di Primeglio & Urton 2006, pp. 97–99.
- ^ a b c 宮田 2018, p. 74.
- ^ 壇辻 2001, p. 395.
- ^ 坂倉 1739, p. 410.
- ^ 最上 1808, p. 528.
- ^ a b 坪井 1891, p. 405.
- ^ 額田 1983, pp. 116–117.
- ^ 額田 1983, p. 13.
- ^ 高橋 2001, pp. 1122–1123.
- ^ 宮田 2018, pp. 19–21.
- ^ 中野 1981, pp. 2–5.
- ^ 長浜 1977, pp. 2–3.
- ^ 林 1986.
- ^ 長浜 1971, p. 2.
- ^ Gandz 1930, p. 204.
- ^ Gandz 1930, pp. 204–205.
- ^ 『エレミヤ書』2:32
- ^ Nastevičs 2016, p. 79.
- ^ Nastevičs 2016, p. 83.
- ^ Day 1957, p. 24.
- ^ Huylebrouk 2006, p. 149.
- ^ Jacobsen 1983, p. 55.
- ^ Jacobsen 1983, p. 56.
- ^ Day 1957, p. 14.
- ^ a b Brown 1924, p. 83.
- ^ Jacobsen 1983, pp. 54–55.
- ^ Day 1957, p. 11-12.
- ^ Day 1957, p. 12-13.
- ^ Knight 1835, pp. 517–518.
- ^ 点字が作られる前(山梨県総合教育センター 点字探検隊)
- ^ a b 筑波大学附属盲学校資料室所蔵品
参考文献
関連項目
外部リンク