甘夫人
甘夫人︵かんふじん、生没年不詳︶は、三国時代の蜀漢の先主劉備の即位前の側室。諱は梅︵めい︶[1]。豫州沛国の人。蜀漢の第2代皇帝である劉禅の母。劉禅が即位すると、皇后の位を追贈された︵そのため甘皇后と呼ばれる場合がある︶。
生涯[編集]
興平元年︵194年︶、劉備が豫州刺史として小沛に移住したころ、側室となった。劉備が何度も正室を失うと、甘夫人は身分の低さから側室のままであったが、最も長く連れ添っていたので、奥向きのことを取り仕切っていた。 建安12年︵207年︶、劉備に従って荊州に赴き、そこで劉禅を生んだ。建安13年︵208年︶、曹操の軍勢が南下し、当陽の長坂で追いつかれると、劉備は甘夫人と幼い劉禅を置き去りにし、逃走した。しかし劉禅と共に趙雲に保護され、難を免れた。 その後、時期は不明だが死去し、南郡に埋葬された。章武2年︵222年︶、甘夫人に皇思夫人と諡して、益州に移葬することになった。しかし、柩がまだ到着しないうちに劉備が崩御し劉禅が即位したため、諸葛亮は頼恭らと諡号を検討し、甘夫人に昭烈皇后と諡した上で、劉備と恵陵に合葬した。 なお厳密には、﹁昭烈﹂は甘夫人自身を示す諡ではない。皇后の追号と併せて﹁昭烈帝の皇后﹂という格式を表すものである。このため、自身に﹁穆﹂と諡された呉夫人は、﹃蜀書﹄において﹁穆皇后﹂と表記され、自身に諡のない甘夫人は﹁甘皇后﹂と表記されるのである。人物・逸話[編集]
﹃拾遺記﹄によれば、白玉のような色白の美貌をもっていたという。貧しい家で育ち、18歳のときに劉備の妾となった。ある時、河南の人が劉備に高さ三尺の玉人を献上した。劉備はその玉人を甘夫人の側に配置して、昼は配下とともに軍略を論じ、夜になると甘夫人を抱きながら玉人を愛でた。甘夫人も玉人も似通った容態であったため、人々は彼女らの区別がつかなかった。また劉備の他の寵姫は、甘夫人だけでなく玉人をも嫉妬した。甘夫人は常よりその玉人が壊されることを望んでいたため、劉備に﹁かつて子罕︵楽喜︶は玉を宝とせず、﹃春秋﹄はこれを称えました[2]。今、呉や魏が未だ滅びずにいるのに[注釈 1]、こんなものをもてあそんでいる場合でしょうか。淫猥は疑いを生じさせるものですから、二度となさいませぬよう﹂と諫言した。劉備はこの言葉を受けて玉人を撤去し、寵姫たちも嫉妬するのをやめた。そして当時の人は、甘夫人を﹁神智婦人﹂と呼んで称賛した[3]。 明清時代の﹃歴代百美図﹄や﹃百美新詠図伝﹄では、中国歴朝で最も名高い美人百人に選ばれている[注釈 2]。三国志演義[編集]
曹操が官渡の戦い前に徐州の劉備を撃破すると、関羽が甘夫人らの命の安全を誓うことを条件に投降している。その後、関羽が官渡の戦いで袁紹軍の顔良・文醜を討ち取り義理を果たしたとして、甘夫人らを引き連れ荊州に向かった際には、山賊の杜遠に捕まってしまうが、関羽を尊敬していた廖化に助けられている。長坂の戦いでは、甘夫人は無事逃亡に成功している。赤壁の戦い後、甘夫人が既に亡くなっていることを知った周瑜は、劉備と孫夫人の婚姻を提案する。参考資料[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
(一)^ ﹃夔州府志﹄卷一四 陵墓‥元代の﹁陳嗣源﹂が記す﹃昭烈甘皇后墓碑記﹄には﹁甘梅乃蜀先主之夫人也﹂とある。ただし、撰者の注に﹁此記語多不典似據衍義小説甘梅夫人之稱更属杜撰﹂とあり、名前の信憑性は非常に低いとする。
(二)^ (中国語) ﹃春秋左氏伝﹄襄公十五年, ウィキソースより閲覧, "宋人或得玉.獻諸子罕.子罕弗受.獻玉者曰.以示玉人.玉人以為寶也.故敢獻之.子罕曰.我以不貪為寶.爾以玉為寶.若以與我.皆喪寶也.不若人有其寶.稽首而告曰.小人懷璧.不可以越鄉.納此以請死也.子罕寘諸其里.使玉人為之攻之.富而後使復其所."
(三)^ (中国語) ﹃拾遺記﹄巻8, ウィキソースより閲覧, "先主甘后,沛人也,生於微賤。裡中相者云‥﹁此女後貴,位極宮掖。﹂及后長,而体貌特異,至十八,玉質柔肌,態媚容冶。先主召入綃帳中,於戶外望者,如月下聚雪。河南献玉人,高三尺,乃取玉人置后側,昼則講說軍謀,夕則擁后而玩玉人。常称玉之所貴,德比君子,况為人形,而不可玩乎?后與玉人潔白齊潤,覌者殆相乱惑。嬖寵者非惟嫉於甘后,亦妒於玉人也。后常欲琢毀坏之,乃誡先主曰‥﹁昔子罕不以玉為宝,︽春秋︾美之‥今吳、魏未滅,安以妖玩經怀。凡淫惑生疑,勿復進焉!﹂先主乃撤玉人,嬖者皆退。當斯之時,君子議以甘后為神智婦人焉。"