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2008年1月20日 (日) 06:13時点における版
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
生誕 | 天文8年(1539年) |
死没 | 慶長4年5月19日(1599年9月12日) |
改名 | 弥三郎、元親 |
別名 | 羽柴土佐侍従、土佐の出来人、姫若子、鬼若子、 鳥なき島の蝙蝠 |
戒名 | 雪渓如三大居士 雪蹊恕三大禅定門 |
官位 | 従四位下、宮内少輔、土佐守、侍従 |
氏族 | 長宗我部氏(秦氏) |
父母 | 父:長宗我部国親、母:祥鳳 |
兄弟 | 元親、吉良親貞、香宗我部親泰、島親益、娘(本山茂辰室) |
妻 | 正室:石谷光政の娘・菜々 側室:岡本牧西の娘・小少将、小宰相 |
子 | 信親、香川親和、津野親忠、盛親、 右近大夫、康豊、娘(一条内政室)、 娘(吉良親実室)、娘(佐竹親直室)、 娘(吉松十左衛門室) |
生涯
家督相続
天文8年︵1539年︶、長宗我部氏の第20代当主・長宗我部国親の嫡子として岡豊城に生まれる。永禄3年︵1560年︶5月、土佐郡朝倉城主の本山氏を攻めた長浜の戦いにおいて初陣する。遅い初陣であったが、元親は長浜表において本山勢を襲撃した長宗我部勢に加わり、自ら槍を持って突撃するという勇猛さを見せたといわれる。6月、父の国親が急死すると、家督を相続して第21代当主となる。土佐統一
元親は剽悍な一領具足により兵を動員して勢力拡大を行なう。 土佐国司で幡田郡中村城を中心に影響力を持ち中村御所と呼ばれていた公家大名一条氏と共同し、永禄5年︵1562年︶にも朝倉城攻めを行う。永禄6年︵1563年︶には美濃斉藤氏から正室を迎え、この年には弟の親貞に吉良氏を継がせている。また、弟の親泰は父の生前に香宗我部氏を継いでおり、東土佐の安芸郡を支配する安芸国虎とも戦った。 永禄11年︵1568年︶には宿敵の本山氏、永禄12年︵1569年︶には安芸氏をそれぞれ滅ぼした。元亀2年︵1571年︶には一条氏の家臣・津野氏を滅ぼして三男の親忠を養子として送り込む。天正2年︵1574年︶には一条氏の当主・一条兼定を追放して土佐をほぼ制圧した。天正3年︵1575年︶に兼定が再起を図って土佐に攻め込んできたとき、一時、窮地に追い込まれたが、弟の吉良親貞の尽力のもと、四万十川の戦いでこれを撃破し、土佐を完全に統一した。四国統一
その後、中央で統一事業を進めていた織田信長と同盟を結び、伊予や阿波、讃岐へ侵攻していく。 阿波・讃岐方面では、畿内に大勢力を誇っていた三好氏が織田信長に敗れて衰退しきっていたが、十河存保や三好康長ら三好氏の生き残りによる反抗や、天正4年︵1576年︶の吉良親貞の早世などもあって、最初は思うように進まなかった。しかし天正5年︵1577年︶に三好長治が戦死するなど、三好氏の衰退がさらに顕著になったため、阿波や讃岐に侵攻し、天正6年︵1578年︶には次男の親和を讃岐の有力豪族・香川氏の養子として送り込み、天正8年︵1580年︶までに両国をほぼ制圧した。しかし伊予方面においては、軍代であった久武親信が天正6年︵1578年︶に伊予の岡本城攻めで戦死するなど、伊予の諸大名に頑強な抵抗に遭って、攻略は思うように進まなかった。 天正8年︵1580年︶、信長は元親の四国統一を良しとせず、土佐と阿波の所領安堵を認めて信長に臣従するように迫られるが、元親はこれを拒絶する。このため、信長と敵対関係になり、天正9年︵1581年︶には信長の助力を得た十河存保らの侵攻を受け、天正10年︵1582年︶には織田信孝を総大将とした四国征伐軍が編成されるなどの危機に陥ったが、6月2日に本能寺の変が起こって信長が横死すると、信孝の四国征伐軍も解体し、危機を脱した。 元親はその機に乗じて再び勢力拡大を行い、宿敵であった十河存保を中富川の戦いで破り、事実上、阿波と讃岐を支配下に置いた。 天正11年︵1583年︶の賤ヶ岳の戦いでは、旧織田氏家臣の柴田勝家と手を結んで羽柴秀吉︵豊臣秀吉︶と対抗する。天正12年︵1584年︶の小牧・長久手の戦いでは、織田信雄や徳川家康らと結んで秀吉に対抗し、秀吉が送り込んできた仙石秀久の軍勢を破った。 天正13年︵1585年︶には伊予の西園寺公広、河野通直らを降して伊予を制圧し、四国全土をほぼ統一することに成功した。だがその頃、中央における秀吉の覇権は確固たるものになっており、四国征伐の準備も整っていた。統一から秀吉との戦いまでには数週間ほどの時間しか残されていなかった。四国征伐
天正13年︵1585年︶、羽柴秀吉の四国征伐が行われ、秀吉の弟羽柴秀長を総大将とする10万を超える軍が派遣されると、元親は阿波白地城を本拠に阿讃伊の海岸線沿いに防備を固める一方で、秀吉に伊予1国を割譲することで和睦を求めたが、拒絶されたため抵抗する。 秀吉は宇喜多秀家率いる軍勢を讃岐へ、小早川隆景・吉川元長率いる軍勢を伊予へ、羽柴秀長・羽柴秀次率いる軍勢を阿波へと同時に派遣し、土佐方の城を相次いで落城させていく。そして阿波戦線が崩壊して白地城までの道が裸に晒されると、元親は反戦派の家臣・谷忠澄の言を入れ降伏し、長宗我部家は阿波・讃岐・伊予を没収され、土佐一国のみの領有を安堵された。豊臣政権下
天正14年︵1586年︶、秀吉の九州征伐に嫡男の信親とともに従軍し、島津氏の圧迫に苦しむ豊後大友氏の救援に向かう。しかし、12月の戸次川の戦いで四国勢の大将・仙石秀久は元親や十河存保らの言を容れずに島津軍の策にはまり敗走し、この時の乱戦において信親は討死してしまう。信親の死が元親に与えた影響は大きく、人が変わったように以後多くの行動で精彩を欠き、将来における長宗我部氏滅亡の遠因となった。 天正16年︵1588年︶には本拠を大高坂城へ移転し、その後に起こった家督継承問題では次男・香川親和や三男・津野親忠を差し置いて四男の盛親に家督を譲ることを決定する。その際、反対派の家臣である比江山親興、吉良親実らに死を命じるなど内部粛清を行い、盛親への家督相続を強行している。 天正18年︵1590年︶の小田原征伐では長宗我部水軍を率いて参加し、天正19年︵1591年︶1月、浦戸湾に迷い込んだ体長9尋もの鯨を数十隻の船団と百人余の人夫でもって大坂城内へ丸ごと持ち込み、秀吉や大坂の町人を大いに驚かせた。年末頃には本拠を浦戸城へ移転する。 天正20年︵1592年︶からは秀吉が行った朝鮮出兵︵文禄・慶長の役︶にも従軍する。慶長元年︵1596年︶にはサン=フェリペ号事件に対処し、秀吉によるキリスト教迫害の引き金を作った。領内では検地を行い、慶長2年︵1597年︶3月に分国法である﹃長宗我部元親百箇条﹄を制定する。最期
慶長3年︵1598年︶に秀吉が死去すると、政情が不安定になるという大事の中で、徳川家康と誼︵よしみ︶を通じ、さらに三男の津野親忠を幽閉するなどしている。 慶長4年︵1599年︶4月、上洛して間もなく病に倒れ、伏見屋敷で療養していたが、5月19日に伏見屋敷で死去。享年61。後を四男の盛親が継いだ。人物・逸話
●幼少の頃は色白でおとなしく、軟弱ともうつけ者とも評される性格から﹁姫若子﹂と皮肉られていたと伝わる。 ●初陣の長浜の戦いの際、家臣の秦泉寺豊後に槍の使い方と大将の行動を聞いたとされる。秦泉寺豊後は﹁槍は敵の目と鼻を突くようにし、大将は先に駆けず臆さずにいるもの﹂と答えた。そしていざ戦になると元親はその通りに行動し鬼若子と言われる程の活躍をしたとされる。ちなみに余談だが、元親の初陣の2日前に織田信長が今川義元を桶狭間の戦いで破っている。 ●土佐一国を統一する大名に成長し、鬼若子や土佐の出来人と呼ばれた。 ●織田信長は元親をあまり高く評価しておらず、慣用句の﹁鳥無き里の蝙蝠﹂を揶揄して、﹁あれは鳥無き島の蝙蝠﹂と言っていたと伝えられている。 ●元親は家来に対して、﹃一芸に熟達せよ。多芸を欲ばる者は巧みならず﹄と言っていたとされる。 ●土佐を統一した後、元親は天正5年︵1577年︶、阿波の雲辺寺を訪れ、住職の俊崇坊に四国統一の夢を語った。しかし住職は﹁薬缶の蓋で水瓶の蓋をする様なものである﹂と元親に説いたが、元親は﹁我が蓋は元親という名工が鋳た蓋である。いずれは四国全土を覆う蓋となろう﹂と答えた。その言葉通り元親は天正13年︵1585年︶に四国を統一した。 ●豊臣秀吉が天下を統一した後、各地の大名を集めて舟遊びをした。その時秀吉から饅頭をもらった大名はその場で食べたが、元親は端をちぎって食べただけで紙に包んだ。それを見た秀吉は﹃長宗我部どの、その饅頭をどうするつもりじゃ?﹄と聞き、それに対し元親は、﹃太閤殿下から頂いたありがたい饅頭ですので、持って帰り家来にも分け与えます﹄と答えた。秀吉は大いに気に入り、用意した饅頭を全て与えたという。 ●山崎の戦いの後、斎藤利三の娘である福︵後の春日局︶を岡豊城でかくまったとされる。 ●家臣が﹁四国の覇者をなぜ目指すのか﹂と元親に質問したとき、元親は﹁家臣に十分な恩賞を与え、家族が安全に暮らしていくには土佐だけでは不十分︵土佐が豊かな土地ではないためと思われる︶だから﹂と答えたとされる。 ●天正16年︵1588年︶4月に秀吉が聚楽第で宴会を開いた時、秀吉が元親に﹁今から四国の覇者を望むか。それとも天下に心を賭けたるか﹂と質問すると、﹁天下に心を賭け候﹂と元親は答えた。すると秀吉は、﹁貴殿の器量で、天下への望みはかなうまい﹂と返すが、元親は﹁私は悪しき時代に生まれきて、天下の主になり損じて候﹂と返したという。 ●後継者として期待していた信親が戦死した後、元親は英雄としての覇気を一気に失い、家督相続では末子の盛親の後継を強行し、反対する家臣は一族だろうと皆殺しにするという有様だった。 ●朝鮮出兵の際、泗川城で垣見家純に対し鉄砲狭間の高さの指導をした。系譜
●父‥長宗我部国親 ●母‥祥鳳 ●兄弟 ●吉良親貞 ●香宗我部親泰 ●島親益 ●息子 ●長宗我部信親 ●香川親和 ●津野親忠 ●長宗我部盛親 ●長宗我部右近大夫 ●長宗我部康豊︵吉田氏︶ ●娘 ●一条内政室 ●吉良親実室 ●佐竹親直室 ●吉松十左衛門室家臣
●浜田善右衛門 ●浜田善左衛門 ●浜田久直 ●香川信景 ●金子元宅 ●公文重忠 ●江村親家 ●桑名吉成 ●佐竹親直 ●谷忠澄 ●中島可之助 ●中島重房 ●久武親信 ●久武親直 ●滝本寺非有 ●吉田孝頼 ●吉田貞重 ●吉田重俊 ●吉田重康 ●吉田政重 ●福留親政 ●福留儀重 ●豊永勝元 ●戸波親武 ●橫山友隆 ●細川真之墓所
高知県高知市に伝わるが、急峻な丘の斜面にあって周囲山林の手入れが行き届いておらず、崩壊の危機に直面している。関連項目
参考文献
- 司馬遼太郎 『夏草の賦』(1968年、文藝春秋)(2005年、文春文庫[新装版])(上) ISBN 4167663198 (下) ISBN 4167663201
- 山本大『長宗我部元親』(1987年、吉川弘文館) ISBN 4642051031
- 山本大編『長宗我部元親のすべて』(1989年、新人物往来社) ISBN 4404016247
- 徳永真一郎『長宗我部元親』(1992年、光文社光文社文庫) ISBN 4334714625
- 『歴史群像シリーズ29 長宗我部元親』(1992年、学研) 共通雑誌コード 1069610311202
- 荒川法勝『長宗我部元親』(1995年、PHP研究所PHP文庫) ISBN 4569568335
- 吉田孝世著・岩原信守校注『土佐物語』(1997年、明石書店) ISBN 4750309419
- 宮地佐一郎『長宗我部元親』(1997年、学陽書房人物文庫) ISBN 4313750355
- 泉淳『元親記』(勉誠出版日本合戦騒動叢書) ISBN 4585051066
関連サイト
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