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[[永禄]]6年︵1563年︶、[[武田氏]]によって[[塩尻峠]]の |
[[永禄]]6年︵1563年︶、[[武田氏]]によって[[塩尻峠]]の西側に伝馬宿として整備された<ref name=kadokawa>﹁[[角川日本地名大辞典]] 20 長野県﹂ p.545 角川書店 1990年</ref>。[[中山道]]が[[江戸時代]]初期の[[慶長]]年間に[[大久保長安]]によって整備された当初は、当所を通らず[[下諏訪宿]]から[[贄川宿]]を結ぶ最短経路であったが、この区間が難所続きであったため長安の死後に経路が変更され、旧宿場の南側に隣接する形で新たに整備された。
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初期には[[松本藩]]の玄関口として栄えたとされるが、[[享保]]10年︵1725年︶以降は[[天領]]になり、幕府の[[塩尻陣屋]]︵五万三千石、のちに尾張藩塩尻取締所を経て[[伊那県]]塩尻局︶が置かれた。[[明治]]15年、翌16年の2度の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが、堀内家住宅など貴重な文化財も残されている。
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初期には[[松本藩]]の玄関口として栄えたとされるが、[[享保]]10年︵1725年︶以降は[[天領]]になり、幕府の[[塩尻陣屋]]︵五万三千石、のちに尾張藩塩尻取締所を経て[[伊那県]]塩尻局︶が置かれた。[[明治]]15年、翌16年の2度の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが、堀内家住宅など貴重な文化財も残されている。
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2020年12月21日 (月) 04:42時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/2f/Kisokaido30_Shiojiri.jpg/280px-Kisokaido30_Shiojiri.jpg)
塩尻宿︵しおじりしゅく︶とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて三十番目にあたる宿場。
概要
現在の長野県塩尻市中心部東寄りの塩尻町に所在[1]。 永禄6年︵1563年︶、武田氏によって塩尻峠の西側に伝馬宿として整備された[2]。中山道が江戸時代初期の慶長年間に大久保長安によって整備された当初は、当所を通らず下諏訪宿から贄川宿を結ぶ最短経路であったが、この区間が難所続きであったため長安の死後に経路が変更され、旧宿場の南側に隣接する形で新たに整備された。 初期には松本藩の玄関口として栄えたとされるが、享保10年︵1725年︶以降は天領になり、幕府の塩尻陣屋︵五万三千石、のちに尾張藩塩尻取締所を経て伊那県塩尻局︶が置かれた。明治15年、翌16年の2度の大火で町の大部分を焼失したため往時の様子を留めるものは少ないが、堀内家住宅など貴重な文化財も残されている。 塩の道と呼ばれる千国街道、三州︵伊那、飯田︶街道の分岐点でもあり、三河国からは南塩が、また糸魚川からは安曇野経由で北塩が運ばれた。特徴
宿場開設の際に、西端の枡形外に阿禮神社、東端に永福寺を遷座させた[2]。宿場は松本、安曇野、諏訪、伊那、木曽方面の分岐点にある交通の要衝で、東から上町・仲町・下町に分かれ、殊に塩尻陣屋が置かれた仲町に問屋、本陣、旅籠が集中していた。 天保14年︵1843年︶の﹃中山道宿村大概帳﹄によれば、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠75軒︵中山道六十九次で2番目︶で宿内人口は794人であった。本陣は川上家が世襲した。最寄り駅
史跡・見どころ
洗馬宿までの史跡・みどころ
●大門神社
●耳塚
●平出一里塚
●平出遺跡・塩尻市立平出博物館