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二条院讃岐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
二条院讃岐 - 土佐光貞画 芝山持豊筆 文化五年版百人一首

1141 - 12175

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[ 4]綿使[4][5][6]


    
 

               
 
   




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作品[編集]

勅撰集
歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数 歌集名 作者名表記 歌数
千載和歌集 二条院讃岐
讃岐
 3
 1
新古今和歌集 二条院讃岐 16 新勅撰和歌集 二条院讃岐 13
続後撰和歌集 二条院讃岐  3 続古今和歌集 二条院讃岐  6 続拾遺和歌集 二条院讃岐  2
新後撰和歌集 二条院讃岐  3 玉葉和歌集 二条院讃岐  8 続千載和歌集 二条院讃岐  4
続後拾遺和歌集 二条院讃岐  3 風雅和歌集 新千載和歌集 二条院讃岐  1
新拾遺和歌集 二条院讃岐  3 新後拾遺和歌集 二条院讃岐  1 新続古今和歌集 二条院讃岐
二条院さぬき
 3
 1
定数歌歌合
名称 時期 作者名表記 備考
別雷社歌合 1178年(治承2年) 二条院讃岐 父と共に出詠
民部卿家歌合 1195年(建久6年)3月3日 中宮讃岐
正治初度百首 1200年(正治2年) 讃岐 二条院女房
新宮撰歌合 1201年(建仁元年)3月 讃岐 二条院官女頼政女 勝1
和歌所影供歌合 1201年(建仁元年)8月3日 女房讃岐 藤原俊成と番い負5無判1
八月十五夜撰歌合 1201年(建仁元年) 讃岐 負4
千五百番歌合 1202年(建仁2年) 讃岐
内裏百番歌合 1216年(建保4年)閏6月9日 二条院讃岐 久我通光と番い負9持1
私撰集
  • 三百六十番歌合(1200年(正治2年))
    • 「讃岐 宜秋門院女房」名で12首
私家集
  • 『二条院讃岐集』(真観本)(鎌倉時代中期写本 冷泉家時雨亭文庫 重要文化財

百人一首[編集]

  • 92番

  寄石恋といへる心を                 二条院讃岐
わか袖は塩干に見えぬ沖の石の 人こそしらねかはくまもなし

— 『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二

「沖の石の讃岐」はこの歌[7]によりつけられた異名である。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 「俊恵が哥苑抄の中には 一夜とて夜離れし床の小筵に やがても塵の積りぬる哉 是をなんおもて哥と思ひ給ふるはいかヾ侍らんとぞ」[8]
  2. ^ 重光と有頼の母について「従三位頼政女二条院讃岐」と記されている。
  3. ^ 「風體艶なるを先として いとほしきさまなり 女のうた かくこそあらめと あはれにも侍るかな」
  4. ^ 歌意は「世の中を、人と関わり合いながら生きてゆくのは、苦しいものだわ。そんな思いで冬の夜を過ごしていたら、槙で葺いた屋根を叩いて初時雨が通り過ぎていった。辛い思いをしている人の家の上を、なんとまあやすやすと過ぎてゆく雨だこと。」という意味である。

出典[編集]

  1. ^ a b 伊佐(参考文献)
  2. ^ 『吾妻鏡』 承元元年十一月十七日条
  3. ^ 『新古今和歌集』 巻第六 冬歌 00590
  4. ^ 『岩波古典大系』の注
  5. ^ 水垣久『千人万首』より
  6. ^ 『千載和歌集』 巻第六 冬歌 00403,00444
  7. ^ 『千載和歌集』 巻第十二 恋歌二 00759
  8. ^ 鴨長明 『無名抄』 代々恋歌秀歌事

参考文献[編集]