「塩尻宿」の版間の差分
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[[中山道]]が[[江戸時代]]初期の[[慶長]]年間に[[大久保長安]]によって整備された当初は、当所を通らず[[下諏訪宿]]から[[贄川宿]]を結ぶ最短経路であったが、この区間が難所続きであったため大久保長安の死後に経路が変更され、宿場として整備された。初期には[[松本藩]]の玄関口として栄えたとされる。
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[[塩の道 (日本)|塩の道]]と呼ばれる[[千国街道]]、三州︵伊那,飯田︶街道の分岐点でもあり、[[三河国]]からは'''南塩'''が、また[[糸魚川市|糸魚川]]からは松本経由で'''北塩'''が運ばれた。
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2019年3月12日 (火) 07:36時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Kisokaido30_Shiojiri.jpg/280px-Kisokaido30_Shiojiri.jpg)
塩尻宿︵しおじりしゅく︶とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて三十番目にあたる宿場。
概要
現在の長野県塩尻市中心部東寄りの塩尻東地区に所在[1]。 中山道が江戸時代初期の慶長年間に大久保長安によって整備された当初は、当所を通らず下諏訪宿から贄川宿を結ぶ最短経路であったが、この区間が難所続きであったため大久保長安の死後に経路が変更され、宿場として整備された。初期には松本藩の玄関口として栄えたとされる。 享保10年︵1725年︶以降は天領になり、幕府の塩尻陣屋︵五万三千石、のちに尾張藩塩尻取締所を経て伊那県塩尻局︶が置かれた。明治16年の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが、堀内家住宅など貴重な文化財も残されている。 塩の道と呼ばれる千国街道、三州︵伊那,飯田︶街道の分岐点でもあり、三河国からは南塩が、また糸魚川からは松本経由で北塩が運ばれた。特徴
天保14年︵1843年︶の﹃中山道宿村大概帳﹄によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒︵中山道六十九次で2番目︶で宿内人口は794人であった。最寄り駅
史跡・見どころ
洗馬宿までの史跡・みどころ
隣の宿
- 中山道
- 三州街道
- 塩尻宿 - 小野宿
脚注
参考文献
- 児玉幸多 『中山道を歩く』中公文庫、1988年 ISBN 4122015561
外部リンク
座標: 北緯36度06分13.3秒 東経137度58分30.0秒 / 北緯36.103694度 東経137.975000度