リメス
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リメス(羅: Limes)は、ローマ帝国時代の防砦システムであり、ローマ領の境界線を示すものでもあった。リメスは、ローマ帝国全土に張り巡らされていたが、世界遺産に登録されたドイツのリメスが著名である。なお、長音読みのリーメス(羅: Līmes)(ラテン語発音: [ˈliː.mes])と表記されることもある。
概要[編集]
古代ローマ軍 紀元前753年 – 西暦476年 | |
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攻城戦 | |
国境防衛 (城壁、ハドリアヌスの長城、アントニヌスの長城) | |
リメスはラテン語で境界を意味し、英語の﹁Limit﹂の語源でもある。リメスは英語﹁rim﹂とも同源であり、部隊の出動拠点︵駐屯地︶を中心として防衛範囲︵rim:輪︶をもつ部隊配置をさす。最も広義にはローマ帝国の国境全域を表し、﹁ハドリアヌスの長城﹂もリメスの一種となる。なお、狭義ではドイツの長城跡︵リメス・ゲルマニクス︶を指す。
リメスの建設は、1世紀末頃から始まり、目的としては、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るためであった。リメスは、ローマ帝国の繁栄と衰退を象徴する文化的景観が評価され、2005年7月にイギリスのハドリアヌスの長城が拡張される形で、物件名﹁ローマ帝国の国境線﹂として、ユネスコの世界遺産に登録された。
リメス・ゲルマニクスの位置
リメスの建設はマイン川の南岸付近から開始された。この地域に住むローマに友好的な弱小部族マティアチ族から土地を買い上げ、マティアチ族に対して支配的でローマに敵対する部族カッティ族との間に防塁を築いたのだった。この工事は当然カッティ族の反感を招き、戦闘が行われたが、ローマ側が辛くもこれに勝利した。しかし皮肉にも辛勝であったことが防塁の重要性をさらに強調することとなった。
こうしてマイン川の南岸 ヴェルト[1]付近から南下し、ネッカー川沿岸 バート・ヴィンプフェン [2]付近にいたる防塁を築き、ネッカー川に沿ってシュトゥットガルト付近まで補助部隊の基地を配置した。この部分をネッカー・オーデンヴァルト・リメスと呼ぶこともある。
以後もリメスは徐々に拡張され続けた。マイン川の北側では、ライン川のボンとコブレンツの中間付近から東に入り、ハーナウ付近でマイン川に達する防塁が築かれる。この部分をゲルマニア・スペリオル・リメスと呼ぶ。ネッカー・オーデンヴァルト・リメスの南側は、シュトゥットガルトから東に折れて、北に張り出したゆるやかな弧を描きながらレーゲンスブルクのやや上流アイニンク[3]でドナウ川にまで達する防塁となった。これをレティシャー・リメスと呼ぶ。ネッカー・オーデンヴァルト・リメスはその東側のオーデンヴァルトを包み込んで東に進出し、北はヴェルトからマイン川を10kmほど上流に遡ったミルテンベルク[4]からネッカー川とほぼ平行に南南東へ直線的に延び、ロルヒ[5]でドナウに至るリメスに合流する形となった。
こうした全長580kmを越えるリメスの全容が完成するのはハドリアヌス帝の時代になってからであり、アントニヌス・ピウス帝の時代まで改良・強化が加えられ続けた。
リメスの構造、ザールブルク付近
復元されたリメスの物見櫓
復元されたザールブルク砦