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'''興良親王'''︵おきよししんのう / おきなが - 、[[嘉暦]]元年︵[[1326年]]︶<ref>﹃[[南方紀伝]]﹄は建武元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]︵[[1334年]][[4月18日]]︶とするが、延元 |
'''興良親王'''︵おきよししんのう / おきなが - 、[[嘉暦]]元年︵[[1326年]]︶<ref>﹃[[南方紀伝]]﹄は建武元年[[3月14日 (旧暦)|3月14日]]︵[[1334年]][[4月18日]]︶とするが、延元・興国期の活動から見て疑問。安井久善は[[嘉暦]]2年︵[[1327年]]︶以前かと推定する。</ref>? - 没年不詳<ref name="b"/>︶は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[南朝 (日本)|南朝]]の[[皇族]]。[[後醍醐天皇]]の孫にして、大塔宮[[護良親王]]の王子。母は[[権大納言]][[北畠師重]]の女︵[[北畠親房|親房]]の妹︶である<ref>吹上本﹃[[帝王系図]]﹄・﹃古本帝王系図﹄などに﹁大納言︵東宮大夫︶師兼女﹂とあるのは誤写であろう。</ref>。南朝から[[征夷大将軍]]に任じられ、'''大塔若宮'''・'''[[兵部省|兵部卿]]若宮'''・'''宮将軍'''・'''赤松宮'''と号した。名は'''陸良'''<ref>[[天野信景]]の﹃[[南朝紹運図]]﹄は﹁常良﹂にも作るとするが、[[中山信名]]はその誤りについて、﹁常良・陸良ニ作ルハ、[[常陸親王]]ト称シタマヒシ、常陸ノ二字ヲ分チテ、諸皇子ノ名字ニ良字ヲ用ヒシニ准シテ、構ヘナセシナリ﹂︵﹃[[関城書考]]﹄︶と論じている。﹁常良﹂の名は、あるいは[[恒良親王]]と音が通じるために用いられなかったのであろうか。</ref>とも。
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名前の読みが二種類あることについては、[[後醍醐天皇#皇子の名の読み|後醍醐天皇の皇子名の読み]]を参照。 |
名前の読みが二種類あることについては、[[後醍醐天皇#皇子の名の読み|後醍醐天皇の皇子名の読み]]を参照。 |
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== 経歴 == |
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[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年︵[[1336年]]︶[[建武政権]]が崩壊すると、[[後醍醐天皇]]に供奉して[[比叡山|山門]]の指揮官を務めたが、8月八幡山︵[[京都府]][[八幡市]]︶に移り、11月には[[和泉国|和泉]][[槇尾山|巻尾山]]︵[[大阪府]][[和泉市]]︶に拠って[[紀伊国|紀伊]][[粉河寺]]へ兵力を求めた。やがて後醍醐天皇の[[猶子]]となって[[親王宣下]]を受け、次の[[後村上天皇]]が[[践祚]]すると間もなく[[征夷大将軍]]に任じられる<ref>﹃[[太平記]]﹄巻34﹁銀嵩軍事﹂。補任の年月日については確証がないが、﹃[[大日本史]]﹄﹃[[南狩遺文]]﹄は天皇の[[践祚]]した[[延元]]4年︵[[1339年]]︶と解している。﹃[[南朝系図]]﹄﹃[[系図纂要]]﹄が正平15年︵[[1360年]]︶4月とするのは太平記の文意にそぐわず、[[神戸良政|神戸能房]]の﹃[[伊勢記 (神戸能房の著作)|伊勢記]]﹄は[[興国]]3年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]︵[[1342年]][[12月6日]]︶と具体的な日付を掲げるも |
[[延元]]元年/[[建武 (日本)|建武]]3年︵[[1336年]]︶[[建武政権]]が崩壊すると、[[後醍醐天皇]]に供奉して[[比叡山|山門]]の指揮官を務めたが、8月八幡山︵[[京都府]][[八幡市]]︶に移り、11月には[[和泉国|和泉]][[槇尾山|巻尾山]]︵[[大阪府]][[和泉市]]︶に拠って[[紀伊国|紀伊]][[粉河寺]]へ兵力を求めた。やがて後醍醐天皇の[[猶子]]となって[[親王宣下]]を受け、次の[[後村上天皇]]が[[践祚]]すると間もなく[[征夷大将軍]]に任じられる<ref>﹃[[太平記]]﹄巻34﹁銀嵩軍事﹂。補任の年月日については確証がないが、﹃[[大日本史]]﹄﹃[[南狩遺文]]﹄は天皇の[[践祚]]した[[延元]]4年︵[[1339年]]︶と解している。﹃[[南朝系図]]﹄﹃[[系図纂要]]﹄が正平15年︵[[1360年]]︶4月とするのは太平記の文意にそぐわず、[[神戸良政|神戸能房]]の﹃[[伊勢記 (神戸能房の著作)|伊勢記]]﹄は[[興国]]3年[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]︵[[1342年]][[12月6日]]︶と具体的な日付を掲げるも典拠不明。</ref>。時に[[東国]]では[[常陸合戦 (南北朝時代)|常陸合戦]]の最中であり、その在地武士の結集を図る必要性から、[[興国]]2年/[[暦応]]4年︵[[1341年]]︶夏に[[常陸国]]に下向して[[小田城]]の[[北畠親房]]に迎え入れられた。同年11月城主[[小田治久]]が[[室町幕府|武家]]方へ降ったため、[[春日顕国|春日顕時]]に奉じられて[[大宝城]]に移るも、戦況が好転しない下での籠城を余儀なくされ続け、興国4年/[[康永]]2年︵[[1343年]]︶春には[[小山城 (下野国)|小山城]]に移り、11月に本拠の[[関城 (常陸国)|関城]]・大宝城が陥落すると西走した。翌年︵[[1344年]]︶頃には[[駿河国|駿河]][[安倍城 (駿河国)|安倍城]]の[[狩野貞長]]の許に逗留していたとみられる<ref>﹃[[李花集]]﹄の詞書によると、この間に[[宗良親王]]が興良親王の許を訪問していたことが分かるが、これは両親王を父子とする俗説を生む原因ともなった。</ref>。
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[[吉野行宮|吉野]]へ戻った後は再び和泉に現れ、[[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年︵[[1348年]]︶1月[[四條畷の戦い|四條畷の敗戦]]の際には、諸将を招集してその善後策を講じるも奏功せず、正平6年/[[観応]]2年︵[[1351年]]︶7月南朝に帰順した[[赤松則祐]]に奉じられ、[[播磨国|播磨]]周辺諸国における宮方の中核勢力になった。翌年︵[[1352年]]︶則祐が変心した後は[[京都]]に送られて冷遇されたが、やがて<!--﹃南朝編年記略﹄は正平8年︵1353年︶2月とするも確証なし-->[[但馬国|但馬]]の南朝勢により救出されて[[高山寺城 (丹波国)|高山寺城]]︵[[兵庫県]][[丹波市]]︶に入り、但馬・[[丹波国|丹波]]両国を制した。さらに[[山陽道]]を進み、[[摂津国|摂津]][[甲山]]︵[[兵庫県]][[西宮市]]︶で則祐と交戦するも、宮方軍はたちまち敗れて[[河内国|河内]]に落ち延びたという。その後しばらく天皇の許に留め置かれ、どこへも派遣されることがなかったが、正平15年/[[延文]]5年︵[[1360年]]︶4月、南朝に帰順した[[赤松氏範]]を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、将軍[[足利義詮]]に通じて銀嵩︵[[吉野三山|銀峯山]]︶で反旗を翻し、南朝の[[賀名生|賀名生行宮]]を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白︵[[二条教基|教基]]か︶を大将軍としてこれに抗戦させたので、吉野の兵は離散し、親王も[[奈良|南都]]へ落ち延びたというが<ref>﹃太平記﹄巻34﹁銀嵩軍事﹂。近世の俗書には、敗績して自害した︵﹃[[七巻冊子]]﹄︶とも、幽閉された後に殺害された︵﹃[[南朝編年記略]]﹄︶とも伝えている。</ref>、以後の消息は明らかでない。
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[[吉野行宮|吉野]]へ戻った後は再び和泉に現れ、[[正平 (日本)|正平]]3年/[[貞和]]4年︵[[1348年]]︶1月[[四條畷の戦い|四條畷の敗戦]]の際には、諸将を招集してその善後策を講じるも奏功せず、正平6年/[[観応]]2年︵[[1351年]]︶7月南朝に帰順した[[赤松則祐]]に奉じられ、[[播磨国|播磨]]周辺諸国における宮方の中核勢力になった。翌年︵[[1352年]]︶則祐が変心した後は[[京都]]に送られて冷遇されたが、やがて<!--﹃南朝編年記略﹄は正平8年︵1353年︶2月とするも確証なし-->[[但馬国|但馬]]の南朝勢により救出されて[[高山寺城 (丹波国)|高山寺城]]︵[[兵庫県]][[丹波市]]︶に入り、但馬・[[丹波国|丹波]]両国を制した。さらに[[山陽道]]を進み、[[摂津国|摂津]][[甲山]]︵[[兵庫県]][[西宮市]]︶で則祐と交戦するも、宮方軍はたちまち敗れて[[河内国|河内]]に落ち延びたという。その後しばらく天皇の許に留め置かれ、どこへも派遣されることがなかったが、正平15年/[[延文]]5年︵[[1360年]]︶4月、南朝に帰順した[[赤松氏範]]を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、将軍[[足利義詮]]に通じて銀嵩︵[[吉野三山|銀峯山]]︶で反旗を翻し、南朝の[[賀名生|賀名生行宮]]を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白︵[[二条教基|教基]]か︶を大将軍としてこれに抗戦させたので、吉野の兵は離散し、親王も[[奈良|南都]]へ落ち延びたというが<ref>﹃太平記﹄巻34﹁銀嵩軍事﹂。近世の俗書には、敗績して自害した︵﹃[[七巻冊子]]﹄︶とも、幽閉された後に殺害された︵﹃[[南朝編年記略]]﹄︶とも伝えている。</ref>、以後の消息は明らかでない<ref name="b">﹃[[関八州名墓誌]]﹄には、諸国遍歴の後に[[甲斐国|甲州]][[都留郡]]に入り、正平19年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]︵[[1364年]][[9月10日]]︶に病没したとあるが、その典拠は明らかでない。</ref>。
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親王の墓と伝えるものには、[[兵庫県]][[姫路市]][[香寺町]]須加院にある親王塚や[[奈良県]][[吉野郡]][[野迫川村]]北股にある田村塚(将軍塚)などが知られている。 |
親王の墓と伝えるものには、[[兵庫県]][[姫路市]][[香寺町]]須加院にある親王塚や[[奈良県]][[吉野郡]][[野迫川村]]北股にある田村塚(将軍塚)などが知られている。 |
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== 俗説 == |
== 俗説 == |
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﹃[[桜雲記]]﹄﹃[[信濃宮伝]]﹄を始めとする俗書 |
﹃[[桜雲記]]﹄﹃[[信濃宮伝]]﹄を始めとする近世俗書では、興良親王は[[宗良親王]]の王子︵母は[[狩野貞長]]の女・京極局︶とされ、護良親王王子の陸良親王とは別人に扱われている。それらの記すところによれば、親王は[[駿河国|駿河]]の狩野貞長の家に生まれ、[[常陸太守]]に任じられた。[[正平 (日本)|正平]]7年/[[観応]]3年︵[[1352年]]︶閏2月[[笛吹峠 (埼玉県)|笛吹峠]]合戦で敗れた後は、[[遠江国|遠江]][[秋葉城 (遠江国)|秋葉城]]の[[天野景顕]]を頼って遠江宮とも号した。ところが、正平14年/[[延文]]4年︵[[1359年]]︶4月[[今川範国]]に攻撃されて秋葉城が陥落したため、親王は景顕に奉じられて入京し、大叔父の[[二条為定]]の許に預けられた。やがて[[室町幕府|武家]]方に囚われて捕虜となり、[[天授 (日本)|天授]]3年/[[永和 (日本)|永和]]3年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]︵[[1377年]][[10月12日]]︶病のため37歳で[[薨去]]したという。
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2016年9月22日 (木) 17:46時点における版
興良親王︵おきよししんのう / おきなが - 、嘉暦元年︵1326年︶[1]? - 没年不詳[2]︶は、南北朝時代の南朝の皇族。後醍醐天皇の孫にして、大塔宮護良親王の王子。母は権大納言北畠師重の女︵親房の妹︶である[3]。南朝から征夷大将軍に任じられ、大塔若宮・兵部卿若宮・宮将軍・赤松宮と号した。名は陸良[4]とも。
名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子名の読みを参照。
経歴
延元元年/建武3年︵1336年︶建武政権が崩壊すると、後醍醐天皇に供奉して山門の指揮官を務めたが、8月八幡山︵京都府八幡市︶に移り、11月には和泉巻尾山︵大阪府和泉市︶に拠って紀伊粉河寺へ兵力を求めた。やがて後醍醐天皇の猶子となって親王宣下を受け、次の後村上天皇が践祚すると間もなく征夷大将軍に任じられる[5]。時に東国では常陸合戦の最中であり、その在地武士の結集を図る必要性から、興国2年/暦応4年︵1341年︶夏に常陸国に下向して小田城の北畠親房に迎え入れられた。同年11月城主小田治久が武家方へ降ったため、春日顕時に奉じられて大宝城に移るも、戦況が好転しない下での籠城を余儀なくされ続け、興国4年/康永2年︵1343年︶春には小山城に移り、11月に本拠の関城・大宝城が陥落すると西走した。翌年︵1344年︶頃には駿河安倍城の狩野貞長の許に逗留していたとみられる[6]。 吉野へ戻った後は再び和泉に現れ、正平3年/貞和4年︵1348年︶1月四條畷の敗戦の際には、諸将を招集してその善後策を講じるも奏功せず、正平6年/観応2年︵1351年︶7月南朝に帰順した赤松則祐に奉じられ、播磨周辺諸国における宮方の中核勢力になった。翌年︵1352年︶則祐が変心した後は京都に送られて冷遇されたが、やがて但馬の南朝勢により救出されて高山寺城︵兵庫県丹波市︶に入り、但馬・丹波両国を制した。さらに山陽道を進み、摂津甲山︵兵庫県西宮市︶で則祐と交戦するも、宮方軍はたちまち敗れて河内に落ち延びたという。その後しばらく天皇の許に留め置かれ、どこへも派遣されることがなかったが、正平15年/延文5年︵1360年︶4月、南朝に帰順した赤松氏範を配下に吉野十八郷の兵が与えられると、将軍足利義詮に通じて銀嵩︵銀峯山︶で反旗を翻し、南朝の賀名生行宮を攻撃して御所宿舎を軒並み焼き払った。南朝では二条前関白︵教基か︶を大将軍としてこれに抗戦させたので、吉野の兵は離散し、親王も南都へ落ち延びたというが[7]、以後の消息は明らかでない[2]。 親王の墓と伝えるものには、兵庫県姫路市香寺町須加院にある親王塚や奈良県吉野郡野迫川村北股にある田村塚︵将軍塚︶などが知られている。俗説
﹃桜雲記﹄﹃信濃宮伝﹄を始めとする近世俗書では、興良親王は宗良親王の王子︵母は狩野貞長の女・京極局︶とされ、護良親王王子の陸良親王とは別人に扱われている。それらの記すところによれば、親王は駿河の狩野貞長の家に生まれ、常陸太守に任じられた。正平7年/観応3年︵1352年︶閏2月笛吹峠合戦で敗れた後は、遠江秋葉城の天野景顕を頼って遠江宮とも号した。ところが、正平14年/延文4年︵1359年︶4月今川範国に攻撃されて秋葉城が陥落したため、親王は景顕に奉じられて入京し、大叔父の二条為定の許に預けられた。やがて武家方に囚われて捕虜となり、天授3年/永和3年9月10日︵1377年10月12日︶病のため37歳で薨去したという。脚注
(一)^ ﹃南方紀伝﹄は建武元年3月14日︵1334年4月18日︶とするが、延元・興国期の活動から見て疑問。安井久善は嘉暦2年︵1327年︶以前かと推定する。
(二)^ ab﹃関八州名墓誌﹄には、諸国遍歴の後に甲州都留郡に入り、正平19年8月14日︵1364年9月10日︶に病没したとあるが、その典拠は明らかでない。
(三)^ 吹上本﹃帝王系図﹄・﹃古本帝王系図﹄などに﹁大納言︵東宮大夫︶師兼女﹂とあるのは誤写であろう。
(四)^ 天野信景の﹃南朝紹運図﹄は﹁常良﹂にも作るとするが、中山信名はその誤りについて、﹁常良・陸良ニ作ルハ、常陸親王ト称シタマヒシ、常陸ノ二字ヲ分チテ、諸皇子ノ名字ニ良字ヲ用ヒシニ准シテ、構ヘナセシナリ﹂︵﹃関城書考﹄︶と論じている。﹁常良﹂の名は、あるいは恒良親王と音が通じるために用いられなかったのであろうか。
(五)^ ﹃太平記﹄巻34﹁銀嵩軍事﹂。補任の年月日については確証がないが、﹃大日本史﹄﹃南狩遺文﹄は天皇の践祚した延元4年︵1339年︶と解している。﹃南朝系図﹄﹃系図纂要﹄が正平15年︵1360年︶4月とするのは太平記の文意にそぐわず、神戸能房の﹃伊勢記﹄は興国3年11月8日︵1342年12月6日︶と具体的な日付を掲げるも典拠不明。
(六)^ ﹃李花集﹄の詞書によると、この間に宗良親王が興良親王の許を訪問していたことが分かるが、これは両親王を父子とする俗説を生む原因ともなった。
(七)^ ﹃太平記﹄巻34﹁銀嵩軍事﹂。近世の俗書には、敗績して自害した︵﹃七巻冊子﹄︶とも、幽閉された後に殺害された︵﹃南朝編年記略﹄︶とも伝えている。
参考文献
●菅政友 ﹁南山皇胤譜﹂︵﹃菅政友全集﹄ 国書刊行会、1907年、NCID BN04245173︶ ●安井久善 ﹁宗良親王と興良親王﹂︵﹃政治経済史学﹄第298号 日本政治経済史学研究所、1991年2月、NCID AN0012728X︶ ●新井孝重 ﹁興良・常陸親王考﹂︵﹃獨協経済﹄第74号 獨協大学経済学部、2001年9月、NCID AN10392436︶ ●前田徹 ﹁観応の擾乱と赤松則祐﹂︵﹃兵庫県立歴史博物館紀要 塵界﹄第23号 兵庫県立歴史博物館、2012年、NCID AN10176882︶関連項目
●常陸親王 - 古くは中山信名・菅政友らによって興良親王に比定されたが、現在では後醍醐の皇子満良親王︵花園宮︶のことと考えられている。![]() |