藤原定頼
藤原 定頼 | |
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中納言定頼(『小倉百人一首』) | |
時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 長徳元年(995年) |
死没 | 寛徳2年1月19日(1045年2月8日) |
別名 | 号:四条中納言 |
官位 | 正二位、権中納言 |
主君 | 一条天皇→三条天皇→後一条天皇→後朱雀天皇 |
氏族 | 藤原北家小野宮流 |
父母 | 父:藤原公任、母:昭平親王の娘 |
兄弟 | 定頼、良海、任入、藤原教通正室、藤原遵子養女 |
妻 | 正室:源済政の娘 |
子 | 経家、藤原信長室、経源、敦平親王妃 |
藤原 定頼︵ふじわら の さだより︶は、平安時代中期の公卿・歌人。藤原北家小野宮流、権大納言・藤原公任の長男。官位は正二位・権中納言。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首では権中納言定頼。
経歴[編集]
寛弘4年︵1007年︶末に元服して従五位下に叙爵し、年が明けて侍従に任ぜられる。寛弘6年︵1009年︶右近衛少将に任ぜられると、少将を務める傍らで、寛弘7年︵1010年︶正五位下、寛弘9年︵1012年︶従四位下と昇進する。 長和3年︵1014年︶に右中弁と文官に転じると、長和6年︵1017年︶正四位下・蔵人頭に叙任される。在任中の寛仁2年︵1018年︶宮中で群飲中に右近衛少将・藤原兼房から暴行を受ける事件に巻き込まれている[1]。一方で、寛仁3年︵1019年︶弾正弼・源顕定を嘲笑した際、摂政・藤原頼通の発言を引き合いに出したため、頼通の勘気を蒙りこの年の後半謹慎させられている。なお、この事件の背景には藤原頼通・教通の兄弟の対立も原因であったという[2]。同年末には謹慎が解け、同じ蔵人頭の藤原経通と参議任官を激しく争うが、経通の後塵を拝して左中弁への昇進に留まった[3]。この人事に対して定頼は失望し、除目後初めての結政に遅参している[4]。翌寛仁4年︵1020年︶参議兼右大弁に任ぜられて公卿に列す。 治安2年︵1022年︶従三位、治安3年︵1023年︶左大弁兼帯を経て、長元2年︵1029年︶権中納言に任ぜられる。長元3年︵1030年︶清涼殿での宴において、御前作文の探韻を命じられた際、不正を行っていることが発覚した上に、さらにそれを誤魔化そうとしたため、関白・藤原頼通から﹁不正直﹂と批判されている[5]。権中納言昇進後は、長暦2年︵1038年︶従二位、長久3年︵1042年︶正二位と昇叙はなされるが、10年以上に亘って兼官なしに据え置かれた。この状況の中、長暦3年︵1039年︶藤原頼通の反対を押し切って、内大臣・藤原教通が娘の生子を後朱雀天皇の後宮に入内させた際には、他の殿上人らが頼通に遠慮した結果、入内に参列する殿上人は僅か5名︵内公卿は2名︶であったが、定頼は権中納言・藤原経通と共に参列に参加している[6]。 長久4年︵1043年︶兵部卿を兼ねるが、翌長久5年︵1044年︶6月9日に病のため出家。寛徳2年︵1045年︶1月19日薨去。享年51。人物[編集]
少し軽薄な性格であったようで、小式部内侍にやり込められた逸話が残っている。相模や大弐三位などと関係を持った。音楽・読経・書の名手であり、容姿も優れていたという。 長元5年︵1032年︶の﹃上東門院彰子菊合﹄、同8年︵1035年︶の﹃関白左大臣頼通歌合﹄などに出詠。﹃後拾遺和歌集﹄以下の勅撰和歌集に45首が入集。家集に﹃定頼集﹄がある。 ●小倉百人一首 ●64番 朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 ︵﹃千載和歌集﹄冬419︶逸話[編集]
一条天皇の大堰川行幸のお供で和歌を詠んだときのこと、父の公任も同行していて定頼の歌の出来映えを心配していた。すると定頼の番になり上の句を﹁水もなく見え渡るかな大堰川﹂と読み始めた。満々たる大堰川を前にして﹁水もなく﹂とはどういうつもりだ、何という不調法な、と公任が思っていると﹁峰の紅葉は雨と降れども﹂と朗々と下の句を詠み上げた。そのあまりの見事さに、公任も嬉しさをこらえきれず、思わず会心の笑みを漏らしたという[7]。官歴[編集]
﹃公卿補任﹄による。 ●寛弘4年12月25日︵1008年2月5日︶‥従五位下︵皇太后宮御給︶ ●寛弘5年︵1008年︶ 正月‥侍従 ●寛弘6年︵1009年︶ 正月28日‥右近衛少将 ●寛弘7年︵1010年︶ 正月7日‥従五位上︵少将労︶。2月16日‥兼伊予権介。閏2月‥正五位下︵皇太后宮去年御給︶ ●寛弘9年︵1012年︶ 正月27日‥従四位下︵少将労︶ ●長和3年︵1014年︶ 正月27日‥右中弁。10月5日‥兼中宮権亮︵中宮・藤原妍子︶ ●長和4年︵1015年︶9月20日‥従四位上︵中宮亮賞︶ ●長和5年︵1016年︶2月3日‥禁色[8] ●長和6年︵1017年︶ 正月24日‥兼勘解由長官。3月7日‥蔵人頭。 ●寛仁元年8月2日︵1017年8月25日︶‥正四位下︵還御之次所賞︶ ●寛仁2年︵1018年︶ 正月27日‥兼内蔵頭︵去長官︶。4月7日‥兼近江権守。10月16日‥改兼皇太后宮権亮。12月‥兼造大安寺長官 ●寛仁3年12月21日︵1020年1月18日︶‥左中弁 ●寛仁4年︵1020年︶4月‥辞内蔵頭。11月29日‥参議兼右大弁、近江守如元 ●治安2年12月8日︵1023年1月2日︶‥従三位︵大原野平野行幸行事賞︶ ●治安3年︵1023年︶2月12日‥兼備後守。12月15日‥兼左大弁 ●万寿5年︵1028年︶2月19日‥兼備中権守 ●長元2年︵1029年︶ 正月24日‥権中納言 ●長元6年︵1033年︶ 正月5日‥正三位。4月9日‥勅授帯剣 ●長暦2年︵1038年︶ 正月5日‥従二位 ●長久3年︵1042年︶ 正月22日‥正二位︵書殿舎額賞︶ ●長久4年︵1043年︶9月19日‥兼兵部卿 ●長久5年︵1044年︶6月9日‥出家 ●寛徳2年︵1045年︶ 正月19日‥薨去系譜[編集]
﹃尊卑分脈﹄による。脚注[編集]
出典[編集]
- 古瀬雅義「藤原定頼の人物像について一考察 : 長暦3年の生子入内事件をめぐって」『国文学攷』130号、広島大学国語国文学会、1991年
- 古瀬雅義「自撰本系「定頼集」の成立とその背景 : 家集の整理時期は寛仁3年後半期か」『国文学攷』126号、広島大学国語国文学会、1990年
- 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
- 『尊卑分脈 第一篇』吉川弘文館、1987年
外部リンク[編集]
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