藤原道綱母
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藤原 道綱母︵ふじわらの みちつなのはは、承平6年︿936年﹀? - 長徳元年5月2日︿995年6月2日﹀︶は、平安時代中期の歌人。藤原倫寧の娘。藤原為雅室、菅原孝標室、藤原理能、藤原長能は姉妹兄弟にあたる。
人物
﹃尊卑分脈﹄に﹁本朝第一美人三人内也︵=日本で最も美しい女性三人のうちの一人である︶﹂と書かれているが、尊卑分脈は間違いも多く根拠は判然としない。なお、﹃榻鴫暁筆﹄︵室町時代後期︶によれば、他の2人は藤原安宿媛︵光明皇后︶[1]と藤原延子 (藤原頼宗女)であるが、この三人に定められた理由は分からないという。﹁道綱母﹂以外に前十五番歌合で﹁傅殿母上﹂、枕草子(三巻本)で﹁小原の殿の御母上﹂(能因本で﹁小野殿の母上﹂)などと表記される。 天暦8年︵954年︶に藤原兼家の妻の一人になり、天暦9年︵955年︶に道綱を儲けた。また、天禄3年︵972年︶に兼家の旧妻である源兼忠女の娘を引き取り養女にしている。[2]兼家との結婚生活の様子などを﹃蜻蛉日記﹄につづった。﹃蜻蛉日記﹄は没年より約20年前、39歳の大晦日を最後に筆が途絶えている。天元3年︵980年︶に懐仁親王の五十日の祝に亥の子の型を贈ったとされ、[3][4]寛和2年︵986年︶の寛和二年内裏歌合に道綱の歌を代作する。[3][5]正暦︵993年︶4年2月末に病悩した後[6]同年5月5日に東宮の帯刀陣歌合に右方として出詠した。[3][7]長徳元年︵995年︶頃に死去したか。[8]長徳2年︵996年︶5月2日に道綱母の周忌法事が行われた。[9]晩年は摂政になった夫に省みられる事も少なく、寂しい生活を送ったと言われているが詳細は不明。[要出典] 小倉百人一首では右大将道綱母とされている。和歌
﹃拾遺和歌集﹄以下の勅撰集に36首が採られ、弟・藤原長能や孫・道命阿闍梨と共に中古三十六歌仙に選ばれている。私家集は蜻蛉日記巻末歌集・傅大納言殿母上集・道綱母集の3系統が現存し、いずれも同一本から派生したと推定される。[3][10] なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる — ﹃拾遺和歌集﹄恋四・912、 小倉百人一首・53番 また、清少納言らと共に女房三十六歌仙の1人にも選ばれている。道綱母の兄・藤原理能は清原元輔の娘、すなわち清少納言の姉を妻に迎えており、そのこととの関連性は不明ながら﹃枕草子﹄では道綱母が詠んだ以下の歌が紹介されている[11]。 たきぎこる ことは昨日に尽きにしを いざ斧の柄は ここに朽たさむ — ﹃拾遺和歌集﹄哀傷・1339 ﹃今昔秀歌百撰﹄では30番に蜻蛉日記から あらそへば思ひにわぶるあまぐもにまつそる鷹ぞ悲しかりける — 選者‥速水博司(元目白大学短期大学部教授) ﹃更級日記﹄の作者・菅原孝標女は道綱母の妹が母であり、道綱母から見て姪に当たる。関連作品
- テレビドラマ
脚注
- ^ 喜多義男『全講蜻蛉日記』は、光明皇后に代えて衣通姫を挙げる説を伝える。
- ^ 『蜻蛉日記』下巻天禄三年二月
- ^ a b c d 『新編国家大観「道綱母集」』
- ^ 内野信子『蜻蛉日記「巻末歌集」を読む:日記の外周に道綱母を尋ねて』p66-69 鶫書房, 2021
- ^ 『新編国歌大観「内裏歌合 寛和二年」』
- ^ 藤原実資『小右記』正暦四年二月二十八日
- ^ 『新編国歌大観「帯刀陣歌合 正暦四年」』
- ^ 上村悦子『蜻蛉日記の研究』p535 明治書院,1972
- ^ 『小右記』長徳二年五月二日
- ^ 『新編国歌大観「道綱母集 解題」』
- ^ 日本古典文学大系第308段。
- ^ “【出演者発表 第5弾】紫式部や藤原道長を取り巻く個性豊かな人々”. NHK. (2023年7月25日) 2023年7月26日閲覧。
参考文献
- 桶谷秀昭 『今昔秀歌百撰』(コンジヤクシウカヒヤクセン)不出售(フシユツシウ)特定非営利活動法人文字文化協會 2012年 ISBN 978-49905312-25