出羽嵐大輔
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基礎情報 | ||||
四股名 | 出羽嵐 大輔 | |||
本名 | 須川 清 | |||
生年月日 | 1970年7月28日 | |||
没年月日 | 2010年3月30日(39歳没) | |||
出身 | 長崎県対馬市(旧上県郡上県町) | |||
身長 | 184cm | |||
体重 | 186kg | |||
所属部屋 | 出羽海部屋 | |||
得意技 | 突き、押し、右四つ、寄り | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭14枚目 | |||
生涯戦歴 | 326勝321敗27休(71場所) | |||
幕内戦歴 | 10勝17敗3休(2場所) | |||
優勝 |
三段目優勝1回 序二段優勝1回 | |||
賞 | {{{賞}}} | |||
データ | ||||
初土俵 | 1989年3月場所 | |||
入幕 | 1998年7月場所 | |||
引退 | 2000年11月場所 | |||
引退後 | 境川部屋マネージャー | |||
備考 | ||||
2023年4月2日現在現在 |
出羽嵐 大輔︵でわあらし だいすけ、1970年︵昭和45年︶7月28日 - 2010年︵平成22年︶3月30日︶は、長崎県対馬市︵旧上県郡上県町︶出身で出羽海部屋に所属した大相撲力士。本名は須川 清︵すがわ きよし︶。身長184cm、体重186kg。得意手は突き、押し、右四つ、寄り。最高位は西前頭14枚目︵1998年︵平成10年︶7月場所︶、血液型はO型、趣味は映画鑑賞。
来歴[編集]
長崎県立対馬高等学校時代は柔道部に所属していた。進路に迷っていたところ、同じ長崎県出身の両国を紹介され、卒業後に出羽海部屋に入門。1989年︵平成元年︶3月場所に初土俵を踏んだ。腰の重さを生かした押し相撲で、着実に番付を上げて行った。幕下時代に師匠・出羽海の実兄が名乗っていた﹁出羽嵐﹂の四股名を与えられた。 幕下上位でやや苦労した時期もあったが、1996年︵平成8年︶7月場所に十両に昇進。攻めが遅い部分があったが、次第に立合いからの突き押しに磨きが掛かり、1998年︵平成10年︶7月には新入幕を果たした。 1場所で十両に番付を落としたが、1999年︵平成11年︶1月場所に再入幕。場所前の稽古から体調も万全で期待がかかったが、場所中に蜂窩織炎を患い途中休場を余儀なくされた。結局再出場したが星が上がらず再び十両に陥落した。以降、十両の土俵が続いていたが、糖尿病を患ってからは精彩を欠く相撲が多くなった。1999年︵平成11年︶後半から勝ち越すことができず2000年︵平成12年︶5月場所には幕下に陥落した。幕下でも本来の押し相撲がまったく取ることができず幕下下位に低迷。2000年︵平成12年︶11月場所に東幕下44枚目の地位で4勝3敗と勝ち越したのを最後に引退した。 引退後は大阪で板前修業をしたこともある。岐阜の居酒屋にも修業に行く予定であったがその店が閉店したため、その後両国改め中立親方の勧めで2001年︵平成13年︶5月から中立部屋︵2003年より境川部屋︶のマネージャーを務めていた。中立親方は出羽嵐のマネージャー業就任は進路が決まるまでの暫定的なものと考えていたが、結果的には本格的に部屋に従事していた[1]。2009年︵平成21年︶10月に体調を崩したためにマネージャーを辞職し、療養生活に入っていた。 2010年︵平成22年︶3月30日、心筋梗塞のため死去[2]。39歳没。 2005年︵平成17年︶にはロブ・マーシャル監督の映画﹃SAYURI﹄に相撲レスラーの役︵対戦相手役は出羽海部屋の弟弟子でもあった舞の海︶として出演している。 現役時代、場内での力士紹介では﹁長崎県上県郡上県町出身﹂ではなく﹁長崎県対馬出身﹂と紹介された。主な戦績[編集]
- 通算成績:326勝321敗27休 勝率.504
- 幕内成績:10勝17敗3休 勝率.370
- 現役在位:71場所
- 幕内在位:2場所
- 各段優勝
場所別成績[編集]
一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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1989年 (平成元年) |
x | (前相撲) | 東序ノ口13枚目 4–3 |
西序二段132枚目 5–2 |
西序二段86枚目 4–3 |
西序二段55枚目 4–3 |
1990年 (平成2年) |
東序二段29枚目 2–5 |
序二段66枚目 4–3 |
西序二段36枚目 1–5–1 |
東序二段82枚目 優勝 7–0 |
東三段目72枚目 2–5 |
西三段目95枚目 4–3 |
1991年 (平成3年) |
西三段目69枚目 3–4 |
東三段目88枚目 5–2 |
西三段目58枚目 5–2 |
東三段目27枚目 2–5 |
東三段目55枚目 5–2 |
東三段目25枚目 2–5 |
1992年 (平成4年) |
西三段目52枚目 6–1 |
東三段目6枚目 4–3 |
西幕下53枚目 0–4–3 |
東三段目27枚目 5–2 |
西幕下57枚目 2–5 |
西三段目25枚目 5–2 |
1993年 (平成5年) |
東幕下60枚目 3–4 |
東三段目12枚目 5–2 |
西幕下45枚目 1–6 |
西三段目14枚目 優勝 7–0 |
東幕下11枚目 4–3 |
西幕下6枚目 1–5–1 |
1994年 (平成6年) |
東幕下37枚目 3–4 |
西幕下50枚目 2–5 |
東三段目14枚目 3–4 |
西三段目27枚目 4–3 |
東三段目12枚目 4–3 |
東三段目筆頭 5–2 |
1995年 (平成7年) |
西幕下42枚目 5–2 |
西幕下24枚目 0–4–3 |
西幕下58枚目 6–1 |
東幕下29枚目 4–3 |
西幕下22枚目 4–3 |
東幕下16枚目 5–2 |
1996年 (平成8年) |
西幕下7枚目 4–3 |
東幕下5枚目 4–3 |
東幕下2枚目 4–3 |
西十両13枚目 8–7 |
東十両9枚目 8–7 |
西十両6枚目 7–8 |
1997年 (平成9年) |
西十両7枚目 7–8 |
西十両8枚目 8–7 |
西十両5枚目 5–9–1 |
西十両10枚目 休場 0–0–15 |
西十両10枚目 6–9 |
東十両13枚目 9–6 |
1998年 (平成10年) |
西十両7枚目 8–7 |
西十両5枚目 8–7 |
西十両3枚目 10–5 |
西前頭14枚目 6–9 |
東十両2枚目 6–9 |
東十両5枚目 9–6 |
1999年 (平成11年) |
東前頭15枚目 4–8–3[3] |
東十両4枚目 9–6 |
東十両3枚目 7–8 |
西十両4枚目 7–8 |
西十両6枚目 8–7 |
西十両3枚目 7–8 |
2000年 (平成12年) |
西十両4枚目 7–8 |
東十両6枚目 3–12 |
東幕下筆頭 1–6 |
西幕下20枚目 3–4 |
西幕下29枚目 2–5 |
東幕下44枚目 引退 4–3–0 |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績[編集]
力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
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朝乃翔 | 1 | 1 | 朝乃若 | 0 | 1 | 旭豊 | 1 | 0 | 海鵬 | 0 | 2 |
巌雄 | 0 | 1(1) | 旭鷲山 | 0 | 2 | 旭天鵬 | 1 | 0 | 五城楼 | 0 | 2 |
琴稲妻 | 1 | 0 | 琴ノ若 | 0 | 1 | 琴龍 | 0 | 1 | 玉春日 | 1 | 0 |
千代天山 | 0 | 1 | 寺尾 | 1 | 0 | 栃乃和歌 | 0 | 1 | 水戸泉 | 1 | 1 |
湊富士 | 0 | 1 |
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数。
改名歴[編集]
- 須川 清(すがわ きよし)1989年3月場所 - 1991年9月場所
- 対馬灘 清(つしまなだ - )1991年11月場所 - 1994年1月場所
- 出羽嵐 大輔(でわあらし だいすけ)1994年3月場所 - 2000年11月場所
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ^ 佐藤祥子『相撲部屋ちゃんこ百景 とっておきの話15』p.148 河出文庫 2016年 ISBN 978-4309414515
- ^ 須川清氏死去 大相撲元幕内出羽嵐 共同通信47NEWS 2010年3月30日閲覧
- ^ 右下腿蜂窩織炎により4日目から途中休場、8日目から再出場
外部リンク[編集]
- 出羽嵐 大輔 - 日本相撲協会