長井源
長井 源︵ながい げん、1894年︵明治27年︶8月13日[1] - 1966年︵昭和41年︶9月19日[2]︶は、日本の政治家、弁護士。三重県飯南郡粥見町出身。戦前の大日本帝国の帝国議会の民政党衆議院議員。戦後の日本進歩党・改進党・日本民主党・自由民主党の衆議院議員。
来歴・人物[編集]
三重師範学校︵現在の三重大学︶を卒業した。三重県内の尋常小学校の教員を経て、法律を学ぶため1923年︵大正12年︶明治大学法学部法律学科を卒業した[2]。高等文官試験をパス︵合格︶した。衆議院議員に初当選する前のキャリアとして、弁護士、松阪市会議員、三重県会議員、第33代三重県会副議長︵昭和8年11月~昭和10年10月在任︶を務めた[2]。 1936年︵昭和11年︶の第19回衆議院議員総選挙に民政党の公認で初当選をした。初当選時は42歳だった。戦前の大日本帝国時代の帝国議会で3回当選。戦前は民政党︵立憲民政党︶の筆頭総務となり、1942年︵昭和17年︶の翼賛選挙には非推薦候補として当選した。戦後初の1946年︵昭和21年︶の第22回衆議院議員総選挙で日本進歩党から4回目の当選を果たして、第1次吉田内閣の組閣にて文部大臣として入閣するところを、マッカーサーGHQ︵連合国軍最高司令官総司令部︶の資格審査にかかり公職追放となった。1951年︵昭和26年︶に公職追放解除になると国政に復帰し、改進党の重鎮として活躍した。通算6回当選[3]。 1966年︵昭和41年︶9月19日死去。享年72。選挙歴[編集]
●1936年︵昭和11年︶2月20日の第19回衆議院議員総選挙で初当選をした。 ●1937年︵昭和12年︶4月30日の第20回衆議院議員総選挙で2回目の当選をした。 ●1942年︵昭和17年︶4月30日の第21回衆議院議員総選挙で3回目の当選をした。 ●戦後初の総選挙である1946年︵昭和21年︶の第22回衆議院議員総選挙で4回目の当選をした。 ●1952年︵昭和27年︶10月1日 の第25回衆議院議員総選挙で三重2区から当選した︵5回目︶。改進党に所属していた。 ●1953年︵昭和28年︶4月19日の 第26回衆議院議員総選挙で三重2区から落選 した。改進党から立候補していた。 ●1955年︵昭和30年︶2月27日の 第27回衆議院議員総選挙で三重2区から当選した︵6回目︶。日本民主党に所属していた。 ●1958年︵昭和33年︶5月22日の 第28回衆議院議員総選挙で 三重2区から落選 した。自由民主党に所属していた。脚注[編集]
参考文献[編集]
- 廣新二『日本政治史に残る三重県選出国会議員』廣新二、1985年。
- 『三重県史』資料編 近代1 政治・行政 1
- 『三重県史』資料編 近代2 政治・行政 2
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
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