「橋本圭三郎」の版間の差分
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[[越後長岡藩|長岡]][[藩士]]・[[橋本弥十郎]]の長男として生まれる。[[1884年]]に[[新潟県立長岡高等学校|長岡学校]]を卒業、[[育英団体]]である[[長岡社]]の支援を受けて上京、[[第一高等学校 (旧制)|大学予備門]]へ進学。[[1890年]]、[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業して[[法制局]]に入り、[[1893年]]に[[枢密院 (日本)|枢密院]][[書記官]]となる。 |
[[越後長岡藩|長岡]][[藩士]]・[[橋本弥十郎]]の長男として生まれる。[[1884年]]に[[新潟県立長岡高等学校|長岡学校]]を卒業、[[育英団体]]である[[長岡社]]の支援を受けて上京、[[第一高等学校 (旧制)|大学予備門]]へ進学。[[1890年]]、[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業して[[法制局]]に入り、[[1893年]]に[[枢密院 (日本)|枢密院]][[書記官]]となる。 |
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その後、[[大蔵省]]へ移り、欧米出張を経て[[1905年]]に[[横浜税関]]長、[[1907年]]に[[主計局]] |
その後、[[大蔵省]]へ移り、欧米出張を経て[[1905年]]に[[横浜税関]]長、[[1907年]]に[[主計局#主計局長|主計局長]]、[[1911年]]には[[大蔵次官]]となる。さらに、[[1912年]]12月5日に[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]に勅選され<ref>﹃官報﹄第106号、大正元年12月6日。</ref>、[[1913年]]には[[事務次官等の一覧#農林水産事務次官|農商務次官]]に就任した。
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[[1916年]]、[[山田又七]]に代わって宝田石油の社長に就任すると、日本の石油業界の国際競争力を高めるため、ライバルであった[[新日本石油|日本石油]]との合併を画策する。[[1921年]]、日石の[[内藤久寛]]を社長に据え、宝田の橋本が副社長となることで、この大合併は成就した。 |
[[1916年]]、[[山田又七]]に代わって宝田石油の社長に就任すると、日本の石油業界の国際競争力を高めるため、ライバルであった[[新日本石油|日本石油]]との合併を画策する。[[1921年]]、日石の[[内藤久寛]]を社長に据え、宝田の橋本が副社長となることで、この大合併は成就した。 |
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[[1926年]]、内藤の引退に伴い、日本石油の第二代社長に就任([[1944年]]まで在任)。以後、様々な石油関連企業の取締役等を歴任し、[[1941年]]には[[帝国石油株式会社]]の[[総裁]]となった。また、[[1945年]]から[[1948年]]まで、[[日本エネルギー学会|社団法人燃料協会]]の会長を務めた。 |
[[1926年]]、内藤の引退に伴い、日本石油の第二代社長に就任([[1944年]]まで在任)。以後、様々な石油関連企業の取締役等を歴任し、[[1941年]]には[[帝国石油株式会社]]の[[総裁]]となった。また、[[1945年]]から[[1948年]]まで、[[日本エネルギー学会|社団法人燃料協会]]の会長を務めた。 |
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[[1946年]]5月28日、[[貴族院 (日本)|貴族院 |
[[1946年]]5月28日、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]を辞職<ref>﹃官報﹄第5811号、昭和21年5月31日。</ref>。[[公職追放]]となる︵[[1951年]]解除︶。
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[[1959年]]の死後、[[勲一等瑞宝章]]を受章した。墓所は[[青山霊園]]。 |
[[1959年]]の死後、[[勲一等瑞宝章]]を受章した。墓所は[[青山霊園]]。 |
2021年4月24日 (土) 07:13時点における版
人物
長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年に横浜税関長、1907年に主計局長、1911年には大蔵次官となる。さらに、1912年12月5日に貴族院議員に勅選され[1]、1913年には農商務次官に就任した。 1916年、山田又七に代わって宝田石油の社長に就任すると、日本の石油業界の国際競争力を高めるため、ライバルであった日本石油との合併を画策する。1921年、日石の内藤久寛を社長に据え、宝田の橋本が副社長となることで、この大合併は成就した。 1926年、内藤の引退に伴い、日本石油の第二代社長に就任︵1944年まで在任︶。以後、様々な石油関連企業の取締役等を歴任し、1941年には帝国石油株式会社の総裁となった。また、1945年から1948年まで、社団法人燃料協会の会長を務めた。 1946年5月28日、貴族院議員を辞職[2]。公職追放となる︵1951年解除︶。 1959年の死後、勲一等瑞宝章を受章した。墓所は青山霊園。栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
親族
脚注
参考文献
●﹃ふるさと長岡の人びと﹄長岡市、1998年。 ●橋本圭三郎口述︵長誠次編︶﹃わが回顧録﹄石油文化社、1958年。 ●人事興信所編﹃人事興信録﹄第14版 下、1943年。外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、橋本圭三郎に関するメディアがあります。公職 | ||
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先代 下岡忠治 |
農商務次官 1913年 - 1914年 |
次代 上山満之進 |
ビジネス | ||
先代 八田嘉明 |
帝国石油総裁 1941年 - 1946年 |
次代 立石信郎 |
先代 内藤久寛 |
日本石油社長 1926年 - 1944年 |
次代 水田政吉 |
先代 山田又七 |
宝田石油社長 1916年 - 1921年 |
次代 (日本石油に合併) |