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| 改名 = 子晋([[道号]])、明魏([[法諱]]) |
| 改名 = 子晋([[道号]])<ref>『[[蔗軒日録]]』文明17年9月18日条</ref>、明魏([[法諱]]) |
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| 別名 = 耕雲、芸巣、魏公、如住道人(別号) |
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'''花山院 長親'''︵かざんいん ながちか︶は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]にかけての[[公卿]]・[[学者]]・[[歌人]]・[[禅僧]]。贈[[太政大臣]][[花山院師賢]]の孫で、[[内大臣]][[花山院家賢]]の子。母は出自不詳だが、歌人の﹁[[花山院長親母]]﹂である。[[南朝 (日本)|南朝]]に歴仕、やがて[[出家]]して'''子晋明魏'''︵ししんみょうぎ︶と号し、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]から厚遇された。別号の'''耕雲'''︵こううん︶でも著名。
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'''花山院 長親'''︵かざんいん ながちか︶は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[室町時代]]にかけての[[公卿]]・[[学者]]・[[歌人]]・[[禅僧]]。贈[[太政大臣]][[花山院師賢]]の孫で、[[内大臣]][[花山院家賢]]の子。母は出自不詳だが、歌人の﹁[[花山院長親母]]﹂である。[[南朝 (日本)|南朝]]に歴仕、やがて[[出家]]して'''子晋明魏'''︵ししんみょうぎ︶と号し、[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]から厚遇された。別号の'''耕雲'''︵こううん︶でも著名。
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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[[正平 (日本)|正平]]21年/[[貞治]]5年︵[[1366年]]︶20歳の時に相次いで |
[[正平 (日本)|正平]]21年/[[貞治]]5年︵[[1366年]]︶20歳の時に父兄を相次いで喪い<ref>﹃耕雲口伝﹄</ref>、家督を継いだ。[[南朝 (日本)|南朝]]での官歴は不明な点が多いが、正平20年/貞治4年︵[[1365年]]︶に五位<!--﹃正平二十年三百六十首﹄-->、その後[[公卿]]に列して[[三位]][[近衛中将|中将]]で[[左大弁]]を兼ね<ref>﹃新葉和歌集﹄雑下・1243</ref>、[[建徳]]2年/[[応安]]4年︵[[1371年]]︶[[中納言]]となり<ref>﹃[[南朝三百番歌合]]﹄に﹁新中納言﹂と見える。</ref>、程なく[[文章博士]]を兼ねて[[准儒]]の[[宣旨]]を受けた<ref>﹃新葉和歌集﹄雑上・1035</ref>。[[天授 (日本)|天授]]元年/[[永和 (日本)|永和]]元年︵[[1375年]]︶[[左衛門督]]と見えるから、本官はなお中納言と思われるが、天授2年/永和2年︵[[1376年]]︶既に[[大納言]]であり<ref>﹃[[二見文書]]﹄天授2年12月13日付口宣案の﹁[[上卿]]花山院大納言﹂を長親と推定する。</ref>、[[弘和]]元年/[[永徳]]元年︵[[1381年]]︶には[[右近衛大将]]を兼任していた。[[元中]]6年/[[嘉慶 (日本)|嘉慶]]3年︵[[1389年]]︶以前に[[内大臣]]に至り<ref>﹃耕雲千首﹄奥書</ref>、これが[[極官]]であろう。
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南朝における事績は判然としない。ただ、学芸と[[歌道]]の才能をもって[[後村上天皇|後村上]]・[[長慶天皇]]や[[宗良親王]]から信任を得て、正平20年︵[[1365年]]︶の﹃[[正平二十年三百六十首|内裏三百六十首歌]]﹄、建徳2年︵[[1371年]]︶の﹃[[南朝三百番歌合|三百番歌合]]﹄、天授元年︵[[1375年]]︶の﹃[[五百番歌合]]﹄などの和歌会でその作者となる。同2年︵[[1376年]]︶夏に発意された﹃[[天授千首|千首和歌]]﹄の人数に加えられた際は、病気を理由に一旦辞退したものの、翌年︵[[1377年]]︶詠進して宗良親王からの加点を受けた︵﹃耕雲千首﹄︶。また、 |
南朝における事績は判然としない。ただ、学芸と[[歌道]]の才能をもって[[後村上天皇|後村上]]・[[長慶天皇]]や[[宗良親王]]から信任を得て、正平20年︵[[1365年]]︶の﹃[[正平二十年三百六十首|内裏三百六十首歌]]﹄、建徳2年︵[[1371年]]︶の﹃[[南朝三百番歌合|三百番歌合]]﹄、天授元年︵[[1375年]]︶の﹃[[五百番歌合]]﹄などの和歌会でその作者となる。同2年︵[[1376年]]︶夏に発意された﹃[[天授千首|千首和歌]]﹄の人数に加えられた際は、病気を理由に一旦辞退したものの、翌年︵[[1377年]]︶詠進して宗良親王からの加点を受けた︵﹃耕雲千首﹄︶。また、宗良を助けて[[勅撰和歌集|准勅撰集]]﹃[[新葉和歌集]]﹄の撰定に尽力し、自身は同集に25首が入集している。この頃の歌風は[[二条派]]を脱して、[[本歌取り]]・[[掛詞]]などの技法を駆使し、観念的な[[新古今和歌集#歌風|新古今調]]を目指したものが多い。
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南朝末期には[[吉野行宮|吉野]]を離れて流浪していたらしく、[[元中]]9年/[[明徳]]3年︵[[1392年]]︶の[[南北朝合一]]以前に上洛して[[妙光寺 (京都市)|妙光寺]]で[[出家]]し、[[臨済宗]][[法燈派]]の[[聖徒明麟]]に就いて'''子晋明魏'''と号した。[[応永]]2年︵[[1395年]]︶[[東山 (京都府)|東山]][[如住院]]へ移り、同5年︵[[1398年]]︶その付近に耕雲庵を結んで[[南禅寺]]の[[塔頭]]とし、その庵号をもって'''耕雲'''とも称 |
南朝末期には[[吉野行宮|吉野]]を離れて流浪していたらしく、[[元中]]9年/[[明徳]]3年︵[[1392年]]︶の[[南北朝合一]]以前に上洛して[[妙光寺 (京都市)|妙光寺]]で[[出家]]し<ref name=a>﹁耕雲老人寿像賛﹂︵﹃[[東海璚華集]]﹄所収︶</ref>、[[臨済宗]][[法燈派]]の[[聖徒明麟]]に就いて'''子晋明魏'''と号した。[[応永]]2年︵[[1395年]]︶[[東山 (京都府)|東山]][[如住院]]へ移り<ref name=a/>、同5年︵[[1398年]]︶その付近に耕雲庵を結んで[[南禅寺]]の[[塔頭]]とし、その庵号をもって'''耕雲'''とも称した。またこの前後に明麟の開いた同寺塔頭の禅栖院にも住する傍ら、﹃[[両聖記]]﹄・﹃[[能仁寺 (広川町)|霊巌寺]]縁起﹄・﹃[[衣奈八幡神社|衣奈八幡宮]]縁起﹄を執筆した。長親の歌人としての名声は京都でも聞こえ、やがて[[足利将軍]]の歌道師範となり、同14年︵[[1407年]]︶12月[[足利義満]]の十首歌へ批点を加え<ref>﹃[[教言卿記]]﹄</ref>、翌15年︵[[1408年]]︶3月に歌論書﹃[[耕雲口伝]]﹄を執筆。同18年︵[[1411年]]︶[[大内盛見]]に﹃[[古今集]]﹄を講じ、同20年︵[[1413年]]︶[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]に﹃[[孟子]]﹄を進講した<ref>﹃[[満済准后日記]]﹄</ref>。同21年︵[[1414年]]︶2月義持の命で[[冷泉為尹]]・[[飛鳥井雅縁|宋雅]]とともに[[北野神社|北野社]]十五首歌を詠進し、同年冬には[[足利満詮]]邸で﹁七百番[[歌合]]﹂︵散佚︶の判者を務めた。この頃から、義持の没する応永35年︵[[1428年]]︶まで厚遇を受け、[[奈良]]・[[天橋立]]などの遊覧、北野・[[石清水八幡宮|男山]]・[[清水寺]]への参宮や参籠などにしばしば随行したが、同25年︵[[1418年]]︶9月の[[伊勢神宮|伊勢]]参宮に随行した際の[[紀行文]]が﹃[[耕雲紀行]]﹄である︵翌春執筆︶。その他、同26年︵[[1419年]]︶[[伏見宮]][[貞成親王]]の[[仙洞]]歌会や歌合に参会し、同29年︵[[1422年]]︶5月﹃[[日御碕神社|日御碕社]]造営勧進記﹄を執筆、同32年︵[[1425年]]︶頃には[[正徹]]とも親交を結ぶなど、晩年まで幅広く活躍した。
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[[正長]]2年︵[[1429年]]︶[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に[[薨去]]、[[享年]]83か。これは﹃[[薩戒記]]目録﹄の同日条に﹁耕雲菴主明魏[[入滅]]事﹂と見えることによる。終焉の地に関しては[[遠江国]][[耕雲寺 (静岡市)|耕雲寺]]説や[[上野国]][[妙義山]]説もかつてあったが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力である。南朝廷臣の前歴を持ちながら、学芸を事として武家の知遇を得て、さりとて厳格な[[五山文学]]にも赴かず、世俗と交わって安穏な後半生を過ごした。こうした事情を反映してか、晩年の歌風には新古今調のものは少なく、[[二条派]]の枠組みに自身のあるがままの境遇を織り込んだ懐旧的な詠が多い。﹃[[新続古今和歌集]]﹄に﹁明魏法師﹂として6首入集する。
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[[正長]]2年︵[[1429年]]︶[[7月10日 (旧暦)|7月10日]]に[[薨去]]、[[享年]]83か。これは﹃[[薩戒記]]目録﹄の同日条に﹁耕雲菴主明魏[[入滅]]事﹂と見えることによる。終焉の地に関しては[[遠江国]][[耕雲寺 (静岡市)|耕雲寺]]説や[[上野国]][[妙義山]]説もかつてあったが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力である。南朝廷臣の前歴を持ちながら、学芸を事として武家の知遇を得て、さりとて厳格な[[五山文学]]にも赴かず、世俗と交わって安穏な後半生を過ごした。こうした事情を反映してか、晩年の歌風には新古今調のものは少なく、[[二条派]]の枠組みに自身のあるがままの境遇を織り込んだ懐旧的な詠が多い。﹃[[新続古今和歌集]]﹄に﹁明魏法師﹂として6首入集する。
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* 『[[耕雲口伝]]』([[1408年]]) - 歌論書。「心といふは歌の質なり、また理なり」と説くように、心詞論において禅学・[[宋学]]の影響が認められる。 |
* 『[[耕雲口伝]]』([[1408年]]) - 歌論書。「心といふは歌の質なり、また理なり」と説くように、心詞論において禅学・[[宋学]]の影響が認められる。 |
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* 『耕雲聞書』([[1411年]]) - [[大内盛見]]に『[[古今和歌集]]』を講義した際の聞書。 |
* 『耕雲聞書』([[1411年]]) - [[大内盛見]]に『[[古今和歌集]]』を講義した際の聞書。 |
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* 『[[倭片仮字反切義解]]』( |
* ﹃[[倭片仮字反切義解]]﹄︵応永期前半?︶ - [[仮名 (文字)|仮名]]の[[反切]]法と字源・音義を示し、[[五十音図]]の[[音韻]]組織を解説した語学書。[[偽書]]説もある<ref>[[矢田勉]] ﹁﹃倭片仮字反切義解﹄の成立年代について﹂︵﹃神戸大学文学部紀要﹄第32号 神戸大学、2005年、{{NCID|AN00056024}}︶</ref>。
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* 『[[耕雲百首]]』([[1414年]]頃) - 自筆本の奥書によれば、 |
* 『[[耕雲百首]]』([[1414年]]頃) - 自筆本の奥書によれば、[[足利義持]]の命で詠進し、書写して[[大内持世]]に与えた原本である。「雲窓<span lang="zh">賸</span>語」とも。 |
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* 『七百番歌合序』([[1415年]]) - 前年冬に催された「七百番[[歌合]]」の序。歌論として注目される。 |
* 『七百番歌合序』([[1415年]]) - 前年冬に催された「七百番[[歌合]]」の序。歌論として注目される。 |
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* 『[[源氏最要抄]]』([[1416年]]) - 『[[源氏小鏡]]』を基礎とした[[梗概書]]。 |
* 『[[源氏最要抄]]』([[1416年]]) - 『[[源氏小鏡]]』を基礎とした[[梗概書]]。 |
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* 生母不詳 |
* 生母不詳 |
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** 一子:某<ref>『 |
** 一子:某<ref>『新葉和歌集』哀傷・1392の[[詞書]]に「右近大将長親、いときなき子におくれて侍りし比」とあるので、夭逝した1子のあったことが分かる。</ref> - 夭逝 |
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** 男子:[[伯厳殊楞]] - [[万寿寺]]・[[南禅寺]]両住持 |
** 男子:[[伯厳殊楞]] - [[万寿寺]]・[[南禅寺]]両住持 |
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** 男子:宗意 - 聖無動院 |
** 男子:宗意 - 聖無動院 |
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** 男子?‥[[弘継]]<ref name=" |
** 男子?‥[[弘継]]<ref name="b">﹃[[系図纂要]]﹄による。この他、﹃[[兵家茶話]]﹄などによれば、長親は[[天野経政]]女・周防との間に一男を儲け、これが経政の[[養子]]となって[[工藤重貞]]を名乗ったというが、史料による裏付けを欠くために信じ難い。また、[[後小松天皇]]の[[後宮]]で[[一休宗純]]を生んだ﹁南朝遺臣の女﹂を長親の女子に比定する憶説も出されている︵[[平山朝治]]︶。</ref>︵1372-1437︶ - [[東寺長者]]
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** 男子?:定意<ref name=" |
** 男子?:定意<ref name="b"/> - 東寺長者 |
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== 脚注 == |
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*[[耕雲本]] |
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*[[天授 (日本)|天授]] - 長慶天皇代の南朝[[元号]]([[1375年]] - [[1381年]])。勘申者を長親とする説がある |
*[[天授 (日本)|天授]] - 長慶天皇代の南朝[[元号]]([[1375年]] - [[1381年]])。勘申者を長親とする説がある |
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2017年1月3日 (火) 17:19時点における版
花山院長親 | |
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代前期 |
生誕 | 正平2年/貞和3年(1347年)? |
死没 | 正長2年7月10日(1429年8月10日) |
改名 | 子晋(道号)[1]、明魏(法諱) |
別名 | 耕雲、芸巣、魏公、如住道人(別号) |
墓所 | 京都市東山区華頂山か |
官位 | 内大臣兼右近衛大将(南朝) |
主君 | 後村上天皇→長慶天皇→後亀山天皇 |
氏族 | 藤原北家師実流、花山院家 |
父母 | 父:花山院家賢、母:某女 |
兄弟 | 長賢、長親、師兼、簡中元要 |
子 | 伯厳殊楞、宗意 他 |