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この項目では、後漢の陳留太守について説明しています。魏の張緝の子については「張藐」をご覧ください。 |
張 邈︵ちょう ばく、? - 興平2年︵195年︶︶は、中国後漢末期の政治家。字は孟卓。兗州東平郡寿張県︵山東省泰安市東平県︶の人。弟は張超。﹃三国志﹄では﹁呂布伝﹂に付伝されている。
﹁董卓伝﹂の引く﹃漢末名士録﹄や﹃後漢書﹄の﹁党錮伝﹂によると、漢の八厨の一人であったとある。若い頃から男伊達で気前がよく、困っている者を救うための散財を惜しまなかった[1]。曹操や袁紹と親友のように仲が良く[2]、
頭脳の明晰さと徳行で官界において知られるようになった。また三公の府から招聘を受け、成績優秀という評価を受けた。騎都尉を務めた後は、董卓の名士優遇策の一環として、陳留太守に任命された︵﹁董卓伝﹂︶。
袁紹を盟主として反董卓連合が結成された時、張邈は曹操らと共に参戦した[3]。
張邈は弟や曹操、それに劉岱・袁遺・橋瑁・鮑信と共に酸棗に駐屯したが、大半の諸侯が酒宴ばかりで戦をしようとしなかった[4]。
曹操が戦をするよう呼び掛けると︵武帝紀︶、張邈は鮑信と共に曹操の求めに応じ、部下の衛茲を曹操に同行させた。しかし、曹操達は董卓軍の徐栄に大敗し、衛茲を戦死させてしまった。また、酸棗の軍勢も兵糧が尽きたため解散となった︵﹁後漢書﹄︶。
これ以前、袁紹は董卓を討つべく集まった諸侯に対し、驕った振舞いを見せた事があった。張邈は袁紹に、己の振る舞いを改めるよう諫めたが、逆に袁紹の怒りを買って殺されそうになった。この時は、曹操が袁紹に取り成したため、危うく難を逃れている。張邈はこの事を知ると、曹操に対し恩義を感じるようになったという。
長安で勃発した政変の結果、呂布は董卓の部下である李傕達に敗れて落ち延び、袁紹の下に身を寄せた。しかしそこで諍いを起こしたため、呂布は袁紹の下からも立ち去ることになった。その後、張邈は呂布と親交を結ぶようになったため、それが原因で袁紹から不興を買うことにつながってしまう。張邈は﹁いつか、曹操が袁紹との友情を優先して、自分を殺すのではないか﹂と、曹操に疑念を抱くようになったという。一方の呂布は張楊の下に身を寄せた。
興平元年︵194年︶、再び曹操は徐州の陶謙を攻めるため本拠を留守にした。この時、張邈は曹操軍の陳宮から﹁今こそ曹操の領地を奪う好機﹂と唆され、また曹操と不仲だった弟にも諭されたため、彼らと結託して呂布を迎え入れ、曹操に対し反乱を起こした。
張邈と呂布は、短期間で曹操の本拠地である兗州の大半を占領した。また、急報を聞きつけ引き返して来た曹操軍を、返り討ちにする事にも成功した。しかし、荀彧・程昱・夏侯惇・棗祗らが守る3城だけは落とせず、曹操の勢力にとどめを刺す事が出来なかった。その後、飢饉が発生したため、両者の争いは一時的に中断された。
翌2年︵195年︶には、勢いを盛り返した曹操に敗れ、兗州から撤退。呂布や陳宮らは、陶謙から徐州を譲り受けていた劉備を頼って落ち延びた。張邈は、陳留に居た弟らと分断されていたため、陳留の一族を救出しようと袁術に援軍を求めに向かったが、部下の裏切りに遭い殺されてしまった。前後して陳留は陥落し、張超など張邈の遺族は、曹操の追及を逃れて雍丘に移った。因みにこの頃、既に曹操が長安の天子から正式な兗州牧に任命されていたため︵武帝紀︶、張邈たちは賊の立場に追い込まれていた。
翌建安元年︵196年︶、ついに雍丘は曹操軍の攻撃によって陥落。張超が焼身自殺し、張邈の三族︵父母・兄弟・実子と養子︶は曹操によって皆殺しの刑に処せられた。
小説﹃三国志演義﹄でも、若干の脚色を除いては、ほぼ同様の描写がなされている。
(一)^ 党錮の禁参照。
(二)^ 袁紹とは、許攸・何顒・伍瓊達と共に﹁奔走の友﹂と呼ばれる契りを結んだとあり︵﹁袁紹伝﹂︶、曹操とは、互いが死んだ時に家族の面倒を見る事を約束するほどに仲が良かったとある。現に193年、曹操が徐州討伐に向かったとき、家族に対し﹁わしに万が一もしものことがあれば、孟卓︵張邈︶を頼れ﹂と述べている。
(三)^ ﹁臧洪伝﹂によると、挙兵後に酸棗で弟や孔伷など一部の諸侯と共に会盟をしている。
(四)^ 当時董卓に仕えていた鄭泰によると、張邈は﹁勉強ばかりして書斎に閉じ籠もり、座敷を覗こうともしない人物﹂と言われている︵鄭渾伝が引く﹃漢紀﹄、﹃後漢書﹄鄭泰伝︶。