島崎藤村(読み)シマザキトウソン

デジタル大辞泉 「島崎藤村」の意味・読み・例文・類語

しまざき‐とうそん【島崎藤村】

 
18721943
221947  

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精選版 日本国語大辞典 「島崎藤村」の意味・読み・例文・類語

しまざき‐とうそん【島崎藤村】

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「島崎藤村」の意味・わかりやすい解説

島崎藤村
しまざきとうそん
(1872―1943)


()()5217()()宿()()()1718811410()1891()稿()1893西


詩人藤村


()()1897()()1898()19013()1899


作家的地位の確立

『破戒(はかい)』(1906)によって作家的地位を確立した彼は、次の長編『春』(1908)において『破戒』流のフィクションを捨て、『文学界』時代の実生活をもとに自伝的小説に転じ、田山花袋(たやまかたい)の『蒲団(ふとん)』(1907)とともにわが国の自然主義文学の進路を決定した。第三の長編『家』(1910~1911)はこの方向を徹底させた作品で、彼と一族をモデルに旧家の退廃した論理を写し出し、自然主義を代表する傑作となった。この小説を執筆中に妻を失い、黙々として育児と執筆に励んでいた彼は、家事手伝いにきていた姪(めい)と過失を犯し、背徳を恥じて1913年(大正2)単身フランスに渡った。やがて『新生』(1918~1919)に描かれるこの事件は、観察を武器としてあらゆるものを対象化してきた彼の作家生活が生んだ「信のない心」や、煩雑な日常生活の倦怠(けんたい)感がもたらしたものであった。パリの生活は異国への「流罪」であるとともに、未知の世界、とくにカトリック的な価値観への眼(め)を開かせ、日本の近代化の考察や東西の比較に進ませる原動力となった。滞仏2年目、周囲の環境になじみ『桜の実の熟する時』(1914)執筆や故国への通信も軌道にのったころ第一次世界大戦が勃発(ぼっぱつ)し、一時フランス中部の都市リモージュに避難したが、前途の不安は強まり、経済的困窮も加わって、1916年(大正5)、3年ぶりに故国の土を踏んだ。

[十川信介]

再生への機運

帰国後の彼はフランス紀行『海へ』(1918)によって文明批評を試みる一方、『新生』を『東京朝日新聞』に連載、背徳を告白して退廃からのよみがえりを描こうとした。この小説は世間的にも大きな反響をよび、作家生命の危機も予想されたが、世間はむしろ彼の勇気と作家的「誠実」を評価し、彼は生涯最大の難関を切り抜けた。4人の子を育て、ひっそりと謹慎生活を続けた彼が新たな活動を開始するのは、1921年に生誕50年を文壇で祝われてからである。わずか10号で終わりはしたが、女性の目覚めを促す雑誌『処女地』の創刊(1922)や、長男楠雄(くすお)を郷里馬籠に帰農させ、新しい島崎家を興したことには、「若い生命」に期待する彼の気持ちが表れている。関東大震災や思想取締りなどの社会不安のなかで「明日」を思う彼の姿はのちに小説『嵐(あらし)』(1926)に描かれるが、彼自身も『処女地』同人であった加藤静子に求婚し(1928年結婚)、「第二の青春」に向かって身をおこした。

[十川信介]

近代化への問題

従来の問題意識の中心には、個人を圧迫する「家」とその原点としての父の問題があったが、この時期、それは父を座敷牢(ざしきろう)の中で悶死(もんし)させた「黒船」、西洋の衝撃とわが国の近代化の問題に広がり始めていた。郷里で宿場役人の古記録『大黒屋日記』を発見した彼は、そこに息づく街道筋の生活を基盤として、近代日本の胎動期の苦しみを描いた大作、『夜明け前』(1929~1935)の連載を開始した。この小説は彼が完成した最後の長編で、1936年(昭和11)に朝日文化賞を受けた。

 1935年、日本ペンクラブが結成され、初代会長に就任した彼は翌年、夫人同伴でアルゼンチンの国際ペンクラブ大会に出席、帰途アメリカ、フランスに立ち寄った。この旅の感想は『巡礼』(1937)に記されており、内外ともに騒然たる時勢のなかで彼が自覚したのは、外来文化を同化し続けてきた日本文化の粘着性と、アジアにおけるわが国の「高い運命」であった。その認識をもとに『東方の門』(1943~)を『中央公論』に連載し始めたが、その後まもない昭和18年8月22日、脳溢血(のういっけつ)のため大磯(おおいそ)の別邸で死去、同地の地福寺に葬られた。1940年芸術院会員。彼の特質は自我を抑圧する「家」への曖昧(あいまい)だが執拗(しつよう)な抵抗にあり、自己の問題を掘り下げて日本近代化の問題に進み出た点にその文学的道程がある。作品は多岐にわたり、詩、小説のほか随筆『新片町より』(1909)、童話『幼きものに』(1917)など数多い。

[十川信介]

『『島崎藤村全集』17巻・別巻1(1966~1971・筑摩書房)』『瀬沼茂樹著『評伝島崎藤村』(1981・筑摩書房)』『平野謙著『島崎藤村』(新潮文庫)』『伊東一夫編『島崎藤村事典』(1982・明治書院)』『十川信介編『鑑賞日本現代文学4 島崎藤村』(1982・角川書店)』『『新潮日本文学アルバム4 島崎藤村』(1984・新潮社)』『滝藤満義著『島崎藤村 小説の方法』(1991・明治書院)』『佐々木雅發著『島崎藤村 『春』前後』(1997・審美社)』


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百科事典マイペディア 「島崎藤村」の意味・わかりやすい解説

島崎藤村【しまざきとうそん】

 
()宿188118911892稿189611897118991905192919351943
 

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改訂新版 世界大百科事典 「島崎藤村」の意味・わかりやすい解説

島崎藤村 (しまざきとうそん)
生没年:1872-1943(明治5-昭和18)


宿188191西稿9318971898190139919061908190731910-11191316退1918-194︿1929-35︿西19361943︿姿︿︿

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朝日日本歴史人物事典 「島崎藤村」の解説

島崎藤村

 
18.8.22(1943)
5.2.17(1872.3.25)
,,,,(),,,17,414(1881),,,(),(),24稿,,,西,26,,29,,,30,32(1906),(191011),,,(191819),(1927),10(1935),,<参考文献>  
()
 

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「島崎藤村」の意味・わかりやすい解説

島崎藤村
しまざきとうそん

 
[]5(1872).2.17. 
[]1943.8.22. 
 1891939719010406 (1908)  (1418) 3640 (43) 調  

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「島崎藤村」の解説

島崎藤村
しまざきとうそん


1872.2.171943.8.22

1893(26)419055()29(4)172

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「島崎藤村」の解説

島崎藤村 しまざき-とうそん

1872-1943 明治-昭和時代前期の詩人,小説家。
明治5年2月17日生まれ。島崎正樹の4男。東北学院,小諸義塾などの教師をつとめる。明治26年北村透谷らの「文学界」創刊に参加。30年「若菜集」で新体詩人として出発し,ついで「一葉舟(ひとはぶね)」「落梅集」を刊行。39年「破戒」で自然主義文学の代表的作家となり,「新生」「夜明け前」などを発表した。昭和18年8月22日死去。72歳。長野県出身。明治学院卒。本名は春樹。
【格言など】遂に,新しき詩歌の時は来りぬ(「藤村詩集」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「島崎藤村」の解説

島崎藤村
しまざきとうそん

1872〜1943
明治〜昭和期の小説家・詩人
本名は春樹。長野県の生まれ。明治学院卒。1893年『文学界』創刊に参加。初めロマン主義詩人として『若菜集』などを出す。のち小説に転じ1906年『破戒』を発表,自然主義作家と目された。ほかに『春』『家』『新生』『夜明け前』など。

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世界大百科事典(旧版)内の島崎藤村の言及

【家】より

島崎藤村の長編小説。上巻は1910年(明治43)《読売新聞》に連載。…

【キーツ】より

…日本へは明治になってさかんに紹介され,上田敏,平田禿木をはじめ多くの浪漫主義作家が翻訳の筆をとった。さらに思想面や詩形式でもその影響は濃く,島崎藤村は《ギリシア古瓶の賦》に触発されて《白磁花瓶賦》を著し,薄田泣菫はキーツのソネットをもとに〈絶句〉,オードをもとに〈賦〉という独自の定型詩を発達させた。【笠原 順路】。…

【破戒】より

島崎藤村の長編小説。1906年,〈緑蔭叢書第壱篇〉として自費出版。…

【フランス文学】より

…森鷗外〈エミル・ゾラが没理想〉(1892)がその一例である。ゾラの考えた〈自然〉は,明治の日本では正当に理解されたとは言えないが,島崎藤村,田山花袋ら,やがて日本の自然主義を形づくる小説家たちは,ゾラやモーパッサンの作品から学ぶところ大きかった。彼らはまた,その頃《懺悔録》と訳されていたルソー《告白》の影響もあって,文学は内心の吐露であるべしとも考えていた。…

【ペンクラブ】より


19353637

【夜明け前】より

島崎藤村の長編小説。1929年から35年にかけて年4回のわりで《中央公論》に連載。…

【ロマン主義】より

… 絵画と比べて,彫刻におけるロマン主義は,それほど華やかな成果を見せてはいないが,パリのエトアール凱旋門の《義勇軍の出発》の作者リュードや,《怒れるオルランド》のデュセニュール,《戦争》のプレオーなどが挙げられる。 日本においては,文学において明星派や島崎藤村の活躍した明治30年代に,藤島武二や青木繁が,歴史趣味や華やかな幻想性に満ちた華麗清新な作品をつくり出したが,日本における西欧文化輸入の時代のずれにより,そこには,西欧の世紀末的雰囲気が色濃く反映されている。【高階 秀爾】
[近代日本のロマン主義文学]
 明治期の日本の文学は,ヨーロッパのロマン主義の影響を強く受けた。…

【若菜集】より

島崎藤村の処女詩集。1897年春陽堂刊。…

※「島崎藤村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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