還住 (青ヶ島)

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年表[編集]

  • 1780年(安永9年)- 6日間の群発地震のあと、池之沢から塩水の湯が大量に噴出し、噴煙も出て農地が大きな被害を受ける。
  • 1781年(天明元年)- 池之沢から火山灰が噴出。再び池之沢で湯が噴出し、池之沢内の大池、小池の水位が急上昇したあと、急速に水が引いたために、耕地の土砂が失われる。
  • 1783年(天明3年)- 池之沢に大きな噴火口が出現し、噴石や火山灰が大量に噴出した。池之沢に滞在中の島民が死亡し、噴火によって発生した火災のため多くの家屋が焼失した。耕地の多くが火山灰に埋まる。
  • 1785年(天明5年)- 大噴火が発生。青ヶ島島内全体に噴石、火山灰が厚く積もり、青ヶ島での生活が不可能になったため、1785年6月4日に島民は八丈島に避難。しかし、130 - 140名の島民は避難船に乗れず死亡する。
  • 1786年(天明6年)- 八丈島島民の高村三右衛門は、自身が蓄えてきた500両を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出。500両を基金として運用したお金は青ヶ島島民の食糧購入や復興資金に充てられることになる。
  • 1789年(天明9年)- 青ヶ島の名主三九郎が青ヶ島を見分、島の復興は可能と報告した。青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。
  • 1793年(寛政5年)- 青ヶ島に12名の島民が渡り復興計画が開始されるも、激しいネズミの害により復興は難航。ネズミの害に比較的強いと考えられた芋類を入手しようと八丈島に向かった5名の島民が行方不明に。
  • 1794年(寛政6年)- 3度にわたって八丈島から青ヶ島に復興支援物資の輸送が行われるも1回しか成功せず、成功した1回も八丈島への帰還時に船が難破し、乗組員全員が死亡。
  • 1795年(寛政7年)- 八丈島からの物資の輸送に成功。帰路も無事に八丈島へ戻った。
  • 1796年(寛政8年)- 八丈島から青ヶ島へ向かった船は漂流の上房総半島に漂着、物資の輸送に失敗。
  • 1797年(寛政9年)- 鳥島に漂着した野村長平らが青ヶ島にたどり着く。漂流民たちは復興に従事していた青ヶ島島民2名を水先案内人として八丈島へ向かう。八丈島に到着した2名から青ヶ島の現状を聞いた名主三九郎ら14名が青ヶ島へ向かうも、船が漂流して三九郎ら11名が死亡した。
  • 1799年(寛政11年)- 八丈島から青ヶ島へ33名の島民が向かうも、船が漂流して紀州へ流される。
  • 1801年(享和元年)- 青ヶ島で復興に従事してきた島民らが八丈島へ戻り、その後、青ヶ島はしばらく無人島となる。
  • 1803年(享和3年)- 勘定奉行松平信行の手代である秋元利右衛門が、八丈島の島民の半右衛門と青ヶ島名主の多吉らを伴い、無人島となっていた青ヶ島の見分を実施する。
  • 1806年(文化3年)- 青ヶ島の起返願人となった半右衛門と青ヶ島名主の多吉が青ヶ島復興計画を立案するも、八丈島に飢饉が続いたため、計画の遂行はできず。
  • 1817年(文化14年)- 佐々木次郎太夫伊信が青ヶ島の名主となり、青ヶ島の見分実施、復興計画の立案と精力的に帰島計画の実現に動き出す。
  • 1818年(文政元年)- このころから佐々木次郎太夫伊信の指導の下、青ヶ島への帰島計画の実施が進められる。
  • 1824年(文政7年)- ほぼ全島民が青ヶ島へ帰島し、還住が達成される。
  • 1835年(天保6年)- ほぼ復興が成った青ヶ島で検地が実施される。

脚注[編集]

注釈[編集]



(一)^ 1980

(二)^ 

(三)^ 1980147

(四)^ 198045

(五)^ 1951198041821840使

出典[編集]

  1. ^ 小林(1980)pp.15-17、内田(1991)「平成3年度第二次調査・青ヶ島」pp.26-29、樋口(2010)p.328
  2. ^ 小林(1980)pp.15-18、内田(1991)「青ヶ島の歴史的地理的環境」p.7
  3. ^ 小林(1980)pp.18-20、樋口(2010)p.328
  4. ^ 小林(1980)pp.18-21、pp.42-45、樋口(2010)p.328、気象庁活火山情報:青ヶ島
  5. ^ 小林(1980)pp.36-38、pp.74-76
  6. ^ 柳田(1951)pp.46-47、小林(1980)pp.95-119
  7. ^ 柳田pp.48-49、小林(1980)pp.122-130
  8. ^ 柳田(1951)pp.49-50、小林(1980)pp.119-122
  9. ^ 小林(1980)pp.133-135
  10. ^ 小林(1980)pp.130-139
  11. ^ 柳田(1951)pp.51-54、小林(1980)pp.139-150
  12. ^ 柳田(1951)pp.54-55、小林(1980)pp.150-163、茗荷(2010)p.74
  13. ^ 柳田(1951)pp.55-56、小林(1980)pp.163-164
  14. ^ 柳田(1951)pp.55-57、小林(1980)pp.164-168
  15. ^ 柳田(1951)pp.57-59、小林(1980)pp.168-170
  16. ^ 柳田(1951)pp.59-60、小林(1980)pp.170-184
  17. ^ 小林(1980)pp.184-185
  18. ^ 柳田(1951)pp.60-61、小林(1980)pp.184-186、樋口(2010)pp.328-329
  19. ^ 小林(1980)pp.184-189、p.228
  20. ^ 小林(1980)pp.186-189
  21. ^ 段木(1976)pp.164-165
  22. ^ 小林(1980)pp.189-192、pp.262-264、林(2010)p.257
  23. ^ 林(2010)p.257
  24. ^ 小林(1980)pp.193-195
  25. ^ 柳田(1951)pp.62-63、小林(1980)pp.200-202
  26. ^ 小林(1980)p.196
  27. ^ 小林(1980)pp.196-200
  28. ^ 柳田(1951)pp.64-65、小林(1980)pp.206-214
  29. ^ 柳田(1951)pp.64-65、小林(1980)pp.214-215
  30. ^ 小林(1980)pp.215-220
  31. ^ 小林(1980)pp.215-223
  32. ^ 小林(1980)p.216
  33. ^ 小林(1980)pp.221-227
  34. ^ 柳田(1951)pp.66-67、小林(1980)pp.227-235
  35. ^ 小林(1980)pp.231-236
  36. ^ 柳田(1951)pp.67-69、小林(1980)pp.236-241
  37. ^ 柳田(1951)p.69、小林(1980)pp.242-246
  38. ^ 柳田(1951)p.69、小林(1980)pp.246-248
  39. ^ 小林(1980)pp.268-269、pp.273-289
  40. ^ 小林(1980)pp.289-291
  41. ^ 柳田(1951)p.71、小林(1980)pp.294-305
  42. ^ a b 小林(1980)pp.300-307
  43. ^ 柳田(1951)pp.72-74,小林(1980)pp.307-317
  44. ^ 小林(1980)pp.317-329
  45. ^ 小林(1980)pp.329-333
  46. ^ 小林(1980)pp.331-333
  47. ^ 小林(1980)pp.332-334
  48. ^ 柳田(1951)pp.51-53、小林(1980)pp.334-357
  49. ^ 小林(1980)pp.357-364
  50. ^ 柳田(1951)p.44、菅田正昭のシマ論35 還住(かんじゅう)と還住(げんじゅう)
  51. ^ 『火の島に生きる : 悲劇の島・青ケ島の記録』(国立国会図書館サーチ)

参考文献[編集]

  • 柳田國男「青ヶ島還住記」『創元選書 島の人生』創元社 1951年(1933年発表の著作)
  • 段木一行「離島伊豆諸島の歴史」明文社 1976年
  • 小林亥一「青ヶ島島史」青ヶ島村 1980年
  • 『小笠原諸島他遺跡分布調査報告書』東京都教育庁生涯学習部文化課 1992年
    • 内田保之「青ヶ島の歴史的地理的環境」
    • 内田保之「平成3年度第二次調査・青ヶ島」
  • 樋口秀司編『伊豆諸島を知る事典』東京堂出版 2010年 ISBN 978-4-490-10788-3
    • 林薫「八丈島」
    • 樋口秀司「青ヶ島」
  • 茗荷傑「青ヶ島島民の執念-噴火による無人島化からの復興」『地理55-3』古今書院 2010

外部リンク[編集]