分断国家
分断国家︵ぶんだんこっか︶は、本来ならひとつの国家であるべきであるが、人為的に分裂させられた状態の国家のことである。特定地域が分割されて2つ以上の国家が存在する状態を幅広く指すことができるが、特に第二次世界大戦後の冷戦時代に西側陣営と東側陣営とで国内が分裂した国家を指して使われることもある[1]。分裂国家︵ぶんれつこっか︶などの呼び方もある。
中華民国に対し﹁一国二制度で中国統一を︵達成しよう︶﹂と訴える中 華人民共和国のスローガン︵廈門市・2010年︶
分断ドイツの象徴・ベルリンの壁が機能しなくなった直後の様子︵西ベ ルリン・1989年︶
内容[編集]
分断国家の特徴として、以下の点が挙げられる[要出典]。 (一)ひとつの国家内に複数の政府承認を受けた2つ以上の政府が並立している。 (二)並立する政府がいずれも﹁当該国家で正統性を有する︵合法的な︶唯一の政府である﹂との認識から自身が主導する国家の統一を志向している。 (三)その状況が平時において長期間持続している。 分断国家の各政府は、自己が認識する正統性を根拠に、国家の統一を目指して政府同士の戦争・交渉または諸外国との外交を行う。並立する政府の外交上の扱いは国・時代によって異なっており、並立する政府に対する他国の政府承認を一切否定する方針︵ハルシュタイン原則、および﹁一つの中国﹂論に基づく二重承認否定︶もあれば、逆に否定しない方針︵南北等距離外交︶もある。 統一が実現するまでの間、各政府はそれぞれが実効支配する地域で独自の内政を実施し、かつそれぞれの地域住民は政府によって相互交流が制限されるため、同じ国家内の地域同士であっても経済格差や住民の価値観の変化などが生じる。また、別個に政府承認を受けた各政府が独自に外交政策を展開することで、国際社会では分断国家の存在を前提とした国際関係が構築される。分断国家で分断状態が長期化すると、これらの事象が複合的に発展し、﹁国家が分断されている異常な状態が常態である﹂という﹁分断の恒久化﹂が発生することが多い。 分断国家は、﹁一国家一政府﹂を原則とする国民国家︵近代国家︶の概念が普遍的になった近代以降に現れた概念である。したがって、ローマ帝国の東西分裂や、領邦国家が乱立していたドイツ統一以前のドイツ、および三国時代や魏晋南北朝時代の中国など、近代国家でない国の分裂は分断国家に該当しない。また、スールー王国のように、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した場合も、分断国家に該当しない。なお、イエメンもその例に当てはまるが、冷戦終結後に統一されたことから分断国家とされている。一方、近代国家で2つ以上の国家が並立していても分断国家と見なされない場合がある。分断国家[編集]
東西冷戦に起因する分断国家[編集]
現存する冷戦に起因する分断国家は、中国と朝鮮の2か国である。これらの国の各政府はいずれも、﹁国土全域を支配する正統性を有する﹂と主張し、対立相手の正統性を認めていない。また、過去の例としてはイエメン、ドイツ、ベトナムがある。 いずれの事例も、冷戦の最中に独立・主権を回復する過程で、﹁政治・経済体制を自由・資本主義体制と社会主義体制のどちらにすべきか﹂というイデオロギーの選択が対立の原因となって分裂している。現在[編集]
●中国 中華人民共和国と 中華民国︵1949年以降︶ ●第二次国共内戦による。統一を目指す取り組みについては中国統一を参照のこと。 ●下記の国々に比べて分断の過程と現在の状況が特殊なことから、現在の中華民国については﹁残存国家﹂とも呼ばれる。 ●朝鮮 朝鮮民主主義人民共和国と 大韓民国︵1948年以降︶ ●分割占領時代の冷戦激化による。統一を目指す取り組みについては朝鮮統一問題を参照のこと。過去[編集]
西ドイツ︵ドイツ連邦共和国︶と 東ドイツ︵ドイツ民主共和国︶︵1949年-1990年︶ ●分割占領時代の冷戦激化による。統一条約締結に伴いドイツ民主共和国が消滅し、1990年10月3日にドイツ連邦共和国が旧東ドイツ地域を編入した︵ドイツ再統一︶。 ●南ベトナム︵ ベトナム国→ ベトナム共和国︶と 北ベトナム︵ベトナム民主共和国︶・ 南ベトナム共和国︵1949年-1976年︶ ●ジュネーヴ協定による。サイゴン陥落に伴い西側諸国のベトナム共和国が消滅し、非同盟諸国の南ベトナム共和国臨時革命政府が南ベトナムを制圧。名目上は分断が継続するが、傀儡政権の南ベトナム共和国を通じて、社会主義国の北ベトナムが南ベトナムの併合作業を推進。1976年7月2日の南北政府統合に合わせ、国号を﹁ベトナム社会主義共和国﹂に変更。 ●なお、ベトナム政府は﹁ベトナムが統一された日﹂を、南北政府が統合された1976年7月2日ではなく、サイゴン陥落により北ベトナムが南ベトナムを﹁解放﹂した1975年4月30日であると認識している。そのため、サイゴン陥落を記念するベトナムの祝日は、﹁南部解放記念日﹂︵ベトナム語‥Ngày Giải phóng miền Nam / 𣈜解放沔南︶とも﹁統一の日﹂︵ベトナム語‥Ngày Thống nhất / 𣈜統一︶とも称される。 イエメン・アラブ共和国︵イエメン・アラブ共和国︶と イエメン人民民主共和国︵南イエメン人民共和国→イエメン人民民主共和国︶︵1967年-1990年︶ ●19世紀半ばのオスマン帝国とイギリスのイエメン地域分割占領による。旧オスマン領が1918年にイエメン王国として先に独立するも、旧英国領は冷戦下の1967年に社会主義体制を志向して独立し、分断状態が継続。両政府の合意によって1990年5月22日に統一され、国号を﹁イエメン共和国﹂に変更︵イエメン統一︶。 ●東西冷戦に起因する分断国家ではなく、スールー王国やコンゴのように、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立した例であるが、独立後は西側寄りの北イエメンと東側寄りの南イエメンとで対立関係にあり、冷戦終結後は南北統一がなされたため上記の国々と同じく分断国家とされている。 民主カンプチアと カンプチア人民共和国︵1979年-1992年︶ ●カンプチア人民共和国樹立後も旧民主カンプチア勢力は辺境に支配地を持ち、また王党派やクメール共和国残党と合流して民主カンプチア連合政府を形成しており、国連の議席を維持するなど国際的に正統な政府として認められていた。1993年に王政復古によりカンボジア王国が成立。 アンゴラ人民共和国とアンゴラ民主人民共和国︵1975年-2002年︶ ●アンゴラが独立戦争を経てポルトガルから独立する際、親ソの共産系独立派勢力と非共産系や毛沢東主義の独立勢力がそれぞれ個別に政府を立ち上げたため、1975年の独立時に2つの政府が同時に存在することになり、正統性を巡って内戦が発生した︵アンゴラ内戦︶。非共産系勢力や毛沢東主義者の連合政権であるアンゴラ民主人民共和国は、アンゴラの領土の大部分を一時的に支配したこともあったが、国際的な承認を受けることはなく、共産系のアンゴラ人民共和国が民主化されてアンゴラ共和国に変わった後も正統性を主張し内戦を継続したが、2002年に停戦に応じ武装解除された。 ●アンゴラ民主人民共和国は消滅に至るまでに国際的に承認されなかったため、分断国家には含まれないことが多い[注釈 1]。また東西の対立とは別に中ソ対立の要素も強い。東西冷戦に起因しない分断国家[編集]
アイルランド共和国と北アイルランド︵ イギリスを構成する4か国のひとつ︶[2] キプロス共和国と 北キプロス・トルコ共和国[3][4]分断国家と見なされない例[編集]
上記の分断国家に対し、
(一)戦中の短期間のみ政府が分裂した国家
●消滅した政府は敵対した交戦勢力の傀儡政府ないし衛星国と見なされることが多い。
(二)国民の自発的意志によって分裂した国家
(三)いわゆる亡命政府
(四)いわゆる二重権力や群雄割拠状態
のいずれかに該当する場合は分断国家とみなされない。また特殊な例としては、従前の民族自決権︵自決権︶による統一の正統性が戦争によって全面的に否定され再分裂した大ドイツがある。
下記の一覧では、該当事例を国名の五十音順に掲載する。
独立の際に統一状態を望まない住民がいた地域[編集]
一部住民が自決権を求めて一方的に分裂した国家[編集]
戦中の短期間のみ政府が分裂した国家[編集]
国民の自発的意志によって分裂した国家[編集]
セルビア・モンテネグロ‥ セルビアと モンテネグロ ●モンテネグロ共和国で行われた独立を問う住民投票の結果を受けて連邦制を解消。2006年にモンテネグロが分裂し、セルビアが継承国となる。 チェコスロバキア‥ チェコと スロバキア ●ビロード離婚によって連邦制を解消。1993年にスロバキアが分裂し、チェコが継承国となる。大ドイツ[編集]
詳細は「ドイツ問題」を参照
大ドイツを統合したドイツ連邦
連邦発足時点の国境線(1815年)
プロイセン王国
オーストリア帝国
その他連邦構成国
小ドイツ主義に基くドイツ統一までの変遷(1866年 – 1871年)
ドイツ連邦の境界線
北ドイツ連邦の境界線
ドイツ帝国の国境線
第一次世界大戦勃発時点の大ドイツ(1914年)
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
第一次世界大戦後のドイツ人国家(1919年 - 1938年)
ヴァイマル共和国
オーストリア共和国
大戦後に分裂したドイツ(橙色)とオーストリア(緑色)
モンゴル[編集]
20世紀初頭、﹁蒙古王公﹂たち︵モンゴル草原に分封された諸侯︶は、清朝末期に展開された﹁清末新政﹂︵1910年-1911年︶により清朝支配への反発を深め、密かに独立を画策しはじめ、ロシア帝国からは経済支援と武器弾薬の供給を取りつけることに成功した。
1911年、中国の共和主義者が引き起こした共和革命︵辛亥革命に乗じ、化身ラマのジェプツンタンパ・ホトクト8世︵ボグド・ゲゲン︿﹁聖人さま﹂の意﹀︶を﹁ボグド・ハーン﹂︵﹁聖なる皇帝﹂の意︶として君主に推戴して独立を宣言、北部︵現在、国連加盟の独立国モンゴル国となる領域︶に実効支配を確立した上で南部49旗︵現在、中国領の内蒙古自治区となっている領域︶にも浸透した。しかし、モンゴルに対する影響圏を﹁漠北﹂︵ばくほく、ゴビ砂漠の北側︶に限定することを日本・中国などと取り決めていた︵日露協約︿1907年﹀、中露覚書︿1913年﹀など︶ロシアは、ボグド・ハーン政権に対して﹁漠北﹂への撤退を要求、ロシアからの経済・軍事支援がなければ立ちゆかないモンゴルはやむなくこれを飲み、1914年から15年にかけて開催されたキャフタ会議により、モンゴルの北部は﹁中国の宗主権の下﹂でボグド・ハーン政府が﹁自治﹂を行う地域、﹁漠南﹂︵ばくなん︶は﹁純然たる中国領﹂と定められた。
その後、内蒙古は日本の影響下で成立した満州国により東西に分裂、残った内蒙古西部には内蒙古自治運動により蒙古軍政府︵後の蒙古自治邦政府︶が誕生する。1945年のソ連軍の侵攻で蒙古自治邦政府と満州国は消滅。旧蒙古自治邦領域では内モンゴル独立宣言をした内モンゴル人民共和国、旧満州国領興安総省では東モンゴル自治政府やホロンバイル自治省政府などが成立し、南北モンゴル統一運動を掲げ、1947年にはそれらの勢力を統合した内モンゴル自治政府が成立。その後、国共内戦によって成立した中華人民共和国では内モンゴル自治区が設置されるも南北統一は果たせず、逆に中国共産党政権による内モンゴル人民革命党粛清事件により統一運動は徹底的に弾圧された。なお、中華民国政府は2012年まで外蒙古の独立を認めず、中華人民共和国やロシア連邦トゥバ共和国の領域とともに自国領土だと主張していた。
大ルーマニア[編集]
1859年にオスマン帝国領内のワラキア公国とモルダヴィア公国が合併してルーマニア公国︵後にルーマニア王国︶が誕生、1877年5月9日にオスマン帝国宗主権下からの独立を宣言し、1878年のベルリン条約で完全独立を達成するもトランシルヴァニア公国やベッサラビア、ブコビナは、オスマン帝国の影響下にあった時代にロシア帝国やオーストリア帝国によって割譲されたため、その版図には含まれなかった。第一次世界大戦後の1918年にハンガリーとロシアからトランシルバニアとブコビナ、ベッサラビアを併合し、大ルーマニアの統一を達成。ベッサラビアのうちソ連統治下に留まったごく一部の領域がモルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国を形成した。
1940年にルーマニアはソ連にベッサラビアを割譲させられ、第二次世界大戦中には再占領するものの敗戦により領有権を放棄しソ連へ割譲、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国︵モルドバSSR︶としてソ連を構成する共和国のひとつとなった。1991年のソビエト連邦の崩壊により、モルドバSSRはソ連から離脱して現在のモルドバ共和国が成立。前後してルーマニア・モルドバの両国ではルーマニア・モルドバ統一運動が興るが、現在に至るまで統一はなされていない。
コンゴ共和国とコンゴ民主共和国[編集]
詳細は「コンゴ民主共和国の歴史」および「コンゴ共和国の歴史」を参照
1885年にベルリン会議において、元々あったコンゴ王国がコンゴ自由国︵後にベルギー領コンゴ︶とフランス領コンゴ︵後のフランス領赤道アフリカ︶に分割され植民地化。1960年、ベルギー領コンゴとフランス領赤道アフリカはそれぞれコンゴ共和国︵仏: République du Congo︶というまったく同名の国として独立。2つの国にはそれぞれの首都の名前が付され、元ベルギー領コンゴは﹁コンゴ・レオポルドヴィル﹂、元フランス領赤道アフリカは﹁コンゴ・ブラザヴィル﹂として区別された。1964年にコンゴ・レオポルドヴィルは、正式国名を﹁コンゴ民主共和国﹂に変更。当初、コンゴ・レオポルドヴィルは東側寄り、コンゴ・ブラザヴィルは西側寄りであったが、1970年にコンゴ・ブラザヴィルにおいて共産主義国家のコンゴ人民共和国が、1971年にコンゴ・レオポルドヴィルにおいて親米反共主義のザイール共和国がそれぞれ成立し、対立が生じた。冷戦終結後の1991年にコンゴ人民共和国がコンゴ共和国へ、1997年にザイール共和国がコンゴ民主共和国へと、かつての国名にそれぞれ変更した。現在、これといった再統一運動はない。
イエメンと同じく、前近代国家の統治する地域が列強諸国によって分割・植民地化され、後に分割された地域が植民地単位で別個に独立し、独立後は西側寄りのザイールと東側寄りのコンゴ人民共和国とで対立関係にあったが、統一運動は活発ではなかったため、イエメンとは異なり分断国家とみなされていない。
関連項目[編集]
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
西側諸国 | 東側諸国 | 統一後の状況 | |||
中華民国 (台湾) |
中華人民共和国 (中国大陸) | 未統一 (中国統一も参照) |
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大韓民国(韓国) (朝鮮半島南部) |
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮) (朝鮮半島北部) |
未統一 (朝鮮統一問題も参照) |
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サイゴン陥落前の南ベトナム (ベトナム国→ベトナム共和国) |
ベトナム民主共和国(北ベトナム) (+サイゴン陥落後の南ベトナム) |
ベトナム社会主義共和国 (統合<補足>:1976年7月2日) |
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イエメン・アラブ共和国 (北イエメン) |
イエメン人民民主共和国 (南イエメン) |
イエメン共和国 (統一:1990年5月22日) ただし内戦下で再分裂 |
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ドイツ連邦共和国 (西ドイツ) |
ドイツ民主共和国 (東ドイツ) |
ドイツ連邦共和国 (再統一:1990年10月3日) |
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アンゴラ民主人民共和国 | アンゴラ人民共和国 | アンゴラ共和国 (統一:2002年4月4日) |
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※「統一後の状態」が「未統一」の国家は、五十音順で掲載。 ※統一された国家は、統一された年代順で掲載。また、太字記載の国は統一の主体となった国。 |