「橋本圭三郎」の版間の差分
表示
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集 |
Lifeonthetable (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
||
80行目:
{{DEFAULTSORT:はしもと けいさふろう}}
[[Category:20世紀日本の実業家]]
[[Category:貴族院勅選議員]]
[[Category:昭和時代の貴族院議員]]
86行目:
[[Category:ENEOSグループの人物]]
[[Category:大蔵省主計局長]]
[[Category:大蔵次官]]
[[Category:戦前日本の農林官僚]]
[[Category:日本の商工官僚]]
95 ⟶ 96行目:
[[Category:新潟県出身の人物]]
[[Category:幕末越後長岡藩の人物]]
[[Category:正四位受位者]]
[[Category:勲一等瑞宝章受章者]]
[[Category:1865年生]]
[[Category:1959年没]]
|
2022年2月3日 (木) 01:47時点における版
橋本 圭三郎︵はしもと けいざぶろう、慶応元年9月23日︵1865年11月11日︶ - 昭和34年︵1959年︶2月14日︶は、日本の官僚・実業家。貴族院議員。新潟県長岡市千手町出身。
人物
長岡藩士・橋本弥十郎の長男として生まれる。1884年に長岡学校を卒業、育英団体である長岡社の支援を受けて上京、大学予備門へ進学。1890年、東京帝国大学を卒業して法制局に入り、1893年に枢密院書記官となる。 その後、大蔵省へ移り、欧米出張を経て1905年に横浜税関長、1907年に主計局長、1911年には大蔵次官となる。さらに、1912年12月5日に貴族院議員に勅選され[1]、1913年には農商務次官に就任した。 1916年、山田又七に代わって宝田石油の社長に就任すると、日本の石油業界の国際競争力を高めるため、ライバルであった日本石油との合併を画策する。1921年、日石の内藤久寛を社長に据え、宝田の橋本が副社長となることで、この大合併は成就した。 1926年、内藤の引退に伴い、日本石油の第二代社長に就任︵1944年まで在任︶。以後、様々な石油関連企業の取締役等を歴任し、1941年には帝国石油株式会社の総裁となった。また、1945年から1948年まで、社団法人燃料協会の会長を務めた。 1946年5月28日、貴族院議員を辞職[2]。公職追放となる︵1951年解除︶。 1959年の死後、勲一等瑞宝章を受章した。墓所は青山霊園。栄典
- 位階
- 勲章等
- 外国勲章佩用允許
親族
脚注
参考文献
●﹃ふるさと長岡の人びと﹄長岡市、1998年。 ●橋本圭三郎口述︵長誠次編︶﹃わが回顧録﹄石油文化社、1958年。 ●人事興信所編﹃人事興信録﹄第14版 下、1943年。外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、橋本圭三郎に関するメディアがあります。公職 | ||
---|---|---|
先代 下岡忠治 |
農商務次官 1913年 - 1914年 |
次代 上山満之進 |
ビジネス | ||
先代 八田嘉明 |
帝国石油総裁 1941年 - 1946年 |
次代 立石信郎 |
先代 内藤久寛 |
日本石油社長 1926年 - 1944年 |
次代 水田政吉 |
先代 山田又七 |
宝田石油社長 1916年 - 1921年 |
次代 (日本石油に合併) |