カンブレーの戦い

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カンブレーの戦い

イギリス軍のマーク IV 戦車を回収するドイツ軍歩兵。この戦闘での戦車の効果は限定的なものだった。
戦争第一次世界大戦
年月日1917年11月20日から12月8日[1]
場所フランスカンブレー
結果:膠着、両軍とも攻撃において戦術的な成功を収めた。戦略的な結果は無い。
交戦勢力
イギリスの旗 イギリス帝国
ニューファンドランド自治領
ドイツの旗 ドイツ帝国
指導者・指揮官
ジュリアン・ビング英語版 ゲオルク・フォン・デア・マルヴィッツ英語版
戦力
2個軍団、車輛476輌(戦車378輌) 1個軍団
損害
44,207名、戦車179輌が行動不能 45,000名
西部戦線 (第一次世界大戦)

191711201279

Royal Tank Corps, RTC[2]3

19174130548109267200IVIV2

JFC使19251939[3][4]

[]


919178IV使No. 106[5]

[]


112061,003[6][7]270mHavrincourt使

III6IV9437IV13
19171129

8km12Lateau20La VacquerieMasnièresSt Quentin[8]6RibécourtMarcoingNoyelles退

IV51Flesquières[9]51[10]FlesquièresKrebsFlesquières40Flesquières1085[11]928 [12]5454[13]Flesquières

Flesquières西62HavrincourtGraincourtBourlon62BapaumeCambrai

21806571434,0004,20036

Bourlon21

FlesquièresCantaingIIIIV

BourlonBourlonAnneux21Moeuvres22FontaineAnneux62BourlonBourlon6223401004304023Bourlon2Gruppe Arras2Gruppe Caudry4034,000

27306211km×9.5km沿282816,000

[]


2320BourlonHavrincourtIVBourlon3Gruppe ArrasGruppe CaudryBantouzelleRumillyMarcoingGruppe BusognyBanteux7

VIIIII

11307III2912退13kmBourlonMetz

Bourlon8870,000

123La VacquerieSt Quentin退QuentinMarcoingBonvaisBourlon

[]

2191712

123退127HavrincourtRibécourtFlesquièresWelsh

45,00011,0009,000[] ( )[14]

脚注[編集]

  1. ^ Hammond 2007, p. ix.
  2. ^ 当時のイギリス軍は、機関銃や戦車といった最新兵器の部隊を機関銃軍団 (Machine Gun Corps) や王立戦車軍団に配属し、大隊・中隊といった単位で、必要に応じて歩兵師団など在来部隊の指揮下に送っていた。多くの兵科では訓練などを統括するadministrative corpsが置かれるが、戦車部隊のRoyal Armoured Corpsは1939年に創設され、RTCはRTR (Royal Tank Regiment) と改称したうえでRACの下部組織となった。
  3. ^ Hammond 2009, p. 430
  4. ^ Hammond 2009, pp. 429-430
  5. ^ Hammond 2009, p. 57.
  6. ^ ふつう1門だけで試射・観測し、目標に落ちるよう修正を加えて数門~数十門の砲が効力射を行う。これでは攻撃の意図が漏れ、敵の予備投入が間に合ってしまうので、ここでは地図などを頼りに照準を合わせ、敵目標にいきなり全力射撃を浴びせた。計算射撃は「計算法による射撃」ともいう。
  7. ^ 歩兵の進む速度に合わせ、弾幕を敵陣の奥に移していくこと。当時の最新戦法。
  8. ^ Mann, Chris: Battles That Changed Warfare, pp.178–185
  9. ^ 部隊の一番長い方向を貫くように撃たれること。ここでは、横隊で進んでいるところを側面から撃たれること。
  10. ^ 直協歩兵に戦車のすぐ後を進ませ、塹壕に残った敵歩兵を迅速に掃討するのが良いのだという考え方と、それでは直協歩兵が戦車に向けられた砲撃を浴びて何もできないうちに大損害を受けてしまう(ので少し後を進むべきだ)という考え方が当時せめぎ合っていて、当時の公式なドクトリンは前者であり、後者に基づく指導をしていたハーパーが批判された。ただし後者も上級司令部が認めたものでありハーパーの個人的責任とまでは言えず、後者を取った部隊がむしろ良い結果を出している例もあるとHammond[2009]は述べている。
  11. ^ Sheffield & Bourne 2005, p. 348.
  12. ^ Hammond 2007, p. 233.
  13. ^ Turner 2007, p. 45.
  14. ^ Sheldon, J. The German Army at Cambrai, p. 312 (2009)

参考文献[編集]

  • Hammond, Bryn (2009). Cambrai 1917: The Myth of the First Great Tank Battle. Orion Publishing. ISBN 978-0-7538-2605-8 

外部リンク[編集]