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張紘︵ちょうこう︶
●中国後漢末期の官吏。本項で解説する。
●中国明の武官。嘉靖35年︵1556年︶、倭寇が黄浦を犯した際に戦死した。︵世宗紀︶
張 紘︵ちょう こう︶は、中国後漢末期の政治家、学者。字は子綱。徐州広陵郡射陽県の人。子は張靖・張玄。孫は張尚。孫策・孫権に仕えた。﹃三国志﹄呉志に伝がある。
若い頃、都に出て学問を修めた[1]。その後、故郷に戻り、太守の趙昱から孝廉に挙げられ、茂才に推挙された。三公の役所から招聘を受けたが出仕しなかった[2]。
戦乱を避けて江東に移住した。後に孫策が挙兵したとき、初めて仕官した[3]。孫策は上奏して正議校尉に任命した。孫策の丹陽討伐に従軍し、このときに孫策が陣頭で指揮を執ろうとしたため、﹁総大将たる者が最前線に立つべきではない﹂と諌めた。
張昭や同郷の秦松・陳端と共に、孫策の参謀として仕えた。張昭と張紘のうち、どちらかが随行するときは、必ずもう一人が留守を守ったという︵﹃呉書﹄︶。呂布が徐州牧となると、張紘を茂才に推挙して呼び寄せようとしたが、張紘は呂布を嫌悪しており、また孫策も張紘を引き留めたいと思っていたため、孫策が代わって呂布に断りの手紙を書いて送ったという︵﹃呉書﹄︶。
建安4年︵199年︶、孫策の命で許都に使者として赴いた時、曹操から侍御史の位を与えられ、留まるよう要請された。その時期に孔融達と親しく交際した[4]。孫策の死後、その隙を突いて曹操が攻めようとした時、﹁他人の喪に付け込むべきではない。孫権に恩義を施すべきです。﹂と主張した。曹操はその言葉を聞き出陣を取り止め、孫権に討虜将軍の地位と会稽太守の職を与えた。曹操はまた、孫権を自分の傘下に収めようと考えていたため、張紘を使者として孫権の元に送った。孫権は自らの下に戻った張紘を会稽東部都尉に任じた[5]。
以降、孫権に厚く信頼され、常に﹁東部﹂との尊称で呼ばれた︵﹃江表伝﹄︶。また、張昭と共に計略や外交の任務に当たった︵﹃呉書﹄︶。孫権の母の呉夫人からも孫権のことを託され︵﹃呉書﹄︶、孫権の日常的な振る舞いについても諫言をし、その行状を改めさせた。
文章作成の能力に長けていたため、文書の起草や史書の記録に携わり、詩や賦といった文学作品も多く残した。陳琳にも賞賛されている︵﹃呉書﹄︶。
恩人である故郷の太守趙昱はすでに笮融により殺害されていたが、当時張紘には力がなく、笮融を討てないまま悲憤するしかすべがなかった。このため会稽東部都尉に任じられた後は役人を派遣し、趙昱の故郷の琅邪国の相の臧覇に依頼して、趙家の縁戚の子に祭祀を継がせるよう取り計らった。
孫権は江夏に遠征した際、張紘を都に呼び寄せて留守を任せ、都尉としての仕事もこなさせた。その働きに対し、孔融は手紙を送り功績を称えた。孫権が、張紘の留守役としての功績を称し褒賞を与えようとしたが、張紘は固辞した。
孫権が合肥に出兵したとき、長史に任命され従軍した。孫権が軽装騎兵のみを率いて前線に立とうとしたため、これを戒めた。また、合肥から帰還した翌年にも出兵しようとしたため、再び戒めた。
孫権に呉郡から秣陵︵後の建業︶へ遷都するよう進言したため、建安16年︵211年︶に遷都が実施された︵﹁呉主伝﹂︶[6]。張紘は呉郡に、孫権の家族を迎えに行く任務を与えられたが、呉郡へ向かう途中で病に罹り、間もなく死去した。60歳であった。死の直前、子の張靖に孫権への遺書を託した。その手紙を読んだ孫権は涙を流したという。
小説﹃三国志演義﹄では、張昭と共に﹁江東の二張﹂と称される在野の賢人として登場する。先に仕えていた張昭の説得で、孫策に仕えている。
(一)^ ﹃呉書﹄では、太学で博士の韓宗に学び、儒教の各経典を修めたとある。
(二)^ ﹃呉書﹄では、大将軍の何進、太尉の朱儁、司空の荀爽から招聘を受けたとある。
(三)^ 張紘は母の喪中であったが、孫策が直々に出向いて臣に迎えたため、孫策に丹陽を中心に挙兵し、江東を取るよう奨めたという︵﹁破虜討逆伝﹂が引く﹃呉歴﹄︶
(四)^ ﹃呉書﹄によると、許都の人達と語らうときも、孫策の功績と漢室に対する忠義を強調することを忘れなかったとある。
(五)^ 曹操が張紘を九江太守に任命しようとしたため、張紘は病気と称してこれを固辞した。
(六)^ ﹃江表伝﹄によると、秣陵に王者の気が見えたためだという。後に呉郡を訪問した劉備も同様の発言をしたため、孫権は賢者の考えることは同じなのだと喜んだという。一方﹃献帝春秋﹄では、孫権自身の意思で軍事的な理由から遷都を実施したとある。