文禄・慶長の役
文禄の役 | |
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文禄の役『釜山鎮殉節図』[注 1]。釜山鎮城攻略の様子で左に密集しているのは上陸した日本の軍船。 | |
戦争:文禄の役 | |
年月日:天正20年4月13日(1592年5月24日) - 文禄2年7月9日(1593年8月5日) | |
場所:朝鮮半島全域、満州・豆満江一帯 | |
結果:小西行長と沈惟敬らの協議によって日本と明の間では休戦成立[注 2][1]。日本軍は南に後退したものの、朝鮮半島に築いた城塞に駐留した。 | |
交戦勢力 | |
豊臣政権 | 明 朝鮮国 |
指導者・指揮官 | |
将軍 豊臣秀吉
総大将 宇喜多秀家
毛利勝信(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、山田宗昌、島津忠豊
福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之(得居通幸)、来島通総
小早川隆景、小早川秀包、立花鎮虎(宗茂)、高橋統増、筑紫広門、毛利輝元[注 3]
宇喜多秀家ほか
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明軍
兵部尚書石星
都体察使 |
戦力 | |
日本軍 158,700人[1](毛利家文書による通説。総勢は日本軍陣立を参照) |
明軍: 48,000人[2][3] 朝鮮軍 84,500人[4]–192,000人[5][5] 義兵軍:22,400人 |
損害 | |
少なくとも約21,900人以上[6](病死、落伍、負傷帰国、休戦時に病傷者で後に回復する者を含む) | 〜36,000人[7][8]
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慶長の役 | |
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蔚山籠城図屏風(福岡市博物館所蔵) | |
戦争:慶長の役 | |
年月日:慶長2年1月14日(1597年3月1日) - 慶長3年11月25日(1598年12月22日) | |
場所:朝鮮半島三南地方 | |
結果:豊臣秀吉死去で日本側の全軍が帰国して終結[9]。講和せずに豊臣政権が瓦解したため双方が勝利を主張した。(「柳川一件」も参照) | |
交戦勢力 | |
豊臣政権 | 明 朝鮮国 |
指導者・指揮官 | |
総大将小早川秀秋
加藤清正
黒田長政、毛利勝信・毛利勝永、島津忠豊、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、相良長毎
鍋島直茂・鍋島勝茂
島津義弘
長宗我部元親、藤堂高虎、池田秀氏、加藤嘉明、来島通総、中川秀成、菅達長
蜂須賀家政、生駒一正、脇坂安治
毛利秀元、宇喜多秀家
ほか |
明軍
兵部尚書邢玠(総督) |
戦力 | |
141,500人(奴婢を中心とした朝鮮の民も含む)[10] | (諸説あり)
明軍:92,100(三路の戦い時)[11] |
損害 | |
50,000人(文禄・慶長両役の総計)[注 6](戦死者はわずかでほとんどが病死・餓死・凍死。)
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数十万人(朝鮮軍+明軍。文禄・慶長両役の総計)[注 7] 100万人以上[注 8][注 9][12][13][注 10][14] |
名称[編集]
豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われた戦役であるということから、﹁唐入り﹂や﹁唐御陣﹂と呼ばれたり、﹁高麗陣[注 14]﹂や﹁朝鮮陣﹂などの呼称が用いられていた[23]。秀吉自身は﹁唐入り﹂と称し、他の同時代のものとしては﹁大明へ御道座﹂[23]という表現もあった。 ﹁朝鮮征伐﹂という表現も歴史的に頻繁に用いられており、江戸前期の1659年︵草稿成立は1644年頃[24]︶に刊行された堀杏庵︵堀正意︶﹃朝鮮征伐記﹄においてすでに見られる。この戦役を征伐とする表現は後述する倭乱の場合とは逆の立場であるが、北条氏直を攻めた小田原征伐や島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではない。しかしながら、13世紀に起きた元寇において蒙古が日本に侵攻する際、属国の高麗が主要な役割を果たした事から、朝鮮半島は征伐されるべき悪人の地との思想も広まっており、秀吉もその思想を持っていたものとされる。また現在の韓国においても、元寇を﹁麗蒙の日本征伐﹂と呼んでいる[25]。堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判した[24] が、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の数ある業績の一つと捉えられていた[23]。これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観︵中朝事実︶[注 15] や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており[23]、彼の行為は称賛に値こそすれ、批判の対象にはならなかったからである。明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も﹁征韓の役﹂などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久が万治年間︵1658年-1660年︶に編纂を命じた﹃征韓録﹄が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども﹃征韓偉略﹄︵1831年︶を著した。征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。 ﹁朝鮮出兵﹂の呼称も早くからあり、戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている[注 16]。1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、﹁朝鮮侵略﹂[注 17]が盛んに使われた時期もあり[23]、﹁大陸侵攻﹂などの表現も登場した。1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を﹁文禄の役﹂として第二次出兵を﹁慶長の役﹂とし、併せて﹁文禄・慶長の役﹂とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。 中国では﹁朝鮮之役︵朝鮮役︶﹂と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争︵または朝鮮での戦役︶という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、近代以降、当時の元号である万暦を付けて﹁萬曆朝鮮之役﹂と称されている[23]。日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で﹁朝鮮役﹂という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。中国から見て遠征であったという解釈では﹁萬曆東征﹂という呼称もある。また﹁萬暦日本役﹂という呼称もあったとされるが、戦地を戦役名とするのが慣習であり、現在はあまり使われていない。現代では﹁抗倭援朝﹂とも呼ばれる。 朝鮮半島︵韓国・北朝鮮︶では李王朝の時代から、この戦役も小中華思想を基にして従来通りに倭乱であると定義し、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を﹁壬辰倭乱﹂[注 18] と呼び、慶長の役を﹁丁酉倭乱﹂[注 19] または﹁丁酉再乱﹂[注 20] と呼んだ。現在も韓国ではこの倭乱が用いられており、2つの戦役を一つと見て壬辰倭乱を戦争全体の総称として使う場合もある。また、北朝鮮では﹁壬辰祖国戦争﹂[注 21] と言う呼称も用いられる。背景[編集]
日朝関係前史[編集]
隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。朝鮮半島と日本列島との関係[編集]
日明関係前史[編集]
1402年、足利義満は京都北山に明使の返礼を受け入れて建文帝の冊封を受諾した。中国で靖難の変が起こったため、1404年に永楽帝が改めて義満のことを﹁日本国王﹂として冊封して金印を下賜した。以後1547年までの150年間で19回に及ぶ遣明船︵勘合船︶が出されて、勘合貿易が交わされた。これは実質的には朝貢であったが、10年1貢[注 29] という特異なものであった[38]。義満は冊封儀礼も行っていたとされるが、次の4代将軍足利義持は外交方針を改めて1411年に冊封関係は断絶された。6代将軍足利義教が一時復活させるが、以後も途切れがちで、勘合貿易を独占していた大内氏の滅亡︵1551年︶によって、日明関係はほぼ断絶した。中朝関係前史[編集]
朝鮮の内情[編集]
権威の後ろ盾を明に求めた李成桂は、軍師であった鄭道伝の進言により、国内を、仏教を崇めた高麗時代とは一転して、朱子学を国教[注 31] とすることで道徳秩序のある儒教国家として繁栄させようとした。しかし鄭自身が王子の序列争いに巻き込まれて斬首されるなど朝鮮王朝の動乱は収まらなかった。兄達を蹴落として王位を奪った李芳遠の後を継いだ世宗以後の君主は平和に腐心して儒学思想を極端に信奉するようになったが、かえって人臣の間に家長的名分主義や排他主義が蔓延し[41] かつ争いは止まなかった。官人となるためには誰もが儒学を学ばねばならなかったが、書院ごとに儒生は徒党をなして、官人になってからも先輩につき従って政権掌握を目指すようになって、士禍と党争が始まったからである。勲旧派︵中央貴族層︶と士林派︵新興両班層︶との争いの次は、士林派から分裂した東人派︵改革︶と西人派︵保守︶の争いがあり、東西両派の争い時に文禄の役が始まったが、東人派はさらに南人派と北人派に分裂するなど、戦時下にもかかわらず一向に党派争いは収まらず、団結することはなかった[42]。結果としては朝廷の秩序はしばしば乱され、王や后、王子、外戚、中央と地方の両班が、絶え間ない勢力争いに明け暮れて、陰謀や粛清を数世紀に渡って続けたことで、国力は浪費され、人臣には混乱が生じ、国家は衰退をきたした。動機に関する諸説[編集]
秀吉が明の征服とそれに先立つ朝鮮征伐、すなわち﹁唐入り﹂を行った動機については古くから諸説あるが、どれも確証には至っておらず[45]、歴史上の謎の一つであると言われている。 動機について現在知られている説は以下の通り。[注 32]。原因[編集]
秀吉の唐国平定構想[編集]
日朝交渉の決裂[編集]
征明嚮導[編集]
天正15年︵1587年︶5月初旬、薩摩川内に在陣中に︵すでに秀吉に帰順していた︶宗義調の使者として佐須景満[注 36] と家臣の柳川調信、柚谷康広の3名が来て、秀吉に拝謁を願い出た。彼らは秀吉が前年に予告した朝鮮出兵︵高麗征伐︶を何とか取り止めてもらい、貢物と人質を出させることでことを済ませることはできないかと請願に来たのである。しかし、九州征伐を成し遂げたばかりの秀吉は、次は琉球、朝鮮だと考えており、聞き入れなかったばかりか、朝鮮国王自らが入朝することを要求し[68]、それが無い場合は征伐するとした[注 37]。そして彼ら宗氏を朝鮮との交渉役に命じて、入朝を斡旋させる任務を与えた。6月7日、帰路の箱崎で宗義調と宗義智の親子に謁見して、直にその旨を重ねて厳命した。このように宗氏に強い態度に出た背景としては、琉球が島津に従属したように、朝鮮も対馬に従属していると秀吉が誤解していたためである[75]。ルイス・フロイスも﹁朝鮮は年毎の貢物として米一万俵を対馬国主に納めていた﹂と書いていて、このような認識は秀吉に留まらず、当時の一般的なものであったことが分かっている[40]。ところが実際にはこの米というのは朝鮮側から倭寇防止のために下賜される歳賜米のことで、量も僅か100石に過ぎず、対馬・宗氏は朝鮮貿易に経済を依存していて、逆に従属的な立場であり、対外的には嘘を吐いていたに過ぎなかった。前述のように偽使を用いて苦労して朝鮮との関係を修復したところだった。秀吉の難題への対応を苦慮した彼らは形式的にでも双方を満足させねばならず、折衷案がないかと模索した。 9月、宗氏は柚谷康広を日本国王の偽使︵橘康広︶として渡海させ、秀吉の日本統一を告げたうえで、新国王となった秀吉を祝賀する通信使の派遣を朝鮮側に要請した。これは通信使を朝鮮国王入朝の代わりとして事態を収めようという配慮であったが、朝鮮側は書簡の文言が傲慢であると主張し、朱子学に凝り固まった宣祖も﹁これまでの国王を廃して新王を立てた日本は簒奪の国であり﹂[76][注 38] 大義を諭して返せと命じた。それを受けた大臣らは﹁化外の国には礼儀に従って﹂[76] 接する必要はないとして、水路迷昧[注 39] を理由に要請を断った。日本側には記録はない[77] が朝鮮側の記録[注 40] によると、報告を受けた秀吉は激怒し、交渉失敗は裏切りの結果であるとして柚谷康広を一族共々処刑したといわれる[76]。 期限を越えても1年間進展なかったので、天正17年︵1589年︶3月、秀吉は朝鮮国王遅参を責め、入朝の斡旋を再び宗義智[注 41] へ命じた。6月、義智は博多聖福寺の外交僧景轍玄蘇を正使として自らは副使となり、家臣の柳川調信や博多豪商島井宗室など25名を連れて朝鮮へ渡った。漢城府で朝鮮国王に拝謁した一行は、重ねて通信使の派遣を要請し、宗義智は自らが水先案内人を務めるとまで申し出た。ところが朝鮮側は先に誠意を見せろと数年前に倭寇が起こした事件を持ち出して、対馬へ逃亡したと疑われる朝鮮人の叛民・沙乙背同︵サウルベドン︶なる人物の引き渡しを要求した。義智もこれに応えてすぐに柳川調信を対馬に帰し、沙乙背同と数名の倭寇を捕縛して連行[注 42] させたので、断る理由がなくなった朝鮮側はついに通信使の派遣に応じた。返礼に宗義智は孔雀と火縄銃[注 43] を献上した。仮途入明[編集]
天正19年︵1591年︶3月、通信使は朝鮮国王に報告した。しかし、彼らが来日中に朝鮮朝廷では政変があって西人派の鄭澈が失脚[注 44]して東人派の柳成龍が左議政となっていた[80]。黄允吉が﹁必ず兵禍あらん﹂と戦争が切迫している事実を警告したが、対抗心をむき出しの金誠一が大げさであると横やりを入れ[注 45]、全否定して口論になった。柳成龍が同じ東人派の金誠一を擁護して彼の意見が正しいことになり、黄允吉の報告は無視された。通信使に同行した軍官黄進はこれを聞いて激怒し、﹁金誠一斬るべし﹂といきり立ったが周囲に止められた[81]。人事の変更と若干の警戒の処置は取られたが、対日戦争の準備はほとんど行われなかった。﹁倭軍﹂の能力を根拠なく軽視したり、そもそも外寇がないとたかを括る国内世論で、労役を拒否する上奏が出されるほどだった[82]。 玄蘇と柳川調信[注 46] が東平館に滞在中、宣慰使︵接待役︶呉億齢らは日本の情勢を聞き出そうと宴席を設けた。すると︵秀吉ではなく宗氏の意向を汲む︶玄蘇は﹁中国︵明︶は久しく日本との国交を断ち、朝貢を通じていない。秀吉はこのことに心中で憤辱を抱き、戦争を起こそうとしている。朝鮮がまず︵このことを︶奏聞して朝貢の道を開いてくれるならば、きっと何事もないだろう。そして、日本六十六州の民もまた、戦争の労苦を免れることができる﹂[83][84] と主張した。しかし、これは朱子学の正義に合わないため、金誠一は大義に背くと批判し、口論となった。玄蘇は﹁昔、高麗が元の兵を先導して日本を攻撃した。日本がこの怨みを朝鮮に報いようとするのは当然のことだ﹂[83][84] と熱くなって反撥したので、朝鮮側はこれに対して何も言い返さなかった[83]。5月、朝鮮朝廷は﹁日本は朋友の国で、大明は君父である﹂として仮途入明の要求を拒否し、宗氏が別に要求した斉浦と監浦の開港も拒否した。玄蘇と調信は国書を手に対馬に戻った[85][86][87][88]。 同年6月、玄蘇の復命を受けてすぐに宗義智は再び渡海し、釜山の辺将に対して﹁日本は大明と国交を通じたい。もし朝鮮がこの事を︵明に︶奏聞してくれるならとても幸いであるが、もしそうしなければ、両国は平和は破られるだろう﹂と警告を発し、再交渉を要望した。辺将はこれを上奏したが、朝鮮朝廷では先の玄蘇らの言動を咎め、秀吉の国書の傲慢無礼さを憤激していたところだったので、何の返事も与えなかった。義智は10日間待ったが、断念して不満足のまま去った。これ以降、日本との通信は途絶えた。釜山浦の倭館に常時滞在していた日本人もだんだんと帰国し、ほとんど無人となったため、朝鮮ではこのことを不審に思っていた[85][89]。︵関連話︶朝鮮半島経由の理由[編集]
秀吉が唐国平定計画を目指しながら直接に明に向かわず、その第一歩として当初より朝鮮に圧力をかけ、帰服か軍の通過を許すかの選択を強要しようとした理由の一つとして、日本の航法が江戸時代になってからも﹁地乗り航法︵沿岸航法︶﹂であったことが説明として挙げられる。﹁山あて﹂と呼ばれる周囲の景色の重なり具合から自分の位置を知る方法が主流であったため、船団が沿岸を目視できる範囲から離れることは危険で、濫りに大洋を横断することはできなかった。このため日本水軍は、九州北部の肥前名護屋︵現唐津市と玄海町︶などから出航して、壱岐︵勝本︶→対馬南部︵厳原︶→対馬北部︵大浦︶→釜山と順次進んで海峡を横断し、朝鮮半島南部沿岸を西回りで北上する必要があったのである[90]。最短ルートから外れた済州島は無視された。準備[編集]
名護屋城築造[編集]
天正19年8月23日、秀吉が﹁唐入り﹂と称する征明遠征の不退転の決意が、改めて諸大名に発表された。宇喜多秀家が真っ先に賛成したといわれ、五大老のうち徳川家康は関東にいて不在であったが、他の大老、奉行は秀吉の怒りを恐れて不承不承の賛意を示した[94][注 47]。このために秀家は、後に秀吉の名代として総大将を任じられることになる。決行は翌年春に予定され、︵秀吉は帰順したと考えていた︶朝鮮を経由して明国境に向かうというこの遠征のために、国を挙げて出師の準備をさらに急ぐように促された。12月27日には秀吉は関白職を内大臣豊臣秀次に譲って、自らは太閤と称して外征に専心するようになった。 秀吉は遠征軍の宿営地として名護屋城築造を指示した。黒田孝高に縄張りを命じて、浅野長政を総奉行とし九州の諸大名に普請を分担させた。また、壱岐を領する松浦隆信にも勝本に前哨基地となる風本城の築城を命じた。 名護屋城の建設予定地は、波多氏の領土でフロイスが﹁あらゆる人手を欠いた荒れ地﹂と評した[95] 場所であったが、完成した名護屋城には全国より大名衆が集結し、﹁野も山も空いたところがない﹂と水戸の平塚滝俊が書状に記した[96] ほど活況を呈し、唐入りの期間は日本の政治経済の中心となった[96]。最後通牒[編集]
日本軍陣立[編集]
文禄の役[編集]
序盤戦[編集]
釜山と東萊城の攻略[編集]
天正20年4月12日午前8時、日本軍の一番隊の宗義智と小西行長は700艘の大小軍船で対馬・大浦を出発し、午後2時過ぎに釜山に上陸した。絶影島にいた釜山僉使鄭撥は偶然この船団に出くわして慌てて城に戻った。義智は﹁仮途入明﹂を求めるという内容の書を投じて、念のために服従の意思を再度確認したが、無視された。13日朝、義智は釜山鎮の城郭への攻撃を開始し、昼までに城は落城した。鄭撥︵釜山僉使︶は戦死し、日本軍が斬った首は1,200余りにのぼった[119](甫庵太閤記では斬首8,000)。同じ頃、行長も多大鎮の砦を攻撃したが、これは一昼夜かかり、夜襲して翌日に陥落させた[120]。多大鎮守備隊指揮官︵多大浦僉使︶尹興信は戦死した。時を同じくして、西平浦の砦も陥落した。これによって釜山周辺の鎮圧が完了した。慶尚道制圧[編集]
4月17日、日本軍の二番隊、三番隊、四番隊︵島津隊は遅参︶が相次いで釜山に上陸した。早速、二番隊は陸路と海路で梁山と蔚山に向かい、三番隊はそのまま廻航して洛東江の河口の竹島︵竹林洞︶に着いた[130]。 17日午後、小西行長と松浦鎮信隊は鵲院︵じゃくいん︶に迫った。密陽府使朴晋は兵を集めて、洛東江左岸に雲門嶺山地が迫る鵲院関の隘路で待ち伏せ、初めて野戦で迎え撃ち、日本軍の進撃を阻止しようとした。しかし、日本軍の斥候がこの敵兵を発見。二手に分かれ、行長の八代衆が正面から攻撃する間に、鎮信の平戸の鉄砲衆が右側面に回り込み、山手から狙い撃った。朝鮮軍は伏兵に驚き、散々撃たれて遁走した。日本軍は追撃して300名余を討ち取った。朴晋は密陽に戻り、兵器倉庫に火を放つと城を捨てて山中に逃れた[131]。小西行長と加藤清正[編集]
加藤清正と二番隊は、慶州城を占領した後、平戸出身の漂着民の徳五郎と言う者に出会ったので、彼を嚮導者として進撃を早め、4月21日に永川を占領し、新寧、比安へと進んだ。このまま東路を進むならば竹嶺を目指すわけであるが、龍宮河、豊津と来た後は龍宮県には進まずに、聞慶に進み、小西行長の消息を聞くと忠州城に向かったというので、急ぎ鳥嶺を越えて後を追った。清正の到着と合流は忠州の戦いの前であったという異説もあるが、4月29日朝に忠州に到着したとき、一番隊はまだ弾琴台で首実検を行っていて、1日後れを取ったことを清正は大変残念がった。忠州城で一番隊と二番隊が合流したので、軍議が持たれた[152]。 軍議の内容には異説が多く、古典には登場人物や日付に辻褄が合わない点が散見されるが、小西行長が率いる一番隊が孤軍で直入したことに対して諸隊はもともと快く思っておらず、不満があった。 ﹃征韓偉略﹄の記述はかなり誇張されていると思われるが、その内容では、漢城府への進撃路を割り当てる際に、加藤清正は、まず行長の出自をからかい、武功を誇る行長に対して、密かに出発して単独で功を成したが、その成功も宗氏が地理に通じていたからで、自分の力ではなかったと喧嘩を売る。さらに、太閤は清正と行長に隔日で先鋒を務めるように命令された[注 61] のだから、今日より隔日で先鋒を替えて優劣をはっきりさせようと挑戦するのであるが、行長が拒否すると、軍令無視であり私利私欲の商人根性だと侮蔑。行長は激怒して刀を手にしたので、鍋島直茂に止められる。そこで松浦隆信が、両将が先鋒に命じられたのに協力して敵に臨まずにお互いで相争って敵に利するようでは万死に値すると諭されて、両人が反省して、結局は進路を分かつことになる。南大門を目指す百里の行程と、東大門を目指す百余里の行程があったが、河口の近くで漢江を渡らねばならないが直線距離が短い前者を加藤清正が選び、道程は長いが渡河の苦労の小さい後者を小西行長が進むことになった[153]。朝鮮国王の都落ち[編集]
宣祖逃避行の惨状[編集]
漢城府の占領[編集]
4月29日、一方で日本軍も忠州より行軍を再開していた。しかし、朝出たときは晴れていた天候が悪化し、午後に朝鮮国王が遭遇したのと同じ大雨となって、行く手を遮った。一番隊は雨によって道に迷い、結局、丸1日を浪費した。驪州に到着したのは5月1日だった。そこから驪江を渡ろうとするが、川は増水して馬では渡れず、北岸に江原道助防将元豪率いる数百名の小部隊が現れたことから、小西行長と宗義智は先発隊だけを船で渡らせ、両岸に滞陣して一夜を過ごした。翌日、元豪の部隊は戦わずに撤退したが、増水は依然続いていたので、行長らは先発隊だけを連れ、楊根を経由して龍津で漢江を渡って午後8時に漢城府に到達した。本隊の大部分はまだ驪州あり、渡河作業[注 69] を続け、到着は3日の夜となった[175]。朝鮮水軍との遭遇[編集]
日本水軍は釜山上陸の際、積極論の加藤嘉明と慎重論の脇坂安治とで仲違いして[188]、巨済島の元均の艦隊を取り逃がしたが、結果的には前述のように慶尚道水軍は勝手に自滅したためことなきを得た。九鬼嘉隆、加藤嘉明、藤堂高虎らは、4月下旬に陸に揚げた部隊が釜山を発して漢城府を目指していたあいだも、鎮海湾、巨済島、加徳島、蔚山湾で敵船を捜索して、特に抵抗を受けずに70隻余を拿捕して、慶尚道沿岸の掃討を完了させた[189]。 しかし、分限を墨守していた李舜臣と李億祺も、日本軍の破竹の進撃という状況もあってか、5月4日、ようやく慶尚道水域への進入を決断して迎撃を開始した。6日、元均も単船でこれに合流した。7日、この朝鮮水軍は加徳島に向かう途中、斥候の報告で巨済島の東側の玉浦に停泊する藤堂高虎らの水軍と輸送船団を発見し、南に転じてこれを攻撃した。不意を突かれて日本側は十分に防戦できず、李舜臣・李億祺・元均の三将は朝鮮側でこの戦役初めての勝利を得た。また同日、帰途に合浦に向かっていた日本軍船に遭遇して攻撃。翌日も赤珍浦に停泊していた日本水軍と交戦して戦果を挙げ、そのまま麗水へと撤収していった。朝鮮半島を席捲[編集]
秀吉の支配計画[編集]
5月16日、漢城府攻略と朝鮮国王逃亡の知らせを受けた秀吉は、同日付で、通事︵通訳︶を渡海させ、使者を派遣して︵朝鮮国王が︶叛逆して逃亡した理由を聞き、堪忍分[注 72] を与えるので、諭示して連れ戻すようにと命じた[185]。そして、自らの渡海の準備を急がせている。先駈勢が一旦止まり、すぐに追撃しなかったのは、秀吉の指示や出陣を待っていたからであろう。朝鮮国王の逃亡は、漢城府で降伏を迫れると期待していた日本軍にとって残念なことであったが、遠征の目的はあくまでも明征服であり、準備段階の一つに過ぎなかった。特に動揺などはなく、むしろ秀吉は意気昂揚したようで、次なる計画を夢想したことが2つの文書から分かっている。 豊太閤三国処置太早計 加賀藩第4代藩主の前田綱紀が残した文書の中に﹃豊太閤三国処置太早計﹄と彼が表題したものがある。これは天正20年︵1592年︶5月18日付の関白豊臣秀次宛の朱印状で、25箇条からなる覚書であった[194][195]。ほとんどの条項は、来年︵1593年︶の正月か2月頃には出陣することになるとした秀次への、非常に細々とした指図が書かれていたが、中には驚くような計画が披露されていて、明国を征服したら秀次を大唐関白の職に任ずるとか、大唐都︵北京︶に遷都して明後年︵2年後︶には後陽成天皇がその地に行幸できるようにするとか、天皇に北京周辺の10カ国を進呈して︵同行する︶諸公家衆にも知行を与えること、天皇が北京に移った後の日本の天皇としては若宮︵良仁親王︶か八条宮︵弟の智仁親王︶のいずれでも良いから即位してもらうことなどが書かれてあった。人事構想に関しては、8月までに羽柴秀俊︵丹波中納言︶も出征させるとして、彼は朝鮮に配置するか名護屋の留守居役とするとし、朝鮮の補佐役は宮部継潤。日本関白の職には、羽柴秀保︵大和中納言︶か羽柴秀家︵備前宰相︶のどちらかを任ずるとか、朝鮮を羽柴秀勝︵岐阜宰相︶か備前宰相に任せるならば、丹波中納言は九州に置くことにするなどとも書いていた。前田綱紀が﹁早計︵=早まった考え︶﹂と題したのは、彼が後世の人物で、このようなことは実現するはずもなかったことを知っていたからに他ならない[注 73]。 この文書は、具体的かつ仔細な指示と、空想に近い漠然とした指示が混在しているのが特徴である。この書簡が書かれた前日に名護屋城では戦勝を祝う大祝宴があったので、徳富蘇峰などは秀吉はまだ酔いが醒めていなかったのではないかと指摘したほどである[196]。 金以来の都城・首都としての北京の歴史を研究している東洋史学者の新宮学は、明の永楽帝による北京遷都の理由として、政治的・経済的な﹁南北統一﹂と前代の元︵モンゴル帝国︶の登場による中華世界の拡大によって元に代わる王朝としてその実現を迫られた﹁華夷一統﹂という2つの目的を果たすための要となる地点が北京であったとし、更に実際に冊封体制の再興という形で後者が実現された︵日本も遣明使節を北京に派遣している︶ことを指摘した上で、秀吉のこの構想は天皇を冊封体制の中心地と言える北京に置こうとしている時点で明による冊封体制の枠組みから一歩も出ておらず、当時の東アジア秩序の単なる焼き直しでしかないと評価している[56]。 組屋文書 組屋文書とは、若狭国小浜町の組屋氏宅に所蔵されていた文書で、元は屏風の下張であったものを、江戸時代の国学者伴信友が発見して著書﹃中外経緯伝﹄に載せたことから世に知られるようになった[195]。仮名文字で書かれたこの文書は、名護屋陣中にいた秀吉の右筆山中長俊が、大坂城にいた女中︵東殿局と客人局[注 74]︶に宛てた5月18日付の手紙で、先の豊太閤三国処置の裏付となっただけでなく、補完するような内容であったため、両文書はしばしば同一のものと混同される。 この文書にも驚くべき内容がいくつかあり、秀吉は当月︵5月︶中に渡海して朝鮮に向かう意向で、少なくとも年内︵1592年︶には北京に入城するつもりであったと明記されているほか、北京に拠点を築いた後は誰かに任せて自らは寧波に居を構えるとあり、これは豊太閤三国処置の内容と合わせて考えれば、北京に天皇と秀次を置いて京都のようにし、自らは交通の要衝である︵と当時の日本人は考えていた︶寧波を根拠地として大坂のようにしようと考えていたと思われる。また︵小西行長や加藤清正といった︶先駆衆は天竺︵インドの意味︶に近い所領を与えて、天竺の領土に切り取り自由の許可を与えるつもりであるとも書かれていた。天竺に関する言及は豊太閤三国処置にはない[197]。 2文書から明らかなる外征計画について、安国寺恵瓊のような楽観的な賛同者がいた反面、︵星州で恵瓊から十一カ所もの秀吉用宿泊施設の普請命令を伝達された︶毛利輝元などは一貫した悲観論者であった。前述の組屋文書にも、毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘、大友吉統らは、国替えして朝鮮で10倍20倍の知行増を約束されたが迷惑がったと書かれていて、輝元は10倍もの加増があれば現在の領地の統治も覚束なくなると辞退したとする内容があったが、異国の所領に魅力を感じた大名はむしろ少数だったようである。輝元は身内の宍戸覚隆に宛てた5月26日付星州からの手紙ではさらに具体的に書いていて、朝鮮は弱いが土地が広く言葉も通じず統治するには困難だと指摘し、意思の疎通に一々通訳がいる煩わしさは格別であるとした。また10万人の朝鮮兵は50人の日本兵で打ち崩せるほど弱く、中国兵は朝鮮兵よりももっと弱いと聞いているが、中国の土地は朝鮮よりももっと広大であるので明の統治はより困難であろうとし、敵は日本軍が来るとすぐ山に逃げるが、少人数で通行していると弓で狙撃して襲ってくるなど困難な相手で、城も国内に無数にあると長期化する恐れも示唆していた。侵入した日本軍が現地の兵糧を奪って食を賄っていることで、朝鮮人の間で飢餓が広がりつつあることも指摘した部分もあったが、これは後に起こる農民反乱の原因ともなった。さらに朝鮮の都は蠅が異常に多く、水はけも悪いうえに、やたらと牛が多く、衛生環境が劣悪である様子も書いており、自身も健康を害していると綴っていた。これらの点は、後から考えれば、すべて遠征が失敗した原因であり、当初より予想されていたことであったと言えるかもしれない[198]。進撃の再開[編集]
朝鮮側は、漢城の少し北を流れる臨津江を次なる防衛線とするため、臨津江南岸の一帯を焼き払って、日本軍が渡河の資材を得られないようにした。そして都元帥金命元将軍は川沿いに12,000人の兵を5箇所に分けて配置した[170]。 5月18日、都元帥金命元率いる13,000の朝鮮軍は開城を防衛すべく臨津江に防衛線を張るが、二番隊・加藤清正らが臨津江の戦いで朝鮮軍を撃破した[199]。朝鮮軍では、申硈︵防禦使︶、劉克良︵助防将︶、洪鳳祥︵督軍官︶ら諸将が戦死した。なお、戦いの前に小西行長が朝鮮側に書簡を送り、交渉を開始しようとしたが拒否されている︵この後、6月1日と6月11日にも書状を送っているが、いずれも拒否された︶。 朝鮮国王は勝利を信じて楽観していたが、金命元の敗報を接して、一転して色を失った。国王は第四王子信城君と第五王子定遠君を寧辺へと先に避難させ、平壌の防備を厳重にさせた。開城の占領[編集]
龍仁の戦い[編集]
日本軍が漢城へ進撃している間、全羅道長官李洸(巡察使)は軍を首都へ派遣して日本軍を食い止めようとしたが[201]、首都陥落との報に接し、退却した[201]。しかし、志願兵を集めたことにより軍隊は50,000[202]〜100,000人[203][204] に上っていたため、李洸と民兵の指導者たちは目標を漢城奪還と定め、漢城から42km南方の水原に軍を進めた[201]。6月4日、勇将として選ばれた白光彦(助防将)・李之詩(助防将)らが率いる、精兵として選ばれた数千九百人[203]の朝鮮兵が龍仁の城を奪取しようと攻撃したが、脇坂安治家臣配下の守備隊600人は、脇坂安治本軍の援軍が到着するまで朝鮮軍との交戦を避けた[201]。脇坂安治本軍1,000人が到着すると、日本軍は反撃を開始し朝鮮軍を破り、10万人[204] の朝鮮軍は崩壊し武器を捨てて退却した︵龍仁の戦い︶[201][203]。朝鮮軍では、白光彦、李之詩、その弟李之礼ら勇将が戦死し、李洸(全羅道巡察使)、尹国馨(忠清道巡察使)、金睟(慶尚道巡察使)、権慄(光州牧使)ら朝鮮軍指揮官らは各地へ逃走していった[203]。この後、全羅道・忠清道の朝鮮軍は二度と動き出さなかった[203]。 なお、6月1日付で朝鮮の陣から日本本国に充てられた発給者・宛所不詳ながら、内容から加藤清正によるものと推定可能な書状が残されており、発給者︵清正︶は明への進軍を急ぐべきとの考えから、︵後述の八道国割を定めた︶諸将の談合を﹁迷惑﹂と糾弾して、韃靼との境界︵=咸鏡道︶に派遣されることで渡海した秀吉が明の国境まで進軍した時に合流が間に合わないことを憂慮する内容となっている。また、小西行長と協力して敵軍を撃退したことにも触れており、発給者が清正であるとすると、この段階で加藤清正と小西行長の確執はまだ存在しなかったことになり、ここまで触れてきた確執のエピソードについては疑問が呈されることになる[136]。八道国割[編集]
開城陥落後、日本の諸将は漢城にて軍議を開き、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた。 ●平安道へ一番隊小西行長他、 ●咸鏡道へ二番隊加藤清正他、 ●黄海道へ三番隊黒田長政他、 ●江原道へ四番隊毛利吉成他、 ●忠清道へ五番隊福島正則他、 ●全羅道へ六番隊小早川隆景他、 ●慶尚道へ七番隊毛利輝元、 ●京畿道へ八番隊宇喜多秀家。平安道と一番隊[編集]
平壌の占領[編集]
小西行長が率いる一番隊が北進し、黄海道の平山、瑞興、鳳山、黄州を占領し、さらに平安道に入って中和を占領した[205]。中和にて黒田長政率いる三番隊が一番隊と合流し、大同江の北岸にある平壌へ進軍した[205]。30,000人の日本軍に対して、尹斗寿(左議政)、李元翼(都巡察)、宋慎言(平安道巡察使)、金命元(都元帥)、李鎰(巡察使)、韓応寅(諸道都巡察使)らの率いる10,000人の朝鮮軍が平壌を守備していた[206]。朝鮮軍の防戦準備によって、日本軍が使える船は全くなかった[207]。日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道・義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請した。 6月14日夜、朝鮮軍は密かに川を渡り日本軍宿営地を奇襲したが、他の日本軍部隊が駆け付けて朝鮮軍の背後から攻撃し、さらに河を渡りつつあった朝鮮側の援軍を撃破した[208]︵大同江の戦い︶。ここで、残っていた朝鮮軍部隊は平壌へ退却したが、日本軍は朝鮮軍の追撃を停止して、朝鮮軍がどのように川を渡って帰るかを観察した[208]。翌日、昨晩に朝鮮軍が退却する様子を観察した結果に基づいて、日本軍は川の浅瀬を使って整然と部隊を対岸へ進め始めた。この状況を受けて、その夜に朝鮮軍は平壌を放棄した[209]。朝鮮軍指揮官の尹斗寿・金命元らも順安へ逃走した[210]。6月15日、一番隊・小西行長らが平壌を制圧する。立札を立て民を安心させ、その一方で城内の兵糧数十余万石を押収した[211][212]。- 7月24日(西暦)、一番隊と三番隊はすでに放棄されていた平壌へ入った[209]。
咸鏡道と二番隊[編集]
二番隊・加藤清正らは6月1日に開城を出発すると、6月17-18日に安辺に到着し[136]、そこから東海岸に沿って北へ進撃を開始した[213]。この間に占領した城の一つが咸興である。ここで二番隊の一部は防衛と民政に当たることとなった[214]。 清正はさらに北上する意思を固めて安辺に留めていた鍋島直茂を咸興へ呼び寄せる。直茂はこれを受けて7月1日に安辺を出発した[136]。江原道と四番隊[編集]
毛利吉成が率いる四番隊は7月に漢城を出発して東へ向かい、朝鮮半島東岸の城を安辺から三陟まで占領した[209]。その後、四番隊は内陸へ向かい、旌善、寧越、平昌を占領し、江原道の都であった原州に駐留した[209]。ここで毛利吉成は民政を行い、日本に準じた身分制度を導入し、さらに国土調査を行った[209]。四番隊の大将の一人である島津義弘は梅北一揆のために遅れて江原道へ到着した。島津勢が春川を占領して江原道での作戦は終了した[213]。 ●6月、原州の戦い(鴒原山城の戦い)。江原道の助防将元豪が日本軍の小隊に攻撃を加えると、毛利吉成らが兵を向け、元豪は逃亡した。日本軍は原州に向けて出発したが、牧使金悌甲らは士卒4000人とともに鴒原山城にこもり阻止しようとした。城は四方が絶壁に囲まれ前方に道が一本あるのみという難攻の地であった。しかし、毛利吉成らは険しい崖をよじ登り攻略し、金悌甲らは戦死した[227]。 ●6月、鉄嶺の戦い。毛利吉成らの日本軍が、李渾率いる朝鮮軍1千を鉄嶺で撃破する[228]。 ●6月、平昌の戦い。毛利吉成は平昌郡守権斗文に降伏の使者を送ったが、権斗文の部下が使者を切り殺し、権斗文らは山中に逃亡した。毛利吉成は激怒し、秋月種長に彼らを攻めさせた。8月、秋月の兵は逃れた朝鮮軍を掃討し、使者を斬った者を殺し、権斗文を捕虜とし引き揚げた[227]。 ●7月、麻田の戦い及び漣川城の戦い。鉄原に陣を張っていた伊東祐兵率いる日本軍が、麻田に集結していた義兵を攻撃して数百人を討ち取った。敗残兵が漣川城に入ったことを知り、伊東祐兵が漣川城を攻め落城させた[229]。 ●8月、延安城の戦い。この頃、三番隊の黒田長政は黄海道をほぼ平定していた。しかし、李廷馣が義兵を集め、延安城で軍民2,500人で籠城を始めた。長政は3,000の兵で城を攻めたが、城は落ちそうになく、日本軍は兵を引き揚げて去った。 ●8月、小川の戦い。柳宗介らが率いる朝鮮軍が毛利吉成らの日本軍を迎え撃つべく伏兵を敷いた。しかし、日本軍はこれを察知し朝鮮軍に奇襲、朝鮮軍は破れ柳宗介も戦死した。 ●10月19日、胡寧の戦い。京畿道巡察使の沈岱は漢城奪回を狙い、胡寧城で兵を集めていた。19日、伊東祐兵が襲撃し、胡寧城は落城し沈岱は殺された[229]。 ●10月、春川の戦い。江原道の助防将元豪がまたも兵を募り、数千人を集め、原州の朴渾と共に春川城を攻めた。春川城を守る島津豊久率いる兵500人が門を開き出撃すると朝鮮軍は混乱、日本軍は奮闘し朝鮮軍を撃退、朴渾は戦死し、元豪は逃亡した[230]。 ●12月、金化の戦い。島津義弘が金化に陣を移すと、またも元豪が数百の兵を率いやって来た。義弘の子の久保がこれを攻撃し元豪らを討ち取り、首をさらした。これにより江原道方面は平穏となった[230]。 ●9月15日、鏡城の戦い[215]。 ●10月16日、咸興の戦い[215]。 ●11月15日、吉州長坪の戦い[215]。五番隊[編集]
●1月、竹山の戦い。辺以中率いる朝鮮軍が福島勢の守る竹山城を攻めるが、福島勢が逆襲し朝鮮軍は大敗した。全羅道と六番隊[編集]
小早川隆景率いる六番隊が、全羅道制圧の任に当たることとなり、六番隊はすでに三番隊が通過していた日本軍の移動ルートを通って尚州へ行軍し、忠清道の錦山に達した。小早川隆景は、ここを守備して全羅道での作戦の出撃基地とすることにした[231]。 ●7月5日、9日〜10日[232]。第一次錦山の戦い。高敬命らの朝鮮義兵7千が小早川隆景、立花宗茂ら六番隊の根拠地錦山を攻撃するが逆襲を受け壊滅、高敬命は戦死した[233]。 ●7月7日、熊峠の戦い。小早川隆景ら六番隊は熊峙で鄭湛(金堤郡守)率いる数千の朝鮮軍を撃破。鄭湛は戦死した[234]。またこれと並行して六番隊の一部部隊2,000人が梨峙に向かったが、権慄らに撃退された(梨峙の戦い)[235]。 ●7月7日〜8日、朝鮮義兵将金沔は牛脊峴戦闘で小早川隆景の部隊を伏兵で撃退した[236]。 ●7月30日、清州の戦い。この頃、日本軍の一部部隊が清州に向かって進撃していたが、防禦使李沃の朝鮮軍は逃走し、日本軍が清州城を占領した。朝鮮の義兵趙憲と霊圭は2,600の兵を集め、7月30日、清州城を攻めたが、日本軍に撃退され、趙憲ら朝鮮軍は後退して城の西の高地に陣を布いた。この夜、日本軍は多数の敵を警戒して、その夜密かに城を出て退却した。翌日、趙憲らは城に入った[237]。 ●8月9日、梁丹山の戦い。立花宗茂が南平県監韓楯500兵を撃退[238]。 ●8月15日〜18日[239]、第二次錦山の戦い。趙憲・霊圭らの義兵1千3百が錦山を攻撃するも逆襲を受け敗退、趙憲・霊圭は戦死した[240]。 六番隊は、龍仁の戦いから退却した5万の兵を加えた各地からの敗残兵15万を擁して全羅道の守りを固めた権慄によって攻略を阻まれ、錦山において李朝軍を破るが、南下する明軍の攻撃に対応するため、7月中旬には主将の隆景が漢城へ向かった、その際に李朝軍は夜襲を掛けたが察知していた六番隊に準備万端で迎え撃たれ大敗を喫した。9月中旬には残っていた立花宗茂らも漢城へ向かった。慶尚道と七番隊[編集]
●6月5日 茂渓の戦い。前僉使で武勇の人と言われる孫仁甲率いる朝鮮軍が毛利勢の村上景親が守る茂渓の砦を攻めたが、日本軍が奮戦して撃退し、さらに追撃し数百人を倒した[241]。 ●6月5日 醴泉の戦い。毛利の武将吉川広家の兵が、醴泉に集まった朝鮮義兵数千を攻撃し撃退した[241]。このころ、安国寺恵瓊らの1,500の日本軍が咸安方面から宜寧に入ろうとしていたが、郭再祐は鼎津に兵を置いて渡河を阻んだ。日本軍は渡ることができず引き揚げた(鼎津の戦い[241])。 ●5月、亀井茲矩の軍は泗川付近に上陸し、泗川城を攻略し、さらに昆陽城と河東城を攻略した。朝鮮軍の金時敏は、1千の兵で泗川城に近づいたが、日本軍の守備が厳重なのを見て、攻撃を止めた。その後、亀井茲矩の軍は日本軍上層部の命令で機張城に移った。朝鮮の官僚の金誠一は、日本軍の撤退を金時敏の功績として朝鮮朝廷に報告したので、朝鮮国王は金時敏を晋州牧使に任じた[242]。 11月 機張城の戦い。数千の朝鮮軍義兵が機張城に攻め寄せたが、日本軍はこれを撃退し、800の首を得た[242]。 ●8月7日 善山・仁同の戦い。細川忠興・長谷川秀一・木村重茲らが率いる1万2000日本軍が、善山に立て篭もっていた朝鮮軍義兵を掃討した。その後、南条元清と合流して、仁同の朝鮮軍義兵の根拠地を撃破した[243]。 ●8月20日 第1次星州城の戦い。朝鮮軍数千人が毛利勢の依る星州城をとり囲む。開寧で報告を受けた毛利輝元はすぐに援軍を送り、朝鮮軍は側背を衝かれて撤退した[244]。 ●9月10日 第2次星州城の戦い。兵を集めた15,000の朝鮮軍が再び毛利勢の依る星州城に迫り、毛利輝元の武将らが救援に駆けつけた。毛利の武将は金泉駅で朝鮮軍を破った[244]。さらに日本軍は知礼城を攻め落して帰還した(知礼城の戦い)[244]。 ●9月23-26日、昌原の戦い。細川忠興・長谷川秀一・木村重茲ら2万の日本軍が金海から晋州城に向かう途中、昌原城から出撃して露峴で迎撃にあたった慶尚右兵使・柳崇仁ら数千の朝鮮軍を撃破し、三日後には昌原城を攻め落して1千4百人を討ち取った。柳崇仁は逃走し咸安を守ったが、10月1日、日本軍はこれも攻略し、柳崇仁は晋州方面へ逃げ延びた[245]。敗走した柳崇仁は後方の晋州城へ入ろうとするが、部下であり守将の晋州牧使・金時敏は日本軍の突入を怖れて城門を開くことを拒否した。やむなく柳崇仁は城外で敗兵を再編成して日本軍に野戦を挑むが敗死した。 ●10月6-10日、第一次晋州城攻防戦。日本軍は、釜山西方の制圧を画策して、晋州城の攻略を図る︵細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍︶が、朝鮮軍が防衛に成功した[注 75]。朝鮮軍指揮官金時敏は日本軍の鉄砲によって重傷を負い、攻防戦の後に傷の悪化によって死亡した。 ●12月7-14日、第三次星州城の戦い。金沔率いる5,000の朝鮮軍が星州城を包囲するが、日本軍に撃退される。朝鮮水軍の動向[編集]
●5月7日、海岸移動を行っていた日本輸送船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍91隻艦隊が攻撃、海戦を想定していなかった50隻の日本輸送船団は昼夜戦で15艘が撃破される︵玉浦の戦い︶。 ●5月8日、朝鮮水軍は赤珍浦にいる日本輸送船13隻を攻撃、日本船11隻は撃破される。 ●5月29日、李舜臣率いる朝鮮水軍が日本輸送船団を攻撃。泗川海戦[246]。 ●6月2日、唐浦の海戦[246]。 ●6月5日、第1次唐項浦海戦[246]。 ●6月7日、栗浦海戦[246]。 ●7月7日、海戦用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった日本軍は、陸戦部隊や後方で輸送任務に当たっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。しかし、脇坂安治の抜け駆けが主な原因となり1500人[110][111][112] の日本水軍が敗北する(閑山島海戦[247])。 長年の倭寇対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の差もあって、正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であった。7月7日の閑山島海戦で日本水軍が敗北すると日本軍は海戦の不利を悟って、出撃戦術から水陸共同防御戦術へ方針を変更した。 当初専ら輸送用だった日本水軍の船にも大鉄砲が備え付けられ、日本軍は勢力範囲の要所に城砦︵倭城や鉄炮塚と呼ばれる砲台︶を築いて大筒や大鉄砲を備えて、水陸併進して活動するようになった。この方針転換は有効に機能し、以降の李舜臣による日本側の泊地への攻撃は、釜山浦攻撃、熊川攻撃など、朝鮮水軍は被害を多く出すばかりで成果が上がらなくなり、朝鮮水軍の出撃回数は激減した。 日本軍は巨済島にも城郭を建設し、そこに豊臣秀勝の軍勢を置き、日本水軍との連携を深めさせた。当時の船は航海力も未熟で、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能した。 ●中でも釜山浦は、文禄の役の開戦直後の日本軍による占領以来、日本の肥前名護屋から壱岐・対馬を経て釜山に至るルートが日本軍の海上交通路になっており、補給物資は一旦釜山に荷揚げされた後、陸路内陸に輸送されていた。云わば釜山は日本軍にとり補給連絡上の根本となる拠点であった。朝鮮水軍の李舜臣は﹁釜山は賊︵日本軍︶の根本なり。進んで之を覆せば、賊︵日本軍︶は必ず據︵拠︶を失う。[248]﹂として、9月1日、朝鮮水軍は総力を挙げ釜山奪回を目指したが、日本軍に撃退され敗退し[249]、朝鮮水軍は鹿島万戸・鄭運が戦死するなど損害を多く出して撤退した︵釜山浦海戦︶[250][251]。これまで連続的に出撃を繰り返してきた朝鮮水軍は、この戦いを境に目立った活動を停止する。ようやく活動を再開するのは翌年2月の熊川への攻撃である。李舜臣が釜山前洋に現れたのはこの時が最初で最後となった。これにより釜山は日本軍にとって安泰な場所となり、戦争の終結まで補給連絡上の根本拠点として機能し続けることになる。明軍参戦[編集]
●7月16日、明軍が到着し、明軍副総裁・祖承訓率いる遼東の明軍3000兵が平壌を急襲したが、これを一番隊の小西行長らが大いに破った、明軍は300人戦死した︵第一次平壌城の戦い[215]︶。 明軍の参戦を受けて、日本軍は、諸将の合議の結果、年内の進撃は平壌までで停止し、漢城の防備を固めることとなった。 他方、明朝廷は祖承訓の7月16日の平壌戦の敗北という事態に、沈惟敬を代表に立て、日本軍に講和を提案。以降、日本と明との間に交渉が持たれることになる。オランカイ侵攻[編集]
日本軍の軍評定[編集]
明軍の参戦を受け、朝鮮奉行である石田三成・増田長盛・大谷吉継、ならびに秀吉の上使・黒田孝高らは、漢城に諸将を呼び、軍評定を開いた[220]。 この評定で﹁今年中の唐入りの延期﹂﹁秀吉の朝鮮入りの中止﹂、この2つを秀吉に進言することが決まった。 黒田孝高は、漢城から北へ1日以内の距離に砦を築き、漢城の守備に力を注ぐことを提案。しかし、小西行長は明軍の救援などありえないと主張し、平壌に戻ってしまった[220]。 なお、加藤清正はオランカイに行っていたため、この評定に参加できなかった。後に石田三成らは清正を訴えた際、理由の一つとしてこの件を挙げている[220]。一方、清正からすれば咸鏡道派遣の際に最も危惧して八道国割に反対の理由としてきた事態︵緊急の合流に間に合わない事態︶が起きたことに反発し、三成との関係が悪化するきっかけになった[136]。 ●8月22日、延安の戦い[215]。 ●8月29日、長林浦海戦[246]。日本軍・明軍休戦[編集]
8月29日、沈惟敬と小西行長との間で50日間の休戦が約束された[255]。朝鮮はこの休戦に反対したが、宗主国である明に押し切られた。他方、明の李如松はこの期間中に日本軍の殲滅作戦を進めている。碧蹄館の戦い[編集]
名将軍として誉れ高い李如松の軍は総兵力4万3,000人︵明軍の統計によると、戦争が終わった2月まで、朝鮮に到着した明軍は死亡した人数を加えても、明軍の総人数は38537人で、4万人に近い。︶で、李家の子嗣の私兵によって構成されており、精鋭無比の軍として知られていた[256]。1592年︵文禄元年︶12月23日、鴨緑江を渡って朝鮮に入り、平壌に向かった。 翌文禄2年︵1593年︶正月、李如松は、使いを平壌郊外の順安に派遣し、明朝廷が講和を許し、使者がやがて到着することを小西軍に伝えた。これに喜んだ小西は3日、竹内吉兵衛ら使者20名(23名)を順安に派遣するが、この講和そのものが罠だった。竹内らは途上で伏兵によって生け捕りにされる。一部︵5名︶が突破に成功し小西に伝える。当時、平壌城には、小西ほか宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄ら配下の15,000の兵がいた[257]。︵平壌市内の日本軍の人数。朝鮮王朝修正実録には日本軍が1万数千人いると記載されており、日本軍は朝鮮庶民を民軍として引っ張った。朝鮮王朝実録における日本軍の人数の記載は多種多様で、数千、数万人少なく、朝鮮人が平壌の戦いの本文を書いて日本軍の人数を紹介した時、表示されたのも日本軍牡丹峰1千人、西壁5千人、その他例えば南壁、城内兵力守備は記載されていない。︶ 1月6日より戦闘が開始された︵第三次平壌城の戦い︶。明軍には朝鮮軍8,000人︵朝鮮王朝実録によると、利用可能な兵は3千人。︶が加わり[257]、明・朝鮮軍は合計51,000人余りとなっていた(明軍43,000、朝鮮軍8,000)︵明軍も朝鮮軍も大確率で計画通りに到着しなかった︶。明軍は仏狼機︵フランキ︶砲、大将軍砲、霹靂砲などの火器の攻撃によって平壌城の外郭守備は破られ、小西軍は内城に籠った。しかし、日本軍の鉄砲火器が予想外の装備であったため、李将軍は無理攻めによる自軍の犠牲を考慮し、包囲の一部を解いて、小西軍の退却を促し、追撃戦とすることにした[256][258]。︵明軍が平壌の内城を攻撃し、難攻不落を発見した後、明軍は小西を呼び、日本軍が平壌を離れることを望んだ。せ、平壌周辺にいた伏兵を撤退させた。明軍はおそらく日本軍が内城を離れた時に日本軍を襲うだろう、小西は日本軍を夜に静かに連れて行った。明軍が夜明けまで日本軍が去ったことを知ったという資料がある。明軍自身も実は日本軍が走っていることに気づかなかった,but怒った明軍は、朝鮮人が日本軍の離脱情報をタイムリーに探知できなかったと誣告した。去った日本軍は狼狽し、道中寒さと交じり、数日前、柳成龍はすでに日本軍が敗戦して平壌を離れることを予想していた、黄海道の朝鮮軍は彼らを殴ることができると命じたが、しかし逃げた日本軍を攻撃したのは李時彦らだけだった。兵力が最も多い金敬老は襲撃しなかったが、柳成龍はそのために金敬老を殺そうとした︶ 1月7日夜、小西軍は脱出した。翌日、明軍は精騎3000人で追撃を開始、日本軍は360余が討たれた[259]︵異説あり[260]︶︵明軍の伏撃ということは朝鮮と明の史料にはないので、明軍の戦報の捏造である。︶。第3次平壌城の戦いでの日本側の死者は合計1560人あまりという︵これは明軍の斬首数に基づいた結果で、実際に明軍の首級審査制度は厳しく、日本軍より100倍厳しく、平壌戦では日本軍の死亡数が斬首数よりはるかに大きい︶[261] [262] [注 78]︵明朝の史料には攻城戦の斬首1285級、加えて万人が焼かれ溺死し、伏撃戦の斬首359級が記載されている。朝鮮史料朝鮮王朝実録には攻城戦で斬首1285級が記録されており、焼死したものが多く、明軍の伏撃戦の記録はない。[263]。﹃朝鮮王朝実録﹄によると、明軍南北軍の軍功争いのため、﹁明軍が第3回平壌︵ピョンヤン︶戦で獲得した1285人のうち、半分は朝鮮人で、戦闘中に焼死したり溺死したりしたのは1万人だった。明軍の楊廷蘭、周維翰はすべて朝鮮人だった﹂、古代朝鮮人は一般的に平壌戦を敵を多く殺した大勝と考えており、朝鮮軍が惜しんでいるのは、明軍が日本軍を待ち伏せ攻撃しなかったことと、金敬老も逃走日本軍を襲撃しなかった、李如松が誣告されたと聞いて、信じないと表明した。古代韓国人は平壌︵ピョンヤン︶戦が大きな勝利であり、多くの敵を殺したと考えられていたが、北朝鮮軍は残念ながら明軍が日本軍を待ち伏せ攻撃せず、また金敬老も逃走した日本軍を攻撃しなかった。朝鮮人は李如松が誣告されたと聞いて、不信を表明した。︶[264]、明軍の宋應昌から弾劾された[265]。李如松は怒り帰国しようとしたが、朝鮮王の、それを無実とする﹁伸弁﹂の奏稿を見せられて思い止まった[266][267]。 小西軍の撤退時、黄州にいた大友義統は明軍襲来に際し、小西軍の収容もせずに退却するという失態を演じた︵後改易︶。小西軍は落胆したが、さらに退却を続け、龍泉山城に在陣する黒田長政に迎えられた[256]。会議では、ひとまず開城まで撤退し、漢城に集結することとした。漢城では石田三成らは篭城戦を、小早川隆景ら六番隊は前進迎撃戦争を唱えた。兵糧不足のため、大勢が迎撃戦を選んだ。 1月18日、明軍、開城入城。 1月25日、明軍と日本の斥候軍が接触。翌26日未明、立花宗茂隊2000兵︵一説に6、7百。一説に3千︶が進軍開始した。午前6時より11時までの激戦を経て、通報を受けた宇喜多秀家が指揮する日本軍2万︵4万のデータが信頼できる︶が漢城郊外の碧蹄館で迎撃、一大決戦となり日本軍が勝利した[268] [269] [270] [271] [272]︵碧蹄館の戦い︶。この戦いで明軍は大きな損失をだし[269]︵一説に戦死者6000人[273],しかし、明軍が参戦した数千人と参戦した数百人の朝鮮軍を合わせても5000人余りで、6000人の戦死はありえない。別の説明軍の戦死264人。︶、総司令官・李如松は危うく討ち死に寸前まで追い込まれたが、平壌まで退却した。李如松の麾下の親衛隊の内、李有升ら勇士80人余りも戦死した[274]。 この戦いの敗北によって李如松は戦意を喪失して明軍の勢いはそがれ、武力による日本軍撃退方針を諦めて講和交渉へと転換する。 碧蹄館の戦いに関し、朝鮮王朝実録には﹁天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒鋭無敵。﹂という記述があり[275]、李如松軍のために兵糧等の手配もしていた朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録には、﹁李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった︵これは間違っています。碧蹄館の戦いでは明軍が日本軍を攻撃するために多くの火砲を運用していたからです︶。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3・4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督は後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者が甚だ多かった。日暮れに提督は坡州に戻った。その敗北を隠してはいたものの、気力を沮喪すること甚だしく、夜には親しく信頼していた家丁の戦死を痛哭した。﹂とある。 2月12日、幸州の戦い。朝鮮軍は1日目の攻撃を撃退したものの︵朝鮮軍斬首130級︶、権慄は日本軍の攻撃を危惧して城を放棄し[256]、坡州まで退却した[276]。懲毖録によれば、権慄はこの戦闘後、日本兵の死体を集め、﹁肢体を裂いて林の木のあちこちに掛けさせ、その憤りをはらした﹂という[276]。加藤清正の漢城帰還[編集]
その一方、9月中旬、二番隊の加藤清正は安辺まで、鍋島直茂は咸興まで戻り[221]、吉州から安辺までの間の城々に兵を置き、清正・鍋島直茂・相良頼房らは今後の咸鏡道の統治方針を協議していた。清正らはこの時点で他の方面軍の作戦が順調に進んでいないことを知ったようである。特に明への侵攻路である平安道を任された小西行長に対する不満は強く、9月20日に織田信雄や木下吉継に対して宛てられた書状でも憤りを表明している。それまで隣国でもあり、対立を避けてきた加藤清正と小西行長の確執の萌芽がみられる[136]。 10月になると、吉州などで日本軍に対する反乱が起き始めたが、他の方面での戦況の悪化や雪が降り出したために討伐に向かうことが困難な情勢であった。支配領域を縮小しつつあったものの、清正は咸鏡道の平定に自信を見せていたが、平壌での一番隊の敗走の報を聞いた漢城の奉行衆であった石田三成・大谷吉継・増田長盛は二番隊に咸鏡道からの撤退を厳命、やむなく加藤清正らは漢城への撤退を受け入れ、2月29日に朝鮮王子2名(臨海君、順和君)を連れた加藤清正が安辺から漢城に帰還し[277]、鍋島直茂は咸興から漢城に帰還した[278]。清正は王子を日本へ連行して秀吉に謁見させる意図を有していたが、日本の秀吉およびその周辺では講和交渉の進展とともに日本には連行せずに朝鮮側に返す方針が固まり、4月下旬には清正に対して尚州防衛に専念させるために王子を伊達政宗に引き渡すことを命じたのであった[136]。日本・明講和交渉[編集]
碧蹄館の戦いの後、後退した明軍が開城に入りしばらくすると、軍糧が尽きた。朝鮮側は明軍のために各地で食料をかき集めたが足らず、情勢は緊迫していた[279]。 明軍の李如松提督の部下の諸将が、軍糧が尽きたことを理由として、軍を撤退させることを提督に要請した[279]。提督は軍糧を用意できない朝鮮朝廷に怒り、柳成龍ら朝鮮朝廷の要人を呼び出し庭にひざまずかせ、大声で叱責し処罰しようとし、柳成龍は涙を流し謝罪した[279]。戦乱により朝鮮の国土は荒れ民衆は飢えていたが、朝鮮朝廷は集めた食料のほとんどを明軍の軍糧として提供した[280]。 文禄2年︵1593年︶3月、漢城の日本軍の食料貯蔵庫であった龍山の倉庫を明軍に焼かれ[281] 、窮した日本軍は講和交渉を開始する[256]。これを受けて明軍も再び沈惟敬を派遣、小西・加藤の三者で会談を行い、4月に次の条件で合意した[282]。 ●日本軍は朝鮮王子とその従者を返還する ●日本軍は釜山まで後退 ●明軍は開城まで後退 ●明から日本に使節を派遣する 明側では宋応昌・沈惟敬が共謀し、部下の謝用梓と徐一貫を皇帝からの勅使に偽装して日本に派遣することにした。一方、日本の秀吉には、この勅使は﹁侘び言﹂を伝える者だと報告されていた。 この講和交渉は日本と明との間で行われ、朝鮮は交渉の場から外された。朝鮮側は国王以下一貫して講和に反対していたが、明軍は朝鮮の立場を一切無視して日本側との交渉を始めた。朝鮮政府は交渉に口を挟む権利がなく、ただ明にすがっているだけだった。李如松は表向きは朝鮮側の意向を体して日本軍征討を約束するが、実際には朝鮮軍に日本軍への攻撃を停止させる命令を出すというありさまであった[283][284]。 4月18日、合意条件に基づき、日本軍は漢城を出て、明の勅使・沈惟敬・朝鮮の二王子(臨海君、順和君)とともに釜山まで後退した。 この時二王子が礼を尽され清正の護衛と共に南下した事を感謝する旨の書状が紀州徳川家に残されている。 朝鮮側は李如松に日本軍を追撃するよう嘆願したが、李如松はこれを無視し、日本軍を攻撃することはなかった[285]。 5月1日、秀吉は大友義統・島津忠辰・波多親を改易処分にする。表向きの理由は戦闘中の失態に対する懲罰であるが、秀吉が掲げた﹁征明﹂方針の挫折が講和交渉によって明白になった以上、誰かに責任を負わせる必要があったため、とする説がある[136]。 5月8日、小西行長と石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行は明勅使と共に日本へ出発。 5月15日、明勅使は名護屋で秀吉と会見。秀吉は以下の7つの条件を提示した。 ●明の皇女を天皇の妃として送ること ●勘合貿易を復活させること ●日本と明、双方の大臣が誓紙をとりかわすこと ●朝鮮八道のうち南の四道を日本に割譲し、他の四道および漢城を朝鮮に返還すること ●朝鮮王子および家老を1、2名、日本に人質として差し出すこと ●捕虜にした朝鮮王子2人は沈惟敬を通じて朝鮮に返還すること ●朝鮮の重臣たちに、今後日本に背かないことを誓約させること 石田・小西らは、本国には書き直して報告すればよいと進言。6月28日に小西行長の家臣内藤如安を答礼使として北京へ派遣することとした。7月中旬、釜山に戻ってきた勅使に朝鮮の二王子が引き渡された。 一方、明へ向かった内藤如安は秀吉の﹁納款表﹂を持っていたが、明の宋応昌は秀吉の﹁降伏﹂を示す文書が必要だと主張。小西行長は﹁関白降表﹂を偽作して内藤に託し、内藤は翌1594年︵文禄3年︶の12月に北京に到着した。第二次晋州城の戦いと戦線膠着[編集]
一方、この頃、秀吉も朝鮮南部の支配確保は必須として、晋州城攻略を命じる[256]。戦闘要員42491人の陣容であった、近隣には釜山からの輸送役や城の守備に当たる部隊が存在した。当初は漢城戦線を維持したまま日本本土からの新戦力を投入する計画であった。 日本軍は6月21日から29日に掛けわずか8日︵戦闘開始から3日︶で攻略する︵第二次晋州城合戦︶。陥落した晋州城では、指揮官の倡義使・金千鎰、その子・金象乾、慶尚右兵使・崔慶会、忠清兵使・黄進、晋州府使・徐礼元、義兵将・高従厚、金海府使・李宗仁、巨済県令・金俊民などの武将が戦死し、軍民2万人が全滅した(朝鮮史では死者6万人とされる)[286]。6月には明軍も南下しており、朝鮮軍は救援を要請したが﹁城を空にして、戦いを避けるのが良策﹂との返答を得た。日本軍の晋州城包囲中、明軍は一時前進したが、日本軍の勢力が強大だと聞くと、恐れて晋州城を救援しようとはせず、早々と撤退した[287]。日本軍は晋州城を攻略するとさらに全羅道を窺い各地の城を攻略、明軍が進出すると戦線は膠着し休戦期に入った。 日本軍は全羅南道において、7月5日には求礼、7日には谷城まで進出した。しかし、南原の守りが堅いと見ると9日には晋州城へ撤退した。以後、日本軍は恒久的な支配と在陣のために朝鮮半島南部の各地に拠点となる城の築城を開始し、築城が始まると防衛力の弱い晋州城は無用とされ破却された。交渉決裂と再出兵[編集]
秀吉は明降伏という報告を受け、明朝廷は日本降伏という報告を受けていた。これは日明双方の講和担当者が穏便に講和を行うためにそれぞれ偽りの報告をしたためである。 結局、日本の交渉担当者は﹁関白降表﹂という偽りの降伏文書を作成し、明側には秀吉の和平条件は﹁勘合貿易の再開﹂という条件のみであると伝えられた。﹁秀吉の降伏﹂を確認した明は朝議の結果﹁封は許すが貢は許さない﹂︵明の冊封体制下に入る事は認めるが勘合貿易は認めない︶と決め、秀吉に対し日本国王︵順化王︶の称号と金印を授けるため日本に使節を派遣した。文禄5年︵1596年︶9月、秀吉は来朝した明使節と謁見。自分の要求が全く受け入れられていないのを知り激怒。使者を追い返し朝鮮への再度出兵を決定した。なお、沈惟敬は帰国後、明政府によって処刑される[288]。地震と改元[編集]
なお、同1596年9月1日︵旧暦閏7月9日︶、慶長伊予地震が発生。M 7.0、薬師寺本堂や仁王門、鶴岡八幡宮が倒壊。3日後の9月4日に慶長豊後地震が発生。M 7.0-7.8、死者710人、地震と津波によって瓜生島と久光島の2つの島が沈んだとされる。 翌日の9月5日午前0時頃、慶長伏見地震︵慶長伏見大地震︶が発生[289]。M 7.0-7.1で、京都や堺で死者合計1,000人以上。伏見城の天守や石垣が倒壊し、方広寺の大仏︵京の大仏︶が損壊した。余震が翌年春まで続く[290]。これらの大きな地震が相次いだことで慶長に改元された︵このため、地震は﹁慶長﹂を冠している︶。 なお、この地震より以前、加藤清正が石田三成・小西行長らに訴えられて日本で謹慎していたが、清正は地震が起きた際に秀吉のもとへ駆けつけて弁明を行い、謹慎を解かれ、慶長の役にも出陣することとなった︵地震加藤︶。ただし、清正が地震の2日後に出した書状では清正は伏見邸の未完成により自分が無事だったと記しており伏見にはいなかったことが判明しており、地震加藤の逸話は史実ではなかったとみられる。また、同じ時期に他の武将にも帰国の動きがあったことから、清正の帰国は和平の進展と明使節の来日に対応したもので、謹慎処分によるものではなかった可能性が高い[136]。日本軍陣立︵慶長︶[編集]
和平交渉が決裂すると西国諸将に動員令が発せられた。以下は慶長2年2月22日付の秀吉朱印状﹁慶長再征之役進發人數書﹂に基づく日本軍の陣立。参謀本部の﹃日本軍陣立て﹄[291]とは書き方が異なるが一次史料に従った[292][293]。 再出征軍・総計141,500人[294]- 一番隊および二番隊(先手は、加藤清正と小西行長が籤によって2日交替で担うと定められていた。先手の際には一番隊となる。)
- 加藤隊(三備え)
- 加藤清正…10,000人
- 小西隊・計14,700人(四備え)
- 三番隊・計10,000人(三備え)
- 四番隊・計12,000人(四備え)
- 五番隊・計10,000人(三備え)
- 島津義弘…10,000人
- 六番隊・計13,300人(四備え)
- 七番隊・計11,100人(三備え)
- 八番隊および九番隊(両人は先陣を代わったとある。)
- 諸城の在番衆・計20,390人
- 釜山浦城
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- 軍目付(慶長)
- 垣見一直、福原長堯、熊谷直盛、竹中重門
慶長の役[編集]
全羅道・忠清道掃討戦[編集]
蔚山戦役[編集]
四路の戦い︵四路並進︶[編集]
秀吉は翌慶長4年︵1599年︶に大軍を再派遣して攻勢を行う計画を発表していた。しかし、豊臣秀吉は慶長3年︵1598年︶8月18日に死去。その後、五大老や五奉行を中心に撤退が決定され、密かに朝鮮からの撤収準備が開始された。もっとも、秀吉の死は秘匿され朝鮮に派遣されていた日本軍にも知らされなかった。 前回の敗戦後、明軍では本国からの増援を得て兵力は約10万となった。すでに2月頃から明軍指揮部は蔚山戦役の失敗を反面教師にして新しい作戦を立案し始めた[330]。つまり、10万の兵力を動員して陸軍が日本軍の拠点らを同時に打撃する一方、水軍に退路を遮断させることであった。9月に入ると明・朝鮮連合軍は軍を三路(東路軍、中路軍、西路軍)に分かち、一路では水軍がこれを補助しながら、蔚山、泗川、順天へ総力を挙げた攻勢に出た。水陸方面での挟撃を通じて朝鮮半島に残留していた日本軍を壊滅させるというこの構想は、いわゆる﹁四路並進策﹂と通称された。日本軍は沿岸部に築いた堅固な守りの城(倭城)で迎え撃った。第二次蔚山城の戦い[編集]
泗川の戦い[編集]
順天城の戦い[編集]
戦争の終結[編集]
慶長3年︵1598年︶8月に秀吉が死去して以降、幼児の豊臣秀頼が後を継いだ豊臣政権では、大名間の権力を巡る対立が顕在化し、政治情勢は不穏なものとなっており[注 79]、もはや対外戦争を続ける状況にはなかった。そこでついに10月15日、秀吉の死は秘匿されたまま五大老による帰国命令が発令された。秀吉による慶長4年︵1599年︶の再出兵計画は白紙となった。 慶長3年︵1598年︶10月下旬、帰国命令を受領した小西行長は、明軍の陸将劉綎との交渉により無血撤退の約束を取り付け、人質を受領して撤退の準備に取り掛かっていた。ところが、古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、日本軍撤退の動きを知ると、11月10日再び順天城の前洋に現れ海上封鎖を実施して海路撤退の妨害を行った。そこで小西行長は、明水軍の陳璘と交渉や買収で無血撤退の約束を取り付け、人質も受領するが、この頃日本側撤退の内情︵秀吉の死︶は明・朝鮮側も知るところとなり、実際には明・朝鮮水軍は後退せずに海上封鎖を継続した。 小西軍の脱出が阻まれていることが確認されると泗川から撤退してきた島津義弘、立花宗茂、高橋直次、寺沢広高、宗義智、小早川秀包、筑紫広門(上野介広門の子・主水正広門)[343] らの諸将は救援に向かうために水軍を編成して進撃した。島津義弘、立花宗茂らの救援軍が近づくのを知ると明・朝鮮水軍は順天の海上封鎖を解いて迎撃を行い、両軍は11月18日夜間、露梁海峡において衝突する。 この露梁海戦で島津水軍は苦戦したとされ、明・朝鮮側の資料では自軍の勝利を強調している︵日本軍は計300隻の戦船を露梁海戦に使用し、200隻を損失し、兵から半死した︶。しかし、明・朝鮮軍では明水軍の副将、鄧子龍や朝鮮水軍の主将で三道水軍統制使の李舜臣、さらに、李英男(加里浦僉使)、方徳龍(樂安郡守)、高得蒋(興陽県監)、李彦良、といった複数の将官が戦死した。一時突出した明軍の主将陳璘も日本軍の包囲から危うく逃れたとされ[344]︵ 一つ注目すべき点は、日本軍が彼らが鄧子龍、李舜臣を射殺したことを知らなかったことだ。初期の日本の史料では露梁海戦で日本軍が負けたと考えられていたが、後期に朝鮮、明の文学作品が日本に伝わったことで、日本人は鄧子龍、李舜臣を殺したことを知って、態度を変え始め、この戦いは日本軍の勝利だと考えていた。連合軍がこんなに多くの将校を死なせたのには理由がある。明軍にとって、明軍の部隊は一度に投入されたのではなく、数は最初は日本軍より低かった。陳燐は最初は小部隊だけを率いて参戦し、その後陳燐は日本軍に包囲され、その後鄧子龍はまた小部隊を率いて陳燐を救出し、戦死した。鄧子龍の死後、明軍将校の沈理、季金はより多くの明軍部隊を率いて来場し、日本軍はすぐに敗れた。朝鮮軍にとっては、李舜臣の死後、最後まで参戦していた一部の朝鮮軍を除いて、ほとんどの朝鮮水軍は崩壊し、敗れた︶、明・朝鮮水軍が退却する日本軍を追撃したり、あるいは再び順天を封鎖することは適わなかった。明・朝鮮水軍が出撃したことによって順天の海上封鎖が解けたことを知った小西行長は、海戦海域を避け、戦闘に参加することなく海路脱出に成功し、巨済島に到着した。島津・宗・立花勢らも巨済島に到着した。こうして西部方面の日本軍は撤退を完了し、さらに釜山浦に向かった[345][344]。 一方、蔚山・西生浦・梁山・竹島など東部方面に展開していた日本軍は、これより先の11月15日頃から各自城を撤し順調に釜山に向かっている[346][347]。 11月中旬、日本軍は釜山に集結した[348][349]。11月23日加藤清正等が釜山を発し、24日毛利吉成等が釜山を発し、25日小西行長、島津義弘等が釜山を発す[350]。 こうして、日本の出征大名達は朝鮮を退去して日本へ帰国し、豊臣秀吉の画策した明遠征、朝鮮征服計画は成功に至らぬまま、秀吉の死によって終結した[注 7]。 この戦争について清が編纂した﹃明史﹄では﹁豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、︵明では︶十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝︵明︶と属国︵朝鮮︶に勝算は無く、ただ関白︵豊臣秀吉︶が死去するに至り乱禍は終息した。﹂と総評する[注 7]。
慶長4年︵1599年︶の再出兵計画[編集]
秀吉は慶長の役の開始の頃から数度の出兵を計画しており、蔚山戦役の後には6万4千余の将兵を朝鮮半島の在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させていた[351]。それは秀吉が慶長4年︵1599年︶にも大規模な軍事行動を計画していたためであった[298]。日本軍の総司令官には石田三成や福島正則が任命されていた。その再出兵計画に向けて朝鮮半島の倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。戦役後の和平交渉[編集]
和平交渉は徳川家康によって委任を受けた対馬の宗氏と朝鮮当局の間で進められた。とはいえ、日本国内では﹁徳川家康が再出兵を計画し、対立している諸大名たちを朝鮮に送り込もうとしている﹂という不穏な噂が流れていた[352]。 日本は断絶していた朝鮮との国交を回復すべく、朝鮮側に通信使の派遣を打診し、それを受けて朝鮮朝廷はまず日本の内情探索のため1604年に探賊使として惟政を対馬に派遣したが、征夷大将軍徳川家康は宗義智に命じて京まで呼び寄せ、1605年︵慶長10年︶上洛して伏見城で会見した。惟政は日本側の実権が徳川に移ったことと家康の和平の意向を確認し、その後朝鮮より正式な使節である回答兼刷還使が派遣されて和平が果たされたのは、1607年︵慶長12年︶二代将軍徳川秀忠に対してであった。 明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって中国を支配するようになった清は、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった︵海禁も参照︶。日本軍の補給[編集]
文禄・慶長の役において、日本は初動において16万人に対する莫大な輸送量に対する補給を見事になしとげたが、黄海道を経て海路から北京を攻略する計画は制海権を得られずに補給線の確保ができなかったことから断念したとされる[353]。また、朝鮮半島は陸路、海路ともに輸送経路が整備されておらず、補給活動で損耗が伴うような状態であった[354]。 韓国では、日本軍には水陸並進作戦(日本の陸上軍が首都・漢城へ、さらに逃げる朝鮮国王一行を追って平壌へと進撃するのに合わせて日本水軍は海上を進み朝鮮西海岸を北上して、陸軍への補給をするという作戦)が存在した、とされてきた。 日本軍の水陸併進策があったとされる説を最も早く書いたのは当時、朝鮮王朝で左議政︵副首相︶さらに領議政︵首相︶を務めた柳成龍の﹃懲毖録﹄であろう。 小西行長は明国との国境の鴨緑江の岸・義州に逃れた朝鮮国王宣祖を追って平壌に至り、 ﹁日本の水師十余万が、また西海から到来する。大王の竜御は,ここからどこへ行かれるというのか﹂ と書簡を送ったという。 ﹁思うに賊はもともと水陸の軍勢を合わせて西下しようとしたのである﹂ と、これを以て、柳成龍は日本軍に水陸併進策があったと受け取ったのだと思われる。 しかし、この小西の言葉は外交上︵戦略上︶のブラフ︵ハッタリ︶であろうと思われる[355]。 実際の日本軍の水軍勢は全体でも1万に満たなかった。このあと,明国の遊撃将・沈惟敬は小西に書簡を送って、﹁まもなく40万の明兵が出動し、日本軍の前後を遮断する。今、二人の王子を還し撤退すれば、明日から和議の使節を派遣するだろう﹂と伝えたが,実際に明から朝鮮に派遣された軍勢は4万8千であった︵李啓煌︶。沈惟敬もブラフを使ったのである。こちらの発言は忘れられているのに、なぜ小西の発言のみが独り歩きしたのだろうか。 それは懲毖録の影響ではないかと思われる。李舜臣の海戦を日本軍の水陸併進策の打破と解釈したからだと思われる。 国王に付き添って義州に滞在中の柳成龍にとっては小西の言葉は現実味を帯びた脅迫と感じたのではないか。自分の推薦で全羅左水使に就任した李舜臣の奮闘によってその恐怖が除去されたので、李舜臣の功績を実際より過度に高く評価したのではないだろうか。もしも水陸併進作戦を進めようとするのならば、船手衆の脇坂・藤堂・九鬼・加藤嘉明らを上陸させて内陸部で働かせたりせず、李舜臣の第1次の慶尚道への出撃をまたず、日本水軍から全羅道の海域への航行をおこなっていたのではないか。慶長2年の第二次侵攻のときも、これら船手衆が漆川海戦で大勝したあと、内陸部の南原城攻略に参戦したりせず、一気に全羅道西岸へと進出するのではないだろうか。韓国、そして日本の歴史家や著述家が柳成龍の叙述に準拠してこの戦役を記述して来たのではないだろうか。西海岸だけではなく、東海岸においても、加藤清正・鍋島直茂は咸鏡道へ侵攻していたが,日本水軍が東海岸を北上して補給を行った事実もないし,計画もなかった[355]。 朝鮮半島における補給線については、寸断されずに継続していたとされるが[356]、近年の韓国の歴史学会からは﹁李舜臣が日本軍の補給線を寸断した﹂という主張が行われている︵例・日韓歴史共同研究報告書︵第1期︶・鄭求福発表論文﹃壬辰倭乱の歴史的意味﹄﹁李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。﹂︶ 日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐を経て対馬厳原に到り、対馬北端に位置する大浦などから釜山に着岸して荷を下ろし、その後は陸上を漢城に向かうというものであった。この補給路を朝鮮水軍が寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのものを占領奪還するしか方法はなかった。しかし、実際のところ李舜臣が釜山の海上封鎖を行ったことはなく、釜山前洋に現れること自体殆ど無かった。閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり、釜山近くに現れることは殆ど無かった。一度だけ釜山に現れたのが天正20年8月29日︵明暦9月1日︶の釜山浦海戦であった。李舜臣は釜山と日本本土の海上補給路を分断する必要を痛感しており[357][358]、朝鮮水軍の総力をあげて釜山港に強硬突入した。しかし、李舜臣の釜山の占領奪還作戦は失敗し、日本軍の補給路を寸断することはなく退却した[357][359]。たった一日の数時間の出来事であり継続性が無く、この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることも二度と無く、日本軍の補給路は堅持され安泰であった[357]。 日本軍の補給の状況を示す資料も多数存在する。 漢城在陣諸将が文禄2年3月3日に発した連署状には、海路、釜山には兵糧は運ばれており、4月11日までは漢城に兵糧があることが書かれている[360]。 文禄2年4月、日本軍は漢城を引き払い、朝鮮南部に再布陣する。ルイス・フロイスの﹃日本史﹄には、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことが書かれている[361]。 南部への再布陣の後、補給を充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢を開始し、29日、朝鮮側最大の反抗拠点と目された晋州城を攻略した。この晋州城攻略作戦は文禄の役が始まって以来最大の作戦であり、9万を超える軍勢が晋州城とその周辺に投入されている。 晋州城の攻略後、ただちに日本軍は慶尚道南部の沿海部に、現在倭城と呼ばれる多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。ルイス・フロイスの﹃日本史﹄によれば、これらの城郭には、兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達していた[362]。また、この時期、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と、海路、日本から釜山へと渡海している。 文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状には、釜山・加徳島・東萊・竹島︵金海︶等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている[363]。 沿岸の主要港湾には日本式城郭(倭城)が築かれ要塞化されており、日本軍の補給路は頑強に保持される体制が整っていた[357]。 日本と明の講和交渉中(1593年2月以降)にも、李舜臣は倭城群の攻略の為に複数回出撃しているが、最初の関門である熊川倭城を遂に攻略・突破することが出来なかったのである[357]。 慶長の役においても、日本軍の補給路は堅持され安泰であり、制海権を撤退まで維持し続けた[364]。 慶長の役では、漆川梁海戦で元均麾下の朝鮮水軍が壊滅的打撃を被った後、李舜臣が三道水軍統制使に復帰し、朝鮮水軍の指揮をとるが、以後一度も釜山近郊に現れていない。鳴梁海戦の後も李舜臣が根拠地としていた場所は全羅道西方の古今島であったが、そこから東の順天から釜山のおよそ140kmに及ぶ沿岸は日本軍の制圧下にあり、海岸には多くの倭城が築かれていた。朝鮮水軍が釜山に到達することは困難であった。 李舜臣率いる朝鮮水軍は、日本軍が占領し倭城を築いた地域よりも東へは進出することが出来ず、一度も釜山の前洋に現れなかった。釜山の日本軍の補給路は寸断されることなく安泰であったのである[364]。 しかし、朝鮮水軍が一度だけ釜山の前洋で日本軍の補給線を妨害したことがあった。慶長の役の初頭、文禄の役後の講和交渉の進捗で日本軍が巨済島から撤収していた。この影響で、元均率いる朝鮮水軍は巨済島を停泊地にして釜山前洋に進出することが可能であった。しかし効果を挙げる間もなく元均麾下の朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍の逆襲を受け壊滅的打撃を被り、補給線妨害作戦はここに終決した[357][365]。 慶長3年3月13日に豊臣秀吉が朝鮮在番の諸将に発した書状には、﹁兵糧を日本の都へ届けるよりも、その方︵朝鮮︶に届けるほうが容易である﹂と書かれている[366]。 秀吉の死後、五大老の命令により、日本軍は撤退を開始する。1598年11月下旬から、諸大名は順次、釜山から博多へ帰着した。最後まで海上補給路が維持されていたからこそ可能な撤退作戦であった[364]。 7年に亘る戦争の間、大軍の海上輸送と揚陸、海岸の拠点・海上補給路の構築と長期間の維持という渡海作戦は成功を収めていたのである[364]。軍事力と軍事情勢[編集]
以下、関係国の軍事力を記す。なお、当時の各国の人口は、1600年の時点で、日本は2200万人、朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人であったと推測されている︵歴史上の推定地域人口参照︶[367]。またイベリア帝国︵スペイン・ポルトガル︶は1050万人、オランダは150万人、ブリテン諸島全体で625万人であった[368]。日本軍[編集]
動員数 秀吉は、侵攻軍と予備軍の宿営地として新たに建設した名護屋城に軍隊を集結させた。 ●文禄の役の動員は、9軍団に分かれた総勢158,000人で、その内の2軍団21,500人は予備[注 80] として、それぞれ対馬と壱岐に駐屯した。これに諸隊︵播磨三木の中川秀政ほか︶の12000人、水軍9200人、石田三成ら奉行7200人が後詰めとして名護屋に在陣し、渡海軍と待機軍とを含めると、総計187100人であった[256]。 ●慶長の役では141,500人[294] が動員された。 ただし、これらは諸大名に賦課された軍役の動員定数であって動員実数はその8割程度ともいわれ[369]、日本軍の動員数には人夫や水夫など非戦闘員が含まれており(文禄の役における島津勢では非戦闘員が全数の四割以上を占めていた[370])、留意が必要である。 ほかに、20万5570余りの兵が高麗へ渡り、名護屋在陣は10万2415兵で、総計30万7985兵で陣立てされたという﹃松浦古事記﹄による記録もある[371]。 武器・装備 15世紀中頃から日本は長い内戦状態︵戦国時代︶にあったため、豊臣秀吉の指揮下には実戦で鍛えられた50万人の軍隊がいる状態となっており、これは洋の東西を通じて明と並ぶ当時最大規模の軍隊であった。1543年の鉄砲伝来で日本に持ち込まれた火縄銃は、その後直ぐに国産化され独自に瞬発式火縄銃に改良され日本国内で普及していた。当時の貿易取引書からの推計で戦国時代末期には日本は50万丁以上を所持していたともいわれ、当時世界最大の銃保有国となっていた[372]。なお、当時の日本の武士人口は200万人であるのに対して、イギリスの騎士人口は3万人であった[373]。 日本軍は歩兵︵足軽︶が中心で火縄銃と弓を組み合わせて使用し、接近戦用には長槍、乱戦用には日本刀を用いた。火縄銃は、六匁筒が標準であった日本国内の戦で用いるには威力不足な弾丸重量二匁半︵約9.4グラム︶の安価で大量生産のできる比較的小口径のものが主に用いられ、大筒や大鉄砲を含む装備銃砲数のおよそ7割をこの二匁半筒が占めた[注 81]。火薬の原料である硝石を輸入に頼っていた当時の日本では、大口径の砲は火薬を大量に消費するので攻城戦で使われる程度で野戦では余り使われなかった。 戦争の初期、日本軍は500メートル以上の最大射程を持ち[注 82]、弓矢よりも貫通力のある火縄銃の集団使用によって優位に立った。当時の朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録によれば、日本の火縄銃の射程や命中率は朝鮮の弓(射程約120メートル)の数倍であったという[374]。本来の日本の火縄銃の用法は、西洋における戦列歩兵による弾幕射撃とは異なり狙撃型のものであり、射撃開始距離も1町︵約109メートル︶程度であったとされるが、朝鮮においてはより遠距離からの射撃戦が行われる傾向にあり、遠距離射撃による精度の低下を補うために、一斉の集中射撃も行われた。しかし、戦争の末期になると朝鮮と明も鹵獲した日本製火縄銃やそれを模造したものを採用して使用数を増やし対抗した。 日本の騎兵は槍や、馬上用の小型銃を装備していた。しかし、日本では戦国時代に銃の集団射撃に対する騎兵の脆弱性を経験していたため、騎兵の使用は減りつつあった。 日本水軍は安宅船は一部の上級指揮官の乗船などに限られ、中型の関船や小型の小早による機動性の高い戦闘を主戦法とし、接舷切り込みによる白兵戦指向で、可能であれば敵船を鹵獲する傾向があった。なお、当時の世界の海戦としても敵船に体当たりして沈めたり、敵船に乗り込んで鹵獲が常道であった[注 83]。日本水軍の主な任務は食料や兵員の輸送であり、船舶には大口径の火縄銃形式である大鉄砲が多く用いられた。明軍[編集]
朝鮮で﹁天兵﹂と呼ばれた明軍は、文禄の役においては、祖承訓率いる5,000人、李如松率いる秋水鏡を含む43,000人が参戦し、さらに碧蹄館の戦い後に劉綎率いる5,000人が増援として新たに到着した。ルイス・フロイスは、平安城を囲んだ明軍の兵力を伝聞として﹁少なくとも20万﹂と記載している[375]。 慶長の役については、最大動員となった慶長3年︵1598年︶9月の蔚山・泗川・順天の三方面同時反攻の際の兵力を、﹃宣祖実録﹄は水軍を合わせ92,100人とし、参謀本部編纂﹃日本戦史 朝鮮役﹄では同じく64,300人としている。また朝鮮の史料﹃燃藜室記述﹄では両役を通しての明の動員数を221,500余人とする。 明の歩兵は、広大な帝国内における多様な戦闘を経験しているため、様々な武器を使用した。飛び道具として弓、三眼銃、火縄銃、南蛮式火縄銃、小火砲、長柄武器として槍、三又、鉄棒、射手の護身用に片手刀、その他に大砲、煙幕弾、手投げ弾などである。しかし、明の火縄銃や南蛮式火縄銃は日本の物と比べ改良が進んでおらず余り役に立たなかった[376]。ルイス・フロイスの記録によれば、明軍の防具は鉄製のため守備力があり、槍も日本刀も通じにくかったとされる[377][注 84]。 しかし、碧蹄館の戦いに関し、朝鮮王朝実録には﹁天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒鋭無敵。﹂という記述があり[275]、李如松軍のために兵糧等の手配もしていた朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録には、﹁李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3-4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった(以下略)﹂とある[378]。このように明軍は日本軍の日本刀に苦しんだようで、日本軍が南原城を陥落させたときの日本・明間の交戦に関して懲毖録では﹁日本兵は、城外にあって二重,三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。たまたま月が明るく、脱出できた者は何人もいなかった﹂とある。日本刀は宋代︵960-1279︶にはすでに中国へ輸出されていたが、軍隊や民間で倭刀及び倭刀術が広く用いられるようになったのは明代︵1368-1644︶からである。明では後期倭寇の頃から、日本兵(倭寇)の日本刀・日本式剣術に苦しめられていたため、明軍では日本式の刀や日本式の剣術が武将の戚継光や学者の茅元儀らによって研究され軍に採用されていた。中国は多くの日本刀を輸入し、日本刀を模した刀も製作された(後に苗刀と呼ばれる)。戚継光の著作﹃紀効新書﹄には﹁此は倭が中国に攻めてきた時わかったことである。彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。倭はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである。日本人には遠くからの鳥銃が有効である。だが日本人は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近まで突っ込んでくる。兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い。その勢いを止められない。日本人の刀捌きは軽くて長く接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ﹂[379]とある。1790年に朝鮮で編纂された武芸図譜通志には、中国の史料を引用する形で﹁(明の戚継光曰く)日本刀は倭寇が中国を侵したときに初めて見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に、我が兵たちは気を奪われ、倭人は一丈余り一躍し、遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手で使用するので力をこめられるためだ。今日でも、(刀だけ)単独で用いては防御できない。ただ鳥銃を兼用すれば防御可能で、賊が遠ければ鳥銃を発射し、近ければ刀を用いる﹂、﹁(明の茅元儀曰く)日本刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない(中略)、倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。戦いのたびに三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない﹂とある。朝鮮軍[編集]
文禄の役の全期間の合計で、朝鮮は172,400人の正規軍を展開し、22,400人の非正規軍がこれを支援した。[380] 朝鮮にも火縄銃に似た火器があったが旧式のものであった。現代でいう﹁大砲﹂に分類されるものもあったが、銅製であり大きい割に威力が低く小型である日本の鉄製の大鉄砲なみの威力であった。宗義智が1589年に使節として朝鮮を訪れた際に進物として火縄銃を贈ったが、朝鮮国王はそれを軍器寺︵武器製造官署︶に下げ渡したのみで[381]、李朝は開戦前にこの新兵器の潜在力を見抜くことができなかった。 朝鮮の歩兵は刀[382]、槍、弓矢などの武器を装備していた。主力武器は弓であったが、当時の朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録によれば、朝鮮の弓の最大射程は120メートル程度であり、日本の弓の140メートル余よりも短かった[注 85]。 更に日本の火縄銃は朝鮮の弓より威力や命中率の点で数倍優れていた。懲毖録には﹁(火縄銃の)遠くまで発射する力と命中させる手際とは、弓矢に数倍する。︵中略︶弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、︵中略︶とても対抗できない﹂︵東洋文庫版283頁︶とある︵当時の朝鮮の歩は約118cm︶。また同書に、尚州での両軍の戦闘においては朝鮮の弓は実射程が100mに満たず︵﹁矢は数十歩で墜ちて﹂東洋文庫版60頁︶日本軍に届かず、開平地の戦闘では火縄銃にアウトレンジされ一方的に損害を被ったことが記されている。また弓を兵士が効果的に使いこなすためには、火縄銃よりも長く困難な訓練が必要であった。このほか、フロイス日本史には﹁火薬鍋︵パネーラ・デ・ポールヴォラ、手榴弾のような兵器︶﹂﹁鉄製の兜﹂﹁丈夫な皮製の防具﹂﹁銅製の小型砲﹂﹁矢をつめて発射する射石砲︵ボンバルダ︶﹂などの記述が見える。朝鮮の騎兵は、対女真用に北方配備されており、乱戦用に殻竿と槍を装備して、遠距離戦用に弓矢を装備していた。朝鮮騎兵の戦闘としては、忠州の戦い・海汀倉の戦いがあるが、いずれも日本軍が勝利している。 朝鮮軍の防具に関して柳成龍が著述した懲毖録に記録が残っている[383]。それによれば、防衛に関する諸臣の一人が﹁賊(日本軍)は槍や刀を巧みに用いるが、我々朝鮮軍にはこれを防御することの出来る堅甲が無いために対抗できないでいるのです﹂と発言したという[383]。さらに、﹁全身を分厚い鉄で見えなくする鎧を作り、それをまとって敵と戦えば、敵は隙が無く刺すことができず、我々が勝てるでしょう﹂と言ったという。これに多くの人々が賛同し、大勢の工匠を集め、昼夜をかけ鍛造したという。 しかし、数日して、重さに耐えきれず身動きも取りにくく使用が難しいことが分かり、計画は中止となったという[383]。朝鮮軍は日本兵の日本刀・剣術に苦しんだ。懲毖録には、臨津江における朝鮮軍の敗北に関して﹁(朝鮮の)軍士たちは敗走して川岸に来たものの渡ることができず、岩の上から川に身を投じたが、それはさながら風に乱れ散る木の葉のようであった。まだ川に身を投じていなかった者には、賊(日本軍)が後ろから長刀を奮って切りかかったが、みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。金命元と韓応寅は、川の北から遥かにこれを眺め、気力を喪失してしまった﹂とある。竜仁における日本軍と朝鮮軍との接触について述べた記事には﹁日が暮れ、賊は、光彦らの緊張がややゆるんだのを見て、白刃をきらめかせ大声をあげて突進してきた。あわてて馬を索して逃げようとしたが間に合わず、みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。(中略)翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった﹂とある。他に﹁わが軍(朝鮮軍)は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵(日本兵)であったので、仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように斬り倒し、死者は数しれなかった﹂という記述もある。ルイス・フロイスの著した﹁日本史﹄には﹁朝鮮人は頭上に振り騎される日本人の太刀の威力に対抗できず﹂﹁日本軍はきわめて計画的に進出し、鉄砲に加え、太刀の威力をもって散々に襲撃したので、朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼(のよう)にして先を争って遁走した﹂という記述がある。1790年に朝鮮で編纂された武芸図譜通志には、﹁我が国(朝鮮)は、︵中国から見て辺鄙な︶海の外に偏っていて、古くから伝わるのは、ただ弓矢の技芸ひとつがあるだけです。剣と槍に至っては、ただその道具があるだけで、捜してもそれらの習得に用いる方法はありません。 馬上一槍などといっても、試場で用いられたことがなく、その使い方も詳細に揃っていません。そのため、剣槍は、その武器自体が放棄されて久しいです。倭と対陣すると、倭はたちまち決死の突進をしてくる。我が軍(朝鮮軍)が槍を持ち剣を帯びていようとも剣を鞘から出す暇がなく、槍も切っ先を交えることができず、皆凶刃によってことごとく血を流す。すべて剣や槍の訓練法が伝わらなかったためである﹂とある。また、朝鮮王朝実録によれば、朝鮮軍は、朝鮮側に投降した日本兵(降倭)から、日本式の剣術を学んだという。 朝鮮水軍は、高麗時代から対倭寇を目的に整備され、訓練も行われており、旧式ながら火砲を多く装備していたが、開戦直後から日本には大敗している。朝鮮水軍は板屋船︵戦船︶という日本の安宅船に相当する大型船を用いた。有名ではあるが実体不明の亀船も、この板屋船を改造したものといわれる。他に補助艦船として中型の挟船、小型の鮑作船がある。朝鮮水軍は火器や弓を使っての遠戦指向だったが、朝鮮の火砲は射程が64m-160mと短く[384] 更に不安定な海上の船の上から撃つとなると殆ど目の前まで接近しなければ砲弾を命中されられず、朝鮮の艦隊が日本船からの火縄銃・弓矢などによる反撃の射程外から日本船を撃破できたわけではない。朝鮮水軍が兵数で圧倒的に有利であった閑山島海戦においても交戦距離は100mに満たない距離で戦われている[385]。また、朝鮮の火砲は、鉄弾、石弾を複数込めて散弾の形で使うこともあったが、基本的には火箭︵火矢︶を撃って敵船を焼き討ちすることを主眼としていた。朝鮮の国防態勢[編集]
当時の朝鮮と明に対する主な軍事的脅威は、女真や北方騎馬民族、倭寇であった。女真は北の国境地帯で襲撃を繰り返し、倭寇は沿岸部や貿易船を襲撃して掠奪していた。倭寇に対抗するため、朝鮮は水軍を養成し、倭寇の基地の一つであった対馬を攻撃した︵応永の外寇︶。また、女真に対しては、図們江に沿って防衛線を構築した。この間、朝鮮では比較的平和が保たれていたため、朝鮮軍は要塞と軍船に偏重した編成となっていた。高麗王朝の間に火薬が導入され、朝鮮では火砲が開発されており、これが海戦では大きな威力を発揮し、日本軍との海戦における朝鮮優位につながった。また、室町時代から戦国時代にかけての日本は内乱状態であったため、朝鮮側は倭寇を別とすれば、日本を大きな軍事的脅威とは見なしていなかった。秀吉が日本を統一し、1588年の刀狩、海賊停止令により倭寇は終息に向かったが、朝鮮側は秀吉の侵攻も倭寇による襲撃の延長線上程度にしか考えていなかった。 1583年、学者で名の高かった当時の兵曹判書︵現在日本の防衛大臣に当たる︶李珥は全国の兵力を100,000人に増員するよう朝廷に進言したが[注 86]、李珥は西人派であったため、当時の政権を握っていた東人派︵柳成龍が領袖︶はこの提案を却下。1588年には南部沿岸の20の島を武装する提案が地方長官から出されたが却下された。1589年に軍事訓練所が設置されるが、若すぎるか、老兵ばかりを採用し[注 87]、その他に冒険好きの貴族と、自由を求める奴婢階層がいるのみであった。1590年には釜山港湾の要塞化案も出されたが、却下された。日本の侵攻がますます現実味を帯びてきて、この問題について文官柳成龍が立場を変えた後も、政治的な権力争いのための論争が行われるばかりで、実際の軍備拡張は不十分だった。 また、柳成龍が﹁︵将軍が︶百人いても誰も兵の訓練方法を知らない﹂と嘆くほど、朝鮮の軍人は軍事的知識よりも社会的な人脈によって昇進が決定されていたといわれ、軍隊は組織が緩み、兵士はほとんど訓練されておらず、装備も貧弱で、普段は城壁などの建設工事に従事していた。官僚制の弊害も指摘される[注 88]。 一般的に朝鮮の城塞は山城で、山の周りに蛇のように城壁をめぐらせるものであった。城壁は貧弱で、︵日本や西洋の城塞のような︶塔や十字砲火の配置は用いられておらず、城壁の高さも低かった。戦時政策としては、住民全員が近隣の城へ避難する事とし、避難しなかった住民は敵に協力する者とみなすとされたが、多くの住民にとって城は遠すぎた。両班私軍[編集]
戦争初期に郭再祐が私兵を徴募した。武装集団は一部の地方で労役や戦闘に参加した。両班の私兵は主に朝鮮正規軍の敗残兵、常民出身、両班が所有する奴婢、李朝社会では賤民と見做されていた僧兵から構成された。 文禄の役の間、朝鮮半島の中では全羅道だけが侵攻を免れた地域として残されていた。各地で敗走した朝鮮軍が全羅道へ集まり、10万を超える軍を擁していたためであり[386]、その後も敗残兵が全羅道へ集まる傾向は続いた。 郭再祐の挙兵は反乱と見なされ、朝鮮官軍との間で戦闘が起こっている。朝鮮の民衆は、朝廷から課される築城などの土木工事、武器・兵糧の運搬などの労役[387] を厭った。李朝朝廷は郭再祐に対して官職を授ける措置をとり官軍の補助を認めたが、一方で李朝朝廷は郭再祐軍を巡察使等の指揮下において統制した。しかし、文禄の役後の休戦期間に郭再祐軍の漢城襲撃で、李朝朝廷はその危険性を認識し統制を強め、末期には官軍に組み入れられ独立した部隊ではなくなった。 戦後、いわゆる義兵は不遇であった[注 89]。影響[編集]
周辺国への影響[編集]
結果的には朝鮮一国を侵犯したに留まったものの、そもそもこの戦役は明国征服を目的として始まっており、唐︵中国︶・天竺︵インド︶・南蛮に至ると構想された世界進出についても、秀吉は早い段階から言及していた。これらは誇大妄想として評価されることも多いが[389]、東アジアの国際情勢の変化を感じ取っており[390]、﹁入貢か征伐か﹂という二者択一を迫っていた相手は実際に遥か南方の諸国にも及んで、秀吉の狙いは明や朝鮮に限られたわけではなかった。それぞれの国の対応や経緯をまとめる。琉球王国[編集]
天正10年︵1582年︶6月7日、中国大返しに先立って毛利と和睦したため、配下の武将亀井茲矩に約束していた出雲の国での加増が不可能となったので別の場所を所望するようにと秀吉が述べたところ、茲矩は光秀討伐後は国内は皆閣下に靡くであろうから日本において望むべき所はないので﹁願わくば琉球を賜らん﹂と返答した。秀吉はこれを喜び、金扇の表に﹁亀井琉球守殿﹂と書き裏に署名してこれを与えた。以後、彼は柴田勝家滅亡の頃︵天正11年︶や小牧長久手の頃︵天正12年︶の書状では亀井琉球守として署名していた[391]。文禄元年、茲矩は琉球国を賜ったわけであるから今度は﹁琉球伐使﹂朱印が欲しいと願い出て、秀吉はやむを得ずこれを許可した。茲矩は出征して活躍したが、戦闘中に大事な金扇を落としてしまい、これは後に李舜臣の手に渡った[391]。出征後は僚友となった島津氏を慮ってか、茲矩は琉球守をではなく中国の地名の﹁台州守﹂を名乗るようになった。 琉球王国は明の冊封国であったものの、当時はまだ独立を保っていた。九州征伐後、秀吉は島津氏を介して琉球へ服属入貢の要求を行い、天正16年︵1588年︶以後複数回要求を繰り返した。琉球は、秀吉の征明軍に加勢せよとの命令を公には拒否したが、実際には日本軍への補給に協力し、島津義久は琉球王に名護屋城築城や遠征の加勢はしないでいいから、代わりに金銀米穀を送るように命じた[392]。しかし他方では、同時に明の臣下でもあった琉球は、日本側には秘密裏に、事前に中城王子を明に派遣して秀吉の征服計画を通報しており、明からも出兵に対して先導役を命じられていた。インド(印度)[編集]
スペイン領フィリピン[編集]
台湾(高山国)[編集]
日本国内情勢への影響[編集]
出兵前後に生じた影響[編集]
留守中の大名領地に太閤検地が行われ、豊臣政権の統治力と官僚的な集団が強化された。しかし戦後にはこの戦争に過大な兵役を課せられた西国大名が疲弊し、家臣団が分裂したり内乱が勃発する大名も出るなど、かえって豊臣政権の基盤を危うくする結果となった。 また、出兵に必要な武器・弾薬・兵粮・戦夫の多くは大名の負担であり、その負担は直接出陣していない領内の家臣や百姓に転嫁されただけでなく、実際の戦夫として百姓の動員が行われた。このため、農村では動員に抵抗する動きが発生し、また一度動員されて朝鮮半島に送られた戦夫の中にも逃亡して秘かに日本に逃げ帰るものもいた。文禄2年に西生浦倭城にいた加藤清正が1通の書付を見つけた。それは領国・肥後の百姓から清正に随行している人夫に充てて記されたもので、﹁今なら集団で肥後に逃げ帰っても代官の改めもないあり様なので逃げ帰るのなら今だ﹂という内容で、百姓の抵抗が留守の代官まで巻き込むものになっていることを示すものだった。帰国した清正は夫役の免除などを行って民心の安定を図るものの、豊臣政権の分裂の影響で有名無実となり、財政難の克服と農村再建が重くのしかかることになる[399] が、出陣した大名が多かれ少なかれ直面した問題であった。 一方で、諸大名中最大の石高を持ちながら、九州への出陣止まりで朝鮮へ出兵しなかった徳川家康が隠然たる力を持つようになった。西国大名が出兵で疲弊した一方で、損耗を免れたことが徳川家康が後に天下を取る要因の一つとなった。 五大老の筆頭となった家康は秀吉死後の和平交渉でも主導権を握り、実質的な政権運営者へとのし上がってゆく。この官僚集団と家康の急成長は、豊臣政権存続を図る官僚集団︵主に石田三成︶と次期政権を狙う家康との対立に発展し、関ヶ原の戦い慶長5年︵1600年︶に至った。戦いに圧勝した家康は日本国内で不動の地位を得、慶長8年︵1603年︶に朝廷より征夷大将軍に任ぜられ徳川幕府を創設した。さらに家康は大坂の陣慶長19-20年︵1614-1615年︶で豊臣氏を滅亡させることで徳川氏による国内覇権を確立、江戸時代が始まった。 また、出兵に参加した大名たちによって連れてこられたり、大名と雇用関係を結んだりして自ら来日した朝鮮人から様々な技能が伝えられた。朝鮮人儒学者との学問や書画文芸での交流、そして陶工が大陸式の磁器の製法、瓦の装飾などを伝えたことで日本の文化に新たな一面を加えた。その一方、多くの朝鮮人捕虜が戦役で失われた国内の労働力を補うために使役され、また奴隷として海外に売られたこともあった[400]。 慣れない異国の戦争は後の台湾出兵・日清戦争と同様に戦死者以上の戦病死を発生させた。文禄二年二月五日付島津義久や吉川広家に宛てた秀吉朱印状には、これまで動員した船頭・水夫の大半が病死したため、浦々から15歳から60歳までの水夫を動員することを命じている[401]。同年四月十二日付渡海諸将宛秀吉朱印状にも病が蔓延しているので医師20人を派遣するとある[402]。陸でも同年七月二十一日付伊達政宗書状には腫気という病を得た者は十人中九人が亡くなったとし、また同月二十四日付書状には水の違いで多くの者が病死したとある[403]。ルイス・フロイスの調査によれば、文禄の役で渡海した十五万人の内、死亡者は五万人、その殆どは過労死・餓死・凍死・病死であった[404]。大名に限っても豊臣秀勝・加藤光泰・戸田勝隆・長谷川秀一・五島純玄・島津久保が渡海先で、もしくは渡海先で病を得て帰国後に病死している。江戸時代における影響[編集]
豊臣政権を倒した徳川氏の江戸幕府治下における朝鮮出兵に対する見方は林羅山の﹃豊臣秀吉譜﹄が鶴松の死による狂気にみたように否定的な見方が強かったが、一方で朝鮮通信使を江戸幕府への﹁朝貢使﹂と位置付けて、朝鮮出兵をその前提として解釈する流れも存在した。堀正意の﹃朝鮮征伐記﹄や山鹿素行の﹃武家事紀﹄はこの流れを汲んでいる。また、国学における本居宣長の﹃馭戒慨言﹄も同じ路線に立つが、こうした主張は﹁日本の武威﹂を強調するとともに、江戸幕府による朝鮮出兵の後処理を単なる平和回復ではなく、幕府によって朝鮮の再服属化と三韓征伐の約束である朝貢が回復されたとする認識によるものである[405]。なお、本居は出兵の失敗の原因として秀吉の敬神の欠如と朝鮮での無益な民衆殺害が原因であったとしている[406]。 18世紀末期から19世紀初頭にかけてロシアの南下が警戒され始めると、朝鮮が朝鮮出兵の報復のためにロシアと組んで日本を攻撃するのではという噂が流れ、文化露寇を扱った南豊亭永助の﹃北海異談﹄には朝鮮出兵を対ロシア戦の参考にすべき先例として取り上げるだけではなくロシアと朝鮮による挟撃を警戒する記述が記されたり、﹃絵本太閤記﹄・﹃絵本朝鮮軍記﹄など朝鮮出兵に関する本が出されたりした[407]。 天保年間には川口長孺によって﹃征韓偉略﹄が著される。川口は中国や朝鮮の史料も参照しながら事実関係を考証しているが、一方で﹁日本の武威﹂を強調している[408]。 三韓征伐と朝鮮通信使を結びつけた朝鮮を朝貢国とする認識や朝鮮出兵が日本の武威を示したとする認識は、19世紀の欧米の軍事的圧力の中で秀吉による朝鮮出兵に対する評価を肯定化させ、幕末に至って征韓論へと転換する要因となる[405][408]。 また、朝鮮出兵が比較的新しい歴史的事件として、あるいは﹃懲毖録﹄・﹃征韓偉略﹄などを読んだ読後の感想として文人たちの間で朝鮮出兵を題材にした多くの漢詩が詠まれ、代表的なものに荻生徂徠の﹁寄題豊王旧宅﹂や菅茶山の﹁寄竹山先生﹂︵中井竹山の学識を秀吉の武力よりも上と評した際に朝鮮出兵の失敗を引き合いに出す︶、伊藤東涯の﹁復軒詞宗従予借懲毖録。頃寄瑤音、卒和謝之﹂、大槻磐渓の﹁読征韓紀﹂などがあげられる[408]。開国後の大陸進出への影響[編集]
江戸時代末期・明治時代の開国により大陸情勢への関係が不可避なものとなると、当時の武将達が三韓征伐を想起したように、秀吉の朝鮮出兵も注目されるようになり、大陸進出は豊臣秀吉の遺志を継ぐ行いだと考えるものも多くなった。韓国併合が成った際、初代総督寺内正毅は﹁小早川、加藤、小西が世にあれば、今宵の月をいかにみるらむ︵秀吉公の朝鮮征伐に参加された小早川・加藤・小西の諸将が今生きていれば、朝鮮を日本のものとしたこの夜の月をどのような気持ちでみられるだろうか︶﹂と歌を詠み、外務部長だった小松緑はこれに返歌して、﹁太閤を地下より起こし見せばやな高麗︵こま︶やま高くのぼる日の丸︵太閤殿下を蘇らせ見せ申し上げたいものだ、朝鮮の山々に高く翻る日の丸を︶﹂と歌い、韓国併合が成ったことを喜んだ。明への影響[編集]
朝鮮への援兵を、同時期に行われた寧夏の哱拝の乱、播州の楊応龍の乱の2つの反乱の鎮圧と合わせて、﹁万暦の三大征﹂と呼んでいる。﹃明史﹄王徳完伝によると﹁寧夏用兵︵哱拝の乱︶、費八十余万、朝鮮之役七百八十余万、播州之役︵楊応龍の乱︶二百余万﹂、﹃明史﹄陳増伝には﹁寧夏用兵︵哱拝の乱︶,費帑金二百余萬。其冬。朝鮮用兵,首尾八年,費帑金七百余萬。二十七年,播州用兵︵楊応龍の乱︶,又費帑金二三百萬﹂とあり、数字に違いはあるが、万暦の三大征の中でもこの戦役が哱拝の乱と楊応龍の乱とは比較にならないほど財政上に大きな負担であったと認識されていたことが窺える。 これらの膨大な軍事費の支出および戦死者[注 7]を出したことと皇帝万暦帝の奢侈は明の国力を食い潰し、17世紀前半の女真の強大化に耐え切れないほどの、明の急速な弱体化の重要な原因となったと考えられている。朝鮮半島への影響[編集]
朝鮮半島では不平両班や被差別階級、困窮した農民、盗賊による反乱、蜂起が起きた。および朝鮮軍によるその鎮圧、また朝鮮王朝内部の政争による粛清や処刑などが行われ、朝鮮社会の矛盾が噴出した[409]。 朝鮮は極端に中央集権化が進み階級差別と過酷な搾取によって農民が毎年春には必ず飢える︵﹁春窮﹂︶ほどで、国土の開発も怠っていた。また、流通経済が未発達で民衆の生活は自給自足が基本であり銀などの貨幣による取引が成立せず朝鮮民衆とは物々交換などで食料の調達を行わなければならなかった。戦争が開始されると、朝鮮・明軍・日本軍が食料の現地調達を行った。食料不足と治安悪化のために農民が耕作を放棄することで流民となった。 明軍の兵糧供給は朝鮮側が提供したため[注 96]、朝鮮政府は過酷な食料調達を行った。このため明軍の略奪と合わせて日本軍が侵攻していない平安道も荒廃して人口が激減している。また朝鮮軍より明軍に優先的に食料供給が行われたことから、朝鮮軍の戦意低下は少なからぬものがあった。朝鮮に駐屯した明軍による朝鮮民衆に対する無秩序な略奪なども横行し、朝鮮の民衆は日本を一番の侵略者としながらも、抑圧してきた朝鮮王朝に反乱を起こし、明軍も第二の侵略者であるとして憎んだ。そのため、豊臣軍の首都漢城府に到着より以前に逃亡するために朝鮮王を乗せた馬車が城門から出発より前に、朝鮮の民らが宮殿の中に侵入朝鮮王の財産を入れてあった倉庫を略奪した。それだけでなく、景福宮、昌徳宮、昌慶宮など三つの宮殿と6つの政府建築物など大小官庁に放火した。特に身分差別に苦しんだ朝鮮の下層民は混乱に乗じて、不満を持っていた朝鮮王朝の官庁や身分を示す書類の所蔵倉庫を焼き払ったためとされる。民衆の放火によって煙と炎が空に上り、1ヶ月経っても火災が続いたほどだった。当時、漢城の王宮と官庁が放火された情況を証言した大司諫の李曁は﹁民衆の心を見れば賊の刃よりも残酷だから、とても恐ろしい﹂との記録している[410][411]。李曁は隋の煬帝と唐の太宗の故事を引用しながら、中国の大軍も高句麗に侵攻したが勝てなかった反面に、朝鮮が日本軍の攻勢に無残にやられたことは民心が乱れて離反して久しいし、諸将がうわさだけ聞いても逃走したせいで進撃できなかったためと指摘し、支配層と民衆間の乖離や綱紀の緩みを嘆している。 戦功の証明としてはなそぎも行われたが、当初は日本の国内戦同様に非戦闘員である民衆は保護の対象であり殺戮は禁止されていた。慶長の役においては鼻の数で戦功が計られ、老若男女を問わず非戦闘員も対象とされたとされる。削がれた鼻は軍目付が諸大名から受け取り、塩漬けにした上で日本に送られ、のちに耳塚にて弔われたとされる[412]。朝鮮軍に投降し捕えられた日本の将兵︵降倭︶は当初すぐに処刑されていたが、降倭を利用することを目的として1591年10月に降倭を勝手に殺すことを禁じる命令が出された。以後、降倭のうち砲術や剣術などの技能を有する者は訓錬都監や軍器寺に配属され、降倭からの技能習得が図られた。これにより日本の火縄銃の技術が朝鮮に伝わることとなった。また特殊技能のない降倭は北方の国境警備兵や水軍の船の漕ぎ手とされた。降倭の中には朝鮮王朝に忠誠を誓って日本軍と戦うなどして、朝鮮姓を賜り優遇されて朝鮮に定着する者もいた。 戦役以後、朝鮮では日本に対する敵意が生まれ、平和な貿易関係を望む対馬の宗氏も朝鮮王朝に強く警戒され、日本使節の上京は禁じられ、貿易に訪れた日本人も釜山に設けられた倭館に行動を制限された。一方、朝鮮の両班階層︵支配層︶の間では明の援軍のおかげにより朝鮮は滅亡を免れたのだという意識︵﹁再造之恩﹂︶が強調され、明への恩義を重視する思想が広まり、属国としての立場が強くなった。これは中国との間での朝鮮外交の針路に多大な影響を与えることとなった。 また、文化面でも朝鮮半島に多大な影響をもたらした。唐辛子が文禄・慶長の役の日本軍によって朝鮮半島にももたらされ、キムチ等の韓国・朝鮮料理の礎を築いた。また軍事面では、多くの火器の製造・運用技術が日本人から伝わり、刀剣類についても日本刀を原型とした倭刀等の派生武具が作られた。現在でも多くの城郭跡が朝鮮半島各地に残され日本人による統治の足跡を残している。文禄・慶長の役は現在の朝鮮半島国家︵朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国︶における反日感情の原点とされる。[要出典]。朝鮮と後金・清への服属[編集]
朝鮮と明が文禄・慶長の役によって国力を疲弊させると、女真族のヌルハチが台頭し、1616年までに明からの独立し、アイシン国︵aisin gurun, 金国。後金︶を建国した。1619年の明とアイシン国の戦争であるサルフの戦いで、金は明に勝利する。朝鮮は援軍を明に送っていたが、金に降伏し﹁朝鮮は戦う意志は無く、明の強制的な要請によって援軍を送った﹂と弁明した。ヌルハチはこれを許し、後金は朝鮮侵攻を行わなかった。しかしその後、朝鮮でクーデターが起き、反金・親明政策をとるようになる。1624年の仁祖に対する李适の反乱が起き、すぐ鎮圧されたが、後金に逃げ込んだ反逆者が朝鮮侵攻を進言、ホンタイジが1627年に朝鮮に侵攻する︵丁卯胡乱︶。後金軍が漢城に到達すると、仁祖は降伏し、後金を兄、朝鮮を弟とする兄弟国としての盟約、朝鮮は王族を人質として差し出すことなどが合意された。しかし、朝鮮には反後金感情が強く残った。 1636年に後金が清と国号を変更し、朝鮮に対して清への服従と朝貢、及び明へ派遣する兵3万を要求してきた際に朝鮮はこれを断り、清は12万の軍で朝鮮に侵入した︵丙子の乱︶。朝鮮側は45日で降伏し、朝鮮は以後、清の属国となった。仁祖はホンタイジに対し三跪九叩頭の礼をし、清皇帝を公認する誓いをした︵大清皇帝功徳碑︶。清への服属は日本が日清戦争で清に勝利し、朝鮮が清の冊封体制から離脱する1895年まで続いた。関連人物[編集]
日本側 ●戦いに参加した武将︵名護屋城後詰など、陣立てにある人物は除く︶ 石田三成、大谷吉継、増田長盛、長谷川秀一、木村重茲、加藤光泰、前野長康、浅野幸長、吉川広家、片桐且元、糟屋武則、貴田孫兵衛︵毛谷村六助︶、大石智久、熊谷直盛。 ●その他 グレゴリオ・デ・セスペデス、慶念 明側 ●文禄の役参戦主要武将 祖承訓、宋応昌、李如松、千萬里、李如柏、李如梅、李寧、査大受、楊元、張世爵、沈惟敬 ●慶長の役参戦主要武将 麻貴、楊鎬、劉綎、董一元、陳璘、鄧子龍、邢玠、李如梅、高策、李芳春 朝鮮側 ●王族:宣祖、光海君、臨海君、順和君 ●主要武将・官僚 ●柳成龍、権慄、申砬、李舜臣、元均、李億祺、崔湖、金時敏、郭再祐、姜沆、宋象賢、金誠一 ●その他 鄭希得、ジュリアおたあ、大添・小添、沙也可︵金忠善︶、鄭撥、金命元、惟政、休静、金応瑞、李桓福、李陽元、李英男、桂月香︵伝説的な女スパイ︶、許浚︵王の主治医︶、論介、李参平、鄭起龍、高敬命、趙憲、崔慶会、尹斗寿、尹根寿、李恒福、李徳馨、陳武晟、韓濩、黄慎、百婆仙︵連れて来られた人︶年表[編集]
●天正19年︵1591年︶ 日付はすべて和暦︵旧暦︶ ●1月20日 豊臣秀吉、遠征準備の開始を命令 ●8月23日 秀吉が﹁唐入り﹂の決意公表 ●10月10日 名護屋城の築城普請を開始 ●12月27日 秀吉は関白職を内大臣豊臣秀次に譲って自らは太閤を称す ●天正20年/文禄元年︵1592年︶ ●3月26日 秀吉、朝鮮出陣を︵後陽成天皇に︶上奏 ●4月12日 小西行長、日本軍上陸を開始 - 文禄の役 ●4月13日 釜山鎮の戦い、多大鎮の戦い︵14日まで︶ ●4月14日 東萊城の戦い︵15日まで︶ ●4月16日 梁山城の戦い ●4月17日 鵲院関の戦い ●4月18日 安骨浦・金海城の戦い ●4月20日 慶州城の戦い ●4月24日 尚州の戦い ●4月25日 秀吉、名護屋城に着陣 ●4月27日 忠州の戦い ●4月28日 秋風嶺の戦い ●4月29日 朝鮮国王宣祖の都落ち ●5月2日 漢城府の占領︵日本軍、開戦20日間で攻略︶ ●5月7日 玉浦海戦、合浦海戦・赤珍浦海戦︵8日まで︶ ●5月18日 臨津江の戦い ●5月28日 開城府の占領 ●5月29日 泗川海戦 ●6月2日 唐浦海戦 ●6月5日 龍仁の戦い 第1次唐項浦海戦 ︵6日まで︶ ●6月7日 栗浦海戦 ●6月15日 大同江の戦い︵16日まで︶ ●6月16日 平壌城の占領 ●7月7日 閑山島海戦 ●7月8日 梨峙︵熊峙︶の戦い ●7月9日 安骨浦海戦 第1次錦山の戦い ●7月13日 中和の戦い ●7月16日 第1次平壌城の戦い、明将祖承訓の奇襲失敗 ●7月17日 海汀倉の戦い ●7月29日 第2次平壌城の戦い、金命元の攻撃失敗 秀吉、母大政所の葬儀のために大坂城に帰る ●8月15日 第2次錦山の戦い ●8月19日 第1次星州城の戦い︵20日まで︶ ●8月29日 釜山浦海戦 ●9月26日 昌原の戦い ●10月4日 第1次晋州城の戦い︵10日まで︶ ●10月中旬 第2次星州城の戦い ●10月19日 鉄原の戦い ●10月24日 中川秀政、不慮の戦死[注 97] ●11月1日 秀吉、名護屋城に戻る ●11月10日 咸興の戦い ●11月12日 平山の戦い ●11月中旬 加藤清正、咸鏡道の戦闘︵翌年1月下旬頃まで、北関大捷碑︶ ●11月下旬から1月まで 沈惟敬、日明間で講和交渉 ●12月7日 第3次星州城の戦い︵14日まで︶ ●文禄2年︵1593年︶ ●1月2日 竹内吉兵衛ら使節、順安で生捕らる ●1月5日 第3次平壌城の戦い︵7日まで︶李如松の明軍来援 ●1月7日 小西行長、平壌を脱出 ●1月8日 明軍、平壌城を奪還 ●1月中旬 日本軍再編成、咸鏡道より撤退 ●1月18日 明軍、開城府の奪還 ●1月26日 碧蹄館の戦い、明軍大敗・前進止まる ●2月10日 第1次熊浦︵熊川︶海戦 ●2月12日 幸州山城の戦い 第2次熊浦海戦 ●2月18日 第3次熊浦海戦 ●2月22日 第4次熊浦海戦、朝鮮水軍敗北 ●2月中旬から4月にかけて 戦線膠着 ●3月6日 第5次熊浦海戦 ●3月10日 秀吉、漢城府の放棄を指示︵4月7日に前線に命令到達︶ ●4月8日 小西行長と沈惟敬、再び講和交渉を始める ●4月18日 日本軍、漢城府から撤収 ●4月19日 明軍、漢城府を奪還 ●4月下旬 日本軍、釜山周辺に移動 ●5月15日 明使、名護屋城に至る ●5月20日 秀吉、晋州攻撃と沿岸に倭城建設を指示 ●5月23日 秀吉、明使に謁見 ●6月14日 日本軍、軍事行動を再開 ●6月21日 第2次晋州城の戦い︵29日まで︶ ●6月28日 秀吉、内藤如安を北京に派遣 ●7月中旬より 日本の諸大名、日本本土への帰還始まる ●7月から9月にかけて 李如松ら明軍主力、半島より撤兵 ●8月3日 豊臣秀頼、生誕 ●8月25日 秀吉、大坂城に帰る ●9月2日 駐留守備隊以外の日本軍撤兵 ●9月3日 宣祖、漢城府に帰る ●12月から翌年1月にかけて 熊川で日明間の講和交渉 ●文禄3年︵1594年︶ ●1月 日本軍諸将の一部、再び渡海 ●3月 内藤如安、遼陽に到着して明朝廷の入京許可を待つ ●3月4日 第2次唐項浦海戦 ︵6日まで︶ ●8月末までに 明軍、半島より全軍撤兵 ●9月29日 場門浦・永登浦海戦 ︵翌10月1日まで︶ ●12月7日 内藤如安、北京に到着して講和交渉 ●12月13日 明の万暦帝、内藤如安に謁見 ●12月30日 明の正使李宗城と副使楊方亨の日本派遣が決定 ●文禄4年︵1595年︶ ●7月15日 秀次切腹事件 ●11月23日 李宗城、釜山の日本軍陣営に到着 ●文禄5年/慶長元年︵1596年︶ ●4月2日 李宗城、釜山より脱走 ●6月14日 楊方亨を正使に昇格し、沈惟敬再訪日 ●7月 朝鮮半島で飢饉発生 ●7月4日 朝鮮の正使黄慎、講和交渉のため来日 ●7月13日 慶長伏見地震 ●9月1日 秀吉、大坂城で明の使節に謁見 ●9月2日 秀吉、明の国書に激怒︵講和交渉決裂・再征の準備︶ ●12月 朝鮮、再び明の軍事援助を請う ●慶長2年︵1597年︶ ●1月14日 帰還した日本軍諸将の再上陸始まる ︵7月頃まで︶ ●2月21日 秀吉、戦役再開を号令 - 慶長の役 ●7月15日 漆川梁海戦、朝鮮水軍大敗 ●8月13日 南原城の戦い ︵15日まで︶ ●8月14日か15日 黄石山城の戦い ︵16日まで︶ ●8月19日 全州城を占領 ●8月24日 全州城を破却 ●9月7日 稷山の戦い 朝鮮の世子、再び漢城府から避難 ●9月16日 鳴梁海戦 ●12月22日 第1次蔚山城の戦い ︵翌年1月4日まで︶ ●慶長3年︵1598年︶ ●1月2日 蔚山城へ日本の援軍到着 ●2月頃 戦線膠着 ●3月中旬 秀吉、蔚山城・順天城・竹島城の固守を厳命 ●8月18日 秀吉、伏見城で死去 ●9月4日 四大老[注 98]、連署で明軍との和議を指示 ●9月19日 順天城の戦い ︵10月9日まで︶ ●9月20日 第2次蔚山城の戦い︵10月7日まで︶ ●9月27日 泗川古城の戦い ●10月1日 泗川新城の戦い ●10月3日 順天海戦 ●10月15日 五大老、連署で撤兵を指示 ●10月下旬 日明間で講和交渉 ●10月25日 日明間で休戦成立︵人質を交換︶ ●10月31日 小西行長・島津義弘、全軍撤退を確認 ●11月 明軍、秀吉の死を知り、休戦を反故とす ●11月15日 日本軍、撤兵を開始 明将陳璘、人質を出すが兵を退かず ●11月18日 露梁海戦 ●11月19日 小西行長、巨済島に無事脱出 ●11月20日 島津義弘、南海島で小西隊と合流 明軍、泗川城・順天城・蔚山城を占領 ●11月23日 加藤清正ら、蔚山より帰還 ●11月24日 毛利吉成、釜山より帰還 ●11月25日 小西行長らが釜山より帰国して遠征終了 ●慶長4年︵1599年︶ ●7月 対馬の斡旋により朝鮮に使節の交換を要求 ●慶長5年︵1600年︶ ●4月 宗義智、朝鮮に修好の諭す ●6月19日 釜山に停泊中の明・朝鮮水軍が台風に遭って陥没 ●8月6日 明の万暦帝、朝鮮より完全撤兵を命令 ●9月27日 朝鮮駐留の明軍撤兵史料[編集]
- 日本側資料(一次および二次)
- 小瀬甫庵『太閤記』(吉田豊訳『太閤記』1-4、教育社新書)
- 小西行長軍の従軍僧天荊の『西征日記』[3](『続々群書類従』所収)
- ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇2』
- ジャン・クラッセ『日本西教史 上・下』
- 「普聞集」(鍋島直茂 の従軍僧是琢による記録 [4])
- 『松浦法印征韓日記抄』[5]
- 『松浦古事記』[6](下記の『松浦叢書』にも収録)
- 『宗氏家譜』
- 『宇都宮高麗帰陣物語』
- 『朝鮮記』(太田一吉の家臣大河内秀元著)
- 『高麗陣日記』(太田牛一著)
- 『朝鮮日々記』(臼杵城主太田一吉に仕える安養寺の医僧慶念の慶長の役従軍日記。大分県立図書館Q&A)
- 『清正高麗陣覚書』黒川真道編
- 『朝鮮南大門合戦記』黒川真道編
- 『朝鮮征伐記』(堀正意)(萬治堀本)
- 『朝鮮征伐記』(大関定祐)(大関本)
- 『征韓偉勲録』[7]
- 『元親記』・『土佐物語』長宗我部元親に関する記録
- 明側資料
- 明『神宗実録』
- 朝鮮側資料
- 『乱中日記 壬辰倭乱の記録』(1-3、平凡社東洋文庫、2000年-2001年。北島万次訳)
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
國初, 有僧人無學讖記, 歷言國家事, 壬辰年則曰: “缶聳雲根, 潭空月影, 有無何處去, 無有何處來” 云云。自戊子己丑年間, 行于世, 至壬辰盛行, 人莫能解其語。及倭寇卒至, 朝廷遣巡邊使申砬禦之, 砬到忠州敗軍, 全軍更沒於月落灘。所謂岳卽維缶降申也, 聳立也, 雲根石也。潭空月影, 卽月落灘溺死之言也。
—宣祖實録宣祖25年4月30日
變初, 以申砬爲都巡察使, 領大軍, 禦賊于鳥嶺。砬不爲據險把截之計, 迎入於平原廣野, 左右彌滿, 曾未交鋒, 而十萬精兵, 一敗塗地。遂使京城不守, 乘輿播越, 痛哉
—宣祖実録・^ 徳富 1935, pp.375-378。参謀本部 1924, pp.162-165。朝鮮史編修会 1937, p.440 ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館42頁 ・^ 参謀本部 1924, p.160。朝鮮史編修会 1937, p.443、452 ・^ 徳富 1935, pp.369, 392-396。参謀本部 1924, p.160 ・^ 徳富 1935, pp.386-392 ・^ 朝鮮史編修会 1937, pp.441-442 ・^ 柳 & 長野 1921, p.37 ・^ 朝鮮史編修会 1937, p.442 ・^ 徳富 1935, p.402。柳 & 長野 1921, p.37 ・^ 朝鮮史編修会 1937, pp.442-443 ・^ 朝鮮史編修会 1937, p.444 ・^ 徳富 1935, p.401。朝鮮史編修会 1937, p.441。柳 & 長野 1921, pp.36-37 ・^ 柳 & 長野 1921, p.41 ・^ 徳富 1935, pp.403-404。朝鮮史編修会 1937, pp.444-445 ・^ 柳 & 長野 1921, p.42 ・^ 徳富 1935, pp.404-405 ・^ 徳富 1935, pp.403-405。朝鮮史編修会 1937, pp.445-446 ・^ ﹃宣祖修正實録﹄二十五年(1592)四月晦日 ・^ 李曁﹃松窩雑説﹄"大駕纔出國門, 兇賊未入之前, 都中之人爭入内帑, 府庫之物互相奪取。三闕及六部大小公廨, 一時衝火烟焰漲天, 彌月不絶。" ・^ 徳富 1935, pp.405-406。朝鮮史編修会 1937, p.446 ・^ Turnbull 2002, pp.65-6 ・^ abcTurnbull 2002, pp.67-68 ・^ 徳富 1935, pp.406-408。朝鮮史編修会 1937, pp.446-447。柳 & 長野 1921, pp.42-43 ・^ 徳富 1935, pp.409-410。朝鮮史編修会 1937, p.448 ・^ 徳富 1935, pp.411-412。朝鮮史編修会 1937, pp.448-449 ・^ 徳富 1935, pp.412-414。朝鮮史編修会 1937, pp.449-450 ・^ 徳富 1935, pp.422-425。参謀本部 1924, pp.166-67 ・^ 徳富 1935, pp.429-431。参謀本部 1924, p.167 ・^ 柳 & 長野 1921, pp.44-45。徳富 1935, pp.428-429。参謀本部 1924, p.167 ・^ 参謀本部 1924, pp.167-168 ・^ 北島 2007, [要ページ番号] ・^ 徳富 1935, pp.422-431 ・^ ab徳富 1935, p.425 ・^ 出典︵韓国の国家機関国史編纂委員会が管理︶人心怨叛,與倭同心耳 我民亦曰‥倭亦人也,吾等何必棄家而避也 ︵人心は怨み叛き、倭に同調するのみ。我が民は言った﹁倭もまた人である。どうして我々が家を捨てて逃げる必要がある?﹂︶—『宣祖實録』二十五年(1592) 五月壬戌・^ 徳富 1935, pp.434-435 ・^ 徳富 1935, p.439 ・^ ab徳富 1935, pp.441-442 ・^ 徳富 1935, pp.500-501 ・^ 参謀本部 1924, pp.168-169 ・^ 三笠保存会 編﹃国立国会図書館デジタルコレクション 大日本海軍戦史談﹄三笠保存会、1930年。 ・^ 参謀本部 1924, p.412 ・^ 朝鮮史編修会 1937, pp.453-454 ・^ 徳富 1935, pp.506-507。朝鮮史編修会 1937, pp.453-457 ・^ 朝鮮史編修会 1937, p.454 ・^ 朝鮮史編修会 1937, p.457 ・^ 全文あり。徳富 1935, pp.445-453 ・^ ab辻 1942, pp.411-415 ・^ 徳富 1935, pp.352-353 ・^ 全文あり。徳富 1935, pp.453-460 ・^ 徳富 1935, pp.465-476 ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 167–168. ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 168–169. ・^ abcdeTurnbull, Stephen. 2002, pp. 116-123. ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 181–182. ・^ abcde旧参謀本部 1995, p. 182. ・^ 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旧参謀本部 1995, p. 184. ・^ 朝鮮史編修会 編﹃朝鮮史. 第四編第九巻﹄︿朝鮮総督府﹀530頁 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 183. ・^ 中野等﹃文祿・慶長の役﹄︿吉川弘文館﹀83頁 ・^ 中野等 ﹃文祿・慶長の役﹄︿吉川弘文館﹀83頁 ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 87, 185. ・^ abc旧参謀本部 1995, p. 190. ・^ ab旧参謀本部 1995, p. 191. ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 191–192. ・^ abc旧参謀本部 1995, p. 192. ・^ 旧参謀本部 1995, p. 194. ・^ abcde[1] ・^ 国史大辞典、吉川弘文館。 ・^ ﹁釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。﹂李忠武公全書 巻之十三 附録五 ﹃宣廟中興志﹄ ・^ 朝鮮王朝実録﹃李舜臣等攻釜山賊屯, 不克。﹄http://sillok.history.go.kr/id/wnb_12508001_002 ・^ 李舜臣行録 ・^ "八月、李舜臣進攻釜山、鹿島萬戶鄭運死之、舜臣引兵還。" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 ﹃宣廟中興志﹄ ・^ "都元帥金命元使巡察使李元翼、巡邊使李薲率兵進攻平壤, 不克。"﹃俄而賊兵大至, 官軍驚潰, 江邊勇兵多折傷, 三戰皆不利, 退屯本所。﹄朝鮮王朝実録 http://sillok.history.go.kr/id/wnb_12508001_001 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 87. ・^ ﹃加藤清正 朝鮮侵略の実像﹄ ・^ ﹃秀吉の野望と誤算﹄, p. 46. ・^ abcdefg笠谷和比古・黒田慶一﹃秀吉の野望と誤算﹄文英堂, 2000年 ・^ abc旧参謀本部 1995, p. 209. ・^ ﹁懲毖録﹂柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 179頁 ・^ 明史 卷238 "夜半,行長渡大同江,遁還龍山。甯及参將査大受率精卒三千潛伏東江間道,復斬級三百六十" ・^ ﹁我國無一人出撃、天兵又不追之、獨李時言尾其後不敢逼、伹斬飢病落後者六十餘級﹂︵﹃懲毖録﹄。史料稿本による︶、﹁敵は日本人たちを追跡して来なかった。話によると彼らの多くは負傷しており、継続した戦闘で疲労していたし、大軍が移動するのには時間を要した。ことにシナ軍の武器は、前にも述べたように非常に重く、逃亡する敵を追跡するにあたっては迅速、かつ容易に取り扱いかねたのもその理由であった﹂︵﹃完訳フロイス日本史5﹄42章、本来の第3部53章︶ ・^ 明史 卷238 "倭砲矢如雨,軍少卻。如松斬先退者以徇。募死士,援鉤梯直上。倭方輕南面朝鮮軍,承訓等乃卸裝露明甲。倭大驚,急分兵捍拒,如松已督副將楊元等軍自小西門先登,如柏等亦從大西門入。火器併發,煙焰蔽空。惟忠中砲傷胸,猶奮呼督戰。如松馬斃於砲,易馬馳,墮塹,躍而上,麾兵益進。將士無不一當百,遂克之。獲首功千二百有奇。倭退保風月樓。夜半,行長渡大同江,遁還龍山。甯及参將査大受率精卒三千潛伏東江間道,復斬級三百六十" ・^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wna_12601011_013&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= ﹁朝鮮王朝実録﹂1593年1月11日 "是日天兵當陣斬獲一千二百八十五級" ・^ https://sillok.history.go.kr/id/wnb_12601001_002 ﹁朝鮮王朝実録﹂宣祖修正実録 1593年1月1日 "斬獲一千二百八十餘名, 燒殺亦過半" ・^ https://sillok.history.go.kr/id/kna_12603016_006 ﹁朝鮮王朝実録﹂ ・^ https://sillok.history.go.kr/id/kna_12603020_001 ﹁朝鮮王朝実録﹂ ・^ https://sillok.history.go.kr/id/kna_12603020_001 ﹁朝鮮王朝実録﹂ ・^ ﹃懲毖録﹄1979, p. 210頁注7. ・^ 明史/卷20﹃李如松進攻王京,遇倭於碧蹄館,敗績。﹄https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷20 ・^ ab明史/卷238﹃官軍喪失甚多。會天久雨,騎入稻畦中不得逞。倭背嶽山,面漢水,聯營城中,廣樹飛樓,箭砲不絶,官軍乃退駐開城。﹄https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238 ・^ 明史/卷238﹃初,官軍捷平壤,鋒鋭甚,不復問封貢事。及碧蹄敗衄﹄https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷238 ・^ 明史/卷320﹃如松既勝,輕騎趨碧蹄館,敗,退駐開城。﹄https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷320 ・^ 明史/卷322﹃如松乘勝趨碧蹄館,敗而退師。﹄https://zh.m.wikisource.org/wiki/明史/卷322 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 213. ・^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死" ・^ abhttp://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "○宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰:﹃好男兒, 爲我死也。﹄提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰:﹃勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?﹄提督曰:﹃昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。﹄遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。" ・^ ab中野2008, 104頁 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 177. ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 177, 215. ・^ abc﹁懲毖録﹂柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 189頁 ・^ ﹁懲毖録﹂柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 200頁 ・^ The history of Ming chapter 238 聞倭將平秀嘉據龍山倉,積粟數十萬,密令大受率死士從間焚之。倭遂乏食。 ・^ ﹃宣祖修正実録﹄宣祖26年4月条 ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 223, 234. ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館 114頁 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 217. ・^ 旧参謀本部 1995, p. 211. ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 221–222. ・^ 笠谷和比古・黒田慶一同書, 121頁 ・^ 寒川旭﹁秀吉と地震﹂ Archived 2012年7月18日, at the Wayback Machine. ・^ 日本の地震年表参照 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 266. ・^ 豊臣秀吉朱印状︵慶長役陣立て︶ ・^ 豊太閤展覧会 編﹁国立国会図書館デジタルコレクション29慶長再征之役進發人數書﹂﹃豊公余韻﹄白木屋計画部、1939年。 ・^ ab﹃慶長二年陣立書﹄に基づくが、兵站を担当した兵数不詳の寺沢正成を含まない。︵﹃文禄・慶長の役﹄/中野等 192頁︶ ・^ 赤国︵全羅道︶不残悉一篇ニ成敗申付、青国︵忠清道︶其外之儀者、可成程可相動事。﹃慶長二年二月二十一日付朱印状﹄ ・^ 右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割符、丈夫ニ可申付事。﹃慶長二年二月二十一日付朱印状﹄ ・^ 慶長の役で全羅道への進発前には慶尚道へ戻って築城することが決まっていた証拠﹃八月二一日付、藤堂高虎宛、増田長盛書状﹄ http://tokugawa-tokugawa.blogspot.com/2015/12/blog-post.html ・^ ab来年は御人数指し渡され、朝鮮都までも動きの儀、仰せ付けららるべく候。其の意を得、兵糧、玉薬沢山に覚悟仕り、在庫すべく候なり﹃慶長三年三月十三日付朱印状︵立花家文書︶﹄ 度々仰せ遣わされ候ごとく、来年大人数遣わされ働の儀、仰せ付けらるべく候間、其の中いずれの城々も丈夫に在番肝用に候﹃慶長三年五月二十二日付朱印状︵鍋島家文書︶﹄等 ・^ 旧参謀本部 1995, p. 278. ・^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001 "而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。"﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ ﹃日本戦史 朝鮮役﹄/日本陸軍参謀本部 ・^ ab﹁乱中日記﹂ ・^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_004 "賊勢已迫, 京城闊大, 守禦未固, 沿江列守, 其勢最重。安危、成敗, 決於江上, 而但令崔遠守備, 凡事疎虞, 極爲寒心。"﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 大賊衝斥, 將迫都城, 天兵寡弱, 我軍潰散, 今日之事誠可痛哭。﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ ﹃懲毖録﹄柳成龍 ・^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13009009_001# "丙申/提督接伴使張雲翼啓曰:﹃卽刻自稷山戰所回來唐兵說稱: ‘天安、稷山之間, 不意倭賊先鋒, 皆着白衣, 遍野而來, 唐兵等初謂稱朝鮮人, 不爲進逼。 俄而倭先放砲, 唐兵一時跑馬廝殺, 交戰良久, 倭人中箭被棍死者, 幾至五六百, 斬級三十餘顆, 解副摠、楊叅政, 各手斬二級。 而倭賊登山擧白旗, 天安大軍, 卽刻雲集, 衆寡不敵, 各自退守。 解摠兵等四將, 去夜發稷山前來, 唐兵亦多死者云。’ 且提督卽刻發放各營, 使之盡數出陣江邊, 仍爲野營云, 且發令旗, 使擺遊擊, 抄領精兵二千五百, 迎擊於水原之路云。 敢啓。﹄傳曰: "知道。""﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ https://sillok.history.go.kr/popup/print.do?id=wnb_13009001_002&gubun=kor 朝鮮王朝実録 "經理楊鎬使副總兵解生等, 大敗賊兵于稷山。 先是, 賊自陷南原, 乘勝長驅, 進逼京畿。 經理楊鎬在平壤聞之, 馳入京城, 招提督責不戰之狀, 與提督定計, 密選騎士之精勇者, 使解生、牛伯英、楊登山、頗貴領之, 迎擊于稷山, 諸軍及我人皆莫知也。 解生等伏兵於稷山之素沙坪, 乘賊未及成列, 縱突騎擊之, 賊披靡而走, 死者甚多。 又遣游擊擺賽, 將二千騎繼之, 與四將合勢追擊, 又破之。 是日, 經理、提督請上出視江上, 上不得已而行, 人心洶懼, 士庶皆荷擔而立, 內殿避兵西幸, 及捷報至, 京中乃稍定。" ・^ 賊於初十日, 搶掠安城, 進犯竹山境。﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 征韓録 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936356/117 ・^ http://sillok.history.go.kr/id/wna_13009016_002 "今無故忽爲退遁。萬一賊佯若退去之狀, 而天兵墜於其術"﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ ﹁日本戦史・朝鮮役﹂より https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/198 ・^ "明軍44,800人、朝鮮軍12,500人" 旧参謀本部﹃日本の戦史 朝鮮の役﹄︿徳間文庫﹀ 徳間書店、1995年、284頁 ・^ 清正高麗陣覚書 ・^ 蔚山高石城堅甚我師仰攻多損傷﹃明史・朝鮮伝﹄ ・^ 本月二十四日︵和暦二十三日︶平明, 總兵偕 高都督 進兵, 距 蔚山 十餘里駐兵。聞左協之軍, 已爲接戰, 問于摠兵, 則曰: ‘賊有四營, 已破東營, 諸營之賊, 今日必遁云。’ 臣等親進賊營五里許 牛巖山 上望見, 則外城則已破, 但山上有小城, 甚爲堅固, 諸軍不能進。午後, 盡招中協之兵進來, 而日暮不剋接戰。二十五日︵和暦二十四日︶早朝, 諸軍四面薄城, 賊無數放丸, 天兵及我軍, 多數死傷, 而無登城破城之具, 俄而退兵。二十六日︵和暦二十五日︶, 楊經理 招都元帥 權慄 語之曰: ‘今日欲休天兵, 令本國軍兵進攻’ 云, 故 權慄 督諸軍進薄, 賊放丸如雨, 兵多死傷而退。自二十六日︵和暦二十五日︶ 夕下雨, 至二十七日︵和暦二十六日︶終日風雨, 諸軍冒雨進攻。二十八日︵和暦二十七日︶, 亦爲進兵, 死傷如前。二十九日︵和暦二十八日︶, 欲聚柴草, 焚燒賊營, 而天兵及我軍, 死傷甚衆, 不能進到城下, 夜二更退來。﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936355/204 ﹁日本戦史・朝鮮役﹂ ・^ 鎬不及下令,策馬西奔,諸軍皆潰。遂撤兵還王京,士卒物故者二萬﹃明史・朝鮮伝﹄https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7320 ・^ 楊遊撃萬金 , 中丸死於中路﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 千總 麻來 , 中丸身死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 陳遊撃寅 標下千總 周道繼 , 逢丸致死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 李副摠如梅 標下千總 李洞賓 , 中丸而死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 麻提督 標下把總 郭安民 , 中丸致死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 茅遊撃 標下千總 王子和 , 中丸致死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 茅遊撃 標下哨總 湯文瓚 , 中丸致死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 盧遊撃 標下千總 錢應太 , 赴戰中丸, 到王京身死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 張應元 、 陳觀策 等, 中丸致死﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 陳遊撃 乘夜, 先登攻城, 右臀中丸﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 陳遊撃寅 、 楊遊撃萬金 、 陳 遊撃 愚沖 , 竝中鐵丸﹃朝鮮王朝実録・宣祖実録﹄ ・^ 旧参謀本部 1995, p. 298. ・^ ﹃朝鮮宣祖実録﹄三十一年(1598)二月二日 ・^ ab朝鮮王朝実録 31-10-12-5 http://sillok.history.go.kr/id/kna_13110012_007 ・^ 麻貴至蔚山頗有斬獲倭僞退誘之貴入空壘伏兵起遂敗﹃明史﹄ ・^ ab旧参謀本部 1995, p. 304. ・^ abcd旧参謀本部 1995, p. 306. ・^ ﹃朝鮮宣祖実録﹄三十一年(1598)十月十日 ﹁慶尚道觀察使鄭經世馳啓曰: 董都督初二日、入攻新寨之賊、打破城門、方欲入攻之際、茅遊撃陣中、火藥失火。蒼黄奔救、倭賊望見開門、突出放砲、天兵退遁、致死者、幾七千餘人、軍糧二千餘石、亦不爲衝火而退。伏屍盈野、兵糧、器械、狼藉於百三十里地、提督退還星州﹂ ・^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110008_007 ﹃朝鮮宣祖実録﹄"遂進攻新寨, 以大砲打破城門, 大兵欲入之際, 茅遊擊陣, 火藥失火, 陣中擾亂, 倭賊望見開門, 迎擊左右, 伏兵四起, 大兵蒼黃奔潰, 死亡之數, 幾至七八千, 提督退晋州’ 云矣。" ・^ https://sillok.history.go.kr/id/wna_13110016_003 ﹃朝鮮宣祖実録﹄”泗川之敗, 提督之軍, 過半致死” ・^ 旧参謀本部 1995, p. 308. ・^ ab旧参謀本部 1995, p. 309. ・^ abc旧参謀本部 1995, p. 310. ・^ "是時, 東路天兵二萬四千, 我兵五千五百十四名; 中路天兵二萬六千八百, 我兵二千二百十五名; 西路天兵二萬一千九百, 我兵五千九百二十八名; 水路天兵一萬九千四百, 我兵七千三百二十八名, 共計十餘萬。資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立。" ﹃宣祖実録十月十二日条﹄ ・^ 光成準治﹃関ヶ原前夜﹄日本放送出版協会 (2009) ・^ ﹃柳川市史・史料篇V・近世文書﹄(前編)P.240、佐田家文書A12より、秀包と広門の参戦が判明。 ・^ ab旧参謀本部 1995, p. 317. ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館 254頁 ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館 251頁 ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 314, 316. ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館 251、254頁 ・^ 旧参謀本部 1995, pp. 314, 316–317. ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館 255、256頁 ・^ ﹃日本戦史 朝鮮役﹄/日本陸軍参謀本部393頁 ・^ 看羊録 ・^ 海幹校戦略研究 2013年12月 P129 ・^ 文禄・慶長の役︵壬辰倭乱︶開戦初期における. 朝鮮側の軍糧調達とその輸送. 六反田 豊 ・^ ab小川隆章﹁李舜臣と文禄・慶長の役の海戦に関する考察﹂﹃環太平洋大学研究紀要﹄第20巻、環太平洋大学、2022年3月、83-88頁、CRID 1390573792568771072、doi:10.24767/00000794、ISSN 1882-479X。 ・^ ﹃歴史群像﹄2010年4月号 158頁〜167頁﹁朝鮮出兵渡海作戦﹂学研パブリッシング ・^ abcdef﹃歴史群像﹄2010年4月号 166頁﹁朝鮮出兵渡海作戦﹂学研パブリッシング ・^ "舜臣謂諸將曰、﹁釜山、賊之根本也。進而覆之、賊必失據。﹂遂進至釜山・・" 李忠武公全書 巻之十三 附録五 ﹃宣廟中興志﹄ ・^ "李舜臣等攻釜山賊屯、不克。"﹃宣祖修正実録﹄︵宣祖二十五年八月戊子条︶ ・^ ﹁釜山海之御兵糧も、山坂に而御座候間、五日路六日路、道中届かぬ可申候哉、川に付て船にてのほせ申儀も、今のつなきの御人数にては、難届候由申候・・・・・﹂ ﹃︵文禄二年︶三月三日付・漢城在陣諸将連署状﹄ 日本戦史. 朝鮮役 ︵文書・補伝︶ 文書第100号 ・^ 遊撃とのあいだで上記のような協定がなされると、ほどなく日本軍は朝鮮の都、ならびに他の幾つかの城塞をシナ人に明け渡し、関白から海路輸送されて来た豊富な食料と弾薬がある海辺地帯に退いた。 完訳フロイス日本史5豊臣秀吉篇II P270 ・^ それらの城塞をできるかぎり堅固なものにしようと考え、日本で行うのと同様に、切断しない石を用い、壁も砦も白く漆喰を塗り、天守と呼ぶ高い塔を設け、一城ずつに丹誠を籠め、互いにその出来栄えを競い合った。関白から任命された三名の武将によって食糧と弾薬 ――それらは実に豊富で、一五九五年の九月まで十分持ち堪えることができるほどの量があり、彼らはその分配のために関白から任命されていた―― が分配され終ると、それらの城塞には・・・ 完訳フロイス日本史5豊臣秀吉篇II P276 ・^ 急度被仰出候、被越置候御城米之儀、彌古米ニ不成之様、手前兵糧ニ取替召遣、具数無相違、元程可積置候、釜山浦幷かとかい︵加徳島︶東萊・竹島等ニ有之分、莫大之儀候條、為御奉行、福島左衛門大夫・毛利民部大輔、被仰付候、手前御城米引加、惣人数多少ニ付令割符可積替候・・・ ﹃︵文禄三年︶五月二十四日付・豊臣秀吉朱印状﹄ 日本戦史. 朝鮮役 ︵文書・補伝︶ 文書第175号 ・^ abcd﹃歴史群像﹄2010年4月号 167頁﹁朝鮮出兵渡海作戦﹂学研パブリッシング ・^ 番船唐島︵巨済島︶を居所に仕、日々罷出、日本通船、渡海一切不罷成ニ付而、五人之者申合、唐島へ押寄、昨日十五日夜半より、明末之刻迄相戦、番船百六拾餘艘切取其外津々浦々、十五六里の間、舟共不残焼棄申、唐人数千人海へ追いはめ、切捨申候、・・・ 七月十六日付、四奉行︵前田玄以、増田長盛、石田三成、長束正家︶宛、小西行長、藤堂高虎、脇坂安治、加藤嘉明、島津義弘・忠豊、連署状﹃征韓録﹄ ・^ 兵糧之儀ハ、日本之都へ相届候よりも、其方へは輙候・・・ 三月一三日付、立花宗茂宛、豊臣秀吉朱印状 ︵他に類似の、同日付、朝鮮在番諸将宛、豊臣秀吉朱印状が複数あり︶ ・^ Colin McEvedy and Richard Jones, 1978, "Atlas of World Population History," Facts on Fileによる推計。1500年の時点では日本1700万、朝鮮は400万、明朝は1億1000万、満州は500万。なお鬼頭宏の推計では1600年の日本の人口は、1547万人。﹁人口から読む日本の歴史﹂講談社学術文庫, 2000年, 84頁。歴史上の推定地域人口を参照 ・^ 歴史上の推定地域人口を参照 ・^ ﹃文禄・慶長の役﹄/中野等 137頁 ・^ 文禄の役における島津勢15437人のうち6565人 (43%) が人夫・水夫である。︵﹃歴史群像シリーズ35文禄・慶長の役﹄/学研74頁︶ ・^ ﹃松浦古事記﹄巻之下︵小瀬甫菴道喜撰︶・六 名護屋御陣所の事 [2] ・^ ノエル・ペリン﹁鉄砲を捨てた日本人―日本史に学ぶ軍縮﹂、川勝平太訳、中公文庫、1991年、63-64頁。1569年のイギリス枢密院の調査︵フランスのスパイを通じて後世に伝わった︶では、機密軍24000のうち銃保有数は6000であった。また、1589年にフランスに派遣されたイギリス軍は、四連隊、3600人の兵士より成っていたが、枢密院の理想では一連隊のうち銃砲兵が占める割合が60%であったものが30%にとどまっていた。どの連隊も銃にこと欠いており、ハンプシャー連隊などは、26挺しかなく、割合はわずか3%であった。兵器庫から300挺を補充したものの、全体で1100挺程度の装備であった。これに対して、1584年の日本で、龍造寺隆信軍が有馬晴信・島津家久軍と対戦したときには、軍勢25000で、うち鉄砲隊は9000人であった。当時のイギリスと日本の断片的な比較であるが、人口を加味しても、日本の銃保有状況は圧倒的であった(ペリン同書,160-162頁)。また朝鮮の役の最中の1597年、フランセスコ・カルレッチの報告によれば、30万人の日本軍が朝鮮に出兵していたが、日本にはまだ多くの兵が残留しており、そのほとんどが1挺また2挺の銃を装備していた︵ペリン同書,71頁)。 ・^ ノエル・ペリン前掲書、80頁 ・^ ”(火縄銃の)遠くまで発射する力と命中させる手際とは、弓矢に数倍する。︵中略︶弓矢の技は百歩に過ぎないが、鳥銃はよく数百歩に及び、︵中略︶とても対抗できない﹂”﹁懲毖録﹂柳成龍 朴鐘鳴訳 平凡社 東洋文庫 1979年 282-283頁 ・^ ﹁シナ軍の兵力について、多くの者は誇張しすぎているが、信用できる幾人かのキリシタンからの通信によると、少なくとも20万くらいはいた。しかもそれは同じく無数ともいえる朝鮮の軍勢を除いての数だということである﹂﹃完訳フロイス日本史5豊臣秀吉篇2﹄第41章 ・^ ﹁ところで彼らの鉄砲︵エスピンガルダ︶はどのようにして発射されるのか不可解である。というのは、無数に発砲した後も、そのための死傷者が一人も出なかったからである﹂ ﹃完訳フロイス日本史5豊臣秀吉篇2﹄第41章 ・^ ルイス・フロイスが1593年の平壌戦における明軍の装備に言及している。﹁︵明の︶兵士たちは身に適当な厚さの鋼鉄の鎧をまとい、同じく鋼鉄製の膝当てをつけていた。それらは馬上にあっても、足のあたりまで垂れ下がり﹂﹁従来発見されたものの中では最優秀を誇っていた日本軍の刀や槍をもってしても、なんら損傷を加え得なかった﹂﹁︵日本軍の︶刀や槍はたび重なる戦闘によって威力が鈍っており、他方シナ軍の武装はいとも堅固で、日本軍の刀を寄せ付けぬほどであった﹂ ﹃完訳フロイス日本史5豊臣秀吉篇2﹄第41章 ・^ ﹃懲毖録﹄1979, p. 187. ・^ 此自倭犯中國始有之。彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。我兵短器難接、長器不捷、遭之者身多兩斷、縁器利而雙手使、用力重故也。今如獨用則無衛、惟鳥銃手賊遠發銃、賊至近身再無他器可以攻刺、如兼殺器則銃重藥子又多、勢所不能、惟此刀輕而且長、以備臨身棄銃用此。況有殺手當鋒、故用長刀備之耳。 ・^ ﹃朝鮮と日本の関係史﹄朴鐘鳴監修/明石書店 (2000) 192頁 ・^ ﹃懲毖録﹄1979, p. 14. ・^ ルイス・フロイスによると、日本は﹁それ︵=火砲・矢︶以外の武器、特に刀剣は短く、大して役立たない﹂という事前情報を得ていた。﹃完訳フロイス日本史5豊臣秀吉篇2﹄第36章 ・^ abc﹃懲毖録﹄1979, p. 290. ・^ 天字銃筒 射程距離96m、地字銃筒 同64m、玄字銃筒 同160m ﹃壬辰戦乱史﹄/李炯錫 ・^ ﹃懲毖録﹄東洋文庫版 140頁では﹁数十歩﹂と記録 ・^ ﹃李朝実録﹄宣祖万暦20年5月6月 ・^ ﹃壬辰倭乱と朝鮮民衆の戦い﹄/矢沢康祐 ・^ ﹃秀吉の朝鮮侵略と義兵闘争﹄金奉鉉/彩流社 ・^ たとえば大石学﹁江戸の外交戦略﹂角川学芸出版、2009、李進熙﹃日本文化と朝鮮﹄日本放送出版協会、1980、上垣外 憲一﹃文禄・慶長の役―空虚なる御陣﹄講談社学術文庫ほか。 ・^ 笠谷 & 黒田 2000, pp.23-25 ・^ ab辻 1942, pp.415-418 ・^ 徳富 1935, p.284 ・^ 辻 1942, pp.420-427 ・^ 辻 1942, pp.428-449 ・^ ab村上直次郎﹃異国往復書翰集. 増訂異国日記抄﹄雄松堂出版、2005年。ISBN 4841930116。 ・^ abMartín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125. ・^ abTurnbull, Stephen (2016)﹃Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637,﹄Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.5 ・^ 辻 1942, pp.441-444 ・^ 稲葉継陽﹁加藤清正の歴史的位置﹂︵初出:熊本県立美術館 編﹃生誕四五〇年記念展 加藤清正﹄︵2012年︶/山田貴司 編著﹃シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正﹄︵戒光祥出版、2014年︶ISBN 978-4-86403-139-4︶ ・^ ﹃朝鮮日々記を読む 真宗僧が見た秀吉の朝鮮侵略﹄ 朝鮮日々記研究会編 法藏館 2000年 ・^ ﹃島津家文書﹄﹃吉川家文書﹄ ・^ ﹃毛利家文書﹄ ・^ ﹃伊達家文書﹄ ・^ ﹃フロイス日本史﹄ ・^ ab井上泰至﹁朝鮮観の変転-近世の歴史叙述と対外認識を論ずるために-﹂井上泰至﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P3-25 ・^ 田中康二﹁国学者の歴史認識と対外意識-本居宣長﹃馭戒慨言﹄をめぐって-﹂井上泰至﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 ・^ 金時徳﹁フヴォストフ事件と﹃北海異談﹄-壬辰戦争の戦争史的な検討と﹃海国兵談﹄の利用を中心に-﹂井上泰至﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P49-84 ・^ abc合山林太郎﹁近世漢詩に描かれた壬辰戦争﹂井上泰至﹃近世日本の歴史叙述と対外意識﹄勉誠出版、2016年7月 ISBN 978-4-585-22152-4 P459-477 ・^ 中野等﹃文禄・慶長の役﹄吉川弘文館 ・^ 李曁﹃松窩雑説﹄"原其設心, 不啻慘於兇賊之利刃, 甚可畏也。" ・^ “임진왜란 때 경복궁을 불태운 것은 왜군이 아니라 조선 백성이었다” (朝鮮語). 다음 뉴스 (20171010060606). 2020年1月20日閲覧。 ・^ 熱田公﹃日本の歴史11天下一統﹄集英社
参考文献[編集]
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小説[編集]
●海音寺潮五郎﹃加藤清正﹄文藝春秋 1983年 ●豊田有恒﹃知謀の虎-猛将加藤清正﹄祥伝社、1989年 ●津本陽﹃夢のまた夢﹄1993 - 1994年、文藝春秋、幻冬舎文庫 ●童門冬二﹃小説黒田如水﹄富士見書房 1995 ︵小学館文庫、﹁軍師黒田如水﹄河出文庫︶ ●江宮隆之﹃島津義弘﹄学研M文庫、2004年 ●伊東潤﹃黒南風の海 加藤清正﹁文禄・慶長の役﹂異聞﹂PHP研究所、2011/7/9 ●飯嶋和一﹃星夜航行﹄新潮社、2018/6/29 ●川越宗一﹃天地に燦たり﹄文藝春秋、2018/7/6 李舜臣についての関連作品は、李舜臣#李舜臣を題材とした作品を参照。関連項目[編集]
・朝鮮王朝実録外部リンク[編集]
- 内藤 雋輔「捕虜志による秀吉朝鮮の役」『中国短期大学紀要』第8巻、中国短期大学、1977年3月20日、1-7頁。
- Gyeongsangnam-do. “忠武公李舜臣(충무공 이순신)”. 韓国・慶尚南道. 2022年8月8日閲覧。 - 韓国慶尚南道が作成した李舜臣のサイトの日本語版
- JINJU National Museum. “韓国・国立晋州博物館(국립진주박물관)”. 国立晋州博物館(국립진주박물관). 2022年8月8日閲覧。 壬辰倭乱展示のある韓国の歴史博物館サイトの日本語版。