中世盛期
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時代区分[編集]
「中世盛期」という用語は、中世を三分割したうちの一つで、他の二つは、中世前期と中世後期である。レオナルド・ブルーニはフィレンツェ人の歴史(1442年)で三分割した時代区分を初めて用いた歴史家であった[6]。フラビオ・ビオンドはローマ帝国の悪化の歴史の数十年(1439年-1453年)で同様の枠組みを用いた。三分割はドイツの歴史家クリストフ・セラリウスが古代、中世、新時代に分割した普遍的な歴史(1683年)を出版して一般化した。
時系列[編集]
前半[編集]
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日付
- 962 : オットー1世、神聖ローマ帝国皇帝即位
- 1003 : シルウェステル2世死去
- 1018 : 第一次ブルガリア帝国がバシレイオス2世の東ローマ帝国に占領される。
- 1027 : コンラート2世、ハインリヒ2世の後継として神聖ローマ帝国皇帝に即位
- 1054 : 東西教会の分裂
- 1066 : ヘイスティングズの戦い
- 1066-1067 : バイユーのタペストリー
- 1073-1085 : グレゴリウス7世
- 1071 : マラズギルトの戦い
- 1077 : ハインリヒ4世のカノッサの屈辱
- 1086 : ドゥームズデイ・ブック
- 1086 : サグラハスの戦い
- 1088 : ボローニャ大学創立
- 1091 : ルヴニオンの戦い
- 1096–1099 : 第1回十字軍
- 1123 : 第1ラテラン公会議
- 1139 : 第2ラテラン公会議
- 1145–1149 : 第2回十字軍
- 1147 : ヴェンド十字軍
- 1150 : パリ大学創立
後半[編集]
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日付
- 1155–1190 : フリードリヒ1世
- 1158 : ハンザ同盟創立
- 1167 : オックスフォード大学創立
- 1185 : ブルガリア帝国再興
- 1189–1192 : 第3回十字軍
- 1200–1204 : 第4回十字軍
- 1205 : アドリアノープルの戦い
- 1209 : ケンブリッジ大学創立
- 1209–1229 : アルビジョア十字軍
- 1212 : ナバス・デ・トロサの戦い
- 1215 : マグナ・カルタ
- 1216 : ドミニコ会認可
- 1215 : 第4ラテラン公会議
- 1217–1221 : 第5回十字軍
- 1218 : サラマンカ大学創立
- 1220–1250 : フリードリヒ2世
- 1222 : パドヴァ大学創立
- 1223 : フランシスコ会認可
- 1228–1229 : 第6回十字軍
- 1230 : プロイセン十字軍
- 1230 : クロコトニツァの戦い
- 1237–1240 : モンゴルのルーシ侵攻
- 1241–1242 : モンゴルのヨーロッパ侵攻
- 1241 : ワールシュタットの戦い
- 1242 : 氷上の戦い
- 1248–1254 : 第7回十字軍
- 1257 : ソルボンヌ大学創立
- 1261 : 東ローマ帝国コンスタンティノープル再占領
- 1274 : トマス・アクィナス死去:神学大全出版
- 1280 : アルベルトゥス・マグヌス死去
- 1291 : 中東のヨーロッパ最後の植民地アッコ、アシュラフ・ハリールのマムルークに占領される。
- 1299 : オスマン1世オスマン帝国建国
- 1321 : ダンテ・アリギエーリ死去
歴史[編集]
人類史 |
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↑ 石器時代 |
記録された歴史 |
↓未来 |
ブリテン諸島[編集]
ノルマン・コンクエスト |
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北ヨーロッパ[編集]
フランスとドイツ[編集]
ハンガリー[編集]
イシュトヴァーン1世 |
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ポーランドとリトアニア[編集]
960年頃にミェシュコ1世が神聖ローマ皇帝オットー1世からポーランド公の称号を与えられ、ピャスト朝を創始した。ミェシェンコの子ボレスワフ1世の代には父の勢力をさらに拡大し、強大な国家となった。1138年にボレスワフ3世が没すると後継者争いによってポーランドは分裂してしまう。分裂状態は約200年続き、ヴワディスワフ1世によって統一された。
南ヨーロッパ[編集]
最北端は数か国のキリスト教国に分かれていたが、イベリア半島の多くは、711年以降ムーア人に占領されていた。11世紀と13世紀に再び北部のキリスト教王国は、イベリア半島の中央部と南部の殆どからムスリムを追い出した。
イタリアでは独立した都市国家が、東方の海運貿易で豊かになっていた。こうしたことは特にピサやアマルフィ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの制海権であった。
バルカン半島と東欧[編集]
バルカン半島と東方 |
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気候と農業[編集]
10世紀からほぼ14世紀にかけての時代は、中世の温暖期と呼ばれ、比較的に温暖であった。この一時的に訪れた温和な時代は、より寒い小氷期の到来によって終止符を打たれた。ヨーロッパでワイン園が最も普及したのは小氷期に入ってからなのではあるが、中世の温暖期にはスカンディナヴィアの北方でもコムギが栽培可能であったし、北イングランドでもワイン用のブドウが栽培された。農耕域の拡大は人工の増大を促し、1315年には150万人が犠牲となる飢饉が起きたが、ヨーロッパの人口は全体としては増加した。また、人口の増加によってこの時代には新しい町の建設が促され、工業や経済の活動も活発化した。この時代には食料生産も増進したが、従来のものよりも重い鋤の使用、牛に代わる馬の使用、以前の二圃制より多くの種類の作物の栽培に適した三圃制の導入といった新技術の導入による部分が大きい。三圃式農法ではマメ類の耕作がよく知られるが、マメ類を育てることで、土壌から養分として重要な窒素が枯渇するのを防ぐことができるのである。 ある研究によると[7]、中世の温暖期は幾つかの地域では2000年代の10年間に匹敵するかそれ以上の暖かさであったが、地球規模では2000年代の水準を下回っている。中世の温暖期の再構築は、20世紀後半を基準にしたものを実質的に超えているように見え、幾つかの地域では過去10-20年間のものに匹敵するか超えている北大西洋の多くの地域や南グリーンランド、ユーラシア側の北極地方、北アメリカの一部に対する暖かさを作り出している。中央ユーラシア、北アメリカ北西部、︵あまり信用できないが︶南大西洋の一部のような地域は、例外的に寒かったことを示した。人類史 |
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↑ 石器時代 |
記録された歴史 |
↓未来 |
騎士道の興隆[編集]
宗教[編集]
教会[編集]
1054年の東西教会の分裂は、正式にキリスト教会を二つに分けた。大分裂は長らく政治的・教義的差異や神学論争により一層傷付けられてきた東西の関係から齎された。顕著な例は、聖体拝領には発酵したパンを用いるべきか発酵していないパンを用いるべきかということと、五大総主教座︵五本山・ペンターキー︶においてローマ教皇の主張する普遍的な権限である首位権やコンスタンティノープル総主教の地位の問題はどうあるべきかということであった。レオ9世とミハイル1世は、4人の総主教にまで教皇の権威は及ぶかという論争の最後に互いを破門した。 分裂後のキリスト教は西方のカトリック教会と東方の正教会との二つの教会でまとめられる。それぞれの教会は教義上、神学上、言語学上、政治的、地理的な線で分かれ、根本的な不和の原因は互いが相手を異端に陥ったと非難し分裂を始めたことであり、決して癒されることはなかった。1095年に始まる十字軍の派遣、1182年の東ローマ帝国でのラテン系住民の虐殺、1204年の第四回十字軍によるコンスタンティノープル占領と略奪、総主教への背信行為は、和解を一層困難なものにした。これらの衝突に加え十字軍兵士らが東ローマ帝国の聖遺物を始めとする宗教芸術品の多くを戦利品として持ち帰り、コンスタンティノープル図書館の破壊したことも挙げられる。十字軍[編集]
地中海地域の中世盛期は、1095年から1291年にかけて聖地をキリスト教徒の手に奪還する目的でカトリック教会のヨーロッパの多くが(特にフランスのフランク人と神聖ローマ帝国)行った一連の宗教上認められた軍事作戦に支配された。作戦は東西キリスト教により他の集団に対しても行われたが、十字軍は正統カリフの時代から近東を支配していたムスリムに対するローマカトリック軍により行われた。伝統的な十字軍の作戦数は、11世紀から13世紀にかけて9つを数える。
騎士修道会[編集]
十字軍の関係では、中世後期の騎士団の模範となった騎士修道会が創設された。 テンプル騎士団は敵意を持つ地元民や山賊からキリスト教巡礼者を守るのを手伝うために第1回十字軍が終わると創設されたキリスト教軍事組織であった。この騎士団は金融業に深く関わっていて、1307年、フィリップ恐怖王︵Philippe le Bel︶は騎士団全員をフランスで逮捕し、異端の疑いで告発し解散させた。1314年に密かにクレメンス5世により赦免された。 聖ヨハネ騎士団は元々貧しい人や病人、聖地への傷ついた巡礼のために活動するために1080年にエルサレムで創設されたキリスト教組織であった。エルサレムが第1回十字軍に奪取されると、聖地の管理と防衛にあたる組織に変化した修道会や騎士修道会になった。聖地が結局イスラーム教徒に奪取されると、活動の場をロドス島に、後にマルタに移した。 ドイツ騎士団は聖地へのキリスト教巡礼者を援助し病人や怪我人のためにウトラメールで病院を運営するためにアッコ市で1190年に編成されたドイツ騎士団であった。イスラーム教徒が聖地を奪取すると、騎士団は1211年にトランシルヴァニアに移動し、後に破門されると、バルト海のキリスト教化を目指して異教徒のいるプロシアを侵略した。騎士団にとっての主要な異教徒リトアニア大公国がキリスト教に改宗する前後に騎士団は既にノブゴロドやポーランドのような他のキリスト教国を攻撃していた。無視できなくなったドイツ騎士団の影響力は、1410年にポーランド・リトアニア・ロシア連合軍に破滅的な大敗を喫したタンネンベルクの戦いで粉砕された。タンネンベルクの戦いの後、騎士団は衰退し、1809年に正式に騎士団は解散した。全部で10回の十字軍が行われた。スコラ学[編集]
修道院の黄金期[編集]
11世紀後半から12世紀前・中期にキリスト教の修道院生活の黄金期の絶頂を迎えた︵8世紀から12世紀︶。キリスト教の修道院生活は、旧約聖書にある修道院生活などの聖書の例や理想を規範にしたものだが聖書の中の慣例として委託されたものではないキリスト教会の歴史の早期に発展し始めた実践である。宗教上の決まりごとにより︵例‥聖バジルの決まりごとや聖ベネディクトの決まりごと︶規制された。 黒衣をまとった僧侶のベネディクト会は、聖ベネディクトの決まりごとを遵奉する。会内では全体としての組織が共通の関心事を表すために存在する一方で、個別のコミュニティーがそれぞれ︵修道院や小修道院、大修道院であるかもしれない︶自治を維持している。たまに囲い込まれた僧侶や尼僧のシトー会は、創設者クレルヴォーのベルナルドゥスと関連してベナルディンと呼ばれている。シトー会は修道服の色は肩のところが黒い白服であり、手作業と自給自足に重点を置いていた。多くの大修道院は、伝統的に農業やエールの醸造のような活動を通じて自活した。托鉢修道会[編集]
13世紀には托鉢修道会の興隆が見られた。托鉢修道会は生計のために人々の施しに直接頼る修道会である。原則として時間とエネルギーの全てを宗教活動に費やすためにイエス・キリストが辿った道を真似る最も純粋な生活方法であったと信じて個人的にせよ集団にせよ︵集団貧困参照︶財産を持たない。 フランシスコ会︵﹁小さき兄弟会﹂、英語では一般にGrey Friarsとして知られている︶は1209年に創設された。聖フランシスコが聞いた説教により12使徒の貧困生活に完全に自らを捧げることにした感銘を与えた。緩やかな服をまとい、裸足で、福音的訓示の後は杖を持たず、悔い改めの説教を始めた。間もなく活動で得た全てを寄付した有名な市民Bernardo di Quintavalleや一年で11人に達したと言われる仲間が加わった。 カルメル会︵カルメルの聖処女マリアの隠修士、英語では一般にWhite Friarsとして知られる︶は1206年から1214年にかけて創設された。1190年代以前のカルメル山の隠修士に関する記録はないが、カルメル会の伝統は、古代イスラエルの預言者の一門を継承したカルメル山の隠修士のコミュニティーに修道会の起源を重ね合わせている。この時期までにある一団がカルメル山のエリジャの井戸に集まった。この男達は巡礼や十字軍兵士としてヨーロッパからパレスチナに行った男達で、そこがエリジャの伝統的な家であるために一部カルメル山を選んだ。基礎は聖処女マリアに捧げられたと考えられている。 ドミニコ会︵説教者修道会、英語では一般にBlack Friarsと呼ばれる︶は1215年に創設された。アルビジョア十字軍の後で聖ドミニコは都市の萌え出る住民の宗教問題に耳を傾けるベネディクト会のような古い型の托鉢修道会の献身や組織だった教育を行うが托鉢修道会や世俗の僧侶より柔軟な組織を持つ新しい型の修道会を創設しようとした。ドミニコの新しい修道会は、日常の言葉で説教するよう訓練された説教修道会であった。男子修道院が行った広大な農地で暮らすよりも、新しい修道士は、説得力のある説法で自らを﹁売り込み﹂、物乞いで生き残ろうとすることになる。 聖アウグスチノ修道会︵聖アウグスティヌスの隠修士、一般にアウグチノ修道士と呼ばれている︶は1256年に創設された。アウグスティヌスに因んで名付けられ、この修道士は黙想と12使徒的な聖職者の合わさった宗教上の生活を実践し、聖アウグスティヌスの修道規則に従っている。異端運動[編集]
キリスト教の異端は11世紀以前にヨーロッパに存在したが、一匹狼の牧師や異教徒の伝統に戻った村のように、数も少なく、土地の人物に限られていたが、11世紀初めに大規模な異端運動が起こった。もとは都市の興隆や自由な商人、新しい金を基本にした経済があった。修道院生活の農村版が、都市文化に調和して更に分派を形成し始めた都市住民には殆ど感銘を与えなかった。最初の異端運動は、南フランスや北イタリアのような新たに都市化された地域で始まった。教会がそれまでに見たことのない規模の運動であり、その反応はカタリ派のような人々のために除去されたひとつであり、金を放棄した都市商人の息子聖フランシスコのような人に受け入れられ、完成された。
カタリ派[編集]
カタリ派 |
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ワルドー派[編集]
リヨンのピエール・ヴァルドーは、裕福な商人だったが、1173年頃に霊感を受け、全財産をなげうって説教者となった。あらゆる宗教上の慣行は聖書に基づくべきだと考え、ヴァルド派を開いた。ワルドーは1179年の第3ラテラン公会議で、説教する権利を剥奪されたが、これに従わず1184年に破門されるまで自由に説教を続けた。キリストの言葉に従って生きていないとしてキリスト教聖職者達を批判し、贖宥状の売買や、聖人暦による聖人崇敬の慣行を否定した。貿易と商業[編集]
北ヨーロッパでは海上貿易を推進する自由都市連合ハンザ同盟が、後にハンザ同盟を支配することになるリューベック市が1158年-1159年に創立されるとともに12世紀に結成された。アムステルダムやケルン、ブレーメン、ハノーファー、ベルリンなどの神聖ローマ帝国の多くの北部都市が、ハンザ同盟に加わった。例えば神聖ローマ帝国以外のハンザ同盟都市にケーニヒスベルク同様にブルッヘやポーランドのグダニスク︵ダンツィヒ︶があった。ベルゲンやノヴゴロドではハンザ同盟には工場や中間商人がいた。この時代、ドイツはプロイセンやシレジアに向けて神聖ローマ帝国の領域を超えて東ヨーロッパを植民地化し始めた。 13世紀後半、マルコ・ポーロというヴェネツィアの探検家が、中国に向けてシルクロードを旅した最初のヨーロッパ人の一人になった。マルコ・ポーロが東方見聞録で自身の旅を著すと、西洋人は極東について知ることとなった。ウィリアム・ルブルックやプラノ・カルピニ、アンドレ・ド・ロンジュモー, オドリック・ポルデノネ、ジョヴァンニ・デ・マリノッリ、ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノのような東方への数多くのキリスト教使節やニッコロ・デ・コンティのような旅行者が続いた。科学と知識[編集]
船舶[編集]
様々な船が、中世盛期に用いられた。コグ船はロングシップから進化した(あるいは少なくとも影響を受けた)と考えられる意匠であり、12世紀までに広く用いられた。建造には鎧張りの方法も用いた。キャラベル船はイスラーム教のイベリアで発明された船で、13世紀から地中海で用いられた[13]。ロングシップやコグ船とは違うが、建造にあたってカルベル造船法を用いた。横帆を備えたキャラベル・レドンダ(Caravela Redonda)と縦帆(ラティーンセイル)を備えたキャラベル・ラティーナ(Caravela Latina)があった。