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全琮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
全琮

右大司馬・左軍師・徐州牧・銭唐侯
出生 建安3年(198年
揚州呉郡銭唐県
死去 赤烏12年(249年
拼音 Quán Cóng
子璜
主君 孫権
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  198?[1] - 249?

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寿


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退

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全柔
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全琮           ?       
┣━━┳━━┳━━┓   ┃
全緒 全奇 全懌 全呉 全端
┣━━┳━━┓
全禕 全静 全儀全尚全紀との続柄は不詳である。

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寿  81992 - 93678

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  1. ^ 建康実録
  2. ^ この当時、全琮は12歳前後であり、またこの頃に長男の全緒が生まれているという
  3. ^ 三国志』蜀志「龐統伝」
  4. ^ 『三国志』呉志「周魴伝」
  5. ^ a b 『三国志』呉志「呉主伝」
  6. ^ 呉録
  7. ^ 江表伝
  8. ^ 呉書
  9. ^ 『江表伝』
  10. ^ 『三国志』呉志「朱桓伝」
  11. ^ 『三国志』呉志「周瑜伝」孫権は周護の性格と行いが陰険で禍を及ぼすとして、これを拒否している。
  12. ^ 『三国志』呉志「顧雍伝」
  13. ^ 『三国志』呉志「顧雍伝附顧譚伝」、およびそれが引く『呉録』全琮父子の抗議を受けた孫権は、張休を処罰せざるを得ないと考えた。しかし、顧譚の才能は惜しかったため、顧承を許させるために顧譚に群臣の前で謝罪させることを考えた。しかし顧譚はそれを堂々と拒絶し、名指しはしなかったものの讒言者を堂々と批判したという。役人が、顧譚には出鱈目を述べた不敬の罪があるため死刑に相当すると報告したが、孫権は顧雍に免じて流罪で済ませたという
  14. ^ 『三国志』呉志「呉主五子伝」が引く『通語』
  15. ^ 『三国志』呉志「陸遜伝」
  16. ^ 『建康実録』には享年52との記載もあり、これに従うと生年は198年となる。
  17. ^ 『呉書』
  18. ^ 『三国志』「呂範伝」