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滕胤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
滕胤

大司馬・高密侯
出生 生年不詳
死去 太平元年(256年
揚州丹陽郡建業県
拼音 Téng Yìn
承嗣
主君 孫権孫亮
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殿[8]

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寿  81992 - 93678

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  1. ^ 陳寿裴松之注)の『三国志』呉志 滕胤伝は、物語として次の孫峻伝を経て孫綝伝に続く特殊な形式となっており、滕胤が殺害されたことは孫綝伝に記述されている。これについて『三国志』の日本語訳者小南一郎ちくま学芸文庫版、初版1993年)による解説で、『三国志』呉志 が、韋昭らが書いた『呉書』に基づいていることを挙げ、陳寿が『呉書』の形式に則ったからだという説と、『呉書』には記述されていない出来事であったため、この項のみ陳寿が独自に補ったためだ、という二つの説を挙げている。
  2. ^ a b 『呉書』
  3. ^ 呉録
  4. ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝 の注に引く『呉歴』によれば、この時、諸葛恪に対して身辺に気をつけるように警告したが、諸葛恪はこれを聞き入れず、殺されてしまったという。しかし、諸葛恪伝本文には「滕胤は暗殺計画を知らずに、孫峻が諸葛恪を殺すために開催した酒宴に出るように諸葛恪に勧めた」と書かれている。諸葛恪伝の注に引く『異同評』によれば、歴史家の孫盛は『呉歴』の記述の方が優れていると推測している。
  5. ^ a b 『三国志』呉志 孫峻伝
  6. ^ 『呉録』によると、群臣達は孫峻を太尉、滕胤を司徒にすることを望んだが、孫峻に諂う者がいたため、孫峻のみが丞相となったことに大きく落胆したとある。
  7. ^ 『三国志』呉志 孫綝伝
  8. ^ 『三国志』呉志 諸葛恪伝