魯粛

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魯粛
清朝時代の魯粛の肖像
朝時代の魯粛の肖像
後漢
漢昌太守・横江将軍・益陽侯
出生 熹平元年(172年
徐州下邳国東城県
(現:安徽省定遠県南東部)
死去 建安22年(217年
拼音 Lŭ Sù
子敬
主君 袁術孫策孫権
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脚注[編集]

  1. ^ 『三国志』では西晋に下邳郡を分割して建置された臨淮郡となっている
  2. ^ なお、孫権にわざと降伏を勧めて挑発し、孫権が自らを斬ろうとしたことを喝破したという逸話もある(『魏書』『九州春秋』)。東晋の史家孫盛は『呉書』および『江表伝』には、魯粛が初めて孫権と会見したとき、すでに曹公を防ぐべきと説いて帝王の計略を論じており、劉表が死ぬと、またも使者を立てて情勢を観察するよう要請したとあり、今さら意見を変えて曹公の出迎えを勧めて挑発することなどありえないのである。しかも、このとき出迎えを勧める者は数多くいたのに、そのくせ魯粛一人を斬ろうとしたなどと言うのは、その論理に合わぬことであるという見解を述べている。
  3. ^ 「周瑜伝」、『漢晋春秋』
  4. ^ 『周瑜伝』周瑜は病気にかかり、孫権に牋を送りました「命の長短は天命なので、誠に惜しむには足りません。ただ微志をまだ展開できず、孫権の命令を奉じられなくなったことを恨むだけです。今は曹操が北におり、辺界が静かになっていません。また、劉備が寄寓しているのは、虎を養っているようなものです。天下の事はまだ結末が分からず、これは朝士が食事を遅らせてでも職務に励む時であり、至尊(孫権)が絶えず思慮する時でもあります。魯粛は忠烈で、事に臨んで疎かにしないので、周瑜に代わることができます。もし進言が採用されるなら、私は死んでも不朽です。いま天下に事変が起ころうとしており、それが朝から晩まで周瑜の心底憂慮していることです。どうか至尊におかれましては、まず事態の勃発せぬうちに備えられ、それからのちお楽しみ遊ばしませ。いま既に曹操と敵対なさっており、劉備は近く公安に駐在して国境を接しており、百姓たちはまだ懐いておりませぬから、良将を手に入れてその地を鎮撫されるべきです。魯粛の智略は任務を遂行するに充分でございますので、なにとぞ周瑜の後任としてくださいますよう。周瑜の死んだ日でも思いを残すことはないのでございます。」
  5. ^ 「魯粛伝」『資治通鑑』
  6. ^ 『輿地志』『元和郡県志』
  7. ^ 「魯粛伝」が注引く韋昭の『呉録』魯粛は関羽に「始め、豫州(劉備)と長阪で会見した時、豫州の衆は一校(二千人)にも当たらず、計が尽きて考えが極まっており、士気形勢が挫折衰弱し、遠くに逃げようと図り(劉備は呉巨に投じようとしていた)、今日のようになるとは望んでいませんでした。主君(孫権)は豫州の身に置き場がないことを同情したため、土地や士民の力を惜しまず、身を守る場所を有すようにさせて患いを解決させました。ところが豫州は自分勝手に情を飾り、徳を失って友好を破壊しました。今、既に益州において主上の助けがあったおかげで益州を取ることができ、また、荊州の地も割いて兼併しようとしていますが、これは平民でも行うのが忍びないことです。人や物を統領する主ならなおさらです」と反論した。
  8. ^ 『走馬長沙呉簡』『長沙風土碑』『紹熙長沙志』
  9. ^ 名臣20選には、荀彧荀攸袁渙崔琰徐邈陳羣夏侯玄王経陳泰(以上)、諸葛亮龐統蔣琬黄権(以上)、周瑜張昭魯粛諸葛瑾陸遜顧雍虞翻(以上)を選出している
  10. ^ 魯粛は「昂昂子敬 抜跡草萊 荷檐吐奇 乃構雲臺」と謳われている