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高崎氏は豊後[[大友氏]]の一族で、[[一万田景直]]の庶子[[高崎忠能]]を祖とする氏族である。大友氏の姫君が島津氏に嫁いだ際に御付きとして薩摩に来訪し、姫君の子孫でもある歴代の島津氏当主に代々仕えた。 |
高崎氏は豊後[[大友氏]]の一族で、[[一万田景直]]の庶子[[高崎忠能]]を祖とする氏族である。大友氏の姫君が島津氏に嫁いだ際に御付きとして薩摩に来訪し、姫君の子孫でもある歴代の島津氏当主に代々仕えた。 |
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[[薩摩国]][[鹿児島郡]]鹿児島近在川上村︵現在の[[鹿児島県]][[鹿児島市]][[川上町 (鹿児島市)|川上町]]︶出身{{Sfn|北里|1959|p=761}}。[[薩摩藩]]士[[高崎五郎右衛門]]温恭の長男。母は登米子︵[[新納常善]]女︶。
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[[嘉永]]2年︵[[1849年]]︶、[[お由羅騒動]]によって父五郎右衛門が[[切腹]]し、翌3年︵[[1850年]]︶に正風も連座して[[奄美大島]]に流刑となった。嘉永5年︵[[1852年]]︶に赦免され |
[[嘉永]]2年︵[[1849年]]︶、[[お由羅騒動]]によって父五郎右衛門が[[切腹]]し、翌3年︵[[1850年]]︶に正風も連座して[[奄美大島]]に流刑となった。嘉永5年︵[[1852年]]︶に赦免されて鹿児島に戻るも、士分に復籍することは許されておらず、苗字を名乗ることはできなかった{{Sfn|北里|1959|p=67}}。そのため、'''鶴園親義'''という歌名を用いて、友人の[[折田寧行]]とともに歌人・[[若松則文]]の門下生となった{{Sfn|北里|1959|p=51}}。やがて若松の師である[[八田知紀]]にその才能を認められ、八田に弟子入りすることとなる{{Sfn|北里|1959|p=52}}。
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[[文久]]元年([[1861年]])2月、未だ士分復籍が許されぬ中、父の五郎右衛門とともにお由羅騒動で切腹した[[山田清安]]の孫の貞子<ref group="注釈">初名は友子。正風とは10歳違い。[[弘化]]3年([[1846年]])[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]、[[山田清安]]の娘・岩子と、婿養子の[[山田実有]]の間に生まれる。</ref>と結婚する{{Sfn|北里|1959|p=65}}。そして翌2年([[1862年]])[[2月11日 (旧暦)|2月11日]]、藩より家督相続・士分復籍を許され、晴れて高崎姓を名乗り、[[2月14日 (旧暦)|14日]]に五番組小与八番に組み入れられる運びとなった{{Sfn|北里|1959|p=67}}。 |
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一方この頃、薩摩藩主の父である[[島津久光]]が公武合体を実現すべく上京していたが、京都では[[有馬新七]]ら尊王攘夷派が暴挙に出ようとしていた。久光はこれを知り、正風と[[藤井良節]]を急ぎ京都に上らせた{{Sfn|北里|1959|p=69-73}}。上京した正風は淀川で暴挙の準備をする[[橋口壮介]]・[[柴山景綱|柴山竜五郎]]らを見つけ、久光にこれを報告し、[[薩摩藩志士粛清事件|寺田屋騒動]]に立役者となる{{Sfn|北里|1959|p=69-73}}。これにより久光の信頼を得て、その後は[[土佐藩|土佐]]の[[小南五郎|小南五郎右衛門]]や[[武市瑞山]]、[[長州藩|長州]]の[[宍戸真澂|宍戸九郎兵衛]]や[[久坂玄瑞]]らと会うなど、諸藩との交渉役・偵察役として活躍する{{Sfn|北里|1959|p=76}}。また[[久邇宮朝彦親王|青蓮院宮]]とも会い、「九重の 雲井の菊を 折りかざす 今日ぞわが世の さかりなるらん」という歌を送っている{{Sfn|北里|1959|p=78-80}}。この歌は青蓮院宮を通じて時の[[孝明天皇]]の目に入り、天皇からお褒めの言葉を受けたという{{Sfn|北里|1959|p=78-80}}。 |
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[[薩英戦争]]では伝令を務める{{Sfn|北里|1959|p=82}}が、[[公武合体]]派であり、久光の意を受けて[[会津藩]][[公用方]][[秋月悌次郎]]・[[広沢安任|広沢富次郎]]・[[大野英馬]]・[[柴秀治]]らに密かに接触する{{Sfn|北里|1959|p=84-91}}。そして[[文久]]3年︵[[1863年]]︶[[8月18日 (旧暦)|8月18日]]、青蓮院宮改め中川宮と、秋月ら会津藩と協力して、京都から[[長州藩]]の追い落とすのに成功し︵[[八月十八日の政変]]︶、[[薩会同盟]]の立役者となる{{Sfn|北里|1959|p=84-91}}。その功により京都留守居役に任命され、翌[[元治]]元年︵[[1864年]]︶には、薩摩藩士でありながら中川宮・[[山階宮晃親王|山階宮]]の家臣となった{{Sfn|北里|1959|p=114}}。
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しかし、その後藩内で[[倒幕運動|討幕]]を望む声が大きくなり、[[薩長同盟]]が結ばれるなどして薩会同盟が消滅していくと、公武合体派は退潮を余儀なくされ、正風も帰国する{{Sfn|北里|1959|p=136-139}}。正風はその後も武力討幕に反対して[[西郷隆盛]]らと対立し、維新後は不遇をかこった。
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明治2年︵[[1869年]]︶から明治4年︵[[1871年]]︶まで、薩摩藩の垂水︵現[[鹿児島県]][[垂水市]]︶の行政管理をし、﹁へし児{{efn|へしご。中絶︵abortion︶。}}<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000507340 薩摩藩における﹁へし児﹂の風習と施策--出水,大隅・垂水地域を中心に] - CiNii</ref>﹂対策を施した。
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明治2年︵[[1869年]]︶から明治4年︵[[1871年]]︶まで、薩摩藩の垂水︵現[[鹿児島県]][[垂水市]]︶の行政管理をし、﹁へし児{{efn|へしご。中絶︵abortion︶。}}<ref>[http://ci.nii.ac.jp/naid/110000507340 薩摩藩における﹁へし児﹂の風習と施策--出水,大隅・垂水地域を中心に] - CiNii</ref>﹂対策を施した。
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* 父 - [[高崎五郎右衛門]] |
* 父 - [[高崎五郎右衛門]] |
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* 母 - 登米子([[薩摩藩]]士[[新納常善]]娘) |
* 母 - 登米子([[薩摩藩]]士[[新納常善]]娘) |
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* 室 - 貞子 |
* 室 - 貞子([[薩摩藩]]士[[山田実有]]長女) |
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* 継室 - 鎨子([[吉田藩]]主[[伊達宗孝]]三女) |
* 継室 - 鎨子([[吉田藩]]主[[伊達宗孝]]三女) |
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* 長男 - [[高崎元彦]]([[大日本帝国海軍|海軍]]軍人{{Refnest|group="注釈"|1891年[[アナポリス]]の[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]へ入学<ref>[https://archive.org/details/annualregiste18911892unse/page/29 Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, Md]U.S. Government Printing Office 1875</ref>、卒業後日露戦争の旅順攻撃に陸戦重砲隊中隊長として参加し、1904年に36歳で戦死、死後海軍少佐に昇進<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%85%83%E5%BD%A6-1087158 高崎元彦(読み)たかさき もとひこ]コトバンク</ref>。}}) |
* 長男 - [[高崎元彦]]([[大日本帝国海軍|海軍]]軍人{{Refnest|group="注釈"|1891年[[アナポリス]]の[[海軍兵学校 (アメリカ合衆国)|海軍兵学校]]へ入学<ref>[https://archive.org/details/annualregiste18911892unse/page/29 Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, Md]U.S. Government Printing Office 1875</ref>、卒業後日露戦争の旅順攻撃に陸戦重砲隊中隊長として参加し、1904年に36歳で戦死、死後海軍少佐に昇進<ref>[https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E5%B4%8E%E5%85%83%E5%BD%A6-1087158 高崎元彦(読み)たかさき もとひこ]コトバンク</ref>。}}) |
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2021年9月27日 (月) 08:49時点における版
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![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Takasaki_Masakaze.jpg/220px-Takasaki_Masakaze.jpg)
高崎氏
高崎氏は豊後大友氏の一族で、一万田景直の庶子高崎忠能を祖とする氏族である。大友氏の姫君が島津氏に嫁いだ際に御付きとして薩摩に来訪し、姫君の子孫でもある歴代の島津氏当主に代々仕えた。生涯
薩摩国鹿児島郡鹿児島近在川上村︵現在の鹿児島県鹿児島市川上町︶出身[1]。薩摩藩士高崎五郎右衛門温恭の長男。母は登米子︵新納常善女︶。 嘉永2年︵1849年︶、お由羅騒動によって父五郎右衛門が切腹し、翌3年︵1850年︶に正風も連座して奄美大島に流刑となった。嘉永5年︵1852年︶に赦免されて鹿児島に戻るも、士分に復籍することは許されておらず、苗字を名乗ることはできなかった[2]。そのため、鶴園親義という歌名を用いて、友人の折田寧行とともに歌人・若松則文の門下生となった[3]。やがて若松の師である八田知紀にその才能を認められ、八田に弟子入りすることとなる[4]。 文久元年︵1861年︶2月、未だ士分復籍が許されぬ中、父の五郎右衛門とともにお由羅騒動で切腹した山田清安の孫の貞子[注釈 1]と結婚する[5]。そして翌2年︵1862年︶2月11日、藩より家督相続・士分復籍を許され、晴れて高崎姓を名乗り、14日に五番組小与八番に組み入れられる運びとなった[2]。 一方この頃、薩摩藩主の父である島津久光が公武合体を実現すべく上京していたが、京都では有馬新七ら尊王攘夷派が暴挙に出ようとしていた。久光はこれを知り、正風と藤井良節を急ぎ京都に上らせた[6]。上京した正風は淀川で暴挙の準備をする橋口壮介・柴山竜五郎らを見つけ、久光にこれを報告し、寺田屋騒動に立役者となる[6]。これにより久光の信頼を得て、その後は土佐の小南五郎右衛門や武市瑞山、長州の宍戸九郎兵衛や久坂玄瑞らと会うなど、諸藩との交渉役・偵察役として活躍する[7]。また青蓮院宮とも会い、﹁九重の 雲井の菊を 折りかざす 今日ぞわが世の さかりなるらん﹂という歌を送っている[8]。この歌は青蓮院宮を通じて時の孝明天皇の目に入り、天皇からお褒めの言葉を受けたという[8]。 薩英戦争では伝令を務める[9]が、公武合体派であり、久光の意を受けて会津藩公用方秋月悌次郎・広沢富次郎・大野英馬・柴秀治らに密かに接触する[10]。そして文久3年︵1863年︶8月18日、青蓮院宮改め中川宮と、秋月ら会津藩と協力して、京都から長州藩の追い落とすのに成功し︵八月十八日の政変︶、薩会同盟の立役者となる[10]。その功により京都留守居役に任命され、翌元治元年︵1864年︶には、薩摩藩士でありながら中川宮・山階宮の家臣となった[11]。 しかし、その後藩内で討幕を望む声が大きくなり、薩長同盟が結ばれるなどして薩会同盟が消滅していくと、公武合体派は退潮を余儀なくされ、正風も帰国する[12]。正風はその後も武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立し、維新後は不遇をかこった。 明治2年︵1869年︶から明治4年︵1871年︶まで、薩摩藩の垂水︵現鹿児島県垂水市︶の行政管理をし、﹁へし児[注釈 2][13]﹂対策を施した。 明治4年︵1871年︶に新政府に出仕。翌5年︵1872年︶に左院視察団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察。明治8年︵1875年︶に宮中の侍従番長、翌9年︵1876年︶から御歌掛などを務め、同年に侍補となり、明治11年︵1878年︶から翌12年︵1879年︶にかけて元田永孚・佐々木高行・土方久元・吉井友実らと天皇親政運動を展開したが、明治12年に政府に侍補を廃止され失敗した。 明治19年︵1886年︶に二条派家元三条西季知が死去した後を受け御歌係長に任命される。明治21年︵1888年︶には御歌所初代所長に任命された。明治23年︵1890年︶、皇典講究所所長山田顕義の懇請により初代國學院院長︵明治26年まで︶。明治28年︵1895年︶、枢密顧問官を兼ねた。明治40年︵1907年︶、かつて交友のあった中山三屋の三十三回忌追善集﹃浮木廼亀﹄の刊行に関与した。 明治45年︵1912年︶2月28日75歳で死去。青山霊園に墓地がある。 明治20年︵1887年︶5月24日には、維新の功が認められ男爵を授けられた[14]。明治31年︵1898年︶勲一等瑞宝章、明治38年︵1905年︶勲一等旭日大綬章、死去にあたっては正二位勲一等旭日桐花大綬章を授けられる。 御歌所派とも呼ばれる旧派和歌の中心。﹁紀元節﹂︵作曲‥伊沢修二︶、﹁勧学の歌﹂︵作曲‥奥好義︶、﹁水漬く屍﹂︵作曲‥吉本光義︶などの作詞も担当した。親族
- 父 - 高崎五郎右衛門
- 母 - 登米子(薩摩藩士新納常善娘)
- 室 - 貞子(薩摩藩士山田実有長女)
- 継室 - 鎨子(吉田藩主伊達宗孝三女)
- 長男 - 高崎元彦(海軍軍人[注釈 3])
- 次男 - 山田益彦(宮内官僚)
- 三男 - 茂雄
- 長女 - 竹子 田中阿歌麿子爵の妻
- 次女 - 松子 芝山家13代当主芝山孝豊子爵の妻[17]
- 孫 - 高崎正光 男爵
- 甥 - 曽山幸彦
- 従兄弟 - 高崎五六
栄典
- 位階
- 1884年(明治17年)8月30日 - 正五位[18]
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[19]
- 1890年(明治23年)7月9日 - 従三位[20]
- 1900年(明治33年)3月20日 - 正三位[21]
- 1907年(明治40年)5月10日 - 従二位[22]
- 1912年(明治45年)2月28日 - 正二位[23]
- 勲章等
- 1885年(明治18年)4月7日 - 勲四等旭日小綬章[24]
- 1886年(明治19年)11月30日 - 勲三等旭日中綬章[25]
- 1889年(明治22年)11月25日 - 大日本帝国憲法発布記念章[26]
- 1890年(明治23年)1月21日 - 銀製黄綬褒章[27]
- 1894年(明治27年)6月19日 - 勲二等瑞宝章[28]
- 1898年(明治31年)7月20日 - 勲一等瑞宝章[29]
- 1905年(明治38年)12月22日 - 旭日大綬章[30]
- 1912年(明治45年)2月28日 - 旭日桐花大綬章[23]
- 外国勲章佩用允許
脚注
注釈
出典
参考文献
北里蘭『高崎正風先生伝記』1959年。
関連項目
公職 | ||
---|---|---|
先代 (新設) |
![]() 1888年 - 1912年 御歌掛長 1886年 - 1888年 |
次代 久我通久 所長心得 |
先代 桜井能監 |
![]() 1889年 - 1898年 |
次代 川口武定 |
先代 岩倉具経 |
![]() 1890年 - 1893年 |
次代 高崎五六 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 高崎(正風)家初代 1887年 - 1912年 |
次代 高崎正光 |