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「関根金次郎」の版間の差分

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1909年(明治42年)、「[[万朝報]]」記者の[[三木愛花]]の斡旋で将棋同盟会(のち将棋同盟社)を結成。

1909年(明治42年)、「[[万朝報]]」記者の[[三木愛花]]の斡旋で将棋同盟会(のち将棋同盟社)を結成。



1917年(大正6年)、関西より上京した[[阪田三吉]]と密かに対局し敗れるという事件が発生し、『萬朝報』は阪田に敗北した関根の責任を追及し、将棋欄の講評権を関根から、関根の弟子の[[土居市太郎]]に移譲させる。また、関根は「将棋同盟社」を退会することとなり、1918年(大正7年)、東京将棋倶楽部を結成した。


19176西[[]][[]]1917退19187


ライバル[[阪田三吉]]とは1894年(明治27年)に初手合わせを行い(初手合わせは1891年(明治24年)頃という説もある<ref>[[内藤国雄]]『阪田三吉名局集』(講談社)P.21</ref>)、3度戦って関根の2勝1敗。最後の対局(1918年(大正7年))までに生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だった。対戦後期は阪田に対して分が悪くなっていたが、弟子の[[土居市太郎]]七段が1917年(大正6年)に阪田を平手で破っていたこともあり<ref name="hyaku4"/>、また、兄弟子の小菅が名人襲位を断るなど紆余曲折もへて、小野の死後の53歳(1921年(大正10年))で、十三世名人の位に就く。

ライバル[[阪田三吉]]とは1894年(明治27年)に初手合わせを行い(初手合わせは1891年(明治24年)頃という説もある<ref>[[内藤国雄]]『阪田三吉名局集』(講談社)P.21</ref>)、3度戦って関根の2勝1敗。最後の対局(1918年(大正7年))までに生涯32局戦い、関根の15勝16敗1分だった。対戦後期は阪田に対して分が悪くなっていたが、弟子の[[土居市太郎]]七段が1917年(大正6年)に阪田を平手で破っていたこともあり<ref name="hyaku4"/>、また、兄弟子の小菅が名人襲位を断るなど紆余曲折もへて、小野の死後の53歳(1921年(大正10年))で、十三世名人の位に就く。


2020年3月21日 (土) 09:24時点における版

関根金次郎

  1868423441 - 194621312[1]



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19241398 

91寿[9]1935326[10]12193770退19351

11935退[9]1936[9] 

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1904(37)1214265(1786)51[12]100



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 vs 1899816

1  1  vs 1903320

 2 vs 19071021

 4 vs 19071027



(一)^  2014

(二)^ abcdefghi 19761

(三)^ 20161026

(四)^ abcdefg9 1997

(五)^ 201512

(六)^ P.49-50

(七)^ P.50

(八)^ P.21

(九)^ abc 19763

(十)^ 

(11)^ 

(12)^ 19873ISBN 4-638-07228-3 p158 

関連項目

外部リンク