高橋善一
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高橋 善一︵たかはし よしかず、安政4年8月3日[1]︿1857年9月20日﹀ - 1923年︿大正12年﹀5月20日︶は、明治時代から大正時代の鉄道員・鉄道官吏。新橋停車場の下級駅夫[2]より鉄道院副参事まで累進した最古参の鉄道員として知られた。初代東京駅長。名は﹁ぜんいち﹂とも。
経歴[編集]
三河国渥美郡西伊古部村︵現・豊橋市伊古部町︶にて、河合善七︵福井県平民︶の次男として生まれ、幼くして同郡赤沢村︵現・豊橋市赤沢町︶の高橋祐二の養子となり、のち高橋さく[3]と婚姻した[1][4]。 数え14歳で海軍を志して上京、早稲田の北門社に入塾したが[5]、新橋・横浜間の汽車を見物したの機に、1873年︵明治6年︶につてを得て新橋停車場︵のち汐留駅︶の下級駅夫として雇われた[6]。翌年には工部省鉄道寮の頴川君平[7]に見出され、在大阪本部の鉄道寮頭井上勝への推薦を経て、車長︵車掌︶となった[8]。 1874年︵明治7年︶5月の大阪・神戸間の鉄道開業に伴い神戸へ[9]、次いで大阪に配属。さらに1880年︵明治13年︶の京都・大津間開業、及び1882年︵明治15年︶の長浜・柳ヶ瀬間開業に伴い抜擢され、馬場駅︵現・膳所駅︶及び長浜駅の駅長︵区間全7駅担当︶を歴任[8]。1883年︵明治16年︶には工部省鉄道局七等属︵判任官︶として官吏となった[10]。その後、武豊・熱田間の統括駅長︵1886年︶、名古屋駅長︵1887年︶、大阪駅長︵1891年︶等を経て、日清戦争後の1895年︵明治28年︶11月には新橋駅長︵当時の役職は逓信省鉄道局鉄道書記︶に任命された。 新橋駅長時代、1900年︵明治33年︶に高等官︵奏任官︶である鉄道作業局鉄道事務官補に、以後、鉄道事務官、帝国鉄道庁主事、鉄道院副参事へと昇進し、第一次世界大戦勃発後の1914年︵大正3年︶12月、落成開業した東京駅の初代駅長に就任、退職までその任を全うした。 この間、鉄道官吏として1890年︵明治23年︶の陸海軍合同濃尾大演習や日清・日露戦争における軍事輸送の任に当たる一方、英照皇太后︵1897年崩御︶・明治天皇︵1912年崩御︶・昭憲皇太后︵1914年崩御︶の大喪儀の際は、大喪列車取扱のため代々木及び青山仮停車場の臨時駅長に任命され[11]、1915年︵大正4年︶の大正天皇即位大礼に際しては大礼使事務を囑託された[12]。 1921年︵大正10年︶11月、東京駅で発生した当時の首相原敬の暗殺事件は、案内役の高橋の眼前での凶行だったが、犯人の中岡艮一︵19歳︶は大塚駅所属の転轍手であった[13]。鉄道生活50年目にあたる1923年︵大正12年︶3月、依願免本官[14]。 新橋駅長時代から新聞雑誌にたびたび取り上げられ、名物駅長として当時の人々に広く知られた[8]。明治天皇[15]をはじめとする皇族や外国賓客、政界の要人の送迎などを永く務めた功績により、明治天皇より御真影下賜という破格の褒賞を受けた[16]。事故死[編集]
退職後まもない1923年︵大正12年︶5月20日、余生を送っていた小石川区で、信夫敬造田畑駅長とともに試乗した三輪自動車が神田上水︵関口大瀧の水門上流︶に転落、水中から救助された高橋は早稲田病院に運ばれたが、そのまま死去した。運転手と信夫は無事だった。[17] 弔問には大隈重信侯爵、井上勝の後嗣である井上勝純子爵、森村市左衛門男爵、藤田平太郎男爵、二代目東京駅長吉田十一などが訪れた。葬儀に際しては、大正天皇、貞明皇后を筆頭に各宮家より供物や生花、九条道実、松方正義両公爵、大隈重信、森村市左衛門、日本相撲協会などから花輪が贈られた[18]。なお、夫人︵後妻︶は自動車の運転手が過失罪で起訴されそうになったのを忍びないと起訴猶予の嘆願書を提出したという[19]。 墓所は東京都港区の青松寺。官歴[編集]
●1883年︵明治16年︶ - 工部省鉄道局・七等属[10] ●1886年︵明治19年︶ - 内閣鉄道局・六等属[20] ●1889年︵明治22年︶ - 内閣鉄道局・五等属[21] ●1890年︵明治23年︶ - 鉄道庁・駅長︵四等上︶[22] ●1894年︵明治27年︶ - 逓信省鉄道局・鉄道書記三級[23] ●1895年︵明治28年︶ - 逓信省鉄道局・鉄道書記二級︵新橋駅分任収入官吏︶[24] ●1900年︵明治33年︶ - 逓信省鉄道作業局・鉄道事務官補/高等官七等[25] ●1903年︵明治36年︶ - 高等官六等[26] ●1906年︵明治39年︶ - 逓信省鉄道作業局・鉄道事務官[27] ●1907年︵明治40年︶ - 帝国鉄道庁主事[28] ●1909年︵明治42年︶ - 高等官五等[29] ●1909年︵明治42年︶ - 鉄道院官制中改正‥鉄道院主事→鉄道院副参事[30] ●1915年︵大正4年︶ - 大礼使事務囑託︵文部大臣秘書官橘静二とともに︶[12] ●1916年︵大正5年︶ - 高等官四等[31] ●1921年︵大正10年︶ - 高等官三等/年俸三百円加増[32] ●1923年︵大正12年︶ - 依願免本官栄典[編集]
位階 ●1900年︵明治33年︶11月10日 - 従七位[33] ●1903年︵明治36年︶11月10日 - 正七位[34] ●1908年︵明治41年︶12月21日 - 従六位[35] ●1914年︵大正3年︶1月20日 - 正六位[36] ●1919年︵大正8年︶1月30日 - 従五位[37] ●1923年︵大正12年︶4月9日 - 正五位[38] 勲章等 ●1895年︵明治28年︶12月28日 - 勲八等白色桐葉章︵明治二十七八年事件ノ労︶[39] ●1900年︵明治33年︶12月20日 - 勲七等瑞宝章[40] ●1902年︵明治35年︶12月27日 - 勲六等瑞宝章[41] ●1906年︵明治39年︶4月1日 - 勲五等双光旭日章︵明治三十七八年事件ノ功︶[42] ●1914年︵大正3年︶6月29日 - 勲四等瑞宝章[43] ●1922年︵大正11年︶6月27日 - 勲三等瑞宝章[44] 外国勲章佩用允許- 1905年(明治38年)6月16日 - 大清帝国三等第二双龍宝星[45]
- 1905年(明治38年)12月28日 - ドイツ帝国プロイセン王冠第四等勲章[46]
- 1909年(明治42年)12月27日 - 大清帝国三等第一双龍宝星[47]
- 1910年(明治43年)3月14日 - 大韓帝国勲四等太極章[48]
- 1918年(大正7年)7月15日 - 大英帝国ヴィクトリア第五等勲章[49]
- 1919年(大正8年)2月21日 - 中華民国四等嘉禾章[50]
- 1921年(大正10年)2月5日 - ルーマニア王国エトワール・ド・ルーマニー(Étoile de Roumanie)第四等勲章[51]
脚注[編集]
(一)^ ab﹃大正名家録﹄タの部・42頁。
(二)^ ﹃日本国有鉄道百年史﹄通史によれば﹁高橋は新橋駅の駅夫という最下級の職で、客車のランプの油をさしたり車両の連結もやらされたりした。日給は6銭であったと当人はいってい﹂たという。なお、西成田豊氏の研究によれば、1874年の京浜間鉄道の収納出費内訳によると、駅夫・火夫の給料は、改札方・守線手・シグナルメン・ポイントメン・ヤードメンの給料とは別項目で支出され、1876年現在の駅務系統の労働力構成をみても、駅夫・火夫は鉄道寮雇の外に編成され、駅夫は駅務系統の雑役的重筋労働に従事する労働者であった︵西成田豊﹁日本近代化と労資関係﹂﹃一橋大学研究年報 経済学研究﹄30号、1989年、138頁︶。
(三)^ さく子とも。安政4年生まれ︵﹃大正名家録﹄高橋善一の項︶。1918年に急性肺炎にて死去︵﹃婦人週報﹄4巻9号・1918年3月︶。
(四)^ 白井德英﹁初代東京駅長 高橋善一﹂
(五)^ 時事評論社﹃時事評論﹄5巻6号︵1910年6月︶‥名士談話苦樂部︵新橋高橋驛長︶。
(六)^ 高橋善一﹁鐵道の今昔﹂︵初等教育研究会﹃教育研究﹄160号、1917年1月、67-70頁︶によれば、当時の新橋停車場の駅員といえば、大多数はお雇外国人︵英国人︶で、﹁驛長も車掌も旗振も、レールをつつく奴までも外國人﹂で、﹁日本人といったら、僅かな驛員と人夫位なものであつた﹂。
(七)^ 頴川君平︵1852-1898︶その後、米国ニューヨーク領事、大蔵省少書記官、神戸税関長を歴任。
(八)^ abc﹃日本国有鉄道百年史﹄通史編、附録47頁。
(九)^ ﹁明治七年に神戸・大阪間が開通しましたので、私は先輩を凌いで、神戸へ出張することになりました。私がちょんまげを截ったのは丁度神戸へ出掛ける時でありました﹂︵高橋善一﹁鐵道の今昔﹂より︶。
(十)^ ab彦根正三編﹃改正官員録﹄明治16年11月版、博公書院。
(11)^ ﹃人物と其勢力﹄愛知県の部4頁︵高橋善一君︶。
(12)^ ab﹃官報﹄1915年10月28日。
(13)^ ﹃国史美談 現代史 巻一﹄222-223頁。
(14)^ ﹃官報﹄1923年3月13日。
(15)^ ﹁私は明治十年から明治天皇にお近づき申し上げました﹂︵高橋善一﹁鐵道の今昔﹂より︶。
(16)^ 新聞集成明治編年史編纂会﹃新聞集成明治編年史﹄第13卷、林泉社、1940年より﹁高橋新橋駅長の光栄﹂。その他、皇族より折に触れ、内親王成婚の都度銀盃を、各殿下からは紋章を刻した金製手釦︵カフスボタン︶や銀製煙草入等を下賜されたという︵﹃大正名家録﹄より︶。
(17)^ ﹃国史美談 現代史 巻一﹄224頁。
(18)^ 読売新聞1923年5月24日﹁高橋前東京駅長 葬儀 ﹂
(19)^ 読売新聞1923年5月23日﹁運転手起訴を猶予の願い﹂
(20)^ 内閣官報局﹃職員録︵甲︶﹄1886年12月。
(21)^ 内閣官報局﹃職員録︵甲︶﹄1889年12月。
(22)^ 内閣官報局﹃職員録︵甲︶﹄1890年12月。
(23)^ 内山正如編﹃改正官員録﹄明治27年甲11月版、博文館。
(24)^ 内閣官報局﹃職員録︵甲︶﹄1895年11月。
(25)^ ﹃官報﹄1900年6月26日﹁叙任及辞令﹂。
(26)^ ﹃官報﹄1903年7月17日。
(27)^ ﹃官報﹄1906年1月8日。
(28)^ ﹃官報﹄1907年4月2日。
(29)^ ﹃官報﹄1909年7月13日。
(30)^ ﹃官報﹄1909年12月16日。
(31)^ ﹃官報﹄1916年6月23日。
(32)^ ﹃官報﹄1921年12月28日及び1922年1月7日。
(33)^ ﹃官報﹄1900年11月12日﹁叙任及辞令﹂。
(34)^ ﹃官報﹄1903年11月11日。
(35)^ ﹃官報﹄1908年12月22日。
(36)^ ﹃官報﹄1914年1月21日。
(37)^ ﹃官報﹄1919年1月31日。
(38)^ ﹃官報﹄1923年4月11日。
(39)^ ﹃官報﹄1896年1月7日﹁叙任及辞令﹂。
(40)^ ﹃官報﹄1900年12月21日。
(41)^ ﹃官報﹄1902年12月29日。
(42)^ ﹃官報﹄1907年8月23日。
(43)^ ﹃官報﹄1914年6月30日。
(44)^ ﹃官報﹄1922年6月28日。
(45)^ ﹃官報﹄1905年6月24日﹁叙任及辞令﹂。
(46)^ ﹃官報﹄1905年12月29日。
(47)^ ﹃官報﹄1909年12月28日。
(48)^ ﹃官報﹄1910年3月17日。
(49)^ ﹃官報﹄1918年7月18日。
(50)^ ﹃官報﹄1919年2月25日。
(51)^ ﹃官報﹄1921年2月9日。