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== 経歴 ==

== 経歴 ==


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[[1940年]][[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]となるが、関連会社の[[南旺映画]]に出向して撮った[[1941年]]の『結婚の生態』(原作[[石川達三]]、監督[[今井正]]、主演[[原節子]])を初プロデュースして製作に転じた。終戦までに成瀬巳喜男監督の『[[秀子の車掌さん]]』や[[島津保次郎]]監督の『母の地図』、[[今井正]]監督の『望楼の決死隊』、[[山本薩夫]]監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした。

[[1940年]][[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]となるが、関連会社の[[南旺映画]]に出向して撮った[[1941年]]の『結婚の生態』(原作[[石川達三]]、監督[[今井正]]、主演[[原節子]])を初プロデュースして製作に転じた。終戦までに成瀬巳喜男監督の『[[秀子の車掌さん]]』や[[島津保次郎]]監督の『母の地図』、[[今井正]]監督の『望楼の決死隊』、[[山本薩夫]]監督の『翼の凱歌』などをプロデュースした{{R|全史538}}




[[1947]][[]]退[[1949]][[ ()|]][[]][[|]][[]][[]][[]]

[[1947]][[]]退[[1949]]{{R|538}}[[ ()|]][[]][[|]][[]][[]][[]]


[[1951年]]、東宝に復帰。この年サラリーマン小説第1号・[[源氏鶏太]]原作「ホープさん」を映画化し翌年の『三等重役』を契機としてサラリーマン喜劇を多く製作、これが[[1956年]]からの『[[社長シリーズ]]』につながる。これは[[高度経済成長]]期を背景として大ヒットした。同年製作した『[[めし]]』は成瀬が長いスランプから脱出した作品。大ヒットし成瀬は一気に巨匠の1人となった。[[1953年]]には「藤本プロダクション」を置いた[[銀座]]に有志として[[株主]]を集め、[[名画座]]「'''並木座'''」(映画上映1953年10月-1998年9月)をオープンさせた。[[1955年]]に東宝の[[取締役]]製作本部長となる。

[[1951年]]、東宝に復帰{{R|全史538}}。この年サラリーマン小説第1号・[[源氏鶏太]]原作「ホープさん」を映画化し翌年の『三等重役』を契機としてサラリーマン喜劇を多く製作、これが[[1956年]]からの『[[社長シリーズ]]』につながる。これは[[高度経済成長]]期を背景として大ヒットした。同年製作した『[[めし]]』は成瀬が長いスランプから脱出した作品。大ヒットし成瀬は一気に巨匠の1人となった。[[1953年]]には「藤本プロダクション」を置いた[[銀座]]に有志として[[株主]]を集め、[[名画座]]「'''並木座'''」(映画上映1953年10月-1998年9月)をオープンさせた。[[1955年]]に東宝の[[取締役]]製作本部長となる。




[[1950]][[]][[]][[]][[]][[]]<ref name="">()[[]]1993p130-138</ref>[[]][[]] [[]][[]][[]][[]]<ref name=""/>退60227<ref>()277p132</ref>240[[ ()|]][[]]4<ref name="tohoeiga100">[[]] 100100! p89</ref>

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[[1953年]]の[[五社協定]]では推進のリーダーであった。顔の広さからテレビの台頭による俳優の出演問題の対策や、五社の映画をテレビ局に提供する規定の確立、[[1954年]]の[[日本映画製作者協会]](現・日本映画テレビプロデューサー協会)の発足、[[1958年]]の[[映倫]]の規定改正、同年の「[[映画の日]]」制度発足、新[[著作権法]]施行による原作者に関わる各団体との折衝などにも奔走。[[税制]]改変や[[補助金]]などの折衝では[[国会 (日本)|国会]]への陳情活動にも尽力した。

[[1953年]]の[[五社協定]]では推進のリーダーであった。顔の広さからテレビの台頭による俳優の出演問題の対策や、五社の映画をテレビ局に提供する規定の確立、[[1954年]]の[[日本映画製作者協会]](現・日本映画テレビプロデューサー協会)の発足、[[1958年]]の[[映倫]]の規定改正、同年の「[[映画の日]]」制度発足、新[[著作権法]]施行による原作者に関わる各団体との折衝などにも奔走。[[税制]]改変や[[補助金]]などの折衝では[[国会 (日本)|国会]]への陳情活動にも尽力した。

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[[1968年]][[藍綬褒章]]受章、[[映画の日]]特別功労賞受賞。

[[1968年]][[藍綬褒章]]受章、[[映画の日]]特別功労賞受賞。



[[1955年]]9月20日に東宝取締役{{R|全史538}}兼[[東宝スタジオ|東宝撮影所]]製作本部長。[[1962年]]9月25日に同社専務取締役に就任。

[[1968年]]に東宝専務、[[1971年]]11月に東宝映画社長、[[1974年]]には東宝副社長。[[1975年]]には東宝映画社長の座を田中友幸に譲りプロデューサー一本にかける事になる。[[立花隆]]と共に[[田中角栄]]を追及、失脚に追い込んだジャーナリスト[[児玉隆也]]を主人公にした映画を畢生の仕事にすると取り組んだが、社命により中止させられた。強い政治力の介入があったといわれる<ref>[[サンデー毎日]]1979年5月20日p205</ref>。1975年10月東宝副社長を辞し、自ら取締役に降格<ref>春日太一著『仁義なき日本沈没 東宝vs.東映の戦後サバイバル』新潮新書p245-247</ref>。


[[1971年]]11月8日に[[TOHOスタジオ|東宝映画]]が設立されると初代社長に就任した{{R|全史538}}。[[1974年]]8月22日、東宝副社長に就任{{R|全史538}}。[[1975年]]4月、東宝映画社長の座を田中友幸に譲り、東宝取締役に戻る{{R|全史538}}。


1975年5月22日、[[田中角栄]]の[[田中金脈問題|金脈問題]]を追及し、失脚に追い込んだジャーナリスト[[児玉隆也]]が病死。児玉を主人公にした映画『愛のとこしえ』を畢生の仕事にすると取り組んだが、社命により中止させられた。同年10月、藤本は[[江崎真澄]]ら国会議員の強い政治力の介入があったと証言し、東宝副社長を辞した。自ら取締役に降格<ref>{{Cite book|和書|author= [[立花隆]]|year= 1982-8-15|title= 田中角栄研究 全記録(上)|publisher= [[講談社文庫]]|pages = 346-351|ISBN = }}</ref><ref>[[サンデー毎日]]1979年5月20日p205</ref><ref>春日太一著『仁義なき日本沈没 東宝vs.東映の戦後サバイバル』新潮新書p245-247</ref><ref>{{Cite web|和書|url= https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=107605261X00819751029&current=2 | title= 第76回国会 衆議院 予算委員会 第8号 昭和50年10月29日 | publisher= 国会会議録検索システム | date= | accessdate = 2020-7-23 }}</ref>。




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全生涯を映画の製作に捧げた藤本の功績を讃え、東宝は藤本の死後'''[[藤本賞]]'''を設立。1981年より、毎年功績著しい活躍をした映画製作者に対して同賞を授与している。映画界において唯一プロデューサーを顕彰する賞である。

全生涯を映画の製作に捧げた藤本の功績を讃え、東宝は藤本の死後'''[[藤本賞]]'''を設立{{R|平成ゴジラ大全}}。1981年より、毎年功績著しい活躍をした映画製作者に対して同賞を授与している。映画界において唯一プロデューサーを顕彰する賞である。



生涯独身を通したが、寂しがり屋な性格で豪酒でもあり、藤本プロ以来の盟友でもある[[越路吹雪]]や前記のスタッフ・俳優の他、[[南海ホークス]]ファンで[[鶴岡一人]]ら、気の合った仲間と毎晩飲み食い歩いていたという[[源氏鶏太]]の小説「東京一の淋しい男」は藤本がモデルといわれる<ref>『山口瞳対談集3』、p283</ref>(1964年『裸の重役』として映画化)。

生涯独身を通したが、寂しがり屋な性格で豪酒でもあり、藤本プロ以来の盟友でもある[[越路吹雪]]や前記のスタッフ・俳優のほか[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]ファンで[[鶴岡一人]]ら、気の合った仲間と毎晩飲み食い歩いていたという[[源氏鶏太]]の小説「東京一の淋しい男」は藤本がモデルといわれる<ref>『山口瞳対談集3』、p283</ref>(1964年『裸の重役』として映画化)。



== 逸話 ==

== 逸話 ==

* 1951年、[[朝日新聞]]に[[林芙美子]]作「[[めし]]」の連載が始まった。作品に着目した藤本はさっそく[[下落合]]の林宅を訪ね、映画化の交渉を行う。林の「主人公の夫婦を誰がやるのか」という問いに藤本が「上原謙と原節子でやりたい」と言うと「それは会社の命令か」と言う。藤本は、映画はプロデューサーがつくるものという持論なので「会社の命令? 会社の命令なんか聞きませんよ」と返事する。しかし林は「上原謙と原節子なんて、そんな美人夫婦では駄目。原節子なんて絶対違う。たとえば[[中北千枝子]]のような人がいい」と言う。藤本としては、理解も示しつつ「二時間もの間を引っ張れるような魅力のある人でないと作品がもたない」と言うと、林は「それなら、せめて譲って[[京マチ子]]」と提案。しかし当時京マチ子は[[大映]]の専属女優だったため、東宝作品に招くのは事実上不可能であり、また藤本は、京が関西出身でこの役には向かないと考え、結局その場で映画化について林からの許可は得られなかった。その後も二、三回交渉したが、林が意見を変えず、交渉は進展しなかった。そのうちに林は急逝、朝日新聞の連載も中絶した。小説は未完だが映画化しないのは心惜しいと、藤本は諦めずに林の夫と交渉を続け、ようやく映画化の同意を得た。原作が未完のため、映画後半は独自に書き下ろすことになるが、林の知人であった[[田中澄江]]に脚本を依頼した。監督は千葉泰樹に決めたが病気で倒れたため、代わって成瀬巳喜男に依頼する。しかしせっかく仕上がった田中の脚本が藤本も成瀬も気にいらず、結局井出俊郎に脚本直しを依頼、満足のいく脚本となったが、今度は営業関係から、脚本が淡々過ぎて千葉ならともかく、成瀬では淡い作品になってしまい、興行的に危ない、注意願いたい、と書かれた手紙が届いた。藤本はこの手紙を参考にするよう成瀬に渡し「とにかくドラマティックに撮ってくれ」と頼んだ。作品が完成すると成瀬は「あの手紙はもらっておく」と返してくれなかったと言う。本作は興行的にも大ヒットし成瀬や原節子、上原謙、[[玉井正夫]]らにとっても重要作となった。また藤本にとっても原作者と揉めたものの、原節子で行ける、と初志を貫いて成功した作品となった<ref>尾崎秀樹編著『プロデューサー人生 ― 藤本真澄映画に賭ける』東宝出版事業部、p217、218</ref>。

* 1951年、[[朝日新聞]]に[[林芙美子]]作「[[めし]]」の連載が始まった。作品に着目した藤本はさっそく[[下落合 (新宿区)|下落合]]の林宅を訪ね、映画化の交渉を行う。林の「主人公の夫婦を誰がやるのか」という問いに藤本が「上原謙と原節子でやりたい」と言うと「それは会社の命令か」と言う。藤本は、映画はプロデューサーがつくるものという持論なので「会社の命令? 会社の命令なんか聞きませんよ」と返事する。しかし林は「上原謙と原節子なんて、そんな美人夫婦では駄目。原節子なんて絶対違う。たとえば[[中北千枝子]]のような人がいい」と言う。藤本としては、理解も示しつつ「二時間もの間を引っ張れるような魅力のある人でないと作品がもたない」と言うと、林は「それなら、せめて譲って[[京マチ子]]」と提案。しかし当時京マチ子は[[大映]]の専属女優だったため、東宝作品に招くのは事実上不可能であり、また藤本は、京が関西出身でこの役には向かないと考え、結局その場で映画化について林からの許可は得られなかった。その後も二、三回交渉したが、林が意見を変えず、交渉は進展しなかった。そのうちに林は急逝、朝日新聞の連載も中絶した。小説は未完だが映画化しないのは心惜しいと、藤本は諦めずに林の夫と交渉を続け、ようやく映画化の同意を得た。原作が未完のため、映画後半は独自に書き下ろすことになるが、林の知人であった[[田中澄江]]に脚本を依頼した。監督は千葉泰樹に決めたが病気で倒れたため、代わって成瀬巳喜男に依頼する。しかしせっかく仕上がった田中の脚本が藤本も成瀬も気にいらず、結局井出俊郎に脚本直しを依頼、満足のいく脚本となったが、今度は営業関係から、脚本が淡々過ぎて千葉ならともかく、成瀬では淡い作品になってしまい、興行的に危ない、注意願いたい、と書かれた手紙が届いた。藤本はこの手紙を参考にするよう成瀬に渡し「とにかくドラマティックに撮ってくれ」と頼んだ。作品が完成すると成瀬は「あの手紙はもらっておく」と返してくれなかったと言う。本作は興行的にも大ヒットし成瀬や原節子、上原謙、[[玉井正夫]]らにとっても重要作となった。また藤本にとっても原作者と揉めたものの、原節子で行ける、と初志を貫いて成功した作品となった<ref>尾崎秀樹編著『プロデューサー人生 ― 藤本真澄映画に賭ける』東宝出版事業部、p217、218</ref>。


* [[]][[]]<ref>[[]][[]]  [[]] 2012 p188189</ref>


* [[]][[]]<ref>[[]][[]]  <small></small>[[]] 2012 p188189</ref>

* [[黒澤明]]監督の『[[椿三十郎]]』の主役は最初、[[小林桂樹]]だったが藤本がどうしても納得せず[[三船敏郎]]になったという<ref>嵩元友子著『銀座並木座 日本映画とともに歩いた四十五年』[[鳥影社]] p109</ref>。

* [[黒澤明]]監督の『[[椿三十郎]]』の主役は最初、[[小林桂樹]]だったが藤本がどうしても納得せず[[三船敏郎]]になったという<ref>嵩元友子著『銀座並木座 日本映画とともに歩いた四十五年』[[鳥影社]] p109</ref>。

* 日本映画の黄金時代、量産時代に300本近い作品をプロデュースし、その3分の2をヒットさせた活動屋。大変な高給取りであり、毎晩[[銀座]]の一流バーで散財していたと伝えられる。しかし生涯独身だったこともあってか、かなりの遺産を残し、[[藤本賞]]は今もその[[遺産]]を基にして運営しているといわれる。



* 30032[[]][[]][[]][[]][[]][[]]1963<ref name="tohoeiga100"/><ref>[[]]1979524p32</ref><ref> </ref><ref>[http://homepage.mac.com/xiaogang/films/talk/2002/hkCinema2.html  ]</ref>

* [[]][[]][[]]1963{{R|tohoeiga100}}<ref>[[]]1979524p32</ref><ref> </ref><ref>[http://homepage.mac.com/xiaogang/films/talk/2002/hkCinema2.html  ]</ref>

* 退101974[[]]<ref>[[]]19743[[]]2009p269-271</ref>

* [[石原慎太郎]]を政界に進出するようアドバイスをした人間といわれている<ref>石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊{{要ページ番号|date=2022年1月}}</ref>


* 退101974[[]]<ref>[[]]19743[[]]2009p269-271</ref>

* [[石原慎太郎]]を政界に進出するようアドバイスをした人間といわれている<ref>石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊</ref>



== 主な製作映画(企画も含む) ==

== 主な製作映画(企画も含む) ==

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* [[孫悟空 (1959年の映画)|孫悟空]]([[山本嘉次郎]]監督、[[1959年]])

* [[孫悟空 (1959年の映画)|孫悟空]]([[山本嘉次郎]]監督、[[1959年]])

* [[野獣死すべし]]([[須川栄三]]監督、1959年)

* [[野獣死すべし]]([[須川栄三]]監督、1959年)

* [[戦国群盗伝]] (1959年)

* [[私は貝になりたい]]([[橋本忍]]監督、1959年)

* [[私は貝になりたい]]([[橋本忍]]監督、1959年)

* [[日本誕生]]([[稲垣浩]]監督、1959年)

* [[日本誕生]]([[稲垣浩]]監督、1959年)

* [[がんばれ! 盤嶽]] (1960年)

* [[名もなく貧しく美しく]]([[松山善三]]監督、[[1961年]])

* [[名もなく貧しく美しく]]([[松山善三]]監督、[[1961年]])

* [[特急にっぽん]]([[川島雄三]]監督、1961年)

* [[特急にっぽん]]([[川島雄三]]監督、1961年)

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* [[小早川家の秋]]([[小津安二郎]]監督、1961年)

* [[小早川家の秋]]([[小津安二郎]]監督、1961年)

* [[放浪記#1962年版|放浪記]](成瀬巳喜男監督、[[1962年]])

* [[放浪記#1962年版|放浪記]](成瀬巳喜男監督、[[1962年]])

* [[箱根山 (映画)|箱根山]] (1962年)

* [[ぶらりぶらぶら物語]](1962年)

* [[五十万人の遺産]]([[三船敏郎]]監督、[[1963年]])

* [[五十万人の遺産]]([[三船敏郎]]監督、[[1963年]])

* [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]]([[本多猪四郎]]監督、1963年〔企画のみ〕)

* [[海底軍艦 (映画)|海底軍艦]]([[本多猪四郎]]監督、1963年〔企画のみ〕)

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* [[海の若大将]]([[古澤憲吾]]監督、[[1965年]])

* [[海の若大将]]([[古澤憲吾]]監督、[[1965年]])

* [[大冒険]]([[クレージーキャッツ]]結成10周年記念、古澤憲吾監督、1965年)

* [[大冒険]]([[クレージーキャッツ]]結成10周年記念、古澤憲吾監督、1965年)

* [[けものみち#映画|けものみち]](須川栄三監督、1965年)

* [[けものみち (松本清張)#映画|けものみち]](須川栄三監督、1965年)

* [[エレキの若大将]]([[岩内克己]]監督、1965年)

* [[エレキの若大将]]([[岩内克己]]監督、1965年)

* [[クレージーの無責任清水港]]([[坪島孝]]監督、[[1966年]])

* [[クレージーの無責任清水港]]([[坪島孝]]監督、[[1966年]])

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* [[日本沈没]]([[森谷司郎]]監督、[[1973年]])

* [[日本沈没]]([[森谷司郎]]監督、[[1973年]])

*[[青春の門]]([[浦山桐郎]]監督、[[1975年]])

*[[青春の門]]([[浦山桐郎]]監督、[[1975年]])

* [[燃える秋]]([[小林正樹]]監督、[[1978年]]){{efn|遺作{{R|平成ゴジラ大全}}。}}



==演じた俳優==

==演じた俳優==

* [[神田正輝]] ([[2004年]][[弟 (テレビドラマ)|弟]][[テレビ朝日]]系列


* [[神田正輝]] ([[2004年]]「[[ (テレビドラマ)|弟]]」[[テレビ朝日]]系列)

* [[風間杜夫]] ([[2005年]]「[[女の一代記]]シリーズ 「[[越路吹雪]] 愛の生涯〜この命燃えつきるまで私は歌う〜」[[テレビ朝日|フジテレビ]]系列

* [[風間杜夫]] ([[2005年]][[女の一代記]]シリーズ 「[[越路吹雪]] 愛の生涯〜この命燃えつきるまで私は歌う〜[[テレビ朝日|フジテレビ]]系列)

* [[デビット伊東]] ([[2018年]] [[帯ドラマ劇場]]「[[越路吹雪物語]]」テレビ朝日系列

* [[デビット伊東]] ([[2018年]] [[ドラマ劇場]][[越路吹雪物語]]」テレビ朝日系列)



== 脚注 ==

== 脚注 ==

{{Reflist|3}}

{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===

{{Notelist}}

=== 出典 ===

{{Reflist|3

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<ref name="全史538">{{Harvnb|東宝特撮映画全史|1983|pp=538-539|loc=「特撮映画スタッフ名鑑」}}</ref>

<ref name="田中友幸とその時代">田中文雄『神(ゴジラ)を放った男―映画製作者・田中友幸とその時代』[[キネマ旬報社]]、1993年、p130-138</ref>

<ref name="市川">[[#市川|市川]]、p82-84</ref>

<ref name="平成ゴジラ大全">{{Cite book|和書|others=編著 [[白石雅彦]]、スーパーバイザー [[富山省吾]]|date=2003-01-20<!--奥付表記-->|title=平成ゴジラ大全 1984-1995|publisher=[[双葉社]]|series=双葉社の大全シリーズ<!--表紙そでより-->|page=56|chapter=序之弐 復活『ゴジラ』|isbn=4-575-29505-1}}</ref>

<ref name="山口瞳">[[山口瞳]]他『山口瞳対談集3』[[論創社]]、2009年、p271</ref>

<ref name="tohoeiga100">[[福田純]]・染谷勝樹共著 『東宝映画100発100中!映画監督 福田純』p89</ref>

<ref name="kinejun">『[[キネマ旬報]]』1979年6月下旬号、p130。「追悼ー藤本真澄」谷村錦一。</ref>

}}



== 参考文献 ==

== 参考文献 ==

* 尾崎秀樹編著『プロデューサー人生 ― 藤本真澄映画に賭ける』(東宝出版事業部、1981年12月)

* 尾崎秀樹編著『プロデューサー人生 ― 藤本真澄映画に賭ける』(東宝出版事業部、1981年12月)

* {{Cite book|和書|title=東宝特撮映画全史|others=監修 [[田中友幸]]|date=1983-12-10|publisher=[[東宝]]出版事業室|isbn=4-924609-00-5|ref={{SfnRef|東宝特撮映画全史|1983}}}}

* 黒井和男著『映像の仕掛け人たち』(キネマ旬報社、1986年7月)

* 黒井和男著『映像の仕掛け人たち』(キネマ旬報社、1986年7月)

* 小林桂樹・草壁久四郎著『演技者-小林桂樹の全仕事』(ワイズ出版、1996年12月)ISBN 4-9487-3560-4

* {{Cite book|和書|author = 市山隆一著|date = 1998年5月)|title = 私論・勝新太郎―「勝新語録」とその背景|publisher = ([[講談社]]|isbn = |ref = 市川}}

* 福田純・染谷勝樹共著 『東宝映画100発100中!映画監督 福田純』(ワイズ出版、2001年1月)

* 金子正且・鈴村たけし著『その場所に映画ありて プロデューサー金子正且の仕事』(ワイズ出版、2004年11月)ISBN 4898301789

* 金子正且・鈴村たけし著『その場所に映画ありて プロデューサー金子正且の仕事』(ワイズ出版、2004年11月)ISBN 4898301789

* 嵩元友子著『銀座並木座 日本映画とともに歩いた四十五年』([[鳥影社]]、2006年1月)ISBN 4886299628

* 嵩元友子著『銀座並木座 日本映画とともに歩いた四十五年』([[鳥影社]]、2006年1月)ISBN 4886299628

* 小林桂樹・草壁久四郎著『演技者-小林桂樹の全仕事』(ワイズ出版、1996年12月)ISBN 4-9487-3560-4

* 福田純・染谷勝樹共著 『東宝映画100発100中!映画監督 福田純』(ワイズ出版、2001年1月)

* [復刻版]銀座並木座ウィークリー編集委員会編 『[復刻版]銀座並木座ウィークリー』([[三交社]]、2007年9月)

* [復刻版]銀座並木座ウィークリー編集委員会編 『[復刻版]銀座並木座ウィークリー』([[三交社]]、2007年9月)

* {{Cite book|和書|author = 市山隆一著|date = 1998年5月)|title = 私論・勝新太郎―「勝新語録」とその背景|publisher = ([[講談社]]|isbn = |ref = 市川}}



== 関連項目 ==

== 関連項目 ==

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* {{IMDb name|0297772|Sanezumi Fujimoto}}

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藤本真澄(1953年)

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注釈[編集]



(一)^ 58[2]

(二)^ [1]

(三)^ ()277p132

(四)^ [2]

出典[編集]



(一)^ abcdefghijklm 1983, pp. 538539, 

(二)^ abcd  1984-1995  ︿200312056ISBN 4-575-29505-1 

(三)^  - 

(四)^ ab32009p271

(五)^ ab()1993p130-138

(六)^ ab 100100! p89

(七)^ abcp82-84

(八)^ abcd19796p130

(九)^ 3p288

(十)^ 100100! p58

(11)^ 2010p177178

(12)^ 197763p48

(13)^ &2005p48

(14)^  26

(15)^ -2006p101

(16)^  

(17)^  1982815346-351 

(18)^ 1979520p205

(19)^  vs.p245-247

(20)^ 76   8 501029.  . 2020723

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(23)^    2012 p188189

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(28)^ 197432009p269-271

(29)^ 1996[]

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  198112

 19831210ISBN 4-924609-00-5 

19867

-199612ISBN 4-9487-3560-4

19985 

 100100! 20011

 200411ISBN 4898301789

 20061ISBN 4886299628

[] []20079

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 - allcinema

 - KINENOTE

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Sanezumi Fujimoto - IMDb
先代
株式会社東宝映画社長
初代(1971年 - 1975年)
次代
田中友幸