応瑒
応 瑒︵應瑒、おう とう、? - 建安22年︵217年︶︶は、中国後漢末期の政治家・文人。字は徳璉。本貫は豫州汝南郡南頓県︵現在の河南省周口市項城市︶。建安七子の一人。父は応珣。弟は応璩。
生涯[編集]
祖父の応奉、伯父の応劭は学問によって名を馳せ、父の応珣は司空掾を務めた。 官歴は曹操により召し出され、丞相掾属から始まる。平原侯︵曹植︶の庶子、次いで五官中郎将︵曹丕︶の文学となる。文章を尊んだ曹丕に親愛されたが、建安22年︵217年︶、疫病により死去した。 弟の応璩、その子の応貞らも文章に長じ、応瑒と共に﹃三国志﹄王粲伝に付される他、応貞は﹃晋書﹄にも立伝される。評価[編集]
曹丕はその著書﹃典論﹄の中で、現代の文学者の7人︵いわゆる建安七子︶として名を挙げた。﹁調和は取れているが力強さに欠く﹂と欠点にも触れている。呉質への手紙の中では﹁常に優れた文才を発揮して著述の意志を抱き、その才と学は書を著すに足るものだったが、立派な志は遂げられなかった﹂と記し、その死を悼んだ。 曹植も楊修への手紙の中で、現代の文学者の内の1人として名を挙げ、﹁德璉は大魏で才を現し﹂たと評し、楊修もまたそれらの評を認めている[1]。出典[編集]
- 陳寿『三国志』巻21 魏書 王粲伝附応瑒伝
脚注[編集]
- ^ 『三国志』魏書 陳思王植伝注『典略』