「ローテンブルク・オプ・デア・タウバー」の版間の差分
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鉄道で移動する際には、[[同州|バイエルン州]][[ゼルビッツ]]郊外にローテン'''ビュ'''ルク([[:de:Rothenbürg (Selbitz)]]、u にウムラウトが付いている)というまぎらわしい駅があるので注意が必要である。 |
鉄道で移動する際には、[[同州|バイエルン州]][[ゼルビッツ]]郊外にローテン'''ビュ'''ルク([[:de:Rothenbürg (Selbitz)]]、u にウムラウトが付いている)というまぎらわしい駅があるので注意が必要である。 |
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間違えてローテンビュルクに向かってしまう観光客が少なくないようで、ローテンビュルクからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに行く方法を複数の言語で案内するパンフレットがローテンビュルク駅には用意されている<ref>パンフレットの画像 {{Twitter status|xharaken|290190607836655616}} Kentaro Hara, 2013年1月13日05:16 (JST)</ref>。 |
間違えてローテンビュルクに向かってしまう観光客が少なくないようで、ローテンビュルクからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに行く方法を複数の言語で案内するパンフレットがローテンビュルク駅には用意されている<ref>パンフレットの画像 {{Twitter status|xharaken|290190607836655616}} Kentaro Hara, 2013年1月13日05:16 (JST)</ref>。 |
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2023年12月25日 (月) 17:48時点における最新版
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | バイエルン州 |
行政管区: | ミッテルフランケン行政管区 |
郡: | アンスバッハ郡 |
緯度経度: | 北緯49度22分42秒 東経10度10分47秒 / 北緯49.37833度 東経10.17972度座標: 北緯49度22分42秒 東経10度10分47秒 / 北緯49.37833度 東経10.17972度 |
標高: | 海抜 430 m |
面積: | 41.67 km2 |
人口: |
11,385人(2023年12月31日現在) [1] |
人口密度: | 273 人/km2 |
郵便番号: | 91541 |
市外局番: | 09861 |
ナンバープレート: | AN, DKB, FEU, ROT |
自治体コード: |
09 5 71 193 |
行政庁舎の住所: | Marktplatz 1 91541 Rothenburg o.d.T |
ウェブサイト: | www.rothenburg.de |
首長: | マルクス・ナーザー (Markus Naser) |
郡内の位置 | |
地図 | |
地理[編集]
位置[編集]
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、タウバー川沿いのフランケンヘーエ自然公園周縁部に位置している。地域[編集]
市の構成 本市は、公式には39の地区 (Ort) からなる[2]。このうち小集落や孤立農場などを除く集落を以下に列記する。
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隣接自治体[編集]
歴史[編集]
古代[編集]
ローテンブルクの起源は、現在は一市区となっているデトヴァングにあった。この小教区は、970年頃にライニガーという名の東フランケン地方の貴族によって創設された。この貴族はついでコムブルク︵現在はシュヴェービッシュ・ハル市の一部︶を創設した。この貴族が、タウバー川を望む丘の上に (oberhalb der Tauber) 城を建てたことが、現在の地名である "ob der Tauber " の由来である。 このコムブルク=ローテンブルク伯が断絶する1108年までには、皇帝の城が築かれていた。この伯家の最後の当主となったハインリヒ・フォン・ローテンブルクは、城をコムブルク修道院に遺贈した。 しかし、皇帝ハインリヒ5世は、この遺贈を認めず、甥のコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンにレーエンとしてこの所領を与えた。コンラートは1137年にローマ王︵在位1138年-1152年︶に即位してコンラート3世となると、1142年にローテンブルクに帝国の城を築き、ここに宮廷を置いた。しかしローテンブルクの宮殿において政務を執った国王はコンラート3世のみである。 彼の息子のフリードリヒ・フォン・ローテンブルクは、父親が亡くなったときはまだ成人前であったため、従兄弟のフリードリヒ1世の後見下に置かれ、1157年に﹁ローテンブルク公﹂という称号で刀礼を受けた。フリードリヒ1世により、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクにはエーガーラント地方も与えられた。フリードリヒは1167年に亡くなり、彼の兄も早逝していたため、ローテンブルクの城は意味を失った。中世[編集]
1170年にローテンブルク市が設置された。当時の町の中心は市場とヤコブ教会であった。この当時から街の要塞化が始まったとみられる。その時代の遺物として、古い地下室・古い堀や牛乳市場などを見る事が出来る。13世紀になると、塔や城壁が造られた。その中で現在まで残っているものはレーダー・アーチとマルクス塔である。 1194年から1254年まで、ホーエンシュタウフェン朝の代官がローテンブルク周辺の地域を支配した。この頃、聖ヨハネ修道会やその他の修道会がヤコブ教会やドミニコ会の修道院の近くに設置された。 1274年にローテンブルクはハプスブルク家のルドルフ1世から帝国都市の特権を与えられた[3]。市内には3つの有名な市場が出来、その後の数世紀にわたり街は発展した。市内の住民と郊外の騎士らはフランシスコ会の修道院と聖霊病院を設置した︵1376年 - 1378年に市の防壁に組み込まれた︶。ドイツ騎士団は1311年に聖ヤコブ教会の建設をはじめ、1336年から市民が使えるようになった︵完成は1485年︶。聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる聖血が置かれた。これが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。その当時は神聖ローマ帝国内の上位20都市の中に入っていた。市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。 1350年には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは帝国自由都市とみなされるようになる。 1356年のバーゼル地震で古い城塞が崩壊した。今もなお聖バルシウス教会が残っている所である。その廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。 中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー︵1340年頃生 - 1408年没︶であろう。1373年にはトップラーが市長に就任した(1408年まで在任)。ヤコブ教会の増築を決定。また1398年には聖ヤコブ教会の建設をドイツ騎士団から引き継ぎ、聖ヤコブ教会は市所有の教会となった。それと同時に、ゴシック様式の市庁舎の建設も始まった。1378年、ローテンブルクはウルムを盟主とするシュヴァーベン都市連盟に加盟した。1400年ごろまでには、ローテンブルクはフランケン地方の中ではニュルンベルクに次ぐ第二位の人口を抱える都市となった。 1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。 1525年、ドイツ農民戦争において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー率いる反乱軍側につき、プロテスタントに改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将 Kasimir は降伏した。Johann Teuschlein ら反乱者が処刑された。近世[編集]
近代[編集]
現代[編集]
戦後、街の多くが再建された[6]。全世界から再建のための寄付が寄せられ、アメリカからも多額の再建資金援助を行っている。この時の寄付者の名前は、市壁の内側通路に掲示されている。 1972年まで、この街はローテンブルク郡の郡庁所在地であった。バイエルン州の市町村再編により、この街とその郡はアンスバッハ郡に編入されることとなった。この都市は、大規模郡都市の地位を保持した。政治[編集]
行政[編集]
市長[編集]
歴代市長 第二次世界大戦後の上級市長を列記する。 ●1945–1952: フリードリヒ・ヘルナー (Friedrich Hörner) SPD ●1952–1964: エーリヒ・ラウターバッハ (Erich Lauterbach) 無所属 ●1964–1976: アルフレート・レーダータイル (Alfred Ledertheil) SPD ●1976–1988: オスカー・シュバルト (Oskar Schubart) CSU ●1988–2006: ヘルベルト・ハハテル (Herbert Hachtel) SPD ●2006–2020: ヴァルター・ハルトル (Walter Hartl) 無所属 ●2020– : マルクス・ナーザー (Markus Naser) 無所属、Freien Rothenburger Vereinigung (FRV) の候補紋章[編集]
銀地に、赤い2本の胸壁のある塔のある城。塔の間には三角屋根の小楼。議会[編集]
市議会[編集]
市議会は、24議席からなる。対外関係[編集]
姉妹都市・提携都市[編集]
内子町︵日本国 四国地方 愛媛県 喜多郡︶ スーズダリ︵ロシア連邦 ウラジーミル州︶ アティス=モンス︵フランス共和国 イル・ド・フランス地方 エソンヌ県︶ モンタニャーナ︵イタリア共和国 ヴェネト州 パドヴァ県︶その他[編集]
小ローテンブルク よく保存された中世都市を代表するシンボルとして﹁ローテンブルク﹂の名はフランケン地方の外でも転用されている︵日本で﹁小京都﹂が多くあるようなもの︶。 オーバーバイエルン地方のランツベルク・アム・レヒは、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー同様に保存状態のよい中世建造物群から﹃バイエルンのローテンブルク﹄と呼ばれる。 モーゼル川に面したバイルシュタインは﹁小ローテンブルク﹂と称している。 1945年に甚大な被害を受け、ドイツの帰属から離れるまで、プジッツェ (Pyrzyce) やパスウェンク (Pasłęk) は、それぞれ﹁ポンメルンの﹂あるいは﹁東プロイセンの﹂ローテンブルクと呼ばれていた。経済[編集]
ローテンブルクでは、観光産業が大きなウェイトを占めている。 しかしこの他にも、大手家具製造業者の工場が一つ、大手建設機械製造業者の工場が一つ、中小の機械製造業者がいくつか、それにヨーロッパで2番目に大きな焼き菓子の生産工場がある。工業[編集]
●家具 ●建設機械 ●菓子観光業[編集]
●ローデンブルクの旧市街など地元企業[編集]
●AEG-Electrolux︵レンジ、調理容器︶ ●Ebalta︵プラスチック、鋳造プラスチック、接着剤︶ ●Erhard Sport International︵スポーツ用品︶ ●Käthe Wohlfahrt︵クリスマスの飾り付け︶ ●Lechner︵焼き菓子製造︶ ●ROTABENE Medienhaus︵出版﹃Fränkischer Anzeiger﹄︵フランケン新聞︶や﹃ Evangelisches Sonntagsblatt aus Bayern﹄︵バイエルン福音派日曜紙︶︶ ●Schaeff-Terex︵パワーショベル、建設機械︶ ●Neuberger︵建設オートメーション︶交通[編集]
空路[編集]
空港[編集]
市街の約1km東に、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー・スポーツ飛行場︵荷重5,700kg、滑走路600m︶がある。ここでは、時折、メルセデス・ベンツ・ツーリングカー・レーシング・チームがテスト走行を行っている。鉄道[編集]
鉄道路線[編集]
この街は、幹線鉄道トロイヒトリンゲン - ヴュルツブルク線とシュタイナハから分岐する形で1873年11月1日に開業した、鉄道路線の終着点である。現在この路線は、ニュルンベルク広域鉄道網の一つ、近郊鉄道RB82として運営されている。1905年から1971年までの間はさらにシリングスフュルストを経由してドムビュールへ至り、幹線ニュルンベルク - クライルスハイム線に接続していたが、同区間は現在廃止されている。 鉄道で移動する際には、バイエルン州ゼルビッツ郊外にローテンビュルク︵de:Rothenbürg (Selbitz)、uにウムラウトが付いている︶というまぎらわしい駅があるので注意が必要である。 間違えてローテンビュルクに向かってしまう観光客が少なくないようで、ローテンビュルクからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに行く方法を複数の言語で案内するパンフレットがローテンビュルク駅には用意されている[7]。道路[編集]
高速道路[編集]
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、アウトバーンA7号線沿いに位置し、市街からわずかな距離にローテンブルク・オプ・デア・タウバー・インターチェンジがある。 旧連邦道B25号線がローテンブルクを南北に縦断して走っており、東西に走る古城街道と市内で交差する。自転車道[編集]
ローテンブルク・オプ・デア・タウバーには多くのサイクリングロードが通っている。観光[編集]
名所・旧跡[編集]
観光スポット[編集]
文化・名物[編集]
祭事・催事[編集]
音楽[編集]
楽団[編集]
●ローテンブルク・オプ・デア・タウバー市立青少年ブラス・オーケストラ ●聖ヨハネ教会合唱団 ●ProChor出身関連著名人[編集]
●マイアー・フォン・ローテンブルク︵1215年 - 1293年︶ドイツ系ユダヤ人で、有名なユダヤ教のラビ、タールムート教師 ●ハインリヒ・トップラー︵1408年没︶市長 ●ヨハン・ハラー︵1463年 - 1525年︶出版者 ●ペトレイウス・アペルバックス︵1480年頃 - 1531年︶人文主義者 ●ファレンティン・イッケルザマー︵1500年頃 - 1537年︶教育者 ●アンドレアス・リバフィウス︵1555年 - 1616年︶化学者、大学教師 ●ヨハン・ゲオルク・ヨッホ︵1676年 - 1731年︶プロテスタントの神学者 ●カール・ゲオルク・クリシュティアン・フォン・シュタウト︵1798年 - 1867年︶数学者 ●フランツ・フォン・レイディヒ︵1821年 - 1908年︶動物学者 ●ハンノ・ベルンハイム︵1824年 - 1862年︶哲学者 ●リーヌス・メンメル︵1914年 - 2004年︶政治家 (CSU) ●ハンス・カール・アダム︵1915年 - 2002年︶料理人 ●クラウス・ヘルプスト︵1937年 - ︶中東学者 ●クリストフ・シュテーリン︵1942年 - ︶作家、歌手、エンターテイナーローデンブルクを舞台とした作品[編集]
ローテンブルクのよく保存された旧市街は、様々な映画の舞台装置としても利用されている︵例﹃カスパー・ハウザー﹄︶。また、日本のアニメ作品﹃ちっちゃな雪使いシュガー﹄の舞台である架空の街﹁ミューレンブルク﹂、日本のコンピュータゲーム作品﹃アトリエシリーズ﹄の舞台である架空の街﹁ザールブルグ﹂、などのモデルともなっている。 音楽 バンド、ブラックモアズ・ナイトのアルバム﹃ウィンター・キャロルズ﹄のカバーにはプレーンラインの風景が使われている。脚注[編集]
- ^ https://www.statistikdaten.bayern.de/genesis/online?operation=result&code=12411-003r&leerzeilen=false&language=de Genesis-Online-Datenbank des Bayerischen Landesamtes für Statistik Tabelle 12411-003r Fortschreibung des Bevölkerungsstandes: Gemeinden, Stichtag (Einwohnerzahlen auf Grundlage des Zensus 2011)
- ^ Bayerische Landesbibliothek Online
- ^ “ドイツ・ロマンチック街道を歩く ローテンブルク 「おとぎの国」そのままの箱庭”. 朝日新聞 (2018年7月3日). 2018年9月8日閲覧。
- ^ Joshua Hagen, "The Most German of Towns: Creating an Ideal Nazi Community in Rothenburg ob der Tauber", Annals of the Association of American Geographers 94:1 (2004), pp. 207–227, passim.
- ^ http://www.rothenburg.de/d/ISY/index.php?get=2351&exec=webprintable1 参照
- ^ 池田 岳史 ローテンブルグ市における伝統的建造物群保護 日本デザイン学会 第52回研究発表大会 日本デザイン学会研究発表大会概要集 (2005) doi:10.11247/jssd.52.0.82.0
- ^ パンフレットの画像 xharakenのツイート(290190607836655616) Kentaro Hara, 2013年1月13日05:16 (JST)
日本語版参考図書[編集]
- 紅山雪夫『ドイツものしり紀行』(新潮文庫、ISBN 4101043256)2005年
- 阿部謹也、若月伸一、沖島博美『ドイツ~チェコ古城街道』(新潮社、ISBN 4106020610)1997年
- 小谷明、阿部謹也、坂田史男 他『ドイツ・ロマンティック街道』(新潮社、ISBN 4106019485)1987年
- ロンリープラネットの自由旅行ガイド『ドイツ』(メディアファクトリー、ISBN 4840111839) 2004年