ハイデルベルク城
座標: 北緯49度24分36秒 東経8度42分57.6秒 / 北緯49.41000度 東経8.716000度
ハイデルベルク城︵Heidelberger Schloss︶は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州ハイデルベルク市に遺る城趾である。ドイツで最も有名な城趾の一つであり、ハイデルベルクの象徴的建造物となっている。プファルツ継承戦争で破壊されるまで、この城はプファルツ選帝侯の居城であった。1689年にルイ14世の軍によって破壊され、1693年に一部だけが修復された。この城趾はアルプスの北側で最も重要なルネサンス建築の遺構を含んでいる。この城はケーニヒスシュトゥール︵﹁王の椅子﹂︶という山の北斜面、 ネッカー川の河原から約80mの高さに位置し、旧市街の風景を決定づけている[1]。
歴史[編集]
破壊まで[編集]
最初の記録[編集]
ハイデルベルクは、ライン宮中伯コンラート・デア・シュタウファーの1147年の文書に初めて記録されている。すなわち、父のシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の遺産を異母兄の神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世と分割し、ラインフランケン地方を得たというものである。コンラートの居館が現在の城山であるイェッテンビュール︵山全体はケーニヒシュトゥールという名であるが、その麓部分を特にイェッテンビュールと呼ぶ︶にあったとする説は、未だに証明されていない。 歴史家でフリードリヒ2世の秘書官であったフーベルトゥス・トマス・レオドシウスが伝える伝承によれば、イェッテンビュールの名前は占い師の老婆イェッタに由来するという。シュリーアバッハ上流域のヴォルフスブルンやネッカー川の対岸にある異教徒の洞穴がこの物語の源泉となったのであろう。しかし実際には、﹁イェッテンビュール﹂は﹁ユンクフィーヒューゲル﹂︵Jungviehhügel = 若い家畜の丘︶を意味する。王の城、教皇幽閉[編集]
1401年、プファルツ選帝侯ループレヒト3世はローマ王︵ドイツ王︶になった。城は王の宮廷としては大変に手狭であり、戴冠式の後、ループレヒトはアウグスティン修道院︵現在の大学︶にまで宮廷を拡張した。それは王の宮廷にふさわしく、多くの官吏が執務するスペースを有するものであり、同時に防衛施設としても機能すべきものであった。 1410年にループレヒトが亡くなった後、その支配地は4人の息子達の間で分割された。プファルツの本拠地は長男のルートヴィヒ3世のものとなった。コンスタンツ公会議後、1415年に皇帝ジギスムントの命令により、アイヒェルスハイム城︵現在のマンハイム、リンデンホーフ区︶にいた元対立教皇ヨハネス23世がこの城に拘禁された。 フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーは1838年にハイデルベルクを訪れ、城趾を特に好んで散策した。この取材に基づいて教皇幽閉の歴史を記述している。[2]バーデン=プファルツ戦争[編集]
バーデン=プファルツ戦争時の1462年に、プファルツ選帝侯フリードリヒ1世はバーデン=バーデン辺境伯カール1世、メッツ司教ゲオルク、ヴュルテンベルク伯ウルリヒ5世を捕虜にし、貧しい食事しか与えずに拘束した。伝説によると、フリードリヒ1世はこの捕虜達に食糧不足を納得させるために、食事のたびに荒廃した国土を窓から見せつけたとされる。この様子はグスタフ・シュヴァープの詩﹃ハイデルベルクの食事﹄に詠われている、フリードリヒ1世はこれらの捕虜の身代金を要求した。辺境伯カール1世は25,000グルデンの金を払い、シュポンハイムを割譲し、プフォルツハイムをレーエン領とした。メッツ司教は45,000グルデンを支払った。しかしフリードリヒ1世にとって最も重要であったのは、選帝侯の地位を保障せよという要求であった。宗教改革と三十年戦争[編集]
ルートヴィヒ5世の時代にマルティン・ルターが、自らの信仰を説明するためにハイデルベルク城を訪れた︵ハイデルベルク信仰問答︶。ルートヴィヒ5世の弟である宮中伯ヴォルフガングの案内を受けたルターは後に友人ゲオルク・シュパラティンへの手紙で、城の美しさと戦闘設備の充実を称賛している。 三十年戦争で初めて城に砲弾が飛んできた。これによって城建設の歴史は事実上終結した。これ以後、城は破壊と再建を繰り返すことになる。プファルツ継承戦争[編集]
プファルツ=ジンメルン家の最後の当主、カール2世が1685年に子供のないまま亡くなると、フランス王ルイ14世は、弟であるオルレアン公フィリップ1世の名の下に︵オルレアン公フィリップ1世の妃エリーザベト・シャルロッテはカール2世の妹であった︶プファルツ領の相続を主張した︵プファルツ継承戦争︶。1688年9月29日、フランス軍がプファルツ領に進攻すると、新しく選帝侯位を継いだプファルツ=ノイブルク家出身のフィリップ・ヴィルヘルムは10月24日にハイデルベルクを放棄した。マンハイムへの遷都[編集]
1697年、プファルツ継承戦争を終結させたレイスウェイク条約により、ようやくわずかな平安がもたらされた。城を破壊し、まだ使える部分は渓谷に造営する新しい宮殿に利用するという計画が立てられた。しかしこの計画の遂行は困難であるため、城は応急処置的に修復されることとなった。同時にカール3世フィリップは城を完全に立て替える計画も描いたが、資金難のためこの計画は先送りされた。また選帝侯は、聖霊教会をカトリックに転向させたために市のプロテスタント信者と争いになっていた。聖霊教会をカトリックの宮廷教会に変更しようとする彼の計画をプロテスタント教徒らは手を尽くして妨害しようとした。こうしたことから、宮廷をマンハイムに移転する計画が持ち上がり、選帝侯はハイデルベルクに対する興味を失った。1720年4月12日、彼は宮廷をすべての官庁と一緒にマンハイムに移転すると発表した。選帝侯はこの古来の首都を運命の手に委ねるが、﹁路傍の草に至るまで移転する﹂つもりだと発言した。 後継者のカール・テオドールは一時期、居館をハイデルベルク城に戻す計画を立てた。しかし1764年6月24日、立て続けに2発の稲妻がホールの建物に落ち、城はまたもや炎上した。選帝侯はこれを神の意志と見なし、計画は中止となった。 その後何十年もの間、必要な修復を立案する者もあったが、ハイデルベルク城はおおむね廃墟として過ごした。破壊後[編集]
ゆっくりとした崩壊とロマン派の興奮[編集]
1777年、バイエルン選帝侯位も継いだカール・テオドールは宮廷をマンハイムからミュンヘンに移した。これによりハイデルベルク城はますます視界から遠ざかった。屋根に覆われた部分は手工業者らに利用されるようになっていた。1767年にはすでに、南防塁の角石がシュヴェツィンゲン城の建築資材として運び出され始めた。1784年にはオットハインリヒ館1階のヴォールトが剥き出しとなり、城は石切場になり果てた。 1803年の帝国代表者会議主要決議によってハイデルベルクとマンハイムはバーデン領となった。カール・フリードリヒ大公は支配地域の大きな拡大を歓迎したが、ハイデルベルク城はありがたみのない添え物に過ぎなかった。建物は崩壊し、ハイデルベルク市民は自分の家のための石材、木材、鉄材を城に取りに行っており、彫刻や飾りもなくなっていた。アウグスト・フォン・コツェブーは1803年に、城趾を整地しようとするバーデン政府の計画に対し憤慨の意を述べている。この破壊された城は、19世紀の初めにはナポレオンの圧政に対する愛国心のシンボルとなっていった。現状調査と修復[編集]
城趾とツーリズム[編集]
1465年のハイデルベルクに関する最も古い記述にはすでに、この街は﹁外国からの訪問者が多い﹂と記載されている。とはいえ、本来の意味でのこの都市の観光は19世紀初頭に始まった。グライムベルク伯は、この城を描いたスケッチを広く流布させた。これは事実上、絵はがきの先駆けとなった。同じ頃、城ではすでにお土産用のカップも販売された。さらに観光業にとって決定的な一押しとなったのが1840年にハイデルベルクが鉄道網に結ばれたことである。 マーク・トウェインは1878年に著書﹃ヨーロッパ放浪記﹄でハイデルベルク城について記述している。[3] 20世紀にアメリカ人はハイデルベルク伝説を創作して世界中に広めた。その結果、日本人もヨーロッパ旅行の際にハイデルベルク城に立ち寄るようになった。 21世紀の初め、ハイデルベルクには年間100万人を超える訪問客があり、約90万人が宿泊する。外国からの観光客の多くはアメリカ人か日本人である。ハイデルベルク大学地理研究所のアンケート調査によれば最も評判が良いのは城の展望テラスである。 来訪者センターの新築のために300万ユーロが zweiten Konjunkturpaket des Bundes から提供された[4]。年表[編集]
●1225年: "Castrum" に関する最初の記録 ●1303年: 2つの城についての記録 ●1537年: ﹁オーベレン・ブルク﹂が落雷により破壊 ●1610年: 城館庭園の造営 (Hortus Palatinus) ●1622年: 三十年戦争でティリー伯が都市と城を占領 ●1649年: 城の再建 ●1688年/89年: フランス軍による破壊 ●1693年: プファルツ継承戦争によるさらなる破壊 ●1697年から: 再建 ●1720年: 宮廷がマンハイムに移転 ●1742年: 再建 ●1764年: 落雷による破壊、その後放置 ●1810年: シャルル・ド・グライムベルクが城趾保存活動を開始 ●1883年: バーデン﹁シュロスバウビューロ﹂の設立 ●1890年: ユリウス・コッホとフリッツ・ザイツによる現状調査 ●1900年頃: 修復工事フォアホーフ[編集]
城のフォアホーフは、おおむねハウプトトーア︵主門︶、オーベラー・フュルステンブルンネン︵上の選帝侯の泉︶、シュトュックガルテンへのエリーザベト門、城館や庭園施設への入り口の橋楼に囲まれた建物からなる。1800年頃には洗濯物を並べる漂白場として利用されていた。後にフォアホーフは家畜の﹁牧草地、餌場﹂として競売にかけられた。ニワトリやガチョウも自由に走り回っていた。主門[編集]
フォアホーフの小径は一部が土砂で埋まった堀に架かる石造の橋を通る。主門は1528年に建設された。衛所はプファルツ継承戦争で破壊され、これにより現在の半円アーチの入り口の門だけとなった。ザッテルカンマー[編集]
オーベラー・フュルステンブルンネン[編集]
城館[編集]
中世の城塞の外観は判っていない。その城塞は、後に拡張された西側部分︵ディッカー塔、北壁︵イギリス館︶、ロンデル︵シュトュックガルテンの半円形の突出部︶を含む西壁︶を除いた現在の城域、環状壁の内部にあった。環状壁の遺構はルートヴィヒ館の東壁、エコノミー棟の東・南壁、ループレヒト館や夫人棟の西壁にわずかに遺っている。後世の城館は、現在のモルケンクーアの高台にあって1537年に焼失した城塞とともに防衛戦を形成し、これによってネッカー渓谷を制圧することができた。 15世紀中頃から、砲撃のための3つの塔や外側の環状壁が建設されることで要塞へと拡充されていった。その後ルートヴィヒ5世は16世紀前半に城域を西に向かってかなり拡張し、新しい防衛施設や居住施設を建設した。さらにその後も引き続いて堂々たる外観の城館に変貌していった。ルートヴィヒの後継者らによって防衛機能は二の次になっていった。 世代を経るにつれ、城は徐々に大規模な居館の複合体となっていった。ハイデルベルクの旧市街は随分後になって造られた。最初は斜面沿いの廷吏や官吏のための山の街であった[6]。人名にちなんだ建物[編集]
ループレヒト館[編集]
フリードリヒ館[編集]
オットハインリヒ館[編集]
ルートヴィヒ館[編集]
イギリス館[編集]
機能によって名付けられた建物[編集]
図書館棟[編集]
婦人部屋棟︵王の広間︶[編集]
大樽棟[編集]
ガラスの広間棟[編集]
エコノミー棟[編集]
兵士棟[編集]
兵士棟︵Soldatenbau︶は兵士の居住空間であったことから名付けられた。 兵士棟は城門塔の近くにあり、守備に適した位置である。4階建ての建物の下層には見張り番所があり、上階が兵士の居住スペースとなっている。ここには、約50人からなる警備・名誉部隊が常に駐留していた。井戸棟[編集]
塔[編集]
ディッカー塔[編集]
牢獄塔︵ゼルテンレーア︶[編集]
城門塔︵時計塔︶[編集]
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城門塔正面の「門の巨人」と盾を掲げる獅子のレリーフ
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「悪魔の噛み跡」がついた城門のリング
火薬塔[編集]
火薬塔 (Krautturm、または Pulverturm) の名前はすでに17世紀から用いられていたことが証明されている。これはこの塔の下層が火薬 (Kraut = Pulver) 倉庫であったことから、明らかにその用途に応じた名前であった。Gesprengter Turm︵爆破された塔︶という呼び名は後世になってからのものである。
この塔はプファルツ継承戦争時の1693年にフランス兵によって爆破された。巨大な壁の断片が現在も塔に寄りかかっている。ところでこの爆破により塔と壁の継ぎ目はブンテル砂岩と同じくらい丈夫であることが証明された。
最初この塔の高さは28mであった。1610年に42.5mにまで増築された。廃墟となった現在でも33mの高さがある。
この廃墟の賛美者の一人にヨハン・ヴォルフガング・ゲーテがいる。1779年9月23日に堀に架かる橋の上からこの塔を描写している。ゲーテはハイデルベルクを8回訪れたのだが、この第4回の訪問については口をつぐんでいる。1899年の研究で初めてこの時の訪問が明らかとなった。どうやら政治上の秘密訪問であったようで、あるいはプロイセン王フリードリヒ2世の優位に対抗するための諸侯同盟の交渉のためにハイデルベルクを訪れたとも推測されている。ザクセン=ヴァイマール=アイゼナハ公カール・アウグストとゲーテはスイスへの旅をハイデルベルクで打ち切り、その午後中をハイデルベルク城で過ごしている。ゲーテが破壊された火薬塔の描写を書き上げる間、カール・アウグスト公は﹁その古く美しい塔の周りを這い登っていた﹂のである。
ドイツ薬業博物館
薬局塔 (Apothekerturm) の名は、ギリシア語の﹁apotheca﹂に由来する。この語は﹁倉庫﹂という程度の意味であって、薬局 (Apotheke) がこの塔にあったことは一度もなく、城の別の場所にあった。現在はこの塔およびオットハインリヒ館にドイツ薬業博物館がある。
薬局塔は、鐘楼や火薬塔と同時代に建設された塔の一つである。塔は全長125mの城の東面のほぼ中央に位置している。古い銃眼は壁でふさがれたり、窓が設けられたりした。1600年頃に塔は階層が増築され、増えた廷臣のための住居に充てられた。
ドイツ薬業博物館は1957年にルートヴィヒ館、オットハインリヒ館と薬局塔にコレクションを展示した。これ以前にこの博物館はミュンヘンにあったのだが、第二次世界大戦で爆撃を受けた後、バンベルクの新宮殿に移されていた。
城館庭園側から見た薬局塔︵左︶と鐘楼︵右︶。その間の建物はオット ハインリヒ館
博物館の展示品は、家庭医薬品や携帯用救急医薬品と、ゴシック時代やルネサンス時代の薬品保管容器や擂り鉢などである。この他に18世紀から19世紀の﹁オフィツィーネン﹂とよばれる4つの古い薬局施設を見学することができる。博物館の中心は、鉱物・動物・植物で作られた医薬品コレクション︵﹁マテリア・メディカ﹂︶である。
1844年のアルタンと鐘楼、フリードリヒ館
﹁アルタン (Altan)﹂は、古いアラビア語で﹁赤﹂を意味する "Al" と﹁朝夕﹂を意味する "tan" が合成されたものである。
﹁選帝侯のバルコニー﹂と呼ばれるアルタン︵現在の見学者テラス︶は、ネッカー渓谷、ハイデルベルク市街、対岸の哲学の小径があるハイリゲンベルクが眺められる。アルタンの西端は大樽棟につながっている。アルタンはフリードリヒ館から8m以上の幅を持つスペースで、城の小径を通って市街へと通じている。
アルタンの下部は、武器、弾薬、軍支給品の保管庫であり、兵士のシェルターとなっていた。アルタンは直接フリードリヒ館と接してはおらず約8mの隙間がある。この隙間を市街へ向かう﹁城の小径﹂が通っている。
アルタンの下部、かつての﹁大砲台﹂は、人工的に青錆を生じさせた青銅製の砲身が配置されていた。この砲は1794年にフランスのドゥエに運び去られた。
騎士の足跡
騎士の足跡
この足跡についてヴィルヘルム・ジークムントはその著書﹃アルト・ハイデルベルク﹄で以下のように書いている。
﹁ある時、宴会か何かの催しの際に城の上階から突然火事が起こった。すべての人が安全を確保しなければならなかった。— ある騎士も。彼のいるところからは、部屋も階段も廊下も、すべての出口が炎に遮られていた。炎はカーテンや燃えやすい布を餌食にしていった。炎に取り囲まれた騎士の援助を求める声は何の役にも立たなかった。誰もそれを聞かなかったし、助け出された人は彼ももう救出されたのだと思っていたのかもしれない。
彼にはもう窓からはるか下の地面に飛び降りるしか助かる方法がなかった。騎士の大胆な振る舞いに神が報いたのか、彼は無傷で飛び降りることができた。しかし丈夫なブーツが地面に穴を開け、そこに足跡を残し、今でもそれを見ることができる。人々は奇妙なことにだんだん深くなるアルタンの足跡を騎士の足跡と呼ぶようになった。﹂
— ヴィルヘルム・ジークムント: ﹃アルト・ハイデルベルク﹄[12]
現在では、城を訪れた観光客が、自分の靴が騎士の足跡と合うかどうかを試している。別の伝説では、この足跡は選帝侯フリードリヒ4世が泥酔して宮殿であるフリードリヒ館から飛び降りテラスに残したものであるとしている。観光ガイドなどでは、選帝侯妃の浮気相手であった騎士が、密会を見つかりそうになり、選帝侯妃の寝室から飛び降りた跡とも説明される。
ブルクグラーベン。背後は牢獄塔。
堀 (Burggraben) は、ヒルシュグラーベン (Hirschgraben) とも呼ばれる。これはこの堀でかつてシカ (Hirsch) やクマが飼われていたことに由来する名称である。また、ハルスグラーベン (Halsgraben) という名称も用いられるが、これは台地の尾根の先端にある城を尾根本体から分離するための堀を指す一般名詞︵﹁首形堀﹂とも訳される︶である。
堀は、もちろん城の防衛施設の一つである。1962年に、この堀で昔のようにアカシカを飼育するかどうかが検討されたが実現はしなかった。
西壁の麓に9つの窪みが見られる。これはフランス軍の爆破部隊が1693年に作ったもので、西壁を爆破しようとした跡である。この時は、用いられた爆薬が湿気により威力が抑えられたことと、皇帝軍の救援部隊が進軍してきたことから爆破作業部隊は所期の目的を達成せずに業務を放棄した。
さらに攻撃側の障害となる氾濫装置が設けられた。堀の底にある排水溝と呼ばれる小さな流れを堰き止めることで堀に水を満たす装置である。
デュッセルドルフに住んだ選帝侯ヨハン・ヴィルヘルムはハイデルベルクの居城に満足できず、堀の西側に新しい城を建てて拡張する計画を立てた。
堀の中を通るヴァッサーカゼマッテン
カゼマッテンとは要塞の建物を砲撃から護る遮蔽施設のことで、三十年戦争以後は廃墟として言及されている。
塔や建物の下部の壁は同時に城の東側がフリーゼンタールに崩落するのを防ぐ支えであると同時に防衛目的も担っていた。カゼマッテンの一部は一旦埋められたが再び掘り返されている。薬局塔と火薬塔の間は完全に保存されている。他はかろうじて銃眼が識別できる程度である。様々な選帝侯らによって転用や改築が行われ、カゼマッテンは部分的に著しく脆弱なものになっていった。このため1998年には安全上の理由からカゼマッテンの直下を通るフリーゼン散策路は閉鎖された。
火薬塔に通じる遮水壁、ヴァッサーカゼマッテンは16世紀に建造された二重ヴォールトのギャラリーでフリーゼンタールから堀への入り口を塞いでいる。上部はケーニヒスシュトゥールから城へ水を導く水道の役割をなしていた。
1684年のカール砦の様子
武器庫 (Zeughaus) の Zeug とは軍備をさす言葉で、後に︵特に砲兵隊がツンフトを結成していた時期には︶大砲とその付属品を指した。
武器庫は防衛施設の一部で、この城の城砦的としての最後の建築期に設けられた。この施設は城の最も北に位置し、ネッカー渓谷に向かって突きだした砦となっていた。武器庫の前は砲台となっており、携帯火器を備えた守備兵のための鋸壁がその上に設けられていた。
武器庫には、武器、弾薬、武具が保管されていた。三十年戦争では、ネッカー川対岸からの砲撃により激しい損傷を被った。この時の損傷は現在も城壁に見ることができる。プファルツ継承戦争時の1693年に武器庫はフランス軍によって爆破された。その後すぐに修復がなされた。しかし1764年に焼失し、再建されなかった。
カール砦跡
武器庫の前には、カールス塔を備えたカール砦 (Karlschanze) が位置していた。この砦は城の北東を護る完全な軍事施設であり、三十年戦争後に球技場の跡地に造られた。運搬車両が通れる城への輸送路は南側の門だけであった。カール砦は1683年に建造され、早くも1689年にはフランス軍によって爆破された。現在ではかつての防衛用の砲塔は完全に姿を消している。
シュトュックガルテン
シュトュックガルテン (Stückgarten) のシュトュックとは、かつてここに設置されていた大砲のことである。シュトュックは砲の古い言い回しであり、また大砲の種類の一つでもある。
シュトュックガルテンは城の西のテラスにあたる。元々は、選帝侯ルートヴィヒ5世により造営された大砲を備えた施設であった。フリードリヒ5世はこの施設を遊歩庭園に造り替え、城の防衛能力を弱体化させた。
改造されたシュトュックガルテンを散歩することは、きわめて高貴な楽しみであった。この庭園へはエリーザベト門を通って入る。エリーザベト門と小鳥小屋が城に入り込むことを遮っていた。並木道がイギリス館に通じ、飾り花壇が設けられていた。
三十年戦争はハイデルベルクに及んだ時、城周辺に設けられたテラスは防禦の妨げになった。これらのテラスが、城への進入路となったのである。このため、庭園の上には直ちに壁や堡塁が築かれた。
ロンデルと呼ばれる半円形に張り出したテラスからは、天気が良ければ、ライン盆地の反対側にあるプフェルツァーヴァルトまで眺めることができる。また、眼下にはハイデルベルクの街並みの屋根や堀が見られる。
エリーザベト門。背景の建物はイギリス館。
エリーザベト門 (Elisabethentor) はイギリス王女のエリザベス・ステュアートに由来する。
シュトュックガルテンの入り口はエリーザベト門である。この門の建立はイギリス館やディッカー塔の劇場の改築と同様に、フリードリヒ5世が妻エリザベス・ステュアートの栄誉のために行ったものである。
この門は1615年、彼女の20歳の誕生日に若い妻を驚かすために一夜にして建設されたとされるが、これを裏付ける文献上の証拠はない。献呈の辞にはこう書かれている。
FRIDERICVS V ELISABETAE CONIVGI. CARISS (IMAE) A(NN0). C(HRISTI). MDCXV. F(ACIENDUM). C(URAVIT)
︵フリードリヒ5世が愛する妻エリザベスのために1615年にこの門を造らせた︶
エリーザベト門の柱
エリーザベト門は凱旋門の様式で造られており、ハイデルベルク城におけるバロック建築のモニュメントである。建築家はエリザベスと一緒にハイデルベルクにやって来た2人の建築家のうちの1人サロモン・ド・コウである。4本の柱は樹木を模しており、それにキヅタが絡む意匠に象られている。葉の間には、カエル、甲虫、カタツムリ、トカゲ、リスなど様々な動物が隠れている。
小鳥小屋跡
シュトュックガルテンの南部、エリーザベト門のすぐ隣に小鳥小屋 (Vogelhaus) が造られた。後に小鳥小屋はオランジュリ︵Orangerie、オレンジなど暖かい地方の植物を育てるための温室︶に改築された。18世紀の初めには堀まで拡張され、エリーザベト門もその敷地の一部に含まれるようになった。オランジュリハウスを、ホストルームを持つ3階建てのゲストハウスに改築する案が立てられたがプファルツ選帝侯の宮廷はこれを拒否した。現在は西壁の一部と広さを示す地面の板石が遺るだけである。オランジュリの植物は1725年にシュヴェツィンゲン城に運ばれた。
オランジュリの撤去に対する同意は1805年に選帝侯が訪れた際に与えられた。その後シュトュックガルテンはフォアホーフやテラスガルテンと一体の庭園施設として統合され、公共の公園として一般に開放された。
﹃イチョウの葉﹄の自筆原稿
ゲーテは友情と共にイチョウの葉を贈り、その形について語ったと言われている。フランクフルトの友人で銀行家のヨハン・ヤーコプ・フォン・ヴィレマーの3番目の妻で、自分よりも20歳以上若いマリアンネ・フォン・ヴィレマーへの愛情表現として、彼はイチョウの葉を贈ったのである。ゲーテと親交のある芸術収集家で作家のズルピーツ・ボアスレは日記にゲーテの詩 "Gingo biloba" ︵﹃イチョウの葉﹄︶の成立過程について記述している。
﹁気持ちの良い夕方。ゲーテはヴィレマーに友情の証としてこの街のイチョウの葉を一枚贈った。イチョウの葉は、1つだったものが2つの部分に分かれていったのか、2つのものが1つになったのか分からない。そんな思いをこの詩に込めたのである。﹂
それはこんな詩である。
イチョウの葉 (Gingo Biloba)
﹃東の国から私の庭に
植え替えられたイチョウの木の葉は
その秘められた意味で
知恵あるものを喜ばす
...﹄
ゲーテが2枚のイチョウの葉を貼り付けた﹃イチョウの葉﹄の原稿は、現在デュッセルドルフのゲーテ博物館で目にすることができる。1795年に植えられて1815年9月にゲーテがその葉をヴィレマーに贈ったイチョウの木は、1928年にはまだ﹁ゲーテが、素晴らしい詩を捧げたまさにその木﹂であったが、今はもうない。現在の木は1936年に植えられたものである。
Jacques Fouquièresが描いた城館庭園︵1620年 ︶
ラテン語でホルトゥス・パラティヌス︵Hortus Palatinus、プファルツ選帝侯の庭︶という名が付けられている城館庭園 (Schlossgarten) は、選帝侯フリードリヒ5世の命令に従いサロモン・ド・コウによって建設された。この庭園は中世後期のハーゼンゲルトライン︵Hasengärtlein、直訳すると﹁ウサギの小庭﹂︶と呼ばれた砦の庭園を拡張したものである。そのために大規模な測量がなされた。また、城の防衛力は低下した。フリードリヒがベーメン王となりプラハに移ると、ホルトゥス・パラティヌスの造営は中止された。従ってこの庭園は完成されておらず、絵画によってパーテアの形や構成が遺されているだけである。ホルトゥス・パラティヌスは当時ヨーロッパで最も有名な庭園の一つで、世界の七不思議に次ぐ﹁8番目の不思議﹂と称された。
選帝侯カール・フィリップは1719年にフリードリヒ5世の庭の一部をバロック庭園に手直しする工事を始めた。
その後、1832年にカールスルーエ工科大学に林業植生学の講座が設けられ、植物栽培への興味は薄れていった。時代が過ぎるにつれ、広葉樹に針葉樹が混ざって植えられるようになり、庭園全体の印象も変化した。
シェッフェルテラス
城館施設の向かい側にある広いシェッフェルテラス (Scheffelterrasse) の上に館を建てる計画があったが、これは実現しなかった。テラスの基台は高さ20mのアーチ状の構造をしており目をひく。この施設により、この庭園はフリーセンベルクまで拡張できたのである。
シェッフェル記念碑
シェッフェルテラスの名前は、1891年から1942年までここに建てられていた詩人ヨーゼフ・ヴィクトール・フォン・シェッフェルの銅像にちなんで付けられた。この像は1942年に鋳つぶされた。1976年6月26日に新しいシェッフェル記念碑の除幕式が行われた。この記念碑は以前のものに比べると慎ましいもので、石材にメダル状にシェッフェルの肖像が嵌め込まれている。これはカールスルーエにあるシェッフェルの墓から型どりされたものである。
シェッフェルはハイデルベルクを詠った多くの詩を遺している。なかでも﹁Alt-Heidelberg, du feine﹂︵古きハイデルベルクよ、おまえは素晴らしい︶は、アントン・ツィマーマンによって作曲され、ポピュラーな学生歌となった。シェッフェルは、ヘイデルベルクではとても有名で、様々な場所に肖像がある。1942年以後、そうしたなかシェッフェルテラスだけにはシェッフェル記念碑がないという状況にあった。そこである学生たちがシェッフェルの像を創り、シェッフェルテラスに設置しようと決心した。次の朝、彼らは地面に肖像を描いた。一人が城の管理人を呼び、悪戯っぽく尋ねた。
これが有名なハイデルベルク城の小人ペルケオかな?
城の役人はこう答えた。
いや、そうじゃない。でも、まあ、この人も大酒飲みには違いないな。[13]
シェッフェルテラスの反対側でバルコニーは右に折れ、方形堡がある。サロモン・ド・コウはここにオープン・ホールを持つ塔状の建物を建てるつもりであった。ここからは、城、ハイデルベルク市街、ネッカー渓谷を見渡す感銘深い眺望が得られるからである。だが、1619年の基礎工事の段階で工事は中止された。
ゲーテとマリアンネのベンチ
1922年の初め、メインテラスの東端に石灰岩でできたゲーテとマリアンネのベンチが設置された。この石造りのベンチは、ハイデルベルク大学の教授らが1919年に、西東詩集の出版100周年記念に呼びかけたものである。背もたれには、オリエントで恋の使者とされるヤツガシラが刻まれ、ベンチの上にはこう刻まれている。
Und noch einmal fühlet Hatem Frühlingshauch und Sommerbrand
︵そして再び春の息吹や夏の灼熱を感じた︶
これは、ゲーテがマリアンネ・フォン・ヴィレマーと出会った時の思いを引用したものである。
ベンチの近くには、ゲーテの頭像が掲げられた高さ2mのゲーテ記念碑がある。この記念碑は1987年5月5日のヨーロッパの日に除幕された。石造の基台にはこう記されている。
Auf der Terrasse hoch gewölbten Bogen war eine Zeit sein Kommen und sein Gehn
︵高いヴォールトのアーチが支えるテラスの上には、私に去来した一つの時代が載っている︶
この﹁高いヴォールトのアーチが支えるテラス﹂とはシェッフェルテラスのことである。
マテウス・メーリアンの版画に描かれた1645年頃のフリーゼンター ル。向かって左から上に城館庭園、右が内庭部である。
フリーゼンタール (Friesental) は、城郭施設に囲まれている。1750年の文書にはフリーゼンタールは﹁Thier-Garthen﹂︵動物園︶と記録されており、ノロジカやシカが棲んでいた。城に向かう斜面はかつて﹁冷たい谷﹂と呼ばれていた。これはあまり陽がささない場所であったからである。
東側にはカルメル会の森があり、学僧の宿舎に選帝侯ループレヒト1世が創設したヤーコプ礼拝堂のわずかな遺構が往時のカルメル会修道院をしのばせる。カルメル会の教会にはヴィッテルスバッハ家の墓所もあった。ここに葬られていた人物は、ミュンヘンに居館を持つバイエルン王の直系の祖先にあたるため、1805年にその棺はミュンヘンの宮廷教会である聖ミヒャエル教会に移された。
ディッカー塔前の石碑
ディッカー塔前の石碑
フリーセンベルクに隣接する城の東側には選帝侯軍砲兵隊の射撃練習場が設けられていた。選帝侯カール2世は射撃訓練を楽しみにしていた。1681年にディッケン塔近くに設置された石碑には射撃訓練中のできごとが誇らしげに記されている。1681年1月22日に、向かい合った2人の射撃手が同時に撃ち合ったところ、弾丸が空中で互いに命中したというものである。この石碑は後にシュトュックガルテンに移され、多くの人にこのできごとを伝えている。
シュロスベロイヒトゥンク
年に数回シュロスベロイヒトゥンク︵Schlossbeleuchtung、直訳すると﹁城を照らす﹂︶という催しが開催される。これは城を中心として取り囲むように花火を上げて、1693年の城の破壊を演出する催しである。1878年に、マーク・トウェインは著書﹃ヨーロッパ放浪記﹄の中でシュロスベロイヒトゥンクについて言及している[3]。
最初のシュロスベロイヒトゥンクは、1815年6月にオーストリア皇帝フランツ2世、ロシア皇帝アレクサンドル1世、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、バイエルン皇太子ルートヴィヒほか多くの貴顕が何週間にもわたってハイデルベルクに滞在した際に催された。この会合で、神聖同盟締結の流れが決定された。出席している元首らのために市当局は城のライトアップを決めた。この時は単純に城の内庭で木材や燃えやすい布類に点火するだけであった。
1830年5月に行われた続いてのシュロスベロイヒトゥンクは、オーストリア皇帝、ロシア皇帝およびプロイセン王がハイデルベルクを訪れた際に、城の庭園技師メッツガーによって企画された。現在のシュロスベロイヒトゥンクは、プファルツ継承戦争時のフランスの将軍 Ezéchiel de Mélac による1689年と1693年のハイデルベルク城の破壊を思い起こさせるものになっている。
ハイデルベルクの新聞ライン=ネッカー・ツァイトゥンクはシュロスベロイヒトゥンクの歴史的背景と現在について記述している。
﹁何十年も前からシュロスベロイヒトゥンクのたびに約50人の消防隊員が協力者として城に配置されている。これは名誉な任務であり、多くが父から子や孫へと継承される。ホルシュト・ハッセルバッハは30年ほど前に手伝えないだろうかと尋ねてみた。それ以来彼はシュロスベロイヒトゥンクに参加する機会を逃したことはない。聖霊教会の時計が22時15分になると信号のロケットが打ち上げられる。これは﹁用意!﹂の合図である。そこで協力者達は全員導火線に点火する。そしてそのきっかり30秒後に2度目の発射となり、協力者達はベンガル花火の導火線に火を付ける。すると赤い光の中に城が燃え立つように輝くのである。﹂
— ライン=ネッカー・ツァイトゥンク 2005年8月30日付[14]
薬局塔[編集]
鐘楼[編集]
ランタン風の頂上部に広く鳴り響く鐘が取り付けられている。 城のこの角は兵器庫によって強固に強化され、鐘楼の上部は居住目的に利用されるようになった。ルートヴィヒ5世は鐘楼の高さを2倍に拡張し、大きな居住空間を獲得した。1490年頃の比較的低い砲塔に後から非軍事用の建物が増築されたのである。これにより古い屋根は役に立たなくなり、壁が高くされ、方形屋根が建設された。この望楼建築に設けられた窓からはネッカー渓谷の見事な眺望が見渡せる。 城の北東角にある鐘楼は、この城を象徴する建造物となっている。1764年6月25日の夜に落雷が直撃した。これに続いて起こった火災で、この塔は外壁まで全壊した。その他の施設[編集]
アルタン︵テラス︶[編集]
堀︵ヒルシュグラーベン / ハルスグラーベン︶[編集]
ウンテラー・フュルステンブルンネン[編集]
この泉の水は、マンハイムの選帝侯宮廷で用いられていた。 ウンテラー・フュルステンブルンネン︵Unterer Fürstenbrunnen、下の選帝侯の泉︶は選帝侯カール・テオドールによってオーベラー・フュルステンブルンネンを補完するものとして造らせたもので、この水はマンハイムの選帝侯宮廷に飲み水として運ばれていた。水はマンハイムまで約20kmの道程を夜間ラバによって運ばれた。︵オーベラー・フュルステンブルンネンの節参照︶ この施設は花崗岩を掘り抜いたもので、鉄の扉で閉ざされている。その扉の上に掲げられたクロノグラムから1767年という年号が読み取れる。カゼマッテン[編集]
武器庫とカール砦[編集]
庭園[編集]
シュトュックガルテン[編集]
エリーザベト門[編集]
小鳥小屋︵オランジュリ︶[編集]
ゲーテ記念碑[編集]
旧小鳥小屋の壁跡に1961年に記念板が取り付けられた。これは城内で最も古い記念板の一つであった。この碑板にはマリアンネ・フォン・ヴィレマーがヨハン・ヴァルフガング・ゲーテと最後に逢った際の想いを詠った詩句の一部が刻まれている。1824年8月28日のゲーテ75歳の誕生日にこの城で書かれた9連の詩のうち、3連が碑文に採り上げられた。 このゲーテ記念碑の真向かいにイチョウの木がある。ゲーテはイチョウの葉をマリアンネ・フォン・ヴィレマーに友情の徴として贈った。その詩は後に西東詩集のズライカの書に収められた。城館庭園︵ホルトゥス・パラティヌス︶[編集]
シェッフェルテラス[編集]
ゲーテとマリアンネのベンチ[編集]
フリーゼンタール[編集]
観光[編集]
シュロスベロイヒトゥンク[編集]
ハイデルベルク城演劇祭[編集]
夏のハイデルベルク城演劇祭では、城の内庭で様々な種類の芸術が野外上演される。ハイデルベルク城演劇祭は、ハイデルベルク市立劇場により組織され、1926年にウィリアム・シェイクスピアの﹃真夏の夜の夢﹄の公演で幕を開けた。 外国、特にアメリカ合衆国では、架空の王子の恋物語であるカール・フランツ・フォン・カールスベルクのオペレッタ﹃学生王子﹄(Der Studentenprinz) が有名である。ハイデルベルクで勉強中の皇太子が大家の娘に夢中になるが、国家的な事情で交際を諦めなければならなかったという物語である。この作品は、ハイデルベルク城演劇祭では英語︵またはドイツ語の台詞と英語の歌︶で上演され、国外からの観客を集めている。この作品はドイツ国内ではほとんど知られていない。このオペレッタはヴィルヘルム・メイヤー=フェルスターの芝居﹃アルト・ハイデルベルク﹄に基づいている。この芝居は1901年11月22日にベルリン劇場で初演された。日本では、明治時代にはドイツ語を学ぶ学生の必読書とされていた作品で、ハイデルベルクとハイデルベルク城の知名度を上げるのに大きく貢献した作品である。 この他、城では無声映画の上映会も行われており、その際には歴史的なオルガンが伴奏に用いられる。脚注[編集]
- ^ 『世界でいちばん美しい城、荘厳なる教会』(エムディエヌコーポレーション 2013年)pp.50-55.
- ^ ヴィクトル・ユーゴー 『ハイデルベルク』
- ^ a b マーク・トウェイン『ハイデルベルク』
- ^ ライン=ネッカー・ツァイトゥンク 2009年3月6日付け
- ^ Hans Weckesser: „Geliebter Wasserturm.“
- ^ Georg Dehio: „Handbuch der Deutschen Kunstdenkmäler. Baden-Württemberg I. Die Regierungsbezirke Stuttgart und Karlsruhe“. Bearbeitet von Dagmar Zimdars u. a.
- ^ Oechelhauser: „Das Heidelberger Schloss“, 1920
- ^ 水野久美『いつかは行きたいヨーロッパの世界でいちばん美しいお城』大和書房、2014年、145頁。ISBN 978-4-479-30489-0。
- ^ ラインハルト・ホペ『故郷、ハイデルベルク』
- ^ ギュンター・ハイネマン: 『ハイデルベルク』
- ^ ダニエル・ヘベーレ『悪魔の噛み跡』
- ^ 騎士の足跡
- ^ http://www.heidelberger-altstadt.de
- ^ http://www.schoenmehl.de/presse/main.html
参考文献[編集]
- Michael Falser: Denkmalpflege der deutschen Kaiserzeit um 1900: Das Heidelberger Schloss, ›Denkmalwuth‹ und die Kontroverse zwischen Georg Dehio und Alois Riegl. In: Michael Falser: Zwischen Identität und Authentizität. Zur politischen Geschichte der Denkmalpflege in Deutschland. Thelem Verlag, Dresden 2008, S. 43–70, ISBN 978-3-939-888-41-3.
- Uwe Heckmann: Romantik. Schloß Heidelberg im Zeitalter der Romantik. Schnell & Steiner 1999, ISBN 3-7954-1251-X
- Hanns Hubach, M. Quast: Kurpfälzisches Skizzenbuch. Ansichten Heidelbergs und der Kurpfalz um 1600. Braus, Heidelberg 1996.
- Victor Hugo: Heidelberg. Societäts-Verlag, Frankfurt am Main 2003, ISBN 3797308256
- Julius Koch, Fritz Seitz (Hrsg.): Das Heidelberger Schloß. Mit Genehmigung des Großherzoglich Badischen Ministeriums der Finanzen. 2 Bde., Arnold Bergsträsser, Darmstadt 1887 u. 1891.
- Karl Kölmel: Heidelberger Schloss-Führer. Brausdruck 1956. ISBN B0000BKBI8
- Mittelalter. Schloss Heidelberg und die Pfalzgrafschaft bei Rhein bis zur Reformationszeit. Schnell & Steiner, Regensburg 2002.
- Mittheilungen des Heidelberger Schloßvereins. 7 Bde., 1886-1936.
- Elmar Mittler (Hrsg.) Heidelberg - Geschichte und Gestalt. Universitätsverlag C. Winter, Heidelberg 1996.
- Adolf von Oechelhäuser: Das Heidelberger Schloss. Verlag Brigitte Guderjahn, Heidelberg, 9. Aufl. 1998 (unveränderter Nachdruck der 8. Aufl. von 1987, bearb. von Joachim Göricke).
- Adolf von Oechelhäuser (Bearb.): Die Kunstdenkmäler des Amtsbezirks Heidelberg (Kreis Heidelberg). (= Die Kunstdenkmäler des Großherzogtums Baden, Bd. 8, Abt. 2), Mohr, Tübingen 1913.
- Burkhard Pape: Die Befestigungen am Heidelberger Schloss. Bau, Architektur und Funktion der Fortifikationen und die Geschichte der Belagerungen. Verlag Stefan Wiltschko, Neckargemünd-Dilsberg 2006, ISBN 3-00-017727-2
- Marc Rosenberg: Quellen zur Geschichte des Heidelberger Schlosses. Heidelberg 1882.
- Franz Schlechter, Hanns Hubach, Volker Sellin: Heidelberg. Das Schloß. Umschau Buchverlag, 2001, ISBN 3894661445
- "Das Schloß gesprengt, die Stadt verbrannt" - Robert Salzer, Zur Geschichte Heidelbergs in den Jahren 1688 und 1689 und von dem Jahre 1689 bis 1693. Nachdruck der Ausgaben von 1878 und 1879. Kommentiert von Roland Vetter, Verlag Brigitte Guderjahn, Heidelberg 1993.
- Matthias Wallner und Heike Werner: Architektur und Geschichte in Deutschland. S. 66-67, München 2006, ISBN 3-9809471-1-4
- Gerhard Walther: Der Heidelberger Schlossgarten. Universitätsverlag Winter, Heideöberg 1990, ISBN 3825370119
- Wolfgang Wiese, Karin Stober: Schloss Heidelberg. Führer Staatliche Schlösser und Gärten Baden-Württemberg. Deutscher Kunstverlag, München Berlin 2005, ISBN 3-422-03107-3
- Wolfgang Wiese, Karin Stober: Heidelberg Castle. Führer Staatliche Schlösser und Gärten Baden-Württemberg (englische Ausgabe). Deutscher Kunstverlag, München Berlin 2005, ISBN 3-422-03108-1
- Adolf Zeller: Das Heidelberger Schloß. Werden, Zerfall und Zukunft. In zwölf Vorträgen. G. Braun, Karlsruhe 1905.
これらの文献は、翻訳元であるドイツ語版の参考文献として挙げられていたものであり、日本語版作成に際し直接参照してはおりません。
関連項目[編集]
- 化学の結婚 - 歴史家フランセス・イエイツによると、作中の城のモデルがハイデルベルク城だと言及している。
外部リンク[編集]
- ハイデルベルク城のウェブサイト(ドイツ語、英語)
- ハイデルベルク城オーディオガイドの紹介(ドイツ語、英語、フランス語、スペイン語、日本語、中国語、ロシア語)
- ハイデルベルク城サービスセンター(ドイツ語)
- Die Badische Heimat e.V によるハイデルベルク城ガイド(ドイツ語、写真が豊富)
- ドイツ薬業博物館(ドイツ語、英語、日本語)
- シュテファン・ホッペ「ハイデルベルク城の建築」ケルン大学文化史研究所(ドイツ語)
- ハイデルベルク写真集
- http://www.heidelberger-altstadt.de/html/schloss.html ハイデルベルク城、シュロスベロイヒトゥンクのスライドショーがある
- ゲーテのポータルサイト